「STOP! 教え魔」 こんな妙な掲示がボウリング場に現れ、tv番組の話題にもなった。
今、ボウリング場の悩み№1は、客が客にコーチする『教え魔』の増殖。教えられるほうは迷惑、断りづらい。
これはボウリングに限らない、ゴルフ、ゲートボール、囲碁将棋、カラオケ、少年野球・サッカー。あらゆる趣味やスポーツの世界に「教え魔」=教えたがりは出現しはじめた。
パワハラや体罰の温床ともなる。「アドバイス」する行為は「教え魔」に「自分が上等という権力意識」を与えるからである。自分が上であることには拘るが、教える内容の真実性には関心がない、ひたすらに居丈高。こんなところに下士官根性は根を張る。
「芸能人」も、吉本興行や電通を通して「世間」に説教したがる。芸に磨きをかけるわけではない。見るに耐えない悪ふざけで「自分が上等という権力意識」に浸る得意顔が出来る。説教の中身は「芸能人の内輪話」から「政権」「皇室」ネタまでと広いが忖度は欠かせない。
芸能人と政治屋を兼て説教すれば一石二鳥と、倫理はそっちのけ。
(まともな国では、議員や立候補予定者やその家族を番組に出させはしない。放送の公平性が保てないからだ。この国では放送自体が公然たる権力行為となっている)
しかも教説の真実性や科学性を無視して傲慢に居直れば、世間は「カリスマ」性を見紛う。
あとがないほど切羽詰まっても、虐げられる者同士で助け合い闘う方向にはなかなか向かない。tv芸能人と説教を共有すれば「自分もまだ落ちぶれ切ってはいない」と慰めることも出来るのだろうか。そんな危うい気休めに縋らざるを得ないのは、safty netの底が抜けているからだ。
「上を向いたら きりがない 下を向いたら あとがない」状況で藁にも縋りたくなっても、そんな物はすぐ切れる。説教する電波芸人は虚像だから掴めもしない。その虚しさを穴埋めして、アジアを蔑視して止まない眼差しの傲慢さが立ち上がる。
日本には、戦前・戦中・戦後を貫く棒のようなものがある。
(「去年今年貫く棒の如きもの」虚子のこの句は、川端康成が「背骨を電流が流れたような衝撃を受けた」と評し有名になった。川端は「美しい日本」の伝統を貫くものを感じてそう言った。しかし僕は、小林多喜二を拷問で殺害し、三木清を獄死させた「内務省的権力」を「美しい日本」に感じて背骨が凍りつく。)棒のようなものは、教育現場から外交関係にまで及んでいるから遣り切れない。
路上で物陰に身を潜める警官は道交法違反行為は摘発するが、事前に何が違反かは教えない。決して「教え魔」にはならない、罰則金徴収自体が権力的だからだ。市民警察として必要なのは、安全であって内務官僚的傲慢さではない。
学校にも「教え魔」が満ちているか。「授業中喋るな、質問もするな、失礼だ」と命じる輩は少なくない。質問やお喋りを禁じる命令は「権力意識」そのもの。彼は授業が好きなわけではない。
教員が一斉に「教え魔」になったことがある。全国一斉学力テストが実施された時である。正解を指示しただけで授業に熱中したわけではない。ここに「希望」はない。行政の「権力意識」と「統制好き」が招いた喜劇であった。
教職関係者かたびたび引用される「教えるとは 希望を語ること 学ぶとは 誠実を胸にきざむこと」には続きがある。
(1943年11月、ナチスはストラスブール大学の教授、学生を銃殺、数百名を逮捕した)
「・・・
死刑執行人どもこそ罪人にかわるのだ
やつらに戦車と手先があろうと
やつらを追いだすのだ 今年こそ
武装を解除された英雄たちよ 武器をとれ
・・・」 ルイ・アラゴン