勤評と偏差値 Ⅱ

 オレオレ詐欺に邁進する「優秀な」若者があとを絶たないという。金持ちの老人を騙して何が悪いと言わんばかりに、真面目で特性の無い勤め人を装う「老人食い」。怪しい業界に若者が「身を投じる」のにまたがねばならぬ敷居は極めて低く、特段の決意を要しない。しかしそこから足を洗う「一歩」が難しい。進むのは簡単だが後戻りは出来ない仕組みが備わっている。 

 ドストエフスキーはラスコリニコフにこう言わせている。


 「ふむ・・・そうか・・・人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすそのいっさいを棒にふっているわけだ・・・こいつはまちがいなく公理だぞ・・・だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか」(江川卓訳『罪と罰』)

  狂人ラスコリニコフの戯言と捨て置くべきなのか。並外れた鋭さを持つ精神の警告として受け取るべきなのか。僕は後者を取る。我々は疲れ果てて、精神を顧みることさえないからだ。
 人は、新しい一歩を恐れている。例えば高校生にとって部活をやめるのは、気楽な「新しい」一歩ではなく「人生初めての」個人の決意を伴った「新しい一歩」、恐怖の一歩である。部活に加わるのは、風に柳がなびくような、決意とは無縁の集団的惰性に従っているに過ぎない。部活だけをやめることなのに、人間関係が根本から崩れてしまう恐怖。 調子に乗っていじめに加わるのは簡単だが、自分一人やめることには相当の決意を要する。いじめそのものをやめさせるには、更に大きな覚悟と時間を要する。
 僕は担任をしていた頃、部活を止める決意をした生徒たちの長い面倒な闘いを幾たびも見てきた。簡単なことに無駄な時間と力を浪費してしまう。簡単なことだ、何も変わらない、変えさせない、と言ってやりさえすれば、呪いが解けたように高校生は楽になる。入学式でも、PTAでも説明すれば良い。部活の顧問に「そんなことを言われては困る」と脅されても、職場で孤立しても言い続ければ良いのだ。面倒は担任が引き受ければよい。それさえやろうとしないのは何故なのだ。我々が自分自身に呪いをかけているからだ。「止めることはいつでも出来る。継続は力なり」と。

 まったく「だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか」 生徒に対する持ち物検査や服装頭髪検査は、集団の掟として始めるのには決意は要らないが、自分だけやらないことには格別の決意と新しい言葉を要する。

 重営倉で瀕死の状態となった兵を連隊長から、「処置せよ」といわれて、リンゲル液を持って川島中尉は手当てしようとする。ところが怒気を含んだ声を浴びせられたのだ。
  「何をするんだ貴様。処置せよ、と命令したんだ!」
  「ですから死なないように処置して、助けるのです」
  「貴様!上官の命令に反抗するのか!処置せよ」
 「ですから点滴で栄養補給の処置をしますっ! それとも『殺せ』の意味ですか?」

      (古川愛哲著『原爆投下は予告されていた』講談社刊)

 敗色迫る日本軍では、手足まといになる負傷兵や捕虜を殺害することを「処置」と呼んでいた。「殺せ」と命じれば、責任を問われる。正しい言葉を使うこと自体が「いっさいを棒にふ」ることになった。無難なのは「特性のない」兵士であり続けることであった。
 
 勤評が始まったとき、教員にはどんな選択肢があっただろうか。そもそもあの時期の教師たちに、選ぶという経験があっただろうか。戦争を始めたのも、無抵抗の農民を殺すのも、強姦するのも、自ら選んだことではない。死んだ戦友を食ったのも選択の結果ではない。そして教師になったのも主体的選択の結果ではない。食い詰めて街をさまよっている時に教員募集の貼り紙が目に入ったのだ、選択の余地はない。敗戦の現実を直視して、これからの教育では「国のために死ね」と言う必要は無い、平和と自由のために教職を選んだ者は、迷うことなく「勤評」に立ち向かった。
 公然と反対すること、それが最も危険であった。宇高申先生は闘いを組織し逮捕された。←click 無難なのは「特性のない」人々の一人になることであった。とはいえ、雇われ人としての特性からは逃げがたく、教委の意向に振り回される。

ナロードニキ

 ナロードニキ逮捕の瞬間を描いたイリヤ・レーピンの作品
 ロシア革命の口火を切ったナロードニキ運動に身を投じたのは、おおむね大学生であった。貴族、将軍、大地主も参加している。富商の家に生まれ、外国に遊学した者も少なくない。クロポトキンは公爵。「革命の祖母」エカテリーナ・プレシコフスカヤは、貴族の出。アレクサンドル二世の暗殺者ソフィア・ベロフスカヤの祖父は文部大臣、父はベテルプルグ総督。憲兵司令官メゼンツェフ将軍を刺殺したクラフチンスキーは、陸軍将校であった。美貌と勇敢とをもってテロリスト運動の花とうたわれ、22年間を要塞監獄に送ったヴェーラ・フィグネルは、カザン県の貴族の家に生まれ、その祖父はナポレオン戦争に勇名を馳せた将軍であった。彼女とともに軍隊事件に連坐した多くの陸海軍将校のうち、死刑に処せられた海軍中尉フォン・ストロンベルグは男爵であった。カラコーゾフは、巨万の財産を所有したにかかわらず数人の同志と一室に住み、おのおの1ヶ月10ルーブルを出ない生活を送り、その財産はナロードニキ運動に投じた。
 彼等は父母との家庭、社会的地位、快適な生活、世俗的な悦楽をふり捨て、「人民のなかへ行き、彼等から不正に奪ったものを彼等に返せ」と叫んで、労働者、徒弟、役場書記、小学校教師、産婆、看護婦の資格で町や村に入り込んだ。鍛冶屋や小農場をつくり、彼等は毎日、労働大衆と直綾に接して教育宣伝に従い、その啓蒙と福祉のために献身した。モスクワでは富裕な階級出身で、チューリッヒ大学に学んだ若い娘たちが、紡績工場に入って1日14時間から16時間も労働し、工場のバラックに住んで惨めな生活を送った。一方では、同情者または後援者の数も夥しい。例えば治安判事ヴオイナロスキーは約4万ルーブルの全財産をナロードニキ運動に寄付した。チェルニゴフ県の司法委員会議長で地主のコヴァリクは、ナロードニキを援助したために捕えられてシベリア流刑に処せられた。「党の聖人」と呼ばれたドミトリー・リゾグープは、1879年の8月にオデッサで処刑されるまでに、全財産40万ルーブルをナロードニキに投じている。
 彼等の運動は当初、極めて平和な教育運動であった。彼等は明白な具体的革命的綱領をもっていたのではなく、文盲の農民や労働者に読み書きを教え、初歩的な知識を与え、迷信的な治癒の奇蹟に頼っている病人に医療を施し、彼等の悲惨暗黒な境涯の緩和に直撃献することを目的とした。そして人民が自身のカで圧制から解放され、正しい自由と幸福とを獲得するのを、援助しょうと熱望していたのである。  (数字や人名は、主として荒畑寒村『ロシア革命運動の曙』によった)

 彼らがこうした過酷な犠牲を伴う運動に身を投じたのは何故か。農奴たち自身が解放が進まない理由を、ツァーの暴政に見出すのではなく、「愛する父なるツァー」の善政を妨げる官僚や貴族たちの私利私欲に帰していたからであった。ロシアの農民たちが、ツアーの暴虐極まりない実像を知るのは、この30年もあと1905 年「血の日曜日」であった。保守的青年僧侶に率いられ「神よ、ツアーを恵み給え」と平和裏に請願行進する群衆に、ツァー政府による無警告一斉射撃が浴びせられ死者500名負傷者3000名を数えた。これがロシア革命の烽火となる。


 ナロードニキの軍法会議に於ける陳述も伝えられている。

私を殺せ。だが、諸君は人民の自由と幸福、正義と廉直の勝利、そして友愛、平等、自由の理想がもはや空しい響きではなく、真の生活に具体化された時代が到来する私の信念を、決して殺せない。かかる未来のために、個人の生命を犠牲とすることこそ幸福なのである」 
 マリア・スピリドーノワは眼球が飛び出さんばかりに拷問を受け血にまみれ、喀血しながら叫んだと記録されている。

 「私はミーンが自由の先駆者を殺し、モスクワの街上に無辜の血を溢れさせたが故に、彼を射殺した。私たちをこのように戦わせるのは政府である。私たちを暗黒と窮乏と牢獄に閉じこめ、流刑と懲役に処し、数十人、数百人を絞殺、銃殺する権利を、誰が諸君に与えたか。諸君は力ずくでこの権利を握り、自身の法律で正当化し、僧侶がそれを神聖とした。だがいまや、諸君の非人道的な権利よりもはるかに公正な、新しい人民の権利が起っている。そして諸君はこの権利に、生死の戦いを宣言したのである
   ジナイーダ・コノブリャーニコワは、絞首台に上るや自ら絞索をしめ、踏み台を蹴飛ばし最期を迎えている。いずれも女性である。

勤評と偏差値 Ⅰ

ファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね
 「自分の考えを表明するということは、それに対し責任を取るということ」これは、必然的に個人の判断や決意を促す。判断も決意も言語化して初めて相手に通じ、相手からも学び合意を共有する。
 日本では、学校や組織の決まりや「掟」が、個人の「判断と決意」を代替して「忖度」を受け入れる素地をつくってしまう。忖度は、言語化を回避する。
 僕は明治生まれの祖父母や大叔母たちから、「人の顔色をみてものを言ってはいかんよ、思った通りを言いなさい。殴られても引き下がってはいけない」と繰り返し厳しく諭された。
 いじめっ子が現れれば、言葉で対決しなければならない。暴力で決着しようと目論んだ上級生のいじめっ子たちは、言葉での対決に一瞬たじろぎ、「お前と話すと頭が痛くなる」と言って退散するのであった。殴られたことは一度も無い。お陰で遊び仲間からも、学校や地域でも「ちょっと生意気・ひねくれ者」と思われたが、それが咎められるようになるのは、「勤評」以降である。
 

 「勤評」は、教師を権力に順化し、担任は生徒に従順と譲歩を強いて成績に拘るようになった。生活指導はこの風潮に乗り、官民双方から広がった。僕の記憶の中にある生活指導が目指したのは、民主的秩序ではなく組織の秩序に過ぎなかった。少年たちが、教師や上級生と言い争うことも増え、それは68年の学園紛争で頂点に達した。だが、一気に萎えてしまう。「個人の判断決意」という点で、日本の大学紛争は脆さを内包していたからである。それ故「紛争」後、大学闘争の戦士たちは一転して企業戦士となったのである。

    言葉が明晰性を失う事を、小説の神様は嫌った。それ故
小林多喜二の文学を高く評価しながら、文学が政治や思想の道具となる事を批判したのであった。
 1935年、志賀直哉はある対談でこう語っている。
今の世の中でファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね・・・大体この二三年間、急に日本はまるで日本でなくなったやうな気がするぢゃないか。僕は腹が立って、不愉快でたまらないんだ・・・世の中が実に暗い。外へ出るのも不愉快だ。言ひたいことが言へない世の中などというものは誰にとっても決して有難くないわけだ
   『文化集団』昭和10年11月号「志賀直哉氏の文学縦横談」
 

 多様な文化思想の人間が混じり合えば、そこでの言葉は明晰性を増さざるを得ない。ファシストとファシストに忖度する人間で世間が埋め尽くされてしまえば、言葉の明晰性は消えてしまう。
 それ故志賀直哉は『世界』の編集に敢えて、中野重治や宮本百合子を入れる提案をした。戦争の愚劣を言葉の明晰さが暴く事を、彼は願ったと僕は思う。最も明晰な言葉が日常日本語でないのは確かである。
 例えばフランスの教科書には、文章だけで構成された美しさがある。言語への自信と信頼があるからだ。対して日本の教科書は、字の書体や色や太さを変え、漫画を配置、カタカナ語を乱用してまるで歌舞伎町や渋谷駅前の乱雑さである。そうすることでしか、事柄を伝えられない構造を日本語は持っている。


 教室から明晰さが後退する切っ掛けは、勤評にあった。それは当時生徒であった僕の実感である。偏差値の概念自体は世界中にある。しかしそれが教育を翻弄し、教育がそれに依存しきっている国は日本だけである。その根源が「勤評」と拘わっていると僕は睨んでいる。 続く

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...