苦手には理由がある

 

 >>・・・グループ学習は、すべての生徒が楽しんでいると思っているのか。嫌がる生徒がいるかもしれないと思わずにグループ学習をしているんですか?と言いそうになって、黙りました。

 学校では成績が良く、楽しかっただろう経験値を持つ教員が、「そんなことは当たり前だろ」と様々に生徒が嫌がることを強制し、追い詰めていく。自分の権利は大きな声で言いながら、生徒の人権には黙してしまう。

 生徒と「授業」は好きなんだけど、学校は嫌いだな・・・<<   M先生からののメール

 僕は長距離走が苦痛だった。学校では断トツのビリ、ゴールする前から青ざめ頭痛がしてよろめいて倒れた。みんながランニングを終えた高揚感に浸っている時、僕はいつも吐き気を堪えていた。

 神経伝達物質ドパミンは必要なときだけ必要な量が放出される「快楽物質」、それが運動をコントロールしていることを知ったのは成人後のことだった。同時にパーキンソン病の名も医師から伝えられ不安が襲った。

 小学校の「集団体育」でみんなが夢中になって行進練習に酔い痴れている時、僕だけドパミンが分泌されていなかったのか。観察や工作だけが救いだった。

 トランプや花札や麻雀などのゲームに熱中出来ない。テニスやバトミントンは、試合を挑まれれば簡単に勝ったがすぐあきた。何であれ勝敗が絡むと冷めてしまう。やりたくないのだ。


 ドパミン分泌障害で青い顔して倒れている僕に、担任も友達も気付きはしなかった。快楽物質ドパミンとはそういうものだ。快楽物質まみれの帝国主義は、支配下大衆の苦難にはとんと気付かない。そもそも人間扱いしない。主体は常に支配する側にある。例外がない。彼ら帝国主義者は「他人の靴を履く」ことは思いもよらないのだ。

 メダルの快感に浸っている者たちが、「観戦者に勇気を与えたい」以外の言葉をなかなか言えないわけだ。

 企業や学校経営などの組織活動に熱心、ドパミン豊富な自信満々の人物にも遭遇したが、どうしても馴染めなかった。 裏声で絶叫しながら「総員玉砕」を命じた皇国将校も、快楽物質に酔い痴れていたに違いない。そうでなければ、部下を死地に追い込みながら勲章をぶら下げられはしない。

  幸い四谷二中校庭は、100m直線コースも取れなかった、

一歩校外に出れば新宿の繁華街、走るところはどこにもない。ドパミン分泌障害の僕には願ってもない天国で、体育授業は木陰に腰を下しての「理論」であった。走り回れる環境が整っていたら、僕は青い顔のまま息が絶えていたかも知れない。戦時中でもないのに二十歳まで生きられたか。少なくとも登校拒否にはなっていた。

 どうしても「苦手」な授業形態やテスト形式が、誰にもある。教師にもある。「ディベート」「学びの共同体」「グループ学習」やオンライン授業や偏差値的競争が「苦手」という声を、我儘と片付けていいか。耳を傾ける必要はないか。

 これら授業を提唱する側は、組織化された教師と業界、「苦手」で難儀しているのは孤立した子ども。勝負にならない。「苦手」には生理的・心理的理由、更には哲学的・思想的根拠が必ずある。いじめや体罰の克服はそこから始まる。


 山登りだけは僕もに向いていると気付いて、高校生以降よく登った。他人に調子を合わせ競う必要のないことが、僕の気持ちを楽にした。所要時間やコースも荷物の重さも自由に塩梅できる。大学でも職場でも暇があれば、夜行列車に乗った。     いつの間にか僕は山岳部顧問になっていた。頂上を極める事は二の次となったこの山岳部を、みんなは「温泉山岳会」と呼んで卒業後も山行に同行した。大概現役部員よりOBの方が遙に多かった。

 対戦しない球技、計算のない数学、記憶する必要のない歴史、走らない体育、協力して真実を発見する討論、間違いや失敗から始まる理科、先生に質問し宿題を出す授業、テスト廃止、生徒や保護者が選択する生活指導、大会のない部活、 検閲に走らないオンライン授業(知事に忖度する都教委は都立高校でonline 授業の録画を現場に命じている)


 

いつも使う易しい言葉を使おうとしない「専門家」は、何を隠そうとしているのか。

  知り合いの高校教師に、最近増加著しいコロナ関係の横文字を高校生がどの程度認知しているか聞いてもらった。  

「 ・・・生徒に聴いたら、ほとんど知りませんでした。そもそもニュースを見ないのですが、それにしても。私が言うと、反応する生徒もいるのですけれど。トリアージは、全滅で、聴いたことがない生徒がほとんどでした。・・・」

 業界の専門家たちは、どうして日常の易しい言葉を使おうとしないのか。自分を高みに置きたいのか。何かを隠そうとしているのか。自分の無能がバレるのが恐いか。恐れねばならぬのは伝えたい事が皆に伝わらないことではないのか。この世は専門家ばかりで構成されてはいない。  

 仮に若者が現在進行中の事態の本質を知りたくても、初めて耳にする専門家好みの「横文字」だらけではどうにもならない。年寄りが意味を掴みかねている間に、ことが進行して手遅れになることを恐れねばならない。 「トリアージ」「オーバーシュート」「ソーシャルディスタンス」とニュースが伝えても、すぐ忘れる。たとえ外国語だと見当がついても何語だかわからない。辞書がないから諦めてしまう。こうして日常の言語世界に、理解不能の穴が次々に空く。名刺だけではない、形容詞や動詞まで横文が横行する。ネット漬けの業界人に「バズる」と突然言われた子どもや老人は困る。意味が分からないままでは対話は成立しない。誤解したまま放置されれば困った事態を生じる。


 学校は官庁経由の横文字に無防備。「アジェンダ」「ペンディング」「ウィン・ウィン」「ワークショップ」・・・などは学校でも頻繁に様々な場面で使われるが、保護者や生徒に正しくに伝わっているとは思えない。狭い世界や同じ世代間で通じても、言葉の最も重要な機能は、世代や立場をこえて「文化を共有」することの筈。

 僅かな「高み」に自分だけを置けば得意面出来るが、言葉を共有できないのでは元も子もない。偏差値を高く揃えたり、メダルで校長室を飾る暇があったら、教科書や教材の横文字や校内の日常を再検討する必要がある。既に危険な崖っぷちに我々はいる。

 言葉を共有し互いに理解し批判し合う関係が社会をつくることを知らねばならない。対話の要らない旅先では「みんな温かい優しい人」だが、利害を調整して「公」を形成するためには、言葉を共有して時には喧嘩もしなければならない。教室は、地域社会は、自治体は、国家は旅先ではない。「和を以て尊しとなす」が上から権力的に押し付けられる社会は、常に弱者が我慢を強いられ言葉も文字も奪われている。対等に喧嘩可能な言葉を通して「公」が形成される社会が民主制である。

言葉の共有だけが平和交渉を可能にする

   




 情報化社会の標語だけは賑賑しいが、言葉が社会的共有財として機能していない。機器と関係機関だけが巨大化、空前の利益を隠せない。その中で行きかう単語は意味も繋がりも行方不明。対話不能な社会はこうしてつくられる。便利さに幻惑され、AI端末を通しての「戦争と格差拡大」を学校も家庭も隠蔽してはならない。


若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...