中部高原はマラリアが蔓延。加えて食糧不足、引き続く重労働 レ・カオ・ダイ自身、マラリアにかかって震えながら外科手術を執刀した |
カルテ用紙がなければ、缶詰のラベルをはがす。竹の薄皮もつかう。部品を集めてX線装置を組み立てる。看護師が自転車をこいで、その灯で手術をする。発電機を動かす燃料がないから、水力発電所もつくる。注射器やアンプルが欠乏すれば、ガラス工場から建設する。消毒用アルコールが無ければ少数民族集落へ出かけ酒の造り方を教わり、醸造し蒸留して自給した。畑も作り耕す。敵の武装ヘリコプターは再生品の弾丸で落とす。負傷兵に医師が自分の血を輸血。医者も医療の他にあらゆる作業や戦闘に加わった。
1965年から1973年にかけての艱難辛苦が、兵士や医師の生活を通して描かれたのが『ホーチミン・ルート従軍記』である。400頁近いが徹夜して読み通した。中に興味深い箇所があった。
「1970年3月9日・・・ 三月初頭から敵の攻勢が強まっている。B・52爆撃機の轟音が夜通し続く。・・・数年前は敵のB・52が発進すると、前線状況報告局が空襲の位置と時間を伝えるのが普通だった。この情報はおおむね正確だったが、警報はあまり役にたたなかった。というのは北方、中央、南方などと情報が大まかで特定の地域を指さなかったからだ。それに前線状況報告局が特定の地域を限定しても、対応する時間がなかった。 今年に入って空襲警報はもはや来ない、たぶん、敵の爆撃が多すぎるのと、敵が農地を近くに寄せたので飛行時間が短くなったせいだろう。しかしこちらも各自が経験をつんでわかるようになってきた。敵機の音を聞いただけで攻撃があるかないかわかる。時として敵機が頭上で唸っていても私たちは会議を続ける。しかし別のときは、誰かが警告するわけでもないが飛行機の音を聞くや否やみんな掩蔽壕に突進し、耳を圧する爆発音の一瞬前に壕に転がりこんでいる。 経験が助けになる。B52の音を聞くたびに掩蔽壕へ走っていたら、音は毎日なのでなにもできなくなる。第六感が、これは書くのは難しいが、頭上を通過するだけの敵機と攻撃しょうとする敵機を判別するのだ。この第六感は正確で、その警報にしたがうと壕へ行く十分な余裕がある」 レ・カオ・ダイ『ホーチミン・ルート従軍記』 岩波書店
日常生活の中に、因果律を見出すのは簡単ではない。俗情と安逸にひきずられるからだ。この病院で重要なのは爆撃機から逃げることであった。「前線状況報告局」情報だけを目安にしていては、どの爆音が爆撃を意図したものか機敏な判断力は身に付かない。
学校でも、生徒の行動が「指導」を要するのか、放置した方がいいのか、どのような指導が適当なのか。判断は簡単ではない。判断を誤って、事態をこじらすことも少なくない。安易な因果律を祭文のように有り難がるようになる。しかし祭文や会議の決定に依存する限り、我々は咄嗟の判断能力を身につけることは出来ない。
九州の田舎に住んでいた頃、うちの北側の屋敷裏を志布志線が通っていた。蒸気機関車が、海岸段丘の中腹のトンネルを目指して坂を駆け上る。祖母たちは家事をこなしながら、蒸気機関車の音だけで「こんたいかんが、いっき戻っくっど」と小学生の僕に言う事があった。しばらくすると、必ず貨客混合の列車が動輪の軽い音を立てながら駅構内に戻ってゆくのだった。トンネルの前で引き返すか。トンネルの中で引き返すかも祖母たちは見事に当てた。僕には、登っているのか下っているのかは分かったが、ついに祖母たちの耳には及ばなかった。港に入る漁船が大漁かどうかも、聞き分けていた。天気予報も新聞やラジオより正確であった。手っ取り早く極意を聞き出そうとする僕に、祖母は「慣れれば分かる」と笑っていたが、極意を聞き出す前に祖母は寝込んでしまった。東京に出て、帰郷したときには車両は全て気動車になっていた。
以前の「指導」との整合性や公平性というご託が巾を効かすのだ。「同じ現象には、同じ「指導」」が公平性だと思い込む、その失敗が露呈しても「これは罰ではない、「指導」だから構わない」と逃げるのである。ひもが解けた寝間着のようなしまりのなさがある。締まりのない生活には感性は育たない。
ベトナム戦争に圧倒的物量を誇り非倫理性を恥ない巨大なアメリカが、弱くて貧しいベトナムに負けたのは、絶えざる判断をなす感性を失ったからである。そしてこの感性は、胡志明の結社が個人の美徳に重きを置いたことに由来している。