「逆らいたくなるの、だって筋が通っているんだもん」 ある生徒が、ニャッとしながらそう言う。

 入試とは人類にとって何か。ますます判らない。教師から研究と授業を遠ざけ、少年たちを平等と公正が生む連帯と行動から隔離するだけだ。

   徒歩で小金井公園の桜を見る。疲れた、途中に幾つも学校を見て不機嫌になる。無機質な校舎の佇まいが、瀕死状態の教育を圧縮しているようで息苦しくなる。こんな組織の為に何か役に立ちたいという気持ちを、僕は何故持てたのか。この組織の一隅に有ったことが悔やまれる。授業以外の記憶が曖昧になってゆく。

 桜を見上げなければ、足下に青が鮮やかなオオイヌノフグリ。人は桜や菊に点数や価値を付けたがる、見上げるとはそういうことだ。誰の評価対象でもない=評価からの独立でしか、自律も自立も自由もないのかも知れない。


 都教委が「君が代」を通達、sshや進学指導重点校を導入した頃、21世紀になった。

 廊下で 「先生の授業逆らいたくなるの、だって筋が通っているんだもん」 ある生徒が、ニャッとしながらそう言う。彼女にとって、授業は与えられたことを暗記したり、素直に受け入れたりするものでは無い。先ず、彼女の思考の関門を通過しなければならない。その後に彼女自身の審査を受けねばならない。判るとはそういうこと。教師が試されている。筋が通っていなければ、彼女の関門をくぐる資格は無い。

 その判り方に、驚いた。現象からいきなり本質に跳躍しようとする、賢く鋭いい目つき。ラジカルと言う言葉が相応しい。

 〃いい先生〃に引きずられての〃いい授業〃では、授業は成立していない事を、この生徒の哲学的言葉は言い当てている。

 〃逆らいたくなる〃グッと睨んだ眼差しの奥で、彼女自身の思考と授業の論理は対比検討される。点数や成績とは無縁のこうした思考の延長線上に思想はある。

 一年生の授業は、絶望的に騒がしかった。みんなてんでバラバラの方向を見ていて、何処が教室の正面か分からない。しかし、「起立-礼に始まる正しい姿勢」が、授業を聞く態度をつくるのではない。授業がそれに相応しい姿勢をつくる。むろん寝そべった良い姿勢だってある。考えるのに都合のいい姿勢がいい姿勢。机に脚を乗せたいい姿勢のまま、質問や同意の仕草と声が飛び交う。教室の空気が緊張して50分が瞬く間に過ぎる。休み時間になったのに生徒たちは、「続き」を聞くために教卓の前に群がる。お茶も飲めない。ここ最底辺でこそ100分授業が必要だとつくづく思う。

 「起立-礼」に始まるお仕着せの50分は少年の知的成長を妨げ、〃いい先生〃に引きずられての〃いい授業〃は、迎合を誘発する。

 〃逆らいたくなる〃ほど自我を立ち上げ、自身の思考と授業の論理を対比検討する。〃逆らいたくなる〃とは彼らの日常的なレベルに於て思考が行われていることを示している。それが〃いい先生〃には「荒れ」に見える。

 「やっぱりここの生徒は顔つきが違う」と教師は言う。「偏差値の低さ」に見合って、〃やっぱり〃というわけだ。

 だが思考の過程は表情として即座に表れてくる。自由に思考している時の顔付きは、どんな学校でも同じであると僕は知った。

 習慣化した表情は、顔の構造として定着するだろう。

  〃逆らいたくなる〃と言った生徒は、始めのうち机の上に化粧道具が並び素顔が見えなかった。次第に座る位置が教室の前に移り、授業中に発問し始め、いつの間にか化粧は消えた。      


 「やっぱりここの教員は顔つきが違う」と言おう。上から目線の教化意識も偏差値も教師の思考を停止させる。

   生徒達は自分自身を世界・社会に向かって解放しようとしている。それを思考停止した教委や管理と偏差値に縋り付く教師たちは「荒れ」と見做し続ける。高校生から見れば、世界は硬く凍結している。 

 問題は、何故・誰が少年たちの意識を「凍結させたのか」にある。   

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...