我々の教育システムに対する最もありふれた診断は、それにあるスローガンを与えて、その機能不全を耐えられるものにしようという一種の正当化にほかならない。もし教育的行為の多くがその目的を達成しておらず、しかもその当事者たちが反乱を起こすこともないというのが本当なら、〔大学教育に対する不満から生ずる〕呪いによってしか、また〔ある特定の〕イデオロギーによってしか告発されない理解不全の社会的、心理的機能を問い直してみるのも意味のないことではあるまい。
今日のフランスの大学の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない。だが、教育的関係が一つのシステムであるということを認識しょうとしないなら、現実の状態を変えることは不可能であろう。つまり、その担い手たち〔学生と教師〕の態度が機能的に相互に結合されている限りにおいて、また彼らの〔主体的〕態度が教育の物質的、制度的な条件との相互に因果的な関係を維持する限りにおいて、それはシステムとして (よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのだ。高等教育がかくも強固に革新に抵抗するのはなぜかと言えば、それは目に見える緊張と対立を越えて、おそらく高等教育がもたらす実際の安全と、この高等教育が生み出すフラストレーションとの均衡を保つように、高等教育が一つのシステムとして機能しているからである。要するに、教師と学生間の言語的理解不全の原因の研究は、高等教育がこのシステムの永続化に寄与している諸機能の研究と切り離しがたいのである。より一般的に言えば、システムにたいする〔主体的〕態度の変更を伴わないようなシステムの改革を目指すいかなるこころみも(また逆に、システムの改革を伴わない態度変更も)失敗に終わらざるを得ないということである。 ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店
これは、ブルデューが『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店 でフランスの高等教育に現れる困難について調査分析した論考である。これを日本の教育全般に読み替えてみる。
読み替えてみると、日本の教育危機のただならぬ広汎な広がりに驚く。例えば
「教師と学生は、教育が危機に瀕しており、この危機の責任は相手にだけあると決まり文句のようにくりかえしている」。
ブルデューは、「彼らは自分たちが抱いている不安の原因を全く理解していない」と苛立ちを隠していない。だが僕は「危機の責任は相手だけにある」と言い合う関係が成立するフランスの大学をうらやましく思う。なぜなら「不安の原因を全く理解していない」が「不安が、そこにあることは、共通の認識になっている」からである。
我が国では、例えば、偏差値による選別体制が成立して半世紀が流れたが、それが実に頭の痛い問題であることの共通理解はない。むしろ相互依存・共犯関係にある。子どもや親にとって「偏差値による選別」は不利な選択をしないためにメリットがあり、学校にとっては「劣った少年」を排除するメリットがある。少なくともそう考えて、まるで金縛りに遭ったように思考を停止している。思考停止のうちに現状を維持出来るリットは、偏差値体制の上位者と上位校ほど大きい。偏差値体制を廃棄するのではなく、偏差値だけを効率的に上げることを目指してしまう。授業内実や体制を充実させてそれをやり遂げるには時間も費用も要する。親や少年にとっても、興味あることに熱中することは危険が伴う。名門校の入試に失敗するかもしれないからだ。アインシュタインは日本には生まれないし、南方熊楠は英国に旅立たねばならなかった。
地道な努力より、目立つことが効果を生む社会である。例えば国会議員であれば、中野重治的調査演説活動に精魂費やすよりTVタレント化して風狂な言動に徹する方が票になるのだ。
計量化された票とは彼らにとってまさに「偏差値」なのだ。(このことを象徴する事件がおこった許りだ、 2019年2月国会の野党議員による統計不正を追及に、首相は「選挙5回勝ってる」と逆ギレヤジを飛ばしている。)数値だけが事柄を判断する材料とななってしまった。国民生活の実態や真実にこだわった話が理解されるには長い時間と辛抱がいるが、風狂な言動は即座にはじけて軽薄な効果を見せる。まさに悪貨は倦まず弛まず良貨を駆逐する。日本のトップ大学が、基礎研究に興味を失い枕を並べて国際的な評価を急激に下げていることでもそれは分かる。
偏差値体制を憎むべき立場にある親や少年たちは、自分や子どもの困難が何処に由来するか、それすら見いだせないでいる。丁度帝政ロシアの農奴が圧政の根源がツアーの独裁体制にあることを「血の日曜日」まで見いだせなかったように。
困難を抱えた少年たちを目の前に悩む「善意」の教師たちすら、問題の根源を見失っている。補習で偏差値を上げさえすれば問題は解決すると本気で考えているのだ。
「今日のフランスの大学の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない」
この文章の「フランスの大学」を「日本の学校」に置き換えてみよう。「「日本の学校」の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない」学級規模や学校規模は、日本の学校の質を下げ荒廃させるのに貢献してきた。低く保たれた質は、物質的困難が解消されるに伴い向上する筈だったが、少しも向上していない。管理主義的生活指導は、生徒の従順化を奇貨としてむしろ強化され、脱社会化と非政治化はその極みに達している。何故なのか。高校学園紛争を経験した教師たちは、「あんなことはまっぴらだ。二度と経験したくない」と顔を曇らせ、生徒たちは学校の偏差値が上がることで推薦入学が有利に運ぶことを希望した。見かけの秩序に依存する点で、教師と生徒は同盟関係にあったし、今もある。教育の内実の充実を伴わない偏差値だけの上昇は、学校に対する勤務評定として双方に支えられつつ機能してきたのである。
ブルデューは続ける。「その担い手たち〔学生と教師〕の態度が機能的に相互に結合されている限りにおいて、また彼らの〔主体的〕態度が教育の物質的、制度的な条件との相互に因果的な関係を維持する限りにおいて、それはシステムとして(よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのだ」
ただ(よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのではなく、悪化し続けるのだ。秩序は拡大し職員会議の自由な討論と採決は、教委と管理職の秩序に飲み込まれ、学校儀式は日の丸・君が代を通して国家秩序にまで拡大してしまった。
自衛隊の軍隊化が完成すれば、この秩序は一気に米国の世界秩序に飲み込まれることになる。
あたかも教育が、時代を押しとどめ逆行させる重しとして、機能しているかのようである。
「教育がかくも強固に革新に抵抗するのはなぜかと言えば、それは目に見える緊張と対立を越えて、おそらく高等教育がもたらす実際の安全と、この高等教育が生み出すフラストレーションとの均衡を保つように、高等教育が一つのシステムとして機能しているからである。・・・より一般的に言えば、システムにたいする態度の変更を伴わないようなシステムの改革を目指すいかなるこころみも失敗に終わらざるを得ないということである」
1968大学闘争時のことだ。「機動隊が来たら、『ピンク大のやつらを前に行かせろ、ピンク大は前へ』なんて叫んでいましたね」と言う不愉快な証言がある。blog『極鬼舎 2019/02/23』 ピンクとは桃山学院大学。同志社大全共闘元闘志の語るところによれば、関西の場合、作戦立案は京大学生、現場指揮は同志社大、前線の逮捕の恐れのある危険な場所には桃山学院大やそのほかの学生が割り当てられたという。東京にも似た構造があった。大学解体を絶叫しながら、選別の構造と論理は温存した。ナロードニキ真逆の構造が、大学紛争の中に構築されたのだ。それが権力の階層構造と瓜二つであったことに無神経な者たちがシステムの破壊を担えるわけはなかった。
戦後社会を規定し続ける偏差値による選抜と人事評価=勤務評定に基づく全システムの廃止を伴わないいかなる試みも失敗に終わる。