公安委員会公選制が維持されていたら、冤罪事件は続いただろうか。少なくとも冤罪をでっち上げた警官は、厳しい批判に曝され免職処分は間違いないだろう。
警察の筋書きでは爆弾は駐在所外から投げ込まれたことに なっていたが、ガラスは外側に飛び散っていた。 |
1952年の菅生事件(大分県菅生村)は、国家地方警察大分県本部が仕組んだ共産党弾圧のための自作自演駐在所爆破事件。
犯人として逮捕・起訴された5人の共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件である。当時巡査部長として捜査した警察官(市木春秋)は冤罪確定後も昇進を続け、警察大学校教授を経て警視長まで昇任している。こんなことは公選制自治体警察では在りえない。
菅生事件も松川事件も三鷹事件も袴田事件も志布志事件も・・・実に杜撰な工作で事件をでっちあげている。常識さえあれば、冤罪であることはすぐばれる。冤罪が絶えないのは、市民による直接の捜査関係者監視と処分がないからである。
公選制独立行政委員会の代わりに、政府が多用するのが「審議会」である。選挙で選ばれたと自称する政府が任命する「国民」の意志による機関ということになっているが幾重にも「間接」的で、国民の意志が直接に関与する事からは絶望的に遠い。当たり障りのない「学識経験者」が選ばれ、普通の労働者が選ばれることはない。
しかも「審議会」は自主的調査の機能がないから、権力の与える資料に基づいて話し合うに過ぎない。ここに民主的で自由な議論は成立しない。
こんな腑抜けたシステムの国家になってもう70年が経ったことに僕らは驚く必要がある。
議員の多くは、胸に細長い青いバッチを付けた「日本会議」の構成員。「審議会」構成員は「学識経験者」とはいうものの、その大半は大企業経営者。どう捻っても「公正」な議論は期待できない。1977年度の中教審では、有吉佐和子・久保田きみ・遠藤周作の三氏が官製議論に失望、辞任している。
公選制教育委員会の日常を窺わせる記述はないか。なかなか見つからない。
(青山教諭はハンセン病療養所多磨全生園初の派遣教師である。地元東村山町教育委員会から依頼を受けている。)
「青山信先生の前任地は、鹿児島県鹿屋。星塚敬愛園がある。受け持ちの家族にもハンセン病患者がいて、度々訪問していた。生徒を引率して慰問活動もしている。
東村山町の教育委員から話があった時は、親戚の反対と自身の子どもへの配慮から一旦は断る。だが、自ら医局を訪ね 詳しい説明を求めた後、改めて分教室を希望している。分教室着任の挨拶にその気持ちが書かれている。
「こちらへ来ることをはっきり決めました。・・・何も特別に悲壮な決心をして殉教的な気持ちで来たわけではありません。又日頃から子供たちの幸福を守る仕事をしたいと思っていましたから、自分の希望も叶えられたわけです。」
『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊
青山先生が多磨全生園文教室に赴任したのは 1953年。公選
制教委が活動していた時期である。教育委員自身が小学校を訪問し、青山先生を探し当て話をしている。任命制の今なら教委が官僚的に校長に命じても候補が見つからず、採用試験不合格者にあたるところである。
公選制であれば、教委委員の殆どが現場の職員会議や教室、地域の保護者の話を直接聞いて歩いた筈。
そうであれば、高校の屋上からの垂れ幕には「○×大会優勝」や「△◇オリンピック金メダル獲得」などの見苦しいものは姿を消す。 何故なら高校生はもはや学校宣伝の客体ではなく、自由な主体となるからである。
敗戦後の教育条件は、劣悪を極め尽した。それでも子供たちが明るく元気だったのは、公選制教委の下での教育の自由があったからだと思えてならない。