通過するだけの敵機と攻撃する敵機を判別する能力は如何にして育ったか

中部高原はマラリアが蔓延。加えて食糧不足、引き続く重労働 
レ・カオ・ダイ自身、マラリアにかかって震えながら外科手術を執刀した
 ハノイ第103病院医師 レ・カオ・ダイは、1965年、米国軍との最前線ラオス・ベトナム・カンボジア国境にまたがる中部高原戦線に病院建設を命じらる。「インドシナを貫く戦略道路」ホーチミン・ルートを歩いて赴く。森で道に迷うのは、恐怖そのもの。ジャングルで空襲されたとき、腿ほどの黒い大蛇が一匹、頬をするすると這って森の中へ逃げて行った。兵士は食糧を7日から12日分携帯、重い米袋を担いで難路を行く、不要な物はシャツのぼたんや櫛の歯に至るまで減らす徒歩行軍は、通常4、5日続け1日休息する。休息日は水浴と洗濯。ようやく辿り着いても、爆撃の中で建設。 病舎は少なくとも30メートルの間隔をとって建てる。一棟の定員は6人をこえない。各科主任は別々の小屋に分散。一発の爆弾で、全員を失わないための配慮だ。病院は満員で、常時600人から800人、毎日増え、毎日4.5人ずつ死んだ。食料倉庫までは、20日行程もあった。最大の難問は、爆弾や銃弾による負傷ではなく、病気。中部高原はマラリアが蔓延。加えて食糧不足、引き続く重労働、米軍による枯葉剤撒布で、健康を損ねる。レ・カオ・ダイ自身、マラリアに罹患し震えながら外科手術を執刀した。
 カルテ用紙がなければ、缶詰のラベルをはがす。竹の薄皮もつかう。部品を集めてX線装置を組み立てる。看護師が自転車をこいで、その灯で手術をする。発電機を動かす燃料がないから、水力発電所もつくる。注射器やアンプルが欠乏すれば、ガラス工場から建設する。消毒用アルコールが無ければ少数民族集落へ出かけ酒の造り方を教わり、醸造し蒸留して自給した。畑も作り耕す。敵の武装ヘリコプターは再生品の弾丸で落とす。負傷兵に医師が自分の血を輸血。医者も医療の他にあらゆる作業や戦闘に加わった。
 1965年から1973年にかけての艱難辛苦が、兵士や医師の生活を通して描かれたのが『ホーチミン・ルート従軍記』である。400頁近いが徹夜して読み通した。中に興味深い箇所があった。
 「1970年3月9日・・・ 三月初頭から敵の攻勢が強まっている。B・52爆撃機の轟音が夜通し続く。・・・数年前は敵のB・52が発進すると、前線状況報告局が空襲の位置と時間を伝えるのが普通だった。この情報はおおむね正確だったが、警報はあまり役にたたなかった。というのは北方、中央、南方などと情報が大まかで特定の地域を指さなかったからだ。それに前線状況報告局が特定の地域を限定しても、対応する時間がなかった。 今年に入って空襲警報はもはや来ない、たぶん、敵の爆撃が多すぎるのと、敵が農地を近くに寄せたので飛行時間が短くなったせいだろう。しかしこちらも各自が経験をつんでわかるようになってきた。敵機の音を聞いただけで攻撃があるかないかわかる。時として敵機が頭上で唸っていても私たちは会議を続ける。しかし別のときは、誰かが警告するわけでもないが飛行機の音を聞くや否やみんな掩蔽壕に突進し、耳を圧する爆発音の一瞬前に壕に転がりこんでいる。 経験が助けになる。B52の音を聞くたびに掩蔽壕へ走っていたら、音は毎日なのでなにもできなくなる。第六感が、これは書くのは難しいが、頭上を通過するだけの敵機と攻撃しょうとする敵機を判別するのだ。この第六感は正確で、その警報にしたがうと壕へ行く十分な余裕がある」     レ・カオ・ダイ『ホーチミン・ルート従軍記』  岩波書店

 日常生活の中に、因果律を見出すのは簡単ではない。俗情と安逸にひきずられるからだ。この病院で重要なのは爆撃機から逃げることであった。「前線状況報告局」情報だけを目安にしていては、どの爆音が爆撃を意図したものか機敏な判断力は身に付かない。
 学校でも、生徒の行動が「指導」を要するのか、放置した方がいいのか、どのような指導が適当なのか。判断は簡単ではない。判断を誤って、事態をこじらすことも少なくない。安易な因果律を祭文のように有り難がるようになる。しかし祭文や会議の決定に依存する限り、我々は咄嗟の判断能力を身につけることは出来ない。
 
 九州の田舎に住んでいた頃、うちの北側の屋敷裏を志布志線が通っていた。蒸気機関車が、海岸段丘の中腹のトンネルを目指して坂を駆け上る。祖母たちは家事をこなしながら、蒸気機関車の音だけで「こんたいかんが、いっき戻っくっど」と小学生の僕に言う事があった。しばらくすると、必ず貨客混合の列車が動輪の軽い音を立てながら駅構内に戻ってゆくのだった。トンネルの前で引き返すか。トンネルの中で引き返すかも祖母たちは見事に当てた。僕には、登っているのか下っているのかは分かったが、ついに祖母たちの耳には及ばなかった。港に入る漁船が大漁かどうかも、聞き分けていた。天気予報も新聞やラジオより正確であった。手っ取り早く極意を聞き出そうとする僕に、祖母は「慣れれば分かる」と笑っていたが、極意を聞き出す前に祖母は寝込んでしまった。東京に出て、帰郷したときには車両は全て気動車になっていた。
 
 以前の「指導」との整合性や公平性というご託が巾を効かすのだ。「同じ現象には、同じ「指導」」が公平性だと思い込む、その失敗が露呈しても「これは罰ではない、「指導」だから構わない」と逃げるのである。ひもが解けた寝間着のようなしまりのなさがある。締まりのない生活には感性は育たない。

 ベトナム戦争に圧倒的物量を誇り非倫理性を恥ない巨大なアメリカが、弱くて貧しいベトナムに負けたのは、絶えざる判断をなす感性を失ったからである。そしてこの感性は、胡志明の結社が個人の美徳に重きを置いたことに由来している。

戦争に協力した責任は、今後いかなる戦争にも協力しないことによってしか償うことはできない

 高校三年の秋になると、いつも決まったように物騒な相談が持ち込まれたものだ。
 「卒業式で、○先生と△先生を殴りたいんだ。卒業は取り消されるかな。取り消されたって良いんだ、仕返ししたくてこの頃は寝られない。最低だったこの学校」体罰や屈辱的暴言を教師から受け続けて、それがこの時期に発酵し始めるらしい。たっぷり聞いてから、「証人はいるか。教員の体罰も暴言も、処罰の対象だ。先ず授業中に面と向かって謝罪を要求した方がいい」そう言うと決まったようにこう返事する。
  「俺、そういうの苦手なんだ、一発でけりを付けたいんだ」
 そう言っていた生徒が、卒業間近になると、
 「この学校も、なかなか良いとこあったよ」などと言い始めるのだ、僕の知る限り一人の例外もない。そして卒業式当日には泣きべそをかきそうになる。
 日本の卒業「式」には、怒りや恨みを「浄化」する妙な機能がある。だからいつまで経っても体罰や暴言がなくならないのだ。喜怒哀楽は四つ揃って、人と社会をまともにする。どれ一つ欠けても、人としての調和と均衡は保てない。
 学校は「怒」を抑圧して「哀」を孤立させ易い。忘れてはならないことは何時までも忘れず、深く執念する、それが美徳ではないか。

 「夜、炬燵で本を読んでいると、ひょっこり邦夫が訪ねてきた。・・・行方をくらましているという話を聞いてからずっと気にしていたので、顔をみてホッとした。・・・
「いったいどこへ行ってたんだい~ 半月近くも」 と切りだすと、邦夫は火鉢の火に手をかざしながら、
「なに、ちょっとお礼参りにな・・・」と言って口もとに例の投げやりなうす笑いをうかべた。″お礼参り″と言われても、おれにはとっさに何のことかわからなかったが、聞いてみると、軍隊にいる間理由もなくいじめつけたり、殴ったりしたやつのうちを一軒一軒まわり歩いて、あのときのお礼だといって、片っぱしから気のすむほど殴り倒してきたという。西は山口県の岩国から北は青森まで足をのばしたそうだが、その住所は復員するときにちゃんと控えておいて、
  そのうえ乗車用の復員証明書も余分に何枚か手にいれておいたというから″お礼参り″はかねてからの計画だったらしい。
 邦夫は煙草に火をつけながら、
「こっちゃよ、懐かしくて訪ねてきたっていうようなこと言ってな、一人一人外へ誘い出してこてんぱんにのしてやったんだ。どいつもこいつも軍隊じゃでっかい面こいていやがったけど、裟婆じゃみんなホトケさんみてえにおとなしくおさまってたぜ。おれたちが鬼ヒゲといっていた百里空の先任班長の野郎は、信州の岡谷だけんど、二週間前式をあげたところだといって新婚ホヤホヤだった。こいつは三度のめしを二度にしても、おれたちを殴るほうが好きだっていうやつでな、訪ねて行ったのは夕方で、ちょうど女と二人だけだったが、こいつは家ン中でのしてやった。いきなり鼻っ柱にメリケンをかっ喰らわしてな、そうしたら女がギャアギャア騒ぎだしやがったから、ついでに女も二つ三つぶん殴ってやった。まあ亭主への恨みだからしようがねえや。中でもザマなかったのは岩空の分隊士だ。こりゃ兵学校出の中尉でな、気狂いみてえな張りきり野郎で、やつに殴られたあと病院に担ぎこまれて四日目に死んじまった同年兵もいるし、おれだって前歯を二本も折られているんだ。こいつはうまいこと阿武隈川の河原におびき出してぶん殴ってやったけど、野郎ときたら河原に手をついてペコペコ頭をさげて泣き言こきやがるんだ。・・・あのときは立場上しょうがなかったんだ、許してくれ、この通りあやまるから許してくれってな・・・こっちゃわざわざ福島くんだりまで、そんな泣き言を聞きにきたんじゃねえやって言って、同年兵の分まで半殺しになるほどぶん殴って血だらけに踏みつぶしてひき蛙のように河原にのばしてやった」
 と言って、やけに指の骨をポキポキ鳴らしてみせた。これは昂奮したときの邦夫の癖だ。
 彼の予定では、″お礼参り″の相手は七人いたそうだが、そのうち三人は空襲で焼けだされて行ってもそこに家がなかったり、外へ働きに出てうちにいなかったりして、つかまえられたのは四人だけだったそうだ。
 「でもあれだな、これでいくらか恨みは晴らせたんだけんど、気持ちはあんまりさっぱりしねえもんだな。なんだかこう、変にうすら淋しいような気がしちゃってよ、復讐なんていうのはもともとこんなもんかなァ・・・」
 邦夫はそう言って、みつえが運んできた濁酒をたてつづけに飲んでいた。それにしても半月間よくも回ったものだ。その執念には感心した。おれにも邦夫のように″お礼参り″をしてやりたいやつは、ざっと思いだしただけでも五、六人はいるが、偶然そいつに会ったというならとにかく、こちらからわざわざ出かけていくだけの気持ちはない。恨みがうすらいだというのではなく、そんなやつの顔はもう二度と見たくないのだ。
 邦夫は一時間ほどして、「・・・約束があるから」と言って、あわてて帰っていった。・・・

 『近世経済思想史論』を読む。基本的な知識がないので、読みながら自己流に解釈して、責の意味をとりちがえているところもあるかもしれないが、だんだん興味が湧いてきて、活字が一字一字紙面から浮きあがってくるような感じだ。小説とはまた別の面白さがある」     『砕かれた神』  12.25


  「夕じゃに帰ったら、川端の火じろ端に宮前のほうの博労が二人お茶を飲んでいた。
 ・・・川端の種牛を見にきたらしくはじめは牛の値がどうのこうのいっていたが、そのうちに戦争の話になっていった。おれは上がり框に腰かけて夕じゃをよばれながら、反っ歯がじいさんにこんなことを自慢げに話しているのを聞いた。
上海から南京まで追撃していく間にそうだな、おりや二十人近くチャンコロをぶった斬ったかなあ。まあ大根を輪切りにするみてえなもんさ。それから徴発のたんびにクーニヤンとやったけや、よりどりみどりで女にゃ不自由しなかった。ほれーこの指輪も蘇州でクーニヤンがくれたやつさ。たいしたもんじゃないらしいけんど、そのときもこれ進上するから命だきゃ助けてくれって泣きつきやがったっけ。でもさ、生かしておくってえとあとがうるせえから、おりや、やったあとはその場で刀でバッサバッサ処分しちやった・・・まあ命さえあぶなくなきゃ、兵隊ってのは、してえ事ができて面白えしょうばいさ。それでお上から金ももらえるんだから、博労なんかよりもずっと割がいいぜ」
 おれはひどい奴だと思った。やったこともひどいが、それ以上におそろしいのは、そのことにたいしてこの男はすこしも罪の意識がないことだ。もし裟婆でそんなことをすれば、この男は極悪非道な殺人犯としてとうに自分の首が飛んでいるところだろう。ところが戦争ではそれがなんの罪にもならず、曹長にまで進級してこうしてそれを自慢しているのだ。たとえ敵国民にせよ、無辜の人間を殺したことには変わりはないのに・・・。
 反っ歯は南京でのことも話していたが1その残忍さにおれは耳をうたぐったほどだ。あらかじめ本人に穴を掘らせておいてその盛土の上で首をはねた。女や子どもたちを学校の運動場に並ばせておいて、機関銃で射殺したり、ある場合には川原に連れていって頭から石油をぶっかけて生きたまま焼き殺してしまったそうだ。反っ歯の話では、そんなふうにして殺された人の数は南京だけでも五、六万人はいただろうという。
 おれは支那のことは入団前も戦地から帰還してくる村の兵隊からいろいろ聞かされて、その様子はうすうす知っていたが、こんなにひどいとは思わなかった。せんだっての新聞にもこんどの戦争で支那に与えた被害は、死傷者や家財を失った者をふくめて二千万人にのぼるだろうと出ていたが、二千万といえば日本の総人口の尖に四分の一ではないか。
 しかも支那との戦争は、こちらから押しこんでいった一方的な侵略だった。この責任は重大である。
償っても償いきれるものではない。だが日本はいまだに支那にたいしてなんの謝罪もしていないし、天皇もそのことでひと言だって謝っていないのだ。博労の無反省な自慢話ももとはといえば、政府や天皇のそういう無責任さからきているのかもしれない。無責任な天皇をそれぞれがそれぞれの形で見習っている。「天皇がそうならおれだって」というなかば習性化された帰一現象・・・おれにはそうとしか思えない。
 しかしこれを個人的に考えれば、博労のいうクーニヤン殺しといい、南京での惨殺行為といい、他人事ではすまされない。・・・だがもしそこに居合わせたら、おれだって何をしでかしたかわからない。 ・・・
 いずれにしろ戦闘に参加した者は、その点を自分の問題として冷静に反省してみる必要があると思う。そこをいい加減にごまかしておくと、いつかまた同じことを繰り返すようなことになるかもしれない。・・・
 だが、かりにそんなことになっても、おれはこんどこそ戦争には絶対に参加しない。たとえ日本という国が亡びようとも、おれはそのために自分を犠牲にしたくない。おれはこんどの戦争には終始全面的に協力したが、戦争に協力した責任は、今後いかなる戦争の企てにも協力しないということによってしか償うことはできないのではないかとおれは思う」 『砕かれた神』3.11

 敗戦後、復員兵のこうした屈折した感情に真剣な考察をした文化人があるだろうか。志賀直哉の新聞投書『特攻隊再教育』以外に知らない。この件は改めて論じたい。

 学ぶべきは、近くて遠いところにある。戦後の「対策」ではなく、戦前・戦中・戦後を貫くの国民の姿勢や覚悟の問題なのだ。志は瞬間のペテンであろうか。日本ではそれが事態が変わるたびに、濁流に呑まれるように無節操に変わるのだ。歴史は自然災害ではない、個人の絶えざる決意の集積なのだ。高校生が「式」で怒りや恨みを「浄化」するような哀しいものであってはならない。

 1945年2月から3月にかけてのマニラ市街戦では、12 万人が死んだ。日本軍による市民老若男女虐殺が、BC級戦犯裁判記録にある、特に2月12日「ラ・サール学校の虐殺」は惨忍極まる。
 ある神父の証言である。「・・・子供たちの中には、二才か三才、またはそれ以下の幼児すらも混っていたが、それらの幼児たちも大人たちと同じ仕打ちに遭ったのである。刺突を終えると、日本軍は屍体を略奪し、階段の下に投げ込み、積み上げた。生きている人々の上に屍体が重なった。即死したものは多くはなかった。小数のものは一、二時間のうちに息が絶え、その残りの人々は出血が甚だしいため次第に衰弱していった。
 兵士たちは出てゆき、やがて建物の外で飲んだり騒いだりする声が聞こえた。午後の間、彼らはしばしばわれわれを監視するために入ってき、犠牲者の苦痛を見て笑ったり嘲ったりした」 

 「マニラの女性はしっかりしていた。スカートの内にピストルをひそませて日本兵を狙っていたものだ。レイテ沖海戦後、おれたちは内地行きの便船を待って、半月ほどマニラ市内にとどまっていたが、その時も、日中でも物騒で一人歩きはできないほどだった。通りがかりにさりげなく寄ってきてズドンとやるからだ。
 ・・・売春婦に化けた女学生が兵隊を部屋に誘いいれておいて殺すという話も聞いた。しかもそれは欲得からではなく「抗日」とフィリピンの独立のためだったという。
 おれは当時はそういう女をひどく憎んだものだが、今になってみるとその志の高さにうたれる。立派だったと思う。むろんそれはフィリピン女性のうちでもごく僅かだったにちがいないが、おれはマニラにいる間、フィリピン女性が日本兵といっしょにくっついて歩いている姿を一度も見かけたことはなかった」3.19
 渡部清の手記によって、我々は日本軍支配下フィリピンのレジスタンスの実相を知ることが出来る。こうした愛国的行動には、国境を越えて共感をかきたてるものがある。
 

騙した天皇の戦争責任と欺された若者の決意 2

頭から「赤」ときめこんで、わけもなく恐れながら
そのくせひどく馬鹿にしていた。
無知ほど恐ろしいことはない。
 河上肇博士の死去を昨日の新聞で知らされた。行年六十八歳。死因は老衰と栄養失調だというが、栄養失調という言葉に思わず愕然とした。なんとも痛ましい。きっと食べ物に不自由してひもじい思いをかこっていたのにちがいない。・・・おれが博士の書いた本を読んでいたころはおそらく死の床について重体だったのだろう。そのことを思うとすまなさに胸がつまる。気の毒で言葉もない。もしそういう事情を知っていたら、米でも野菜でもどんなことをしてでも届けてやったのにと思う。
 それにしても安らかに天寿を全うしたというならとにかく、こんな偉大な学者を栄養失調などで死なせてしまったということは、考えてみれば日本人全体の恥だとおれは思う。前に雑誌で三木清と戸坂潤という二人の偉い哲学者が敗戦になってから獄中で悶死したということを読んだ記憶があるが、河上肇博士の場合をふくめて、これらの学者から直接教えをうけた者や、その事実を知っていた人たちは周りにたくさんいたはずだと思う。いったいその人たちは、なにをしていたのか。どうして救いの手をさしのべてやれなかったのか。みんながその気になれば助けることができたのではないか。
  ・・・おれは今まで社会の仕組みについてはなにも知らなかった。全くのあきめくらだった。それが河上肇博士の『近世経済思想史論』と『貧乏物語』の著書に接したことによって、曲がりなりにも少しずつわかりかけてきた。八年間通った小学校はむろんのこと、これまで誰も教えてくれなかったことを、おれはこのたった二冊の本によって教えられた。そしてそこに書いてあることも、日常の生活の体験につき合わせてみれば、なるほどと肯くことばかりだった。ふわふわした単なる理論ではなく、あくまで現実に光をあてて、そこから問題をするどく説きおこしていた。どれ一つとっても、そこにはおれのような下積みの人間に訴えかける強靭な説得力があった。
 河上博士はとにかくおれに社会を見る眼を最初にひらいてくれた大事な恩人だ。本当の先生だ。それだけにいくら感謝してもしたりない気がする。博士は共産主義者で獄にも長いこと入れられたことがあるそうだが、おれは今まで自分では何ひとつ、それこそ何ひとつわかっていなかったくせに、まわりの声に付和雷同して、こういう人たちを頭から「赤」だの「赤色分子」だのときめこんで、わけもなく恐れながらそのくせ心のどこかでひどく馬鹿にしていた。まったく無知ほど恐ろしいことはない。おれは河上博士の著書によってはじめてそのことを思い知らされたような気がする。 2.1

 昼まえ炭出しをやってから、あとちょうど一窯ぶん薪が残っていたのでそれを窯に入れて口焚きをした。今年はこの一窯で終わりらしい。出した炭はその場で切って俵につめる。一日富士おろしが吹きつけて山の尾根は寒かった。

 マッカーサー司令部の発表によると、皇室の財産は、所蔵の美術晶、宝石、金銀の塊は別にしても、15億9000万円もあるのだという。これにはおれも心底びっくりした。小学校3年の時だったかに、一億という金は一円札にして積み重ねていくと、富士山の高さの二倍近くにもなるという話を先生から聞いたことがあるが、15億などという金はとても想像できない。あまりに彪大で気が遠くなるほどだ。だが、おれが驚いたのは、その金嵩ではない。その彪大な財産の所有者が天皇であったということだ。
 おれはこれまで天皇を金品に結びつけて考えたことは一度もなかった。金などを云々するのはわれわれ世俗のことで、天皇はそんなことにはまったく無縁な超越的な存在だと周っていた。天皇を崇高な「現人神」と信じていたのも一つはそのためだった。それがどうだろう。ひと皮はいでみればこのありさまだ。いったい天皇はこんな大金をどこでどのようにして手に入れたのか。・・・ 
ところが天皇は現に何も働いてないし、これまで金のたまりそうな仕事をやっていたという話も聞いたことがない。おれたちが知っているのは、なんでも一周するのに半日もかかるという広大な屋敷の中に住んでいるということだけだ。それなのにどうしてこんな彪大な財産を所有することができたのか。しかも明治維新までは「禁裏十万石」とも言われていたように徳川幕府から小藩なみの扶持をもらって質素に暮らしていたという天皇家だ。そこへまさかこんな財産がひとりでに天から降ってきたわけでも地面から湧いてきたわけでもあるまい。
 とすれば、誰かがそれを天皇に提供したものとみなくてはならない。むろんその財産の中には個人持ちのものもあったかもしれないが、大部分は国のものだったろうし、その誰かはおそらく国の財産を自由にとりしきることのできる政府のエライ様たちだったのだろう。
 富士山の麓には天皇所有の 「御料林」というのがある。 おれは薪切りの往き帰りよくそこを通るので見て知っているが、木の育ちもよく、手入れのいきとどいたたいへんな美林である。しかもそれが何十町歩という広さにわたっている。あれなどもそんなふうにして天皇に贈られたものにちがいない。しかし国有財産といえば、いうまでもなく国民の財産である。それをどうして国民になんの断りもなく与えたのか。またどうしてそんな不当なことがまかり通っていたのか。・・・だが、こういうふうにつぎつぎに天皇の正体があばかれてくると、そんなこととは露知らず、ただひたすら天皇に帰一しょうとしていた白分がますますやりきれなくなる。できることなら自分のそういう忌々しい過去をきれいに抹殺してしまいたくなる。
が、しかしよくよく考えてみれば、天皇だけを責めさえすればそれですべてが片付く問題ではないように思う。なぜならそういう天皇を知らずに信じていたのは、ほかの誰でもない、このおれ自身なのだから。知らなかったら知らなかったことに、欺されていたら欺されていたことに、つまりおのれ日身の無知にたいする責任がおれにあるのではないのか。なるほどすべてをそっくり天皇のせいや世の中のせいにしてしまえば都合がいいかもしれないが、それではおれ自身の実体は宙に浮いてしまう。
おれはおれでなくなってしまう。たとえいくら忌わしい過去であっても、それをぬきにして今のおれは存在しないのだから……。とにかく白分のことを棚にあげておいては駄目だ。おれはもっと自分の内部にずかずかと踏みこんでいってみる必要がある。さしあたって問題なのは、天皇よりむしろおれ白身のほうかもしれない。   2.2

 一日らくだ山で薪の落とし枝を集めてもやづくりをした。もやはナタで切った枝を足もとにひと抱えぐらいの高さに積み重ねてから、二重にまきつけた竹蔓を足の裏で叩いて締めながら一把一把たばねていくのだが、見ていると父も登もナタの手さばきは見事なものだ。ナタが指先に吸いついて刃先がひらひら躍っている感じだ。それだけに仕事のはかもいく。こっちがやっと一把をたばねおわるころは、二人は三把目をたま切りはじめている。やはりみじんもごまかしのきかない年季のちがいだと思う。
 炭窯の火勢は昼すぎからめっきり落ちて煙も水色に変わってきた。この分ではあすの朝には窯口がふさげるかもしれない。  2.8

 「天皇に欺されたというが、欺された君のほうに問題はなかったのか」、これは暮れに郁男にいわれたことだが、あれからおれは折ふしこのことを考えつめてきた。膠のように頭のひだにくらいついて離れなかったのである。今日も一人長屋の中で炭俵を編みながらそのことを考えてみたが、ずっと縺れにもつれていた問題の糸口をやっと掴んだような気がする。これまで自分のことは不問にして天皇だけを一方的に弾劾してきたのは誤りだったということに思いあたったのだ。
 おれは天皇に裏切られた。欺された。しかし欺されたおれのほうにも、たしかに欺されるだけの弱点があったのだと思う。・・・
 「万世一系」「天皇御親政」「大御心」「現御神」「皇恩無窮」「忠君愛国」等々。そして、そこから天皇のために命を捧げるのが「臣民」の最高の遺徳だという天皇帰一の精神が培われていったわけだが、実はここにかくれた落とし穴があったのだ。
 おれは教えられることをそのまま頭から鵜呑みにして、それをまたそっくり自分の考えだと思いこんでいた。そしてそれをいささかも疑ってみようともしなかった。つまり、なにもかも出来合いのあてがいぶちで、おれは勝手に自分のなかに自分の寸法にあった天島像をつくりあげていたのだ。現実の天皇とは似ても似つかないおれの理想の天皇を・・・。 だから天皇に裏切られたのは、まさに天皇をそのように信じていた自分白身にたいしてなのだ。現実の天皇ではなく、おれが勝手に内部にあたためていた虚像の天皇に裏切られたのだ。言ってみれば、おれがおれ自身を裏切っていたのだ。自分で自分を欺していたのだ。  2.10

  天皇が神奈川県下を視察したそうだが、昨日は久里浜の引揚援護所に行って、そこのサイパンからの復員兵とこんな話をかわしたという。
 天皇「戦争は激しかったかね」
 兵士「ハイ、激しくありました」
 天皇「ほんとうにしっかりやってくれて御苦労だったね。今後もしっかりやってくれよ。人間として立派な道に進むのだね」
 おれはむろん天皇がとぼけてこんなことを言っているとは思わない。おそらく真からそう思って言ったのだろう。それだけに心ない無責任さはもはや絶望的だ。  2.22

  ・・・そこへいくと、マニラの女性はしっかりしていた。スカートの内にピストルをひそませて日本兵を狙っていたものだ。レイテ沖海戦後、おれたちは内地行きの便船を待って、半月ほどマニラ市内にとどまっていたが、その時も、日中でも物騒で一人歩きはできないほどだった。通りがかりにさりげなく寄ってきてズドンとやるからだ。
 武蔵の隊にはなかったが、ほかの部隊で、そういう女性に何人かやられたのをおれは知っている。売春婦に化けた女学生が兵隊を部屋に誘いいれておいて殺すという話も聞いた。しかもそれは欲得からではなく「抗日」とフィリピンの独立のためだったという。
 おれは当時はそういう女をひどく憎んだものだが、今になってみるとその志の高さにうたれる。立派だったと思う。むろんそれはフィリピン女性のうちでもごく僅かだったにちがいないが、おれはマニラにいる間、フィリピン女性が日本兵といっしょにくっついて歩いている姿を一度も見かけたことはなかった。3.19

 いつだったか淑子のところで読んだ本だか雑誌に、「いつの時代でも、その国民はその国民にふさわしい政府をもつ」とかいうことが書いてあったのを憶えているが、この言葉はそのまま天皇と国民の関係についても言えそうだ。国民の大半は、今も天皇のただ食いを当然のこととして黙認しているが、それを黙認して、天皇をありがたがっているかぎリ、天皇は天皇の座に居直りつづけるだろう。
それを言えば、ただちにその一人であるおれ自身にもはねかえってくるので言うのはつらいが、まさにこの国民にして、この君主ありだ。天皇の戦争責任がいまだに未決のままズルズルベッタリになっているのも、その買任の一半は国民の側にもあるのだと思う。
 夜十二時近くまでかかって読みかけの徳永直の短篇集を読了した。どの作品もそれぞれよかったが、とくに『他人の中』と『最初の記憶』に強い感銘をうけた。労働を主題にしたこんな感動的な小説を読んだのははじめてだ。『最初の記憶』のしまいのほうで、「私」と弟が夜明けの篠つく雨の坂で積荷に足をとられた馬の「赤」を退いたてる場面には心を打たれ、思わず落涙した。  4.12

  手記は、天皇への手紙で終わる。

 四月二十日
・・・
 役場から帰ってすぐ天皇宛ての手紙を書いた。といっても内容は手紙というより、海軍にいる間、天皇から受けたことになっている金品の明細書のようなものだ。主なものは昨日のうちに書き出しておいたが、あとからまたいろいろ思い出したり、計算に手間どったりして、結局、昼近くまでかかってしまった。昼すぎそれを郵便局から出す。金は為替にして同封した。端数を切り上げて四千二百八十二円。金のほうの工面はきのう父に、これだけは上京してから働いて返すという条件で、四千円出してもらったので、それに自分の持ち金をたしまってまかなった。そのため手もとにはもう百七十二円しか残っていないが、出がけにはまた汽車賃と当座の小遣いぐらいはもらえるだろうから、なんとかなるだろう。なくなったらその時はその時だ。とにかくこれでいくらか気持ちがさっぱりした。
 内容は次のように認めた。
「私は昭和16年5月1日、志願し水兵としてアナタの海軍に入りました。兵籍番号は『横志水三七重一四六』です。以来、横須賀海兵団の新兵教育と、海軍砲術学校普通科練習生の7カ月の陸上勤務を除いて、あとはアナタの降伏命令がでた昭和20年8月15日まで艦隊勤務についていましたが、8月30日、アナタの命により復員し、現在は百姓をしています。
 私の海軍生活は4年3ヶ月と29日ですが、そのあいだ私は軍人勅諭の精神を休し、忠実に兵士の本分を全うしてきました。戦場でもアナタのために一心に戦ってきたつもりです。それだけに降伏後のアナタには絶望しました。アナタの何もかもが信じられなくなりました。そこでアナタの兵士だったこれまでのつながりを断ちきるために、服役中アナタから受けた金晶をお返ししたいと思います。まず俸給ですが、私がアナタから頂いた俸給は次のようになっています。
  四等水兵-六円二〇銭(月額)~四月=二四円八〇銭
  三等水兵-一一円六〇銭~十五月=一七四円
  二等水兵-一三円一〇銭~十二月=l五七円二〇銭(十七年十一月二日上等水兵と改称)
  水兵長 -一六円~十二月=一九二円
  二等兵曹-二一円六〇銭~十月=二一六円
    ・・・
以下、詳細なリストがつづく。そのなかには食費までわるが計算されている
    ・・・
      毛布 二 (二枚とも中古)
  衣嚢 一

 前記の沈めてしまった被服はすべてアナタからの貸与品でしたので、借料として300円、後記の再度貸与された被服は、復員の際、艦長令達によりいただいてきたので、この分は500円に計算しておきます。なおそのとき離現役一時手当金として850円をいただきました。
 最後にこれは一番気になっていたことですが、私はアナタから「御下賜品」として左記の品をいただきました。
 昭和17年l月5日 戦艦長門にて恩賜の煙草一箱
 昭和17年8月16日 駆逐艦五月雨にて恩賜の煙草一箱
 昭和18年6月24日 戦艦武蔵にて恩賜の煙草一箱と清酒(二合入り)一本
 たとえ相手が誰であっても、他人(ひと)からの贈りものを金で見積もる失礼は重々承知のうえで、これについてはあえて100円を計算にくわえました。
 以上が、私がアナタの海軍に服役中、アナタから受けた金品のすべてです。総額4,281円50銭になりますので、端数を切りあげて4282円をここにお返しいたします。お受け取りください。
私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません。 完


 「おれは今まで社会の仕組みについてはなにも知らなかった。全くのあきめくらだった。それが河上肇博士の『近世経済思想史論』と『貧乏物語』の著書に接したことによって、曲がりなりにも少しずつわかりかけてきた」の件は、我々が青年を相手に授業するのに何が肝要なのかを諭していると思う。やはり「社会科」は、経済学と歴史をしっかりやらなければならないのだ。アクチブラーニングやシチズンシップ教育など「新式」の見栄えに振り回されるのは、愚かだと思う。
   農作業が皇国史観に囚われていた若者を解放してゆく過程をこの手記は、見事に描いている。農作業に慣れコツを掴むにつれ、渡辺清の自然描写も人間描写も的確で豊かさをましてゆく。初めは、文字が上滑りして頭に入らないが、体を通して農業を理解するうちに、書物の文字が浮き上がってくる。そうすると「馬力のあとにくっついて『近世経済思想史論』を読む。気が乗っているから歩き読みも苦にならな」くなる。
 僕は、メキシコ革命の天才的農民軍指導者パンチョ・ビリャが「真面目な労働だけが、立派な市民をつくるんだ」と言ったことを思い出した。ビリャが考えていたのは、労働する市民と共に軍隊を廃止することであり、軍隊を無くすから立派な市民が育つということであった。
 農民渡辺清こそが立派な市民であったことは、その後の彼の生き様にも現れている。立派な市民は、怒りの対象を弱者に向けたり忘れはしないものである。

追記 マッカーサー司令部の発表によると、皇室の財産は、所蔵の美術晶、宝石、金銀の塊は別にしても、15億9000万円もあるのだという。これにはおれも心底びっくりした」と渡辺清が書いているが、昭和20年度の国家歳出は、215億円である。この中には、あらゆる国家の王家がしたような、海外(その殆どは、スイスである、預金者の秘密を守ることを絶対的義務としている)に秘匿した膨大な資産は含まれていない。


騙した天皇の戦争責任と欺された若者の決意 1

今日もはんてんのふところに『貧乏物語』を入れていった
 少年兵として「武蔵」に乗り組み辛くも復員した渡辺清の手記『砕かれた神』は、自然描写が美しい。 辛い農作業の光景は絵のように美しく、身内を失った家族の悲しみや戸惑いを、さり気なく描く筆も暖かい。手記は、復員から兄が嫁取りをして家を出るまでの7ヶ月を故郷で過ごした二十歳の記録である。 
 いくつか抜き書きをした。敗戦直後の日本を、理解するに利する筈である。目の位置が適確である。何が青年を解放して自由な自立した個人にするのか、我々は教室で何をすべきなのか諭している。


 今日は父や兄の登といっしょに早出しの供出用の甘藷を掘ったあと、五畝ほど早稲の陸稲を刈る。一日体をかがめていたせいか、腰のあたりがつれるように痛い。畑仕事に出るようになってまだいくらもたたないのに、手にはもうマメが三つもできた。 おれはできればもうしばらく気持ちが落ち着くまで休んでいたいと思っていたが、みんなが忙しそうにしているのを見ると、そうもしていられない。それにうちは気ままにただ食いしていられるほど裕福な農家ではない。ひとりこ日数がふえればその分みんなで稼ぎ出さなくてはならず、病気でもたいかぎり、そういつまでも大の男がごろごろしているわけにはいかないのだ。    9.24

 庭の菊が咲きはじめた。陽だまりのl本立ちのほうはもう開きはじまったのもある。だがおれは菊はもう見るのもいやだ。以前はちょっとにがみをふくんだその香りもすがたも好きだったが、いまは反射的に天皇の紋章を思い出して、見ただけで気がたってくる。 今日も一日田圃で稲こき。兄の登が午後から消防団の用事で出かけ、妹のみつえも留守だったのでとても忙しかった。脱穀した籾を運び藁を片付けてから、父と二人でまっ暗になるまでみようを積んだ。10.22

  今日、昼めしのあと縁側で一服していたら、屑屋の金さんが空の南京袋をぶら下げてやってきた。金さんと会うのは復員してからはじめてだが、長いざんばら髪の頭といい、額のはった赤ら顔といい、五年前とすこしも変わっていない。といっても、前にも面とむかって口をきいたことはなかったが、おれのことはよく憶えていて、そばにいた母に、 「コレ、カイクンイッタポーヤネ、プチカエッタ、ソレ、ヨカッタ、ヨカッタ、オメテトウ・・・」 と言って、しげしげとおれの顔をみて笑った。ふーっと眼もとがすずむような気持ちのいい笑いだった。おれも魅きこまれるように笑って頭を下げたが、復員してこころから「おめでとう」と言ってくれたのはこの金さん一人だけかもしれない。むろん自分ではすこしもおめでたいとは思っていないが、気にしてくれていたのかと思うと、うれしかった。母は金さんに、「折角きてくれたけど、あいにく今日は出すような物がなくて悪いなあーい」と言いながら、代わりに戸間口に干してあったさつま芋を新聞紙につつんでやった。 母の話では、金さんはこの暮れに朝鮮に帰るのだそうだ。12のとき故郷の慶尚道を出てから28年も日本の各地を転々と働いて歩いたという。その間とりわけ朝鮮人ということで差別され、ずいぶんいやなことやつらい目にもあったと思うが、こんどは天下晴れて、独立した故里の朝鮮に帰ることができるのだ。どんなにかうれしいだろう。人ごとながらなにかこっちまで救われるような話だ。     10.26
                                 二人は山や畑へ行くにもいつもいっしょだったので、村の大人たちになにかというと「おしどりの辰」といって冷やかされていたのを憶えている。 結婚したあくる年長男の勉が生まれたが、辰平はそれから二年ほどして二度目の召集をくったらしい。そのときはおれも海軍に入っていて知らなかったが、なんでもそのまま支那の山西省あたりにもっていかれてそこで戦死したらしい。二番目のとも子は彼の出征後に生まれたという。長男の勉は父の戦死をうすうす知っているようだったが、まだ二つになったばかりのとも子は、祭壇にのせてある遺骨箱を珍しそうに指さして、「これなぁに、これなぁーに・・・」といいながら、さかんに幸子のたもとを引っぼっていた。見ていて胸がつまった。 夜、種屋の賄いの手伝いに行っていて帰ってきた母の話によると、あのあと身内衆が遺骨箱をあけてみたが、中には「陸軍歩兵伍長坂田辰平君の霊」と書いた短冊型の美濃紙が一枚入っていただけだったそうだ。それを見て母親の志乃は遺骨箱を胸にだきしめながら、「あーあ・・・辰がこんなに軽くなっちゃって、十七貫もあったお前がよお。一升桝の上へのっかって、四斗俵でもらくらく担ぎあげたくれえ、がんこで力のあったお前がこんな紙っペら一枚になっちやってよお。あの辰がよお・・・」と泣き叫んだという。   10.31

 おれはいまからでも飛んでいって宮城を焼きはらってやりたい。あの濠の松に天皇をさかさにぶら下げて、おれたちが艦内でやられたように、樫の棍棒で滅茶苦茶に殴ってやりたい。いや、それでも足りない。できることなら、天皇をかつての海戦の場所に引っぼっていって、海底に引きずりおろして、そこに横たわっているはずの戦友の無残な死骸をその眼にみせてやりたい。これがアナタの命令ではじめた戦争の結末です。こうして何十万ものアナタの兵士がアナタのためだと信じて死んでいったのです。 そう言って、あのてかてかの七三の長髪をつかんで海底の岩床に頭をごんごんつきあててやりたい・・・。 
 ああ、なんだか気が狂いそうだ。血がひいたように頭の中がすーっと冷たくなる。肩が、手が、足が、そして体じゅうがぶるぶる震えてくる。荒れすさんだ気持ちはどうしたらおさまるか、いっそひと思いになにもかもぶち壊してやりたい。10.17

 三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ。 
 表では「尽忠報国」だの「悠久の大義」だの「聖戦の完遂」だなどと立派なことを言っておきながら、裏にまわって袖の下とはあきれてものも言えないらまったくよくもそんな恥知らずなことができたものだ.。むろんこれは氷山の一角かもしれない。首相の東条さえこうなのだから、ほかのお偉方もわかったものではない。天皇にもそれ相応の寄進があったのではないかと疑いたくもなる。 いずれにしろ、おれたちが前線で命を的に戦っていた最中に、上の者がこんなふらちな真似をしていたのかと思うと、ほんとに腹がたつ。と同時に、これまでそういう連中をえらい指導者としててんから信じきっていた自分がなんともやりきれない。     11.10

 おれはこのごろ何かというと空をみる。空の晴れ具合や、雲の色や形から、ああこのすじ雲はソロモン海戦で砲座について「射ち方はじめ」の号令を待っていた時の沖合に流れていた実に似ているなあとか、このあやめ色に澄んだ空の色は、ブルネイ基地から出撃する時の空の色にそっくりだなあ、とかいうふうに思い出すのだ。  11.31

 マッカーサー司令部が、また五十九名の職犯の逮捕命令を川した。そのなかには陸軍の畑俊六元帥、豊田副武海軍大将、皇族の梨本宮も入っている。梨本宮はむろん皇族でははじめてだが、おどろいたのは、梨本官がそれについて外人の記者に「自分は戦争とは何の関係もなかったし、政治問題について相談を受けたことはない」と語っていることだ。 梨本官はたしか陸軍出の元帥だったはずだが、そもそも「戦争とは何の関係もなかった」元帥が存在するだろうか。そこになんらかの関係があったからこそ、軍人の最高位である元帥にまでなったのではないのか。   12.4

 朝から白菜の土よせをしたり、人参を掘ったり、一日山の畑ですごす。ときおり鍬の手を休めてぼんやりまわりの景色を眺める。山裾の雑木林はもうあらかた葉を落として、奥のほうまで明るく透けたように見える。その林のなかから目白や四十雀の鳴き声が聞こえてくる。富士も真っ白に雪をかぶって、冬の陽をやわらかく照りかえしている。山頂の大沢の深いえぐれ目も雪に埋まってもう見えない。 取り入れをすませたあとの田圃は妙に寒々しい。黒い地肌をむき出しにして、点々とみようが見え、ところどころに役目のすんだ案山子が忘れられたように斜めにかしいで立っている。その田圃の広がりの向こうには、遠く赤石の山々が、かっきりと空をくぎって紫の峰をつらねている。 -鍬を持ちかえながらおれは体をこごめる。「国破れて山河あり。城春にして草木深し・・・」。うろ憶えの杜甫の詩句の断片が掘り起こしたやわらかな土の上をひらひらとよぎっていく。昼すぎ、人参のあと地にそら豆を蒔いているところへ邦夫の父の源蔵がやってきた。     12.11

 昼まえ、父と牛小屋の下肥出しをする。出した下肥はモッコで田圃に運ぶ。牛小屋の下肥は半月に一ペんくらいずつ出しているが、その間に乾草も藁も糞と小便で踏み固められて石のように固くなっているから、引き出すのも容易ではない。万能でこぼから順に外につき出していくのだが、今日もそのとばっちりで股引もシャツも糞だらけになってしまった。それでも新しく敷いてやった乾草の上にすわって気持ちよさそうに眼を細くしている牛をみると、こっちもなんとなくせいせいした気持ちになって、「どうだい、さっぱりしたろう と声をかけてみたくなる。   12.14
 新聞によると、近衛公は自殺の前日親しい者に「陛下に責任が及べば生きておれない」と洩らしていたそうだが、・・・いってみれば彼の自殺は天皇の身代わりとも受けとれる。・・・近衛公についてはおれにはべつの感懐がある。 これは前に誠一から聞いた話だが、近衛公は戦争中はずっと軽井沢でお妾さんといっしょに暮らしていたという。なんでもそこに大きな別荘をもっていたらしい。このことは新聞にものっていたそうだが、前線では玉砕が相つぎ、特攻機が次々に突っこんでいるというときに、また銃後は銃後で烈しい空襲にさらされ死者が続出しているというときに、よくもそんな太平楽な生活ができたものだと思う。彼はかつての首相であり、しかも在任中は国民にむかって、「大政翼賛」だの、「国民精神総動員」だの、「堅忍持久」だのと盛んに御託宣を垂れていたではないか。それを、当の御本人は安全な山あいの別荘に戦火をさけて女道楽にうつつをぬかしていたという。まったくとんだ大政翼賛会もあったものだ。 
 考えてみると、偉いと言われている人はどこんなものだったのかもしれない。言うことと、やることのちがいに矛盾を感じないからこそ、かえって平気で人の上に立って立派なことを言っていられるのかもしれない。 身近な例では、おれの乗っていた武蔵の士官たちもそうだった。武蔵が撃沈されたのち、おれたちは一カ月近くマニラ湾のコレヒドール島に缶詰め(武蔵の沈没が部外に洩れるのを恐れたための処置)になっていたが、そのとき副長をはじめ兵学校出の士官たちは、いつのまにかこつそり逃げるようにして全員飛行機で内地に帰ってしまった。あとに残った士官といえば、下級の特務士官二人と兵曹長が五人だけだった。     12.18
  
 父と登の三人で田圃と山の畑の麦さくを切る。麦はもう一寸ほどのびている。黄緑のいかにもやわらかそうな芽だちだが、これで厳しい冬の寒さに耐えていくのだと思うと、こっちまでなにか身のひきしまる思いがする。えんどうにしろ、そら豆にしろ、冬越しの作物には、どこか人間の心を打つものがある。   12.25

 富士山へ薪切りにいく。牛の手綱は往復兄の登が引いてくれるので、おれは道中馬力のあとにくっついて『近世経済思想史論』を読む。気が乗っているから歩き読みも苦にならない。それに相手が牛で歩くのもゆっくりだからちょうどよい。これが脚の速い馬だったらとてもこんなわけにはいくまい。 帰り、方々餅搗きの音が聞こえていたが、帰ってみるとうちでも父と母が土間に臼をすえて餅を鴻いていた。あと一臼残っていたので、それは登とおれが交代で搗いた。  12.28


 富士山に薪の切り出しにいく。いつものように見返しの坂を上りきったあたりで夜が明けた。明けがたの寒さはきつい。底冷えのする大気はピーンと堪りつめて、薬品のように骨のず小まで刺すようだ。富士は蒼味がちの空を背景に、まだとろとろとまどろんでいる。が、やがてその雪の頃きにだいだい色の曙光がななめに射しはじめる。すると、ひかりとかげにあざなわれた稜線がくっきりと浮きだしてくる。朝の山の変化は早い。陽がのぼるにつれて、頂きからしだいにやわらかく色づいて、いっときもすると、白銀の山肌は微燻をおびたように赤く染まる。おれはそんな富士を正面にみながら、馬力のあとについててくてくと冬枯れの裾野の遣をのぼっていく・・・。 
 今日もはんてんのふところに『貧乏物語』を入れていったが、往きも帰りも風と寒さで一頁も読めなかった。ナタを使ったせいか、手の甲も一日でひびだらけになってしまった。           1.7

 母と一日田圃の麦踏みをした。麦踏みは見た目には単調な仕事のようだが、母に言わせると、これにもコツがあるらしい。一歩ごとに足の裏の幅だけを前におくりながら、その度にひょいと曲げて、いっときその膝に体の重心をかけてやる。そうすれば霜柱でゆるんでいる根もとがかたくしまって麦のためにいいのだそうだ。年寄りたちがよく「麦踏みは足でなく腰で踏め」といっているのはそれを言うのだろう。なんでもなさそうな小さな百姓仕事にもそれぞれ奥義があるものだ、ということをあらためて感じさせられた。 
  ・・・いかにも寒らしい芯まで冷えこむ夜だ。せどの窓を通して、先ぼそりの富士の山稜が夜空をぬいて墨絵のようにくろぐろと聳えて見える。日中は白銀一色の山嶺も星明かりにかすんでわずかに白い。その上はこぼれ落ちるような満天の星だ。一粒一粒がぬれたように冴えてむらなく光っている。ツラギ夜襲戦のあの晩もちょうど今夜のようなきれいな星空で、艦が転舵するたびに頭上の星座も一枚の銀板のように激しく揺れ動いたものだった。あのときは艦橋の見張台で同年兵の松田と桑木の二人が死んだが、こんな星の夜は死んだ仲間のことがしきりと想われてならない。1.12   つづく 

追記 当時軍事費は国家予算の7~8割に達し、そのうち三菱や日立など民間企業に支払われた割合は「どんなに少なく見積もっても七割以下になることはない」(『昭和財政史4巻 臨時軍事費』1955 大蔵省 
 三菱が東条に莫大な献金をしたのは、このためである。


若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...