「またやってしもてん」「堪忍やで」

   かつて旋盤実習棟の屋根裏は木造トラス構造が美しく、動力は天井の長い鉄軸と滑車とベルトで中央動力源から伝えられ、工場らしい錯綜する陰影とリズミカルな音が満ちていた。それが機械ごとの小型モーターに切り替わったのは1970年代半ば過ぎ。高校進学率は90%を超え、夜間高校では働く青少年も地方出身者も急減して生徒の活気も消え始めた。みんなが揃うまでの間、教室のダルマストーブ囲んで、それぞれの職場の春闘方針を巡って騒がしくなることもなくなった。


 学生気質の抜けない僕のクラスに、京都からの転校生があったのはその頃である。小柄でひどく痩せた、目の大きな少年であった。どうも元気がないから職場訪問をした。焼き釜を備えた比較的規模の大きな洒落たパン屋で、本人には会わずに店長に会った。

 「せんせー、店まで来てくれたんやてな。こんなん初めてや、嬉しゅうて学校まで駆けてきた。・・・あのな、せんせーに言うときたいことあるんやけど聞いてくれるか」

 彼は、なぜ京都にいられなくなったか話した。

 「内緒やで。今度は頑張るでぇ、せんせー。一度家にも来てや、父ちゃんと母ちゃんにも会うてや。これ俺が焼いてん。店長がな、持たしてくれてん」

  僕の好きなクリームパンだった。

 「旨いね、有り難う。でも頑張らなくてもいいんだよ」と言っておいた。

 夜間高校には給食がある。次の日、彼は僕の向かい側に座った。

 「せんせー変わっとるなぁ、頑張らんでもええなんて、店の人たち皆吃驚しとった」 

 「ふうん」と言うと、

 「大人は皆言うで、頑張りぃやーて。何でせんせーだけそない言うねん、知りたいわ」

 「そうか、知りたいか。憲法にもお寺のお経にもそう書いてあるんだ。そのうち僕の授業でやろう」

 「今知りたいんや、待てんわ」・・・

 分かるためには、学ぶ側に主体性が準備されねばならない。レディネスとはこの「今知りたいんや、待てんわ」のことである。こうして突然少年たちの心それぞれに沸き起こる動き、それに我々は常に耳を澄まさなければならない。雑用に忙殺されながら、禅僧のように虚心坦懐になれたら・・・と思う。「今知りたいんや、待てんわ」が、何時、どのようなことで、誰に起きるのか分からない。授業で語ることの百倍も準備する必要があるのはそのためである。一人の生徒に対して百倍であるから、受け持ちの生徒数を考えれば無限と言って良い。かと言って焦って始まらない。

 ともかくも、こうして僕は、少年の言葉に添うて寄り道する準備にかかった。

  いつも体のどこかがが動いている落ち着かない少年だった。僕にはそれが隙あらば脱走しようと構えているようで、おかしかった。

 「逃げたいか」と聞くと

 「俺ほんまに学校が嫌いやねん、辛抱でけんのや」と寂しく笑った。

 家庭訪問もした。木賃宿風アパートの一角、土間を挟んで障子で仕切られた三畳と四畳半。窓は三畳に一つ、畳はすり切れ、家具は小さな茶箪笥と食卓にテレビだけ。台所もトイレも共同。

 「センセー、八つ橋好きかー。俺大好きや」

 お喋りである。学校で見せる落ち着きのなさは、ここでは消えている。少し年配の夫婦はニコニコしながら、お茶と銘菓八つ橋を出してくれた。

 「年取ってから出来た子でしてな、そのぶん可愛いーて堪らんのです」

  「京都に来る人たちは、皆あん入りの生を買うやろ、何でやろな。焼いたんも旨いで、なー父ちゃん」

 

 「学校が嫌いで辛抱でけん」はかなりらしく、時々授業の中抜けをした。

 定時制過程の始業前は、全日制の放課後にあたる。雑務を片付けたり、授業の準備したりにはうってつけの静寂と長さがある。二日酔いの昼下がり、出勤すると事務室から手招きがあった。

 「先生・先生電話。同じ生徒から三度目」

  受付の窓口越しに受話器を受け取る。

 「・・・せんせー、堪忍してや、俺なぁ、またやってしもてん。頑張ったんやで、でも手が出てしもた」

 件の生徒からである。

 「今どこだ」  

 「捜さんといて、父ちゃんももう駄目やここにも居れん、そういうねん。・・・せんせー・・・世話になったな」

 少年はべそをかいていた。一瞬、心中という言葉がよぎる。

   「馬鹿なこと言うな、今行く」

 目まいがして舌がもつれそうになる。

   「堪忍やで、ほなもう行くでぇ。さいなら」


 一家は学校と同じ妙正寺川沿い、電話はそこからだろう。事務の自転車で川沿いを急ぐ。住まいは、綺麗に片づいて何もない。心中するなら荷物は持ってゆけない。少し安心して渇きをおぼえた。土間には打ち水がしてある。まだ遠くには行ってない。夕餉の買い物客で混み始めた駅前を何ヶ所か回った。

 少年は僅かな金を店から盗み、その日のうちに自分で店長に名乗り出て金も返したのだった。「引き止めたんですが・・・健気に頑張っていました・・・」店長も悄気ていた。僕のたった四人の学級に彼が在籍したのは、ひと月あまり。しばらくは三面記事が気になった。


 小栗康平の『泥の河』を見る度に、「またやってしもてん」「堪忍やで」が聞こえる。俳優たちの表情や言葉づかい、川沿いの寂しい光景、振り向きもせず曳航されながら去る廓舟の一家に重なる。

 少年は頑張り足りなかったのだろうか。そんなことはない。彼は自分の執着に気付いて嫌気がさしていた。だから直ちに名乗り出て自ら罰している。頑張り過ぎた。高名な作家や政財界要人までが、若い時代の「やんちゃ」を勲章のように雑誌やTVで自慢する。彼らは頑張りもせず地位を得、罰を逃れている、その特権性が勲章、だから吹聴したくなるのか。

 少年も両親も頑張りすぎた。彼が姿を消さなければ、制度としての学校は指導と称して退学を勧告したに違いない。


 彼のための授業は、「宝暦治水事件」から始めるつもりで下調べにかかっていたが、大学や都立図書館にもめぼしい資料はなく、国会図書館に幾日も通い詰めた。おかげで授業を始める前に肝腎の少年はいなくなってしまった。

 授業を聞けば喜んでくれただろうか。やっぱせんせー変っとるわ、そう言っただろうか。

 確かなのは彼が学ぶことが苦痛で、「学校が嫌いやねん、辛抱でけん」のではなかったことだ。そうでなければ  「知りたいわ」とは言わない。

 少年を思い出すのが辛かった。やらず終いのこの授業は、ベヴァリッジ報告と囚人組合で終わるつもりだった。頑張らねばならぬのは、社会の仕組みであり国家である。個人ではない。





僅か6年前僕が考えていたこと Ⅰ

  ミンドロ島はフィリピン・ルソン島西南方にある。米軍は圧倒的装備でここに上陸、日本軍は絶望的な状況に置かれていた。飢餓とマラリアに苦しみながら、大岡昇平は敵が現れても撃つまいと決意する。

 林の中をがさがさと音を立てて一人の米兵が現れた。

 「私」は果たして撃つ気がしなかった。それは二十歳ぐらいの丈の高い米兵で、銃を斜め上に構えていた。彼は前方に一人の日本兵のひそむ可能性にいささかの懸念も持っていないように見えた。彼は近づいてきた。「私」は射撃には自信があった。右手が自然に動いて銃の安全装置をはずしていた。撃てば確実に相手を倒すことができる。その時、不意に右手山上の陣地で機銃の音が起こった。彼は立ち止り、しばらく音のする方を見ていたが、ゆっくり向きを変えてその方へ歩きだし、視野から消えていった。

 ・・・私がこの時すでに兵士でなかったことを示す。それは私がこの時独りだったからである。戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約ないし鼓舞される。もしこの時、僚友が一人でも隣にいたら、私は私自身の生命のいかんにかかわらず、猶予なく撃っていただろう。・・・

  私は溜息し苦笑して「さて俺はこれでどっかのアメリカの母親に感謝されてもいいわけだ」と呟いた。  『俘虜記』 

 彼は撃たなかったわけを、捕虜収容所で帰国後とずっと考え続ける。中学生の時新約聖書を読んだ彼は、神の声についても執拗に追求している。

 しかし、ここで重要なのは「私(大岡昇平)がこの時独りだった」事実であると僕は思う。この時大岡昇平は、仲間から物理的に孤立していた。それ故、他者に介入されず依存せず自立して判断した、だから撃たないという選択が可能だった。人は、度々一人にならねばならぬ。一人になって、辛い判断を下さねばならぬ場面に直面することはある。それを神と向かい合うと考える人もある。

 例えば学級が一致してある生徒を虐めている場合、企業が一丸となって不正取引に走っている場合、孤立を畏れぬ自立の意思が広い共感をやがて生む。

 先ず多数を目指して結束しても真の連帯にはならない。連帯は互いの違いと共通性の深い理解から生まれるからである。違いを棚上げしたり共通性を偽装してしての結束は脆く、外的な締め付けをどうしてももたらす。

  教員の思考を集団の団結と言う概念は、鳥もちのように捕らえて粘り着く。もう40年も前のことだ、集団や一致が自己目的化する傾向が気になって、僕はある研究会の会合で孤立することの意義について考えたいと言った。そこには哲学界の重鎮もいたのだが、ことごとく人間の連帯こそ強調しなければならないと一蹴された。僕は例えば、ファシズムが急速に勢いを増しつつある時、孤立に頑固に耐えることについて言ったのだが理解されなかった。


  カストロはハバナ大学では多数派ではなかった。グランマ号で上陸したとき多数派ではなかった。革命がなったとき多数派ではなかった。それ故常に様々な潮流を引き寄せることが出来た。それぞれの立場から自立して判断して形成された連帯であったから強かった。始め南北米州でCubaは文字通り孤立していだがだがソビエトが崩壊し、経済規模が30%にまで落ち込んでも潰れなかった。そして今や孤立しているのは合衆国である。小さな国々が、それぞれの歴史と風土にあわせて独自の政治経済体制をつくりあげ、合州国から自立して判断できるようになるまで永かった。 小さな貧しい国の何処にも従属しない判断、多数決によって少数派を排除して出来上がる秩序ではない。判断の単位は小さくなくてはならない。


  中学生や高校生が、朝から晩まで日曜も夏休みも一人になれない状況の危うさについて考えねばならない。政府が部活の制限に二の足を踏むのは、自立を畏れているからである。たまには集団から離れることが必要だ。

若者を貧困と無知から解放すべし

  「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」

 


黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。                            全く同じ事を教育にも言わねばならぬ。

 「教室の困難は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   教室を取り巻く諸困難ー非行・低学力・苛め・暴力・卑屈・傲慢・・・は悉く「社会の貧困と無知」が生み出した者ものだ。おかげで教師たちは、教育それ自体から逃げ出し始めて久しい。若者たちを主権者たるにふさわしく賢く逞しく育てる任務に戻せ。若者たちが平等で自由な権利を求め、仲間と共に街に繰り出す日は来るだろうか。

最近、渋沢栄一の妻妾同居のスキャンダルが注目を浴びている。彼は一万円札の肖像に最も相応しくない。嘗て朝鮮が日本の植民地であった時、渋沢栄一こそは植民地主義的収奪と干渉の象徴であった。

    例えば教育行政は、教師の教育に干渉して止むことがない。決して手助けはしない。教材や資料の用い方はおろか、教師の思想や振舞いにまで口を出し、文書の形式提出に拘る。だが世界で群を抜いて長い労働時間に苦悶す教師たちに手助けの「振り」はするが、何年経っても実行はしない。これは教育に限らない。 巨大企業や警察は家族の思想や市民活動にまで介入する。

 戦中のハンセン病療養所沖縄愛楽園に県警本部長一行がやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。戦場で兵士が命を投げ出して皇国に尽くしている時、ハンセン病者も死ぬことがご奉公である、つまり絶滅して経費を節約せよと説いた。

 その時、強制隔離され自由を剥奪された元教師の患者が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者がここにも沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」と大胆極まりない批判をした。忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎになった。

渋沢栄一が朝鮮で発行した紙幣が如何に朝鮮人の怒りをかったことか


 感染の恐れのないハンセン病を渋沢栄一と光田健輔は「ペスト並みの恐い病気」と人々の恐怖を煽り、死ぬまでの絶体隔離体制を作り上げる。実際ハンセン病患者は併発した病気で死ぬことはあっても、「らい」で死ぬことはなかった。

 病院が医者が患者を助けず、一家はおろか一族の生活を壊滅させたのである。その筆頭「戦犯」たる渋沢栄一を近代資本主義の立役者と祭り上げ、一万円札の肖像にするという。確かに渋沢は近代日本の犯罪的体制を象徴する人間ではある。しかし一万円札の肖像として支払いのたびに見せつけられるのは真っ平御免だ。

 野球部の顧問教師は生徒を坊主にしたがる。「大会の開会式で、球児全員が丸刈りで整列したら感動するよなあ」とは以前、大会関係者教師が気持ちよさげに頷いた台詞だ。中学生や高校生を「球児」と呼ぶ神経も気持ち悪いが、そんなに丸坊主に感動するなら、自分たちがそうすればいい。他人の髪型に干渉しておいて、表現を手助けしないで、何の教師か。彼らはgameとしての野球が好きなのではない。統制と干渉が好きなのだ。だから日本の野球やサッカーは、自らを「サムライ ジャパン」と呼びたがる。日本の近代化は部活やスポーツ界に残る封建制の徹底的克服なしには始まりはしない。先ずは、渋沢栄一の一万円札を葬り去ることだ。

 李氏朝鮮時代から渋沢栄一の第一銀行は、関税の取り扱い業務などを代行して朝鮮政府に深く食い込んで日本貨幣を朝鮮半島でも流通させた。だが日清戦争後、ロシアの朝鮮半島進出とともに日本貨幣の流通が激減。そこで第一銀行頭取渋沢は、李氏朝鮮を引き継いだ大韓帝国に無断で「無記名式一覧払い約束手形」を発行。この手形が実質的な紙幣として朝鮮半島で流通、大韓帝国は1905年に正式な紙幣として承認するはめに陥った。その手形=偽紙幣に、渋沢栄一の肖像画がある。渋沢は京城電気(韓国電力の前身)社長や京釜鉄道会長を努めるなど、植民地収奪の象徴だった。その強奪と鍛圧支配の詫びも誤魔化し続けて80年になる。わが恥ずべき政府はこの大犯罪者の肖像を最高額の紙幣の肖像にする。

 この「干渉したがるが、手助けはしない」悍ましい文化が生んだ習慣が「自分へのご褒美」の侘しい光景である。誰も手助けしてくれないのだ。自分でやるしかない。しかし「褒美」は、他者に向けられてこそ価値がある。  

 干渉はしないが、困っていると何処からともなく現れ手助けする人々もある。それが良き文化として定着している国もある。しかし未だに日本政府は、韓国朝鮮へのヘイト言説を放置扇動するのだ。


  参照  以下のblog記事はすべて渋沢栄一と光田健輔の前代未聞の悪事についての論考だ。追って再掲する。

            https://zheibon.blogspot.com/2021/07/blog-post_22.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/06/blog-post_18.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/blog-post_29.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/2.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/blog-post_18.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

  夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられて親も子も将来の稼ぎ高に目の色を変えて学校や企業をランク付けする。平等や公平と言う言葉は辞書の中で死んだようだ。それだけではない、歴史上の人物までがその稼ぎ高や地位に焦点を合わせて評価する番組が目白押し。その結果、賞を得た者が排他的に社会総体の実りを思いのままにする。

 学校や企業では、そんな我が儘勝手が横行し易い。偏差値に中毒する日本社会だ、「悔しければ、ひもじければ這い上がれ。」と新聞もtvも止むことなく煽り立てる。    

 根っからの自由人、辻 潤は餓死を選んだ。彼の墓は染井の西福寺にある。我々は貴金属だけの世界に住めっこないのだ。目が眩むような貴金属の眩しさと栄光に「悧巧」な君たちが酔いしれている時、対極には糞まみれの土にまみれながら種を蒔き、水を断崖を運び上げ害虫害獣収奪と日夜闘う者が「造られる」。君は呟くのだ「金さえ払えば文句はないだろう」

 これが太古の昔であれば、中央権力から遠ければ過酷な収奪からは少しは自由。中央の眩しさも伝わらない。たが今全ては暴力的に忽ち伝わる。それが便利で進歩だと。もっと早く、手軽に。

   辻 潤が餓死を選んだ1944年、大日本帝国は裏声で「大東亜共栄圏」愛に酔った。しかし愛は計画出来ない。恋愛を出会い頭の事故に例えたり天使のいたずらのせいにするのも、それがなぜ起こったか合理的な説明が出来ないからである。好きになったばかりに、祖父母や子どもの病状が急変して、慌てて駆けつけ大儲け出来なくなったり全財産を失ったりもする。好きになったばかりに、相手を殺す羽目に陥ったりもする。一途に思い詰め、周りも相手も自分自身さえ見えなくなるからだ。都合のいい時だけに、愛を設定することはできない。

  「五族協和」や「八紘一宇」も、当時の日本の思い上がった東洋支配への「愛」であった。いや明治維新の「四民平等」さえ傲慢な差別社会への「愛」でしかなかった。植民地主義のお先棒を担いだ教会も「愛」を掲げずにはおれなかった。まさに「夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」

 愛は計画できないと同時に、計画出来るものは愛ではなく夢想に過ぎない。だから「夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる」。「五族協和」や「八紘一宇」が、現実の政治過程に転化するや否や「愛」は支配や搾取の暴力性をむき出しにする。満州開拓の「理想」は中国農民の土地略奪であり、抵抗する者への弾圧殺戮であった。それでも「五族協和」や「八紘一宇」を信じる者は、ただの愚か者である。「夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らず」一億総玉砕を叫んで死んだ。

  

「人類は結局愚かであった。・・・人類は悧巧ぶることは出来たが、そのために悧巧になれなかった」串田孫一「断想集」


  今また日本は金さえ出せば何でも買えるはずと奢っている。どんなに足掻いても、ダイヤの畑に種は根を張れないのに。

 プロになりいくら稼げるようになったとしても、どんなに賞賛され祭り上げられても、君はもう二度と「楽しみ」の為にplayに興じることは出来ないのだ。

国家テロに、覇権国家が依存するわけ

   白起は紀元前257年生まれ、中国戦国時代末期の秦の武将。司馬遷は『史記』で「料敵合変、出奇無窮、声震天下)」と評した。長平の戦いでは降伏した40万の趙兵を尽く生き埋めにしたと伝えられるが、主君の昭襄王は自害を命じる。

    2024年2月植民国家イスラエルは、ガザ全域の市街を破壊しパレスチナの存在を消そうとしている。ジェノサイドが止まらない。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によれば゛昨年10月以来ガザ地区でイスラエル軍が殺害した子どもたちの数1万2300人は、2019年から2022年までの4年間に世界中の紛争で殺された子どもの合計よりも多い。


    ジョナサン・パーカーの著書『テロリズム その論理と実態』は 、一八世紀から一九世紀にかけてアジア、アフリカで展開されたイギリスによる「虐殺」の数々を、「国家テロ」として挙げている。一部を引用する。

  大英帝国支配下のベンガル(印度東部からバングラデシュに跨がる地域)総督の副官であったジョージ・フィッツクラレンス大佐は、ビンダーリー族について 「盗賊として有名だった彼ら戦う権利を持つ敵として彼らを支配するのではなく、彼らを根絶することが目的だった」と語っている。

 「いったいどうやってマオリ族を文明化できるというのか」と、1834年にニュージーランド北沖で船が難破した・・・英帝国軍人船長は問いかけた。「確実にやつらを射殺すること。一人残らずニュージーランド人にマスケット弾丸を打ち込むより他に、あの国を文明化する方法などない。」

  オーストラリアの裕福な牧場主でもあったウィリアム・コックス将軍は、1825年に開かれたボーフォートでの公開集会で演説した。「我々がなしうる最善のことは、すべての黒人を射殺してその死体を土地の肥やしにすることだ。・・・黒人を根絶するために、女と子どもは特に確実に殺さなければならない。」


 これら「大英帝国」植民地支配を担う軍人の歪んだ世界観は枚挙に暇がない。アムリットサル事件はその頂点の一つ。

  非武装の集会の参加大衆に対してレジナルド・ダイヤー准将率いるイギリス領インド帝国軍一個小隊は発砲、さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。

  今尚イスラエルがパレスチナでやっていることは、

 フランスがアルジェリアやアフリカ各地で、イギリスがインドが世界各地で、ベルギー人がコンゴやアフリカ各地で、アメリカ人がベトナムや世界各地で、スペイン人が南米で、イタリア人がアフリカで、ドイツ人がナミビア等のアフリカ各地で、日本が朝鮮や東アジアでやった国家犯罪=国家テロの一部にすぎない。

  これら嘗ての植民地帝国諸国が、挙ってイスラエルのジェノサイドを「国家の権利としての防衛」と見做すのは嘗ての国家犯罪=国家ロを合理化するからであり、反省や謝罪の意識は何処にもない。

大きな声が必要なのは誰か

  ある都立高校のgooglemaphttps://www.google.co.jp/maps/ 口コミ欄にこんな感想が寄せられている。

 「毎週末、グラウンドでの部活動がチンピラまがいの騒がしさです。野球部とサッカー部もかな。わざわざ、校舎側でなく民家側に寄って無駄な大声を出し放題。ペアガラスなんて意味なく、音楽も聴けません。

 例えば試合で、誰かが良いパフォーマンスした時などに盛り上がる位は全く構わないのですよ。楽しんで欲しい。ですが、練習などでワンアクションする度に無駄な掛け声など必要か?大声出せばパフォーマンス上がるのか?上がらねえよ。子供達が悪いのではなく、指導者が問題。大声出させたいなら校舎側でやって。」


 この学校も嘗てはnhk tvの番組で度々取り上げられる程の所謂「名門」だった。敷地の民家寄りには古い学校らしく大きな桜並木があり、絶好の日陰を造る、そこに複数の部活数百名が集まり騒ぐから喧しい。

 「名門」なら何でも許されると言わんばかりに部活顧問教師は無神経に大声を煽る。近隣住民の堪忍袋も切れる。

 大きな声が必要なのは「住民」の方ではないか、「うるさいぞ、迷惑だ」と注意を喚起する為に。しかし彼らは窓を閉め切って怯える。

権力は飾り立てたがる

 関東大震災の時も大きな声を挙げ威圧したのは武装した自警団。朝鮮人や中国人・社会主義者たちは為す術無く惨殺された。「武装した自警団」とは言わば公権力の規制から逸脱した「自由主義」者=「新保守主義即ちネオコン」に他ならない。近代民主主義社会が成立すれば、公権力は「自由主義」とは相容れない。

 公権力は声がやたらに大きく勲章や地位の好きな「お上」とは本質的に違う。特に学校では自覚する必要がある。教委も学校管理職も安易に自らを「お上」に擬えたがるからだ。勘違いも甚だしい。彼らは公僕であり、公権力=市民による議会に忠実でなければならない。それは多数決とは次元が違う。常に小さな声に敏感でなければ、平和と教育は直ちに崩壊する。

「またやってしもてん」「堪忍やで」

   かつて旋盤実習棟の屋根裏は木造トラス構造が美しく、動力は天井の長い鉄軸と滑車とベルトで中央動力源から伝えられ、工場らしい錯綜する陰影とリズミカルな音が満ちていた。それが機械ごとの小型モーターに切り替わったのは1970年代半ば過ぎ。高校進学率は90%を超え、夜間高校では働く青...