ホームズの敵モリアティはなぜ「教授」なのか / 戦争も株価も専門家に任せてはならない

専門家は自由な判断をしない
   シャーロックホームズは、バイオリンを嗜む科学者であり、探偵は余技である。対してモリアティは professorであり、依頼人のために悪の限りを尽くす存在として描かれる。日本ではモリアティを教授と訳しているが、中国語では専家と訳している(彼の表の顔は、大学お雇いの数学教授)。つまりモリアティは、悪で喰う専門家として描かれている。それで喰っているのだから、その悪の依頼主の意向がモリアティの判断の基準となる。
 アメリカでは、雇われた専門家が雇い主の意向に反してまで良心の自由を貫こうとすれば、雇い主は法的に証言を無効に出来る。雇い主に従う義務が専門家=  professorにはある。福島の原発事故で、原子力工学の専門家=professorたちが情けないほど東電の意向からはみ出なかったことを思い起こしたい。
  professorを無闇に有り難がるアメリカや日本に対して、イギリスでは professorは胡散臭い存在として認知される。BBCでも、Oxford大学の教授=professor=専門家たちが不正の虜に成り下がる様を遠慮無く描いている。

 ナチスドイツと孤軍奮闘でソビエと同盟して闘ったチャーチルは、戦争の専門家ではなかった。だからアメリカの外交や戦争の専門家のように利害優先の判断に引き摺られることはなかった。つまりナチスとの同盟で利益拡大を伺う専門家の判断から自由であった。
 その自由の根拠は、英国紳士や文化人の名誉とも誇りともする「教養」と「リベラルな文化」である。米国が、ナチスドイツと組むか英・ソと組むか、その帳簿上の収支を巡って投資や戦争の専門家たちが迷っていたとき、素人リベラリスト・チャーチルの判断は正しかったのである。しかし大戦末期の総選挙で、大戦勝利間近に迫った偉大な英雄チャーチルは意外にも大敗北した。
 英国民には戦争の専門家となったチャーチルはもはや必要なかった。戦争で経済的に疲弊していたにも拘わらず、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家を掲げた労働党を選んだのである。「揺りかごから墓場まで」の基になったビバレッジ報告そのものは、チャーチル率いる保守党によるものであった)

 英国の学者は自費で自宅に研究室や実験室を置き研究して、論文を書き上げ自費出版する伝統がある。出版社や業界の判断から、自己の自由な判断を守るためである。
 日本や米国の学者=professor=専門家は、名誉ある自由で良心的な判断より収入の極大化を求める。

 株価も政府や証券会社などに巣くう専門家が、権力の意向に従っていてはならないのであって。自由な素人の雑多な判断が総合されなければならない。

日本のシステムは、既に崩壊している

日本は医者だけでなく公務員数も驚くべき低水準
 政府は『緊急事態宣言」を出して、医療体制の崩壊を防ぐのだと言っている。大嘘である、日本もアメリカも医療制度はとっくに破綻していた。公立病院を統廃合し、ベッド総数を激減させコスト削減「行政法人」化、新しい災いに対応する力は既に無かった。医者の数も日本は、致命的に少ない(人口1000人あたり、日本は2.3人、英国2.8人、仏国3.1人、独国4.1人、米国2.6人)。にも関わらず日本医師会も厚生労働省も日本の医師数は、飽和状態にあると欺し続けてきたのである。
 「ロナ融資に中小企業殺到 手続き入り2カ月待ち」になっているのも、公務員を削減しすぎたためである。国家も自治体も行政能力をとっくに失っている。

 日銀が年金に手を付け、経済実態に政府が介入して見かけの株価維持などしてはならない。500兆円にもなんなんとするる企業内部保留金には緊急に手を付けねばならない。1兆1740億ドルの日本の米国債保有高は世界一である。いずれも、今を逃して使用する機会は無い。米軍基地の返還と合わせ取り組む絶好、そしておそらく絶後の機会である。

 兵庫で高校生が「GWまで休校」署名提出 、兵庫県はこれを受け入れた。長距離通学で満員電車に詰め込まれるのは、誰だってコロナ騒ぎが無くたって厭なものさ。これを機会に高校入試は廃止して、みんなが一番近い高校に通う制度=
小学区制に戻す絶好の機会ではないか。それで何ら差し支えはない、それは世界が証明している。ドイツもフランスも、フィンランドも高校入試はない。それでノーベル賞や天才芸術家が減ったりはしない。若者は膨大な時間と費用を取り返せる。母親はパートにでなくても済む。父も母も子どもとの団欒を満喫し、家庭内暴力の類いは激減する。これだけでも学力は日本中で伸びる。高校生の地域での活動も活発になり、老人や幼児との交流も盛んになる。困るのは塾資本
だけ。通勤も楽になる。
 大学も入学希望者は全員入学。だが進級試験は厳格にし、卒業出来る数は現在の定員の半分以下に絞り込む。転学も自由にする。卒業証書は大学名を除いた「学位証明」のみとするだけでよい。

 コロナウイルスは、少年たちの衣服にも付着する。感染を抑止したければ制服を止め、服装の洗濯は頻繁にやれば済む。元々制服は不潔で臭い。

 コロナ禍は、世界の生産に致命的障害をもたらす。嘗て愚かにも国内の小企業や不採算部門の優れた技術を捨てて、海外に生産拠点を移した。それをグローバル化を名付けて浮かれた。これから長く世界は、コロナ禍と同様な困難に直面する。行き来が出来ないのだから、原料も製品も国内の近辺から調達する必要がある。その為には、縮小再生産目指す必要がある。そうなれば仕事の総量は減少するから、一つの仕事を二人て分け合うワークシェアリングが不可欠だ。世界的規模での縮小再生産は、史上初となる。場合によっては車の生産などは数十分の一にして、同じ車をエンジンだけを改良し10年以上使うことにもなだろう。

 通勤距離は短いほど感染の可能性は減る。近距離通勤促進に、思い切った奨励措置も必要だし、公務員や教師の通勤距離最短化も課題となる。近い距離を歩いたり自転車で通えば、地域の小さな課題も見えてくる。莫大な通勤交通費が浮き、福祉や緑化に投入出来る。


 キューバは、ソビエトが崩壊したとき、空前絶後の経済危機に直面した。←クリック経済規模は30%にまで落ち込んだ。しかし、縮小再生産に挑み成功していることに学ぶべきである。

社会の大きさや複雑さの違いは、社会と人間のあり方を変える 国も自治体も小さいに限る

小さな共同体=患者自治会が可能にした桜並木
  お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね。                  全生園子ども舎最後の寮父・三木氏証言
      
  社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従って人間のあり方を変える。
 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。 
 (1888年日本には7万0314の自治体があったが、2019年現在1718にまで減少。フランスは3万8000ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である)。
  我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困に対する不寛容は、ここに根を探る必要がある。


 人口が増加すれば、こうした判断(曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える)は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を奪われ、多数雑多な厄介者の一人として一括処理されてしまう。彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、同調できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。リベラルな教養はその文化の中にある。
  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」では、企業も自治体も学校さえもが合併して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
 少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(彼は戦前の全生園の暴力的風紀取り締まり係。ポマードをつけたと言っては殴り、若者を殺したこともある)が居てはありえない。なぜならそこではあるべき人間像は上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという共同体の大きさが関わっている。

  「曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。互いの成長や変化を、目にして話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある 」

 大学の自治会や高校の学生自治会のあり方は、地域の自治会と共に、まさにその典型でなくてはならない。なぜなら若者は、未熟かつ激しやすく、自分の正当性の枠に籠もりがちだからである。
 僕は欧州やラテンアメリカの高校生が、国政の課題をめぐって、数十万規模の統一行動を組んで政府を譲歩させる光景を羨ましいと思う。環境系、社会党系、共産党系等の活動家が同じ校舎の中で、街頭の中でスクラムを組んでいる。思想上の討論や方針の違いも、ここでは集団の豊かさに転化する。ここでは、高校生と教師の関係は「連帯
であり「指導」ではない。
 日本の学生自治会のように20%そこそこの相対多数で執行部を独占し、自治会費争奪も絡んでゲバルトに走る事は無い。政党も60年代から、例えば第四インター系もトロツキストも他の少数左翼と共に共産党大会に参加し、肩を組んでインターナショナルを歌うのである。その逆も日常的に行われ、それ故理論や思想上の活発な遣り取りが出来る。
 自らは少数に過ぎないという冷めた自覚が、多様な豊かさと寛容性を通して団結を促すのだと知るべきである。

  現在の政権は、僅か20%そこそこの得票で議員の多数を獲得し、事実を曲げ審議も尽くさず多数の暴力支配に走る幼稚な姿の原型は、歪んだ学生自治にあったとも言える。選挙後の大衆の政治的無関心の説明をここに求めるのも、あながち間違いではない。                                                               『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊に加筆

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...