ラベル 患者教師とハンセン病 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 患者教師とハンセン病 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

父の深い闇

 懐かしい、この1年何度同じ趣旨の手紙を書いただろうか。書いては捨て、捨てては書いた。僕にとって故郷は全てが好ましく懐かしい。だが父には全てが疎ましかった。何故か。

 ことの始まりは、ふたつの偶然。一つは鹿児島県作成(1929年)の無癩県運動ガリ版刷り一覧を、全生園図書館で発見したこと。当時の鹿児島県南諸県郡S村大字帖は広いこともあって癩患者と判断された人も少なくなかった。僕の本籍もここにあった。府県は競うように「警察」権力を用い「患者狩り」を強行。癩は治療すべき病気であり、犯罪ではない。

 当時癩病院(療養所)は患者絶滅収容を掲げ、十年で日本全土から「癩」を一掃すると豪語した。絶滅隔離政策立案扇動者(「救癩」の父と呼ばれた光田健輔と渋沢栄一)は、伝染性の極めて弱い癩病をペスト並みの伝染病と偽り国民の恐怖を煽った。癩病そのもので死ぬことは滅多になく、怖いのは警察権力を使った患者取り締まりと絶滅隔離であった。日本政府が新一万円札の肖像に使おうと画策しているのがこの渋沢であり、相棒の光田には文化勲章が授与された。

 もう一つは熊本菊池恵楓園(ハンセン病療養所)患者自治会機関誌「菊池野」に「松原トメ」という筆名を発見した事だ。癩患者は収容時に戸籍や名前を捨てる事が多かった。世間の身内との縁を断ち切る為だ。恵楓園には患者による和歌のサークルがありアララギ派の土屋文明が、遠方より自費で指導に駆けつけ患者歌人を大いに励ましていたと言う。 松原はトメ婆さんが住んでいた集落の俗称。


 祖母は癩者狩りの犠牲者だったかも知れない。そう仮定することで漸く解ける謎が、父・直の周囲に幾つもある。

 「謎」=微かな疑惑は母の遺品整理で確信へ近づく。『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)はその解明の途上で生まれた研究。人はこの本を、「ハンセン病」の授業の実践記録考えるが、授業実践記録の類いは書いてない。書いたのは、日本の最も暗い闇と野間宏が言ったハンセン病療養所に収容された人々の生き様、抵抗、思想、歴史である。 

 母の書棚の奥は手紙や日記の束で埋まり、板や畳とともに虫に喰われていた。女子師範生徒の母と高等工業学生の父が交わした恋文も。


 この謎には苦難の色が付きまとう。それはドストエフスキー作品に劣らない。ドストエフスキー自身は、銃殺刑寸前で恩赦、シベリア流刑に苦しむ。だが作品群には宗教的愛が拡がり世界中が共感し涙する。父には共感・同情する世界が無い。残忍な視線と底知れぬ暗い闇だけがある。

 トメ婆さんは、絶滅隔離政策立案者=光田健輔の思惑の「十年」を超えて生きた。僕も父に連れられて何度か逢っている。その度父は、睡眠剤を飲ませ。僕は翌朝まで目が覚めなかった。

 「癩」の顔貌を孫に見せたくないトメ婆さんの願いは「せめて孫を見せて」だった。しかし5才の妹は一度も同行しなかった。妙な写真がある。表紙付きの立派な台紙に張られた入学記念写真。それに五才の妹も着飾って写っている。失業続きで貧乏のどん底にあった父がそんな費用を捻出する余裕はない。ともあれ婆さんは写真でしか妹を見ていない。癩=ハンセン病は学齢前までは感染確率が高いと信じられていた。

 ランドセル・学帽・学童服姿で恵楓園付近に遊んだ日の朝、父は妙なことを言った。「今日は小学校入学の練習だ、同じ格好で行くぞ」


 貧乏士族父方祖父の家計も逼迫していた。子沢山の祖父には旧制中学と女学校の学費負担はとてつもなく大きかった。父には学費の要らない高等師範を経て文理大学に進むしかない。学費の嵩む旧制高等工業に進学したのは、「癩病院」入りを頑強に拒む婆さんのためであったとしか考えられない。婆さんが父の同行を言い張って泣いたのかも知れない。トメ婆さんは大層な別嬪だったらしく、二人の娘も美しかった。父も美しい母が自慢で、祖母に課せられた力仕事は悉く父が引き受けた。

 h叔母も事情を承知の上で、高女卒後の銀行勤めの給金全額を父に送金している。

 高等工業学校卒は、当時勃興しつつあった中産階級としての技師を約束していた。父は、朝鮮総督府鉄道局勤めの軍属となる。留守中の見舞いは、母と大叔母に託された。都城から熊本までは肥薩線経由の夜行列車があった。

 トメ婆さんは戦争も生き永らえた。父は朝鮮からの引き上げ後も婆さんの見舞いは約束だ、鉄研や自治体課長職の誘いも断り、貧乏暮らしが続く。

 やがて婆さんの死期が近づくと熊本に移るが、赤貧洗うが如しの生活。おかげで母は師範学校在校時以来の結核を再発、吐血を繰り返す。当時も結核は、癩より遙かに伝染性の強い「不治の病」であったが入院も出来ない。結核病床はどこも満杯。 

 窮乏は限界を超え、差し押さえのたびに母は泣いた。父はやむを得ず、北九州若松の洞海湾を跨ぐ「東洋一」の若戸大橋プロジェクトに出稼ぎ。父はトラス構造の応力計算の近似式特許を持っていた。それで出稼ぎに誘われている。


 トメ婆さんの遺骨は僕が胸に抱え膝にのせて、夜行列車で故郷に運んだ。「大事な人の骨」と父に言われたことを覚えている。この時の父は肥薩線矢岳越えの直線区間で、列車の最後部に佇み、遠ざかる線路に今にも飛び込みそうだった。僕は父の手を必死に引っ張った。

 その後の父は、友人と設計事務所を東京・四谷に開く。土木学会理事として、東洋一、日本一の土木事業に文字通り狂ったようにのめり込む。狂えば唯我独尊、周りが歪む。

 熊本から一時帰郷する寸前、『七分の四』という不思議なタイトルの映画を見た。父は頻りにタイトルの含意を僕に問うた。しばらく考えて「半分より少しいい」と言うと「そうか、判るか」と何度も何度も頷いた。

 父は「恵楓園」に通った若き日々を、人生の「七分の三」として闇に封じ込める決意を固めたのだと思う。何度も僕の頭を撫でた。小学三年になる寸前だった。父の人生は暗い闇の「七分の三」と死に物狂いの「七分の四」に歪んで裂けた。

 長い話だ。父とトメ婆さんは、爺さんにも故郷にも見捨てられる。長男であるにも関わらず父は家督相続から外され、トメ婆さんの後妻の長男の叔父に付け替えられていた。歳は一回りも離れている、届け出を忘れたとは言い難い。祖父も自死を考える程苦悩したはずだ。しかし残される子どもの行く末を考えると、ほかの選択肢はない。

 絶滅隔離は残虐。光田健輔と渋沢栄一の極悪非道は、いくら非難してもし切れない。誰も罰を受けていない。 

 数学者でもあった父が、技術士・土木学会理事として成功後も決して故郷に帰ることはなかったのはそのためであった。数々の栄誉や地位と高収入転職の類いも全て断り続けた。 

 父は苦悩を誰にも語れない、悪酔いするほど呑んで周囲に迷惑を顧みない。毎晩泥酔。しかし叔父たちが東京に来たときには一滴も呑まなかった、酔えば苦難を語るおそれは自覚していた。

 たくさんの逸話を省いたが、もう一つ。熊本の夏は耐えがたく蒸し暑い。父はどんなに暑くとも、ステテコの上下を脱がなかった、たとえ胸を開けても背中は決して見せなかった。父の背中には癩の斑紋があったのかも知れない。患者狩り以来、偽り続けていたのか。父には頭痛や歯痛もなかった、だから殴られても殴っても「痛み」を理解せず、酔うと無闇に人を叩く癖があった。

 僕の膝には70年を経てなおくっきり残る傷跡がある。御代志停車場(菊池恵楓園正面の熊本電気鉄道駅)の資材置き場で遊んでいるうちに転倒、工事用の有刺鉄線で大怪我、気絶した。気付いたのは帰宅後の翌朝・・・。


  どうだ、もうこれ以上知りたくはないだろう。爺さんの立場からも苦難に満ちている筈だ。

 語れば300頁以上の本・前述の『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)を超えて一月以上を要する。  妻は興味深いと夜も読み耽り、ながく沈黙した。多分@ちゃんの住む地域の図書館にもこの本はある。

   ここでは「ハンセン病」と言わず「癩」を使った。歴史的差別性を回避した言葉では、日本で最も暗い闇は表現できないからだ。 

 追記

 日本の医学界が如何に国際標準から遅れ逸脱していたか、ここで触れておきたい。   1897年に開催された第一回国際らい会議では、癩病を伝染病と確認したが、恐ろしいとの表現はなくノルウェー方式が注目された。衛生管理を徹底したうえでの自宅隔離と、資力のない放浪患者に対しては街中(僻地では無い)の国立病院への強制隔離して患者の病状が改善すれば家に帰すという二本立てであった。生涯にわたる隔離ではない。ただノルウェーでは対策が本格化した時点で、患者数は既に自然減少に転じていた。

 日本の隔離はisolationではなくsegregation(追放)であることがわかる。何故ならisolationは患者の社会関係は維持されて、復帰を前提としているからである。 

 1909年の第二回国際らい会議では、「絶対隔離」は必要ではないことを明らかにして、1923年第三回国際らい会議では強制隔離の非人間性を指摘、隔離は伝染性患者に限ることを確認。

 東京で開かれた1958年第七回国際らい会議は、強制隔離政策をとる開催国日本にその政策を全面的に破棄するよう勧告している。

  日本らい学会が追い詰められ自己批判したのは、戦後も1995年の4月22日 ( 正式名称は「「らい予防法」についての日本らい学会の見解」) は 日本の医学会としては異例の謝罪声明。この中でこう述べている。

「 ・・・らい患者、・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」(癩予防法・1931年)も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・

 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない」

 余りに遅い謝罪。    

 「日本らい学会」予防法検討委員会委員長としてこの「自己批判」起草に関わった国立ハンセン病資料館長の成田稔医師は、更に断言している。                                    

 はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・・

・・・はっきりいえば、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・。                                                        

 お上公認の嘘で病気への偏見を煽り、患者を強制収容して強制労働を課し、絶滅を待ったのである。「見殺し」ではなく緩慢なる殺人ではないか。にもかかわらず医師免許剥奪でさえ聞いたことがない。

 隔離は死亡率の高い急性感染症だけに適用される。感染症の隔離には、相対隔離と絶対隔離がある。相対とは条件付き、絶対とは条件なしということである。前者が例えば、自宅隔離を認めたり、治癒後は退院を認めたり、家族生活や家族による看病を容認するのに対して、後者は本人の意志に係わらず例外なく終生隔離する。

 1897年には23.660人を数えた患者数は、2011年には2275人、平均年齢は約82才。そのほとんどはハンセン病そのものは治癒したいわば元患者で療養所に入所している人である。結核の治療を終えた人を元結核患者とは呼ばない。ハンセン病に限ってこうした呼び方がされる事にハンセン病の複雑な悲劇性が見える。

    らい予防法は医師に対して患者の届出を義務付け、届出を受けた知事は療養所への入所を勧奨し、従わなければ入所を命ずる事になっていた。病人が入るのだから入院と言う筈だが、多くがそれを収容と呼んだ。

 収容は剥き出しの暴力を伴った、1922年集落を警察が焼き討ちした別府的ヶ浜事件、1940年警官や療養所の職員220名が患者157人を襲撃し一斉強制収容した熊本本妙寺事件 注 が知られている。何れもハンセン病者・貧しい農民などが混住する集落での出来事であった。的ヶ浜事件の放火犯は警察官であったが不起訴処分。 

 患者収容後の家屋は、全身白ずくめの男たちがあたり一面真っ白になるほど徹底的に消毒、打ち壊し焼き払うこともあった。愛用の衣服・日用品・学用品にも近隣の人びとが見守る中で火をかけ、移動中は白ずくめの男が患者の歩いた後を消毒して回った。 消毒と収容さえも、絶好の「啓発」の機会として利用したのである。

 医師・看護師は白衣の装束に帽子、目だけ出した大きなマスクをし、履物は雨降り用の高下駄にはきかえて、その通路から患者地区に入り・・・高下駄のまま病室に入った。もし病舎に急患が出たときは、医師は看護師に注射箱をもたせて応診に来るが、玄関から中にはけっして入らない。患者が玄関まで運び出され、そこで診察し注射を打つのだ。患者を病室に入れる場合は、同じ舎の者たちが担架で病室に運ぶのである。病棟の担当者は患者付添夫で、医師・看護婦はけっして病室に関わることはない。見学者も土足のまま病棟や不自由者棟を見学するのである。・・・そして、一度収容所を見学した者は、らいがいかに恐ろしい伝染病であるかを体験するのである。                    松木 信   

 こうして出来上がった世界は、まさに筆舌に尽くせない地獄である。収容者の証言を引用する。

 「・・・保健所の人が来て検査し菌が出ていないからと言われたが保健所員は白衣を着て来た。町内の人が見ている。つらかった。母が一緒に死のうかと言ったことがあった。「海に入って死のうか」と。「こわい」を通り越していた。(1947 年入所 女性)」                              

 「小学校卒業して 3月23日、日赤で調べてもらい、わかったとたん病院中を消毒した。母親から裏の木で首を吊ってくれないかと言われた。親には、保健所から「ハンセン病の子どもは大和民族でも優秀でもない、殺しなさい、自殺させなさい、療養所に行くと都合わるいでしょ」とはっきり言われた。(1953 年 註 入所 男性) 」

  どちらも戦後の証言である。後者は新憲法下公務員の発言。「こわい」を通り越した向こう側にあるのは、世間の残虐な眼差し。言いようのない「恐怖」に襲われる。

  だが、「死のうか」と言った女性が若かった頃の農山魚村の窮乏を知らなければ、「死のうか」の背景を共感的に理解した事にはならないだろう。ハンセン病発症は貧困と強い繋がりがある。小作料の金納化、農産物価の変動、農業労働の機械化、「文明国化」「一等国化」のことある毎に、貧者はその日の食い代に窮して生死の境にあった。「死のうか」は日常だった。不幸も悲惨も偏在してありふれた光景となる。それが怖いのである。 二つの証言はいずれも『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 (別冊) ハンセン病問題に関する被害実態調査報告』から抜粋した。  山ほどの証言があるが、ここでは多くを引用しない。

 これが、トメ婆さんが執拗に癩病院収容を拒み続けた背景だ。収容が如何に膨大な犯罪群であるか、誰一人として刑事罰を受けていない。断っておくが、癩病に関する政策に起因する犯罪は、これだけではない。 

教えたことを裏切らないという誠実性

  戦中の沖縄愛楽園に県警本部長一行が厳めしくやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。

 その時、患者の一人が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者が沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」

 と神をも畏れぬ大胆極まりない批判をした。

 忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎに

治療はなかったが解剖は承諾なしでも行われた
なった。彼は師範学校出の若い教員であつたが、職務半ばでハンセン病を発病して収容されたのである。

 同じように一家の働き手を徴兵で失った家族には、僅かながら援助があったのを、この元教師は捉えていた。ハンセン病患者は犯罪者ではないにもかかわらず、収入は断たれ家族は路頭に迷うことになった。

 「教えたことを裏切らない」誠実性はこういうことである。「重監房」送りになっても不思議ではなかった。(光田健輔が虚構の絶対隔離の絶対安寧のために希求したのが、反抗者を死に至らしめる「重監房」=特別病室であった。全国から所長や職員の意に沿わない患者が送りこまれた草津の栗生楽泉園「特別病室」は、冬には零下18度暖房設備はあろうはずもなく、食事は握りめし一日2個と、湯のみ2杯の水。長期間の監禁により1947年(昭和22年)に廃止までの9年間で、延べ93名の患者が収監うち23名が死亡している。)

 この重監房建設には、渋沢栄一の三井報恩会からの寄付があった。繰り返す、渋沢栄一は一万円札に相応しくない。

   この若い元教師のその後は分かっていない。


 

個人の尊厳を奪う「がんばれ!ニッポン!全員団結」


粗末な身なりのホーチミンにこそ
大国を圧倒した個人の尊厳がある 
 日本オリンピック委員会は、「がんばれ!ニッポン!全員団結プロジェクト」というキャンペーンを張っている。
団結。それは人々が力を合わせ、強く結びつくこと。みんなが待ち望んだ、東京2020オリンピック。・・・
みんなで手をつなげばきっと、ものすごい力が生まれる。心をひとつに、全員団結!さあ、いくぞ。がんばれ!ニッポン!
 ホーチミンは、団結を語るに最も相応しく生きた人間である。粗末な身なりの小さな痩せ男が、世界最大の帝国を相手に人々の尊厳を守ったのだ。民族意識と階級意識で国民を組織して戦い続けた。

 JOCが、「全員」団結を言うなら、少なくとも「全員マイナス1(1は個人としての僕)」にして貰おう。僕は「全員」などと言うモノに加わることを、一度も了承していない。
 民族意識も階級意識も忘れさせる五輪騒ぎに既になっている。オリンピック憲章ですら、五輪は〈個人種目もしくは団体種目での競技者間の競争であり、国家間の競争ではない〉と釘を刺している。

 賛美と興奮を煽る光景に既視感がある。絶滅収容所時代のハンセン病療養所を見事にルポした記録がある。
  「取り込む(搾取)事にかけては名人の連中も、本職の医者の方はからっきり駄目で全くのタケノコ(藪医者にも遠く及ばない)だ、つい先日も呼吸が 一寸苦るしいと言ふ女を、本人が嫌がるのを無理に手術をすれば楽になると言って手術室に引張り込み、到々外科技術が拙いためにやり損ない、三十分前まではピンピンして居た奴を×して仕舞った 其の他にもこれと同じ様な事は未だくいくらでもあるが、 先づこれ位いでやめるとして、兎に角こゝの職員は愛生園の内情が外部にもれる事を大変に恐れる、それで手紙等は一々御丁寧に開封して見て、少しでも愛生園に都合の悪るい事が 書かれてあると没収だし、面会人が来ても、立会人附で面会させる程の取締ぶりだ 読書なぞにして見ても、糞面白くもない宗教やキング其の他ありふれた雑誌のほかは一切読まさない、階級的な本を読ませるとストライキを起されると困ると吐かして、いくら外部から送って来ても本人に渡さないで没収だ 斯くの如くにして、其の待遇は囚人と何等異る所はない、 だからこそ愛生園の生活に耐へかねて逃走を企てる者、自殺をする者が次から次へと出て来る、冬の寒い真最中に夜海を泳いで逃走して行くのだが、其の殆ど全部の者は失敗して捕まって帰へって来る すると直ちにブタ箱入りだ、そのブタ箱も外部ではめったに見られぬ頑丈なものだ 勿論捕まって帰って来た者にはテロが加へられる事はきまりきって居る  当地では未だ殺された者はないが、東京の全生病院では激しいゴオモンにかけてナグリ殺した事実さへある  果してこれが楽園であると言へるだろうか、職員の言ふ如く 本当の楽園であるならば、冬の寒い真最中に海を泳いで、しかも捕まって帰へればブタ箱入りとテロの加へられる事を承知で逃走して行く者は一人も居ない 愛生園こそは明かに牢獄だ 俺達はこゝでは人間としての取扱は受けては居らない、一個の品物として、ドレイとしての取扱ひしか受けては居ないのだ」 
  書いたのは吉川四郎。
    吉川四郎は、ハンセン病療養所愛生園最初の患者教師。旧制専門学校中退後、労働運動や政党で活動した異色の患者である。ルポルタージュは園が原稿の段階で押収、世間から隠された。
 世界大恐慌の煽りで、経済は一気に悪化、右翼テロと陸軍の謀略が横行してファッショ化する中、全員隔離によってハンセン病を10年で絶滅すると豪語して内務省が「らいの根絶策」策定。1931年「癩予防法」及び「懲戒検束規定」が帝国議会を通過、隔離対象が浮浪患者だけではなくなり、先生も収容の網に捕えられた。

  この生き地獄を賛美した者がある。
  「療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。 療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの24種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が要る。 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。註 そして1050人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園とした・・・。 全治者を退院せしめよの声は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。・・・ 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである」書いたのは、全生病院青年医師時代の林文雄。

 アンパン一つが3銭の時代に「1日3銭、多くて10銭で全力を注いで働」かせて、其所を天国と言う医者。重い炭俵を担いで氷雪に凍てつく断崖を血の跡を残しながら登るのも、大きな石を運び道普請するのも患者作業だった。神経が麻痺した患者は、例えば釘を踏み抜いて肉体の限度を越えても気付くことなく労働に精を出した。こうして過酷な強制労働は、患者の命を縮めた。
 1960年、不自由舎(不自由な患者の病舎)での患者付添が職員看護に切り替わる。あまりの激務に過労とノイローゼで倒れる看護婦が続出し週刊誌沙汰になる。「重症者に日夜侍して大小便の世話」をするのが如何に過酷か、この時職員は初めて知る。患者による患者付添の過労は美しき愛の働き、職員看護のそれは過酷。ここに横たわる人間観・世界観を、吉川四郎の『牢獄か楽園か』という題名が捉えている。林は「コンナコーフクナモノハナシ」と書き残し、患者の血と涙で建設された大島青松園の豪華な官舎で、家族の見守る中最後を迎えた。

 ジョージ・オーウェル「一九八四年」の主人公は「真理省」役人ウィンストン・スミス。仕事は、日々歴史記録の改竄作業を行うこと。たとえば強制収容所を「歓喜キャンプ」と言い換えた。その目的は国民の思考を止めることであった。
  林文夫は文書改竄に止まらず、小さな国としてのハンセン病療養所国民の思考を止めたのである。

  JOCのキャンペーンは、国民の思考を止め,3兆円かけて国家賛美の馬鹿騒ぎに浮かれさせることである。個人の尊厳を忘却させる狙いがある。
 林文夫が賛美した現象の実態は、吉川四郎のルポが当局を激怒させたように厳然として存在している。
    吉川先生はたちまち療養所から追放された。絶対隔離の発案者にして療養所の独裁者光田健輔園長の説くところに依れば、ハンセン病は患者を唯一の感染源とする猛毒性の菌によるペスト並みの怖い病気である。それ故、全ての患者が死に絶えるまで療養所に隔離しなければならない。一見治ったように見えても、死んで解剖して菌が全くないことを確認するまでは、治ったと言えない。絶対隔離の仕組を作った救癩の父がそう言うのだから追放など出来ない筈。その光田が吉川先生に追放を言い渡したのである。
               『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊 から引用加筆した。

子ども手当の起源は、戦時下の「奇妙な国」にある Ⅱ 松本馨の闘い

炎天でも木枯らしでも子どもは動員され、命を縮めた
 承前
 夜、私は子供達の生い立ちや、家庭の様子を聞いた。・・・聞きながら思わず泣いてしまった。子供も、私に聞かれると、元気で騒いでいたのが急に萎れて目に涙を一杯溜めて語るが、そのうち泣きだしてしまった。
  S 父はSが七つの時発病した。母はSを連れて父の発病と同時に実家に逃げた。Sは昨年の春発病・・・重症の父と(療養所で)対面・・・
  Y Yの母は長女を連れて、Yが五つの時、(父と姉と弟を置いて)家出してしまった。「・・・僕はその晩、ちっちゃな灯が遠くの方へ消えて行くのだけがわかった」・・・「お父さん、今思うとこの病気だったんだね。・・・死ぬ時お父さんとっても苦しんだよ」(Yたちは叔父に引取られるが酷く叩かれた)・・・
  F 父は職人、母はFと共に収容されたが病室にて発狂し監禁されている・・・父は乳飲み子と五歳の女子に七歳の男の子を抱えて働く事も出来ず食に困る由
  T 父は(全生園の不自由舎で)療養中。母は・・・人の噂では家出せしと・・・
  U 父は昨年Uと共に収容。母は洋裁職にて弟妹二人を養い生計を立てている                  
  M 父は一昨年の春M収容と同時に自殺す、と同時に母は家を追われ転々と食に追われている
  V 父はVの記憶になし。母は兄妹二人とともに退院を待っている
   松本義男(松本馨の筆名の一つ) 「病める子等」全生園文芸誌『山桜』1948年 4.5月号 p12~15   少年の名前は記号に置き変えた。  「病める子等」は二回続いたが未完のまま。若き松本の奮闘ぶりが描かれている。  
 
 松本馨は23歳で少年舎の寮父になった。この文章は子どもたちとの生活を、戦後日記風にまとめた記録の一部である。少年は11から13歳。その生い立ちを彼は「冬の日のそれよりも弱い日陰」と形容している。
 療養所には子どもの作文が数多く残されて胸を打つが、松本が残した子供たちの生育歴等とともに知っておきたいのは、幾重にも重なる表現規制である。治安維持法などに基づく内務省の検閲、懲戒検束権に基づく療養所の検閲の二つが先ずあった。
療養所ごとに、検閲官が存在した。 
 「この療養所にはコンクリートの塀がある」とさえ書けなかったと『全患協闘争史』にある。「塀がある」と書くことはそれを撤去する運動につながると見做されたからである。 さらに病友という仲間の視線は死ぬまで続いて筆を鈍らせる。学校には成績という仕掛けがあって、「治療して早く社会へ出たい」などと書けば、褒められはしなかった。
 

 自分の作文・・・今回(数十年ぶりに)改めて読んだら、辛いとかちっとも書いてなくてびっくりしたよ。・・・作文にかけないこともあった。子供心にこういうこと言ってはいけない、やってはいけないということがある程度わかってくるから、それはみんな気をつけていたと思う。必要以上に気を使ってしまうんじゃないかね・・・ 鈴木トミ 『ハンセン病文学全集』 皓星社 第六回配本月報  
 子どもが書かなかったこと、氷上恵介や松本馨の記述2も漏れた事実に想像を及ぼさねばならない。                   

 子どもたちは、少年少女団に組織される。下着にも不自由するというのに、国防色のお仕着せ・靴下・靴だけは救癩団体が支給。引換に皇族や名士が来る度に並ばされ、頭を垂れ、万歳する。木枯らしでも炎天下でも同じ団服の下は、ボロボロの下着。神経を傷めて立つのも大変な足で、長時間整列。皇居遥拝は毎月、教練は月に二度あった。

 (沖縄戦下の愛楽園の子どもたちは愛楽突撃隊に組織され、日本精神徹底と戦意高揚の掛け声で、防空壕堀と修理、開拓や草刈りなど重労働に狩りだされた。)
 院長や職員は、団服に身を整えた、規律正しい少年少女団員たちを、よく管理され平和な全生病院のシンボルとして、ショーウインドウの人形として外来者に誇らしげに見せつけたが、それらの少年少女たちが「病気を持つ子供」だということを本当に考えたことがあっただろうか。            多磨全生園患者自治会編 『倶会一処』 p112 

 行事から逃げる知恵も術もない従順な少年たちは、体を痛めて青年になる前に死んだという。

 おまけに、式や行事の「主催」だけは少年団というイカサマもあった。「主催」とは、お国と療養所のため自らすすんで叱られ蔑まれ、病気を悪化させ、一刻も早く死んで国土浄化のお役に立つことに他ならない。 
 「少年団など馬鹿にし、ずるけてのらりくらりしていた、札つきの「わる」の少年たちの方が今に生きしのぎ、生き残っている」と『倶会一処』は続けている。
 ハンセン病療養所では、子どもの親権者は園長と定められていた。その園長官舎一棟建設に、療養所全体の家屋建築予算の一割が使われた。親権者は「聖者」と讃えられ、豪勢な住宅の温かく柔らかな布団に包まり、「日の丸の汚点」と罵られ病状悪化に苦しむ子どもは、重く湿った煎餅布団で寂しく死を迎える。この非対称的現実こそが絶滅隔離の目指すところであった。

 月一円の子ども手当は、こうした情勢下に生まれたを忘れてはならない。同時に要求して生まれた「子ども舎」は子どもだけの時間と空間をもたらした。それが「子どもの発見」である。
 子どもの世界の確立は、青年や大人の世界の確立でもある。

 「私は子どもたちとの間に空間を置かなければならないと感じるようになった。その空間は子どもたちの遊び場所である。遊びには冒険が伴う。冒険の伴わない遊びは大人の考えるもので、遊びとは違う。遊びには冒険が伴い、危険が伴う。その中で子どもたちは連帯感、責任や義務、友情を学ぶのである」    松木信(松本馨)『生まれたのは何のために』 教文館  p61

 子ども専用の空間を作れば、大人の空間も出来る。文学青年や患者教師たちが集まり、園や全生常会(療養所内戦時体制を支えた患者組織)への不満なども語り合う。松本馨自身も小説を書き、子どもたちに読んで聞かせた。処々に子ども自身がモデルとなって登場、皆熱心に聞いた。この中に谺雄二少年もいて、この経験が彼を積極的に園内の図書館に向かわせ文学青年に成長させている。自立は危険とともに、新しい関係と視野を創造するのである。

 これは、放課後の自由であるべき時空を「部活」と生活指導に占拠された現在の少年少女たちと教師についても、示唆を与えている。

点字を読むのも下駄を探るのも舌によった
 生徒も教師も極限までゆとりを奪われ、身近な世界を疑うことも、自治能力を養うことも出来ない。そしてますます競争に明け暮れ、未来の不安定な生活を準備してしまう。
 松本馨は
後にハンセン病の症状の一つが悪化両足を切断。1950年には妻を亡くし視力も失い、「石であって人ではない」十年を経験する。その苦難を経て患者自治会長や全患協会長を務め、予防法体制と徹底的に闘い続けた。指の感覚も無くなり、点字を読むのも下駄を探るのも舌を使う生活であった。にもかかわらず厚生省との交渉では、図面や文書の細部まで頭に入れて、官僚を論理的に追い詰め驚かせている。

参考 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊

子ども手当の起源は、戦時下の「奇妙な国」にある / 氷上恵介と松本馨

子どもにも患者作業 広報用写真だから何もかもが新品だ
 野間宏が日本の最も暗い闇と呼んだハンセン病療養所で、日本最初の子ども手当が始まったことを君は知っているか。それは日米開戦の年であった。戦争の狂気に日本中が飲み込まれていた時期の奇跡でもある。僕は奇跡という言葉を好きになれないが、日本の子ども手当が「奇妙な国」で昭和16年に始まったことを「奇跡」と言うことに殆ど躊躇いはない。
 

  「あなたがたは、面積が四十ヘクタールで人口が千余人という、まったく玩具のような小国が、日本列島の中に存在していることをご存じだろうか。・・・厳とした国境があり、みだりに出入国はできないし、また憲法や建国の精神というものもあって、国民生活に秩序があることも一般の国家と変わらない。ただ変わるところは、どのような国、つまり資本主義の国にしろ社会主義の国にしろ、すべての国がその目標を発展ということに置いているのに反して、この国では滅亡こそが国家唯一の大理想だということだ」            島 比呂志 「奇妙な国」『ハンセン病文学全集3 』p230 (島 比呂志は作家(1918 - 2003) 東京農林専門学校助教授時代発病。国立癩療養所大島青松園隔離収容、翌年星塚敬愛園へ転園。同人誌「火山地帯」を主宰。らい予防法国家賠償法訴訟の切っ掛けをつくった)

 「奇妙な国」は、日本の中に何箇所も作られたが、その最初の国は全生病院(後の多磨全生園)であった。先ず、戦中のハンセン病療養所多磨全生園の子どもたちの生活を見てみよう。
 

 戦中の1943年、氷上恵介は全生学園教師を引き受け、園長(彼が奇妙な国の独裁者である)印を捺した「学事世話係を任ずる」との辞令じみたものを渡された。同じものは患者自治組織全生常会役員も渡され、療養所の支配関係を示している。
 教師となった余禄は、小さな机と読書灯。12.5畳に8人の雑魚寝生活は変わらない。先任の牧田先生と、20人あまりを上級生と下級生に分けて受け持った。症状悪化に苦しむ者も多く、病棟に入ったり出たりで生徒数は一定しない。義務教育段階を過ぎた年齢の少年少女のために夜学補修科もあって、思春期の男女が公然と同席できる数少ない機会となっていた。悩みは本が無いこと。氷上先生は新聞社の兄さんに手紙を出して、教科書を古本屋から手に入れて使った。
  B25が日本本土を空襲する。子どもたちの生活も悪化の一途。氷上先生は、せめて友達になって話を聞こう、仲間になって遊びながら学ぼうと決意する。国語は百人一首、理科は狭い園内の薬草を探したり、栗を拾ったり、体育は三角ベースをしたりで教育技術や教材不足を精一杯補った。 
 子どもたちと園内を歩いている時に、首吊り死体(ハンセン病それ自体による絶望ではなく、あらゆる血縁関係や社会関係から隔離され、死ぬまで収容されるという状態による絶望が、自殺を促していた)に遭遇することもしばしばあった。
 だが最大の問題は、ひもじさ。牧田先生と相談して園内の耕地を借り、自分たちの下肥を奪われないようにして腹に溜まるさつま芋やじゃが芋を育て、先ずは食べ余りで澱粉の実験をした。氷上先生に教わった人達は、いい先生だったと誰もが言う。子どもの話をよく聞き、話は決して飽きさせることのない優しい先生だった。

 1944年、薪不足で風呂は二ヶ月に一度、棺桶の板さえなくなる。

  「・・・野良犬や、野良猫、ヘビ、カエル、野鳥は唯一の動物性たんぱくとして食した。胸を病んでいる者はネズミの裸の子を生きたまま飲んだ。気の狂っていた患者は誰も食べようとしない毛虫やイモ虫をとって食べていた。栄養失調で患者は皆痩せこけていたが、なぜかイモ虫は丸々と太っていた、それを生のまま泡を吹きながら食べているのを見たとき、私はこの世界は生きながらの地獄と思った」           ラザロ・恩田原  (松本馨 ハンセン病者は本名を捨て、複数の筆名を使わねばならなかった)

 栄養失調による死者は増え、1942年140人、1943年 114人、1944年 133人、1945年 142人、1946年150人。一時は定員を超えて1400名の全生園はたった五年で半数が死亡、新しい患者と入れ替わった。 

 子どもたちの面倒をみたのは患者教師ばかりではない。子どもは少年舎・少女舎で生活するようになり、寮父・寮母が患者作業として配置される(1920年代)。
 寮父・寮母を、子どもたちはお父っあん・お母さんなどとよんだ。

 1941年から寮父を引き受けた松本馨は、条件として作業(患者作業 深い谷から重い炭俵を担ぎあげる、重い敷石を運ぶ、目の不自由な患者が大きなタライで洗濯をする、園内の仕事を患者は半ば強制的に割り当てられた。報酬は1日に牛乳一瓶を買える程度)をしなくても子どもが治療と学業に専念できるよう援助を要求した。
 それが日本で最初の子ども手当になった。患者たちの互助組織全生互恵会 (財団法人全生互恵会である。患者の売店等の資産・寄付によって1931年設立、患者の相互扶助を目的にしていたが、当時の運営実権は園側にあった)から月一円の日用品費が、「奇妙な国」多磨全生園全ての子どもに支給されるようになる。この着想は、松本も加わった原田嘉悦の茶会に集う若者たちの議論の中から生まれたのではないだろうかと僕は睨んでいる。 彼は原田嘉一から「将来科学の進歩によって(ハンセン病の)治療薬が発見される時が来る」という内村鑑三の言葉も聞いている。子どもの患者はその大部分が青年になる前に死んでいた。その時代に彼は、子どもに死を待つ子どもの絶望ではなく、未来を迎える希望を見ていたと言えよう。

 他の療養所の子どもたちの労働はどうだったのだろうか。同じ時期の長島愛生園や戦後(1950年)の松ヶ丘保養園の様子が検証会議証言にある。

  長島愛生園では・・・子どもたちも重労働に従事し、療養所の運営を補完する役割を担わされたのである。「薪の運搬、田植え、ため池工事や望が丘の土地の開墾などの重労働によって、体に傷をつくったり、障害をさらに悪く・重くする子どもを多く出すことになった。                                
 (松が丘保養園の)子どもたちは新聞配達や牛乳配達を日課としており、それが授業時間に食い込んでも、だれも文句を言わないというありさまでした。ここまでやらなければ生活を維持できなかった・・・。                   
 月一円の日用品費は、「奇妙な国」の子ども手当と言うべきである。その意義は、1933年の「児童虐待防止法」が、14歳未満の労働を禁じてはいたが、子どもへの手当は1972年の「児童手当法」を待たねばならなかったことに現れている。農家の娘たちが売られていた頃「農村の少年は、5歳になるとすでに縄ないを始め、11、2歳になると田仕事に追いやられ」た時代である。1944年には国民学校高等科児童の勤労動員が始まること、更に朝日訴訟(1957年)で憲法25条を巡って争われた日用生活費が僅か600円であったことを考えれば、その意義の強調は不当ではない。日本の最も深い闇に於ける先駆的試みである。これは一度も打ち切られず増額され、新良田教室(岡山県立邑久高校定時制課程新良田教室。全国のハンセン病患者を対象として昭和28年の「らい予防法」闘争により昭和30年長島愛生園に設置された)に進学した全生園出身高校生にも送られ続けた。

 松本馨が交渉した相手は、園の事務官(厚生官僚)であったという。人間的対応をする事務官であったと松本は書いている。
 当初は半日ずつの作業が毎日行われていたが、当時は週三日半時間ずつになっていた(別の記述では1時間ばかりのガーゼ伸ばし等で子どもの収入は月30銭~50銭とある)
 だが、子ども作業廃止と一人一円支給の画期性はいくら強調しても不当ではない。

 本物の「奇跡」に相応しく、歴史の何処にも記述されていない。なぜならこの奇跡を根拠とする、組織としての教会や宗団がないからである。
 志賀直哉であれば、この事実をどう書いただろうか。(彼には、北条民雄『命の初夜』の芥川賞選考に関して苦い記憶がある。他方彼は、松本馨同様内村鑑三にも深く傾倒していた。)

 松本は同時に、
全生学園を卒業した少年と児童を分離することも要求して実現させている。
 こんな証言がある。
 (草津)楽泉園には少年寮や少女寮もなく・・・大人たちが夜に男女の話をしていた。わたしは子どもでしたので「早く寝ろ」と大人たちに言われても、うるさくて眠れずに困りました。『楽泉園入所者証言集 中』 創土社 p127~128
 子どもには、子どもだけの時間と空間が必要なのである。これをハンセン病療養所における「子どもの発見」だと僕は考えている。
 この時、松本馨は23 歳であった。この後の彼の波瀾万丈については、稿を改める。

 引用は『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊からとった。

追記 1941年の日雇いの賃金は1日2円、対して1957年の日雇い賃金は1日500円であった。

まず自らの特権を破壊しなければ、権利への「闘争」は始まらない

 土田義雄(全生園患者自治会初代委員長)が感嘆した八路軍の規律が全兵士に受け容れられなければ、八路軍自体が中国人民に受け容れられなかっただろう。全兵士に規律の徹底をはかるには、将校の特権を廃止しなければならない。権利のための闘争の第一歩は、自らの特権の廃止でなければならない。
 日本陸軍二等兵の月給が6円の時(1943年)、軍曹30円、少尉70円、少佐220円、大将550円であった。このほか将校には当番兵や送り迎えの車がついた。食料や嗜好品にも大幅な優遇があった。
 この頂点に立ったのは大元帥天皇である。皇族の誰一人戦死していない。彼らは自らの「特権」のためだけに存在した。

 「三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ」  渡辺清  

 東条ら軍中枢にとって「軍人勅諭」は、大元帥も遵守すべきという絶対性を欠いていた。常に自分たちだけは例外という「特権」の一つでしかなかった。 

 だから、負けて特権が消滅した途端、雨に打たれた張り子の虎よろしくへなへなと崩れたのだ。
 上陸する占領軍に向かって石ころ一つ投げた者さえない。日本人婦女子を襲う米兵に斬り込んだ者もない。まるで何もなかったかのように恩給生活に入ったのである。特権に塗れた者たちは、特権の維持だけに全精力を注ぎ込み必ず腐り果てる。
 
 ハンセン病療養所関係職員には、本給の他に24%の危険手当がついた(当初は16%だったが、患者の待遇改善そっちのけで、職員の特権だけは「改善」している)。らい予防法がもたらしたおぞましき費用である。この他にも、多くの特権があって驚天動地の不正の温床となっていたが、多すぎて書き切れない。他日整理する。
 全生園のある東村山では、条例で「らい患者と相対する職員への危険手当」を支給した。これらの手当は、危険手当が付く程の恐ろし病気という観念を職員・教師・市民に植え付け偏見を煽る効果を持っていた。同時に危険手当正当化の為には、ハンセン病は恐ろしい病気と言い続けなければならなかった。
 日本らい学会を、「らい業界」なのだと言った人がいる。的を射ている。人の不幸・絶望を利権化したのである。醜いのは病気ではない、制度である。これをおぞましいと言わずにおれるか。

 全生園に危険手当をよしとせず拒否し続けた職員があった。1985年、介護職員5名が「危険手当」への異議を申し立て、法務局に手当額を供託したのである。24%もの特権的手当を不当として放棄、職員の側から予防法に問題提起した意義は大きい。だが
次第に職員間で疎んじられ、支援も広がらず5人は退職に追い込まれた。1982年全生園自治会は東村山市に対患者危険手当撤廃要求を出している。5人の行動提起はこれを受けてのことであったのか。先覚者の孤立・苦難である。
 長い間ハンセン病療養所では、地元農家の人々が雇われ、専門家は稀であった。一家数人で園に勤めたり農業収入もあり、組合には関心が薄かった。危険手当を拒否したのはこうした地元の人ではなかった。

 日本らい学会が世界の潮流から孤立してハンセン病者の絶対隔離に固執し続けた背景には、この特権としての危険手当がある。

 全生学園患者教師・武六ニ四(6月24日に生まれて六ニ四と名付けられた)は、軍人恩給を拒否している(彼は発病前、小倉の西部防衛司令部勤務だった)。
 ハンセン病療養所では、医療費ですら一般病院の僅か1/13に過ぎず、日用品費や食費に至ってはまさに奴隷以下であった。それゆえ軍人恩給受給者はハンセン病者にとって善望の的であった。患者は若いうちから強制収容されたから、年金などを手にする者は元軍人以外になかった。

 ハンセン病には女性が少ない。若い女性患者のもとには独身男性患者が押し寄せたが、女性たちは軍人恩給受給者に押し寄せた。
 武先生は、着るものにも頓着しない質素な生活を貫き、新しいものが手に入れば惜しまず人に与えた。豊かな教養と穏やかな人格に、派遣教師たちも敬意を抱いた。数学と実験と工作がうまかった。武先生は、特権を憎んでいたのではないか。(軍人恩給を申請すれば、ハンセン病罹患の事実が地元に知られ家族に迷惑が係ることを畏れたのだとも言われる。事実先生は家族に一切連絡をしていない。諦めず八方手を尽くしていた家族は、先生の死の間際ようやく面会出来たのである)
 特権の高みにある者は、皆との平等な権利に執着できない。自らを別して高みに置くことの危うさ見苦しさを見聞きするには、戦中の軍司令部勤務に勝る経験はない。そこには特権に胡座をかく将校と特権を求めて忖度・迎合する輩が溢れていた。皆と雑魚寝して同じ粗食に耐える丸裸の知性は、存在の証明を知識の根源的批判に求める以外に無い。ここに生まれるのが矜持である。集い語り学びあえば誰もが仲間であり、出自が優劣をもたらすことはない。そこに現れるのが知識人である。

 全生学園患者教師たちの矜持に満ちた生き方やピカイチの教育実践も、土田義雄の業績と同じように取り上げられることはない。だから僕は、『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)を書かずにおれなかった。

患者教師ほど顕彰に値する人たちはない
 遅すぎるが、彼らの業績を顕彰すべきだと思う。
 新聞社の「教育賞」には、教師自身が自薦して校長会が審査するという、絶望的な構図がある。もし患者教師が生きていた頃新聞社「教育賞」があっても、自らを推薦することは絶対になかったに違いない。あらゆる栄典は、彼らハンセン病者を対象にした後初めて輝くものになる。

 逆境のなかで人知れず自尊の姿勢を崩さない者は、舞台の表面にあって浴びる脚光を反射している者とは違って、何の注意も払わずとも自動的に知覚されうるようなものではない、・・・密かに保つ精神的自立・・・隠然たる矜持・・・それらの・・・底深く隠された精神的本質に到達するには、共感と義侠心を含めたありったけの注目と眼光を・・・注ぎ込まなければならない・・・そうする時、当面の表面的世界が示す舞台装置を超えて─深みへと超えて─・・・普遍的価値が始めて姿を現すのである。 藤田省三のこの文章も患者教師の前ではなんとも力を失うではないか。なぜなら土田や患者教師たちの見せた「普遍的価値」は、いまだに「姿を現す」機会を閉ざされているからである。

   大谷藤郎は療養所課長在任中、課長室に患者を招き入れ一緒にお茶を飲み、予防法遵守の不必要性を示唆した行動的人権感覚の持ち主であった。それでも予防法廃止には踏み切れないでいた。入所者の処遇改善予算要求には、予防法の隔離条項を強調するのが便利だった。強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理である。官僚側にも、入所者の側にもそれはあった。 しかし、表裏一体論は、官僚内部の交渉技術でしかない。内輪の手法を、主権者の人権よりも優先さる風潮は官庁街を闊歩している。権利も人権も押さえつける力は「特権」である。しかも「大谷見解」は、彼の退職後である。退職後のしかも「私的」見解という点に、この「業界」のおぞましさがある。

   日本らい学会が予防法廃止決議に踏み切り、自己批判書を公にしたのは1995年4月。 1995年7月、島比呂志は弁護士へ書簡を送り、次いで「法曹の責任」を発表、ハンセン病者の人権救済を求めたのである。「らい予防法が人権無視、存在理由のない法律だといわれ出して、どれだけの歳月を浪費してきたことだろう。その間、患者がどれほどの被害を受けてきたことか、その苦しみは無実の死刑囚にも匹敵する。・・・黙認してい法曹界は(らい予防法)存続を支持していると受け取られても仕方があるまい。・・・傍観は黙認であり、黙認は支持であり加担である」島比呂志そう言い切った。九州の弁護士たちは、たちまちのうちに137名で弁護団を結成。「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が組織された。
 1996年、国会はらい予防法を廃止。「癩予防に関する件」制定から89年もの歳月を浪費、分教室閉鎖から17年を要したのである。だが、断種・新生児・胎児殺し・・・いずれも自然現象ではない、れっきとした犯罪である。誰一人起訴さえされていない。医師免許を返上していない。そればかりではない。 予防法が廃止されてなお、危険手当は支給され、行政の責任も明記されず、癩業界は自らの特権は死守した。
 あろうことか、ライ学会が自己批判を口にしたその舌の根も乾かぬうちに、ハンセン病学会(らい学会改め)会長高屋豪瑩弘前大学教授は「「らい予防法」の廃止は間違いである」「患者の人間性とか社会生活なんて関係ない」との見解を『東奥日報』(1996年8月31日夕刊)に投書。追求する毎日新聞記者に「もしあなたがハンセン病患者なら、私はすぐ逃げるよ」と発言、学会会長職だけを辞してことを納めようとした。この時彼は「偏見の解消は学会ではなく患者が努力すべき問題だ」とも言って恥じなかった。


追記 身近で小さなことを考えたい。例えば生徒は教師の胸元を掴んだり、座席を無断で移動しただけで退学処分だ。他方教師は生徒の顔面を殴打しても蹴っても「指導の一環」や「熱血漢」で済んでしまう。これは生徒から見れば、卑怯極まる特権以外の何物でもない。学校が若者の権利獲得・擁護の前衛であるためには、教師の特権を、管理職の特権を、教育行政官僚の特権を先ず廃止しなければならない。これを止めるのは簡単である、ただ決意して実行すれば良い。それが出来ないのは、我々教師が旧軍人たちと同じように「特権」が生徒や授業より好きなのに違いない。せめて職員室の掃除は自分たちでやろう。

全生園の桜と「革命のような10日間」と土田義雄

「革命のようなたたかい」が生んだ景観
 多磨全生園の桜並木は、患者自治会初代委員長土田義雄がプロミン獲得と併せて取り組んだ自治会事業の一つである。山桜100本、吉野桜100本、しだれ桜100本、彼岸桜50本、八重桜50本、三ツ葉楓20本、榧50本が植えられた。その後の手入れも、患者たちが農薬を用いずに手作業で受け継いできた。その労苦が、春毎に満開の桜となり人々を60年もの長きにわたって、感嘆させている。

 土田義雄が発病したのは慶大在学中、一旦軽快退所したが応召、二・二六事件に巻き込まれ中国戦線に送られる。八路軍捕虜となり、その捕虜としての経験が彼を根底から変えたのである。農民からは針一本も奪わない。提供された物資には必ず費用を払い、時間があれば農作業を手伝う。司令官も兵士も平等の規律正しい八路軍を身近に見たのである。
 婦女子を強姦し殺害、徴発と称して食料は略奪、家には放火する皇軍を経験してきた土田義雄には革命的衝撃だった。急進的民主主義者となって敗戦とともに帰国。しかしハンセン病を再発、全生園に再収容される。
 土田を迎えて全生園の若い理論家たちが集い博友会を結成、ハンセン病療養所民主化闘争を組織したのであった。
 

 土田義雄は、プロミン獲得闘争でも表面に出ず最も重要な役割を担った。重症にもかかわらず、皆が注射出来るまではと、自分のためにプロミンを要求することは無かった。財力ある患者は闇のプロミンを買ったが、土田はそれも特権であるとして拒否した。ために結核を併発して急逝、35歳であった。古い因習を壊し、良いしきたりを数多く残し、反対派からも惜しまれた。自治会・左派・組合を徹底的に嫌悪した林芳信園長すら土田には敬して一目置いた。高潔で子どもにも丁寧な挨拶を欠かさぬ物腰柔らかな人柄に若者たちが集い、政治・哲学・文学・宗教を語りあい、魅力的な活動的「知識人」が生まれた。土田は上に立って指導することはなかった。存在自体が人々に安心感を与えたという。

物腰柔らかでクラシック音楽を愛したモダンボーイでダンスの上手かった彼が逝去したのは、1960年だった。
  

 土田義雄を中心に始まった1947年9月9日からの民主化闘争の10日間はあたかも革命のようだった。その革命前夜の全生園で開かれた粟生楽泉園闘争報告集会を、15歳の少年だった谺雄二が証言している。

 熱気がすごかったですよ。・・・・山本俊五さんという共産党員が立ったらね、職員席に座っていた園長がね、「君は、どこから入ってきた!」 ほら、・・・・面会人っていうかたちを取らないで、・・・垣根の隙間を越させて、裏門のほうから入らした。〔園長は〕それを知ってるわけ。もう、イライラしてるわけだ、林園長は。で、「君は、どつから来た!」って、一喝した。そうしたら、山本俊五さんがふりかえって、「あなたは誰です?どなたですか?」って聞いた。「わしは、ここの園長じゃ」つったら、「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」って。いやぁ、わたし、ビックリした。園長が怒られるなんていうのは、見たことなかったから。それで、園長が帰っちやった。 『栗生楽泉園入所者証言集 上』 

  この集会には、清瀬の結核療養所患者や東村山化成小学校教諭ら18名が垣根を抜けて参加していた。孤立しているのは園当局であった。たちまち職員の態度が目に見えて変わった。「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」の叫び声は、園長が天皇の臣下として患者に君臨する立場から、主権者である患者に奉仕する公僕となったことを、職員と患者に宣言したのである。

 毎年4月、美しく咲き誇る桜を愛で酒を酌み交わす人々の何人が、土田義雄や谺雄二らの生涯をかけた闘いに思いを馳せるだろうか。

 この民主化闘争以来、政府も議員もハンセン病患者を無視できなくなった。選挙権を獲得したからである。今18歳19歳の若者は選挙権を獲得した。だが高校生は「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」に相当する言葉を発しているだろうか。若者の政治経済的課題には背を向けて、若者の政治的行動の制限ばかりを強化している政権や教委に「
おまえは公僕だろお!降りてこい!」と叫ばねばならないのではないか。なぜなら、「らい予防法」廃止には更に数十年の闘いを要したからである。

追記 土田義雄が排除して止まなかった「特権」については、書かねばならぬことが残っている。           つづく

李白が詩を作り、アインシュタインはバイオリンを嗜んだように

  無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった状態。という見解がある。驚くほどものをよく知っていて、お喋りだが全く対話できない。そんな少年について書いたことがある。←クリック  文字通り苦い記憶である。

  専門家の無知について、原発事故は我々に数多くの実例を曝した。しかしそれを社会は、認識しているだろうか。もし認識していれば、彼らの多くは刑務所にいるはずだし、誰も責任をっていない。
 ハンセン病の場合、専門家の組織である「日本ライ学会」が自らの無知を自己批判するまで、絶対隔離からほぼ一世紀を要している。
 

 「収容乞う癩患者を赤穂海岸へ遺棄 鮮人身の振り方を赤穂署へ泣つく 長島愛生園へ抗議」の見出しが新聞に現われたのは1935年10月10日。(山陽新聞の前身『中国民報』)
 大学病院でハンセン病と診断された患者自ら愛生園に出向くが満員と断られ、盥回しされた大島療養所も受け入れ拒否、愛生園に戻ると船に乗せられ無人の海岸に打ち捨てられた事件である。愛生園は職員談話で、軽症で伝染の恐れも少ないから帰した、従来も軽症者は努めて帰ってもらっていると逃げた。おかしいではないか、ハンセン病の慈父として後に文化勲章を受ける光田健輔は愛生園園長であり、ハンセン病をペスト並の恐ろしい病気と言いつのり絶対隔離を立案したのである。

 京大病院で治癒して仕事にも復帰して後遺症もない元患者もあった。彼の場合有無を言わせず愛生園に再収容されたまま隔離され続けた。
 入れるも入れぬも出すも出さぬも、患者に対する恫喝として思いの儘であった。こうした恣意性が、絶対服従を可能にした。基準・根拠ともに不明であるからこそ、恐怖は果て無く募る。根拠さえ手にする事が出来れば、『神聖喜劇』の藤堂二等兵が軍法を逆手にとったように、闘いの道具にすることも出来る。それを恐れて、星塚敬愛園は癩予防法条文そのものを対患者極秘扱いにしたのである。
 収容されてしまえば、治療もあてにならず強制労働で症状は急速に悪化、死んでくれ、首を吊ってくれと迫った家へ帰れる筈はない。戸籍すら消された。大黒柱を奪われ消毒剤と罵詈雑言を浴びた家族も、離散してい故郷には誰もいない。元の職場にも病気は知れ渡っていて戻れない。すっかり根無し草となって、浮浪死は免れない。その恐怖が患者の反抗を沈黙させたのである。
 追放する側は、死後解剖するまで無菌は証明できないと言いながら、「アカ」であることが判れば、いつも無菌を証明してみせた。
 ならば「光田先生、この病気は治癒しないと言うあなたの療養所で、何故アカになると突然無菌になるのですか、こんな不思議はない。御高見を承りたい」と常識で切り出す者やマスコミが必要であったのではないか。
 「知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった」関係者の無知は恐ろしい程である。

 愛正園初代患者教師吉川先生に関する「思想要注意人退園処分の件」関連文書にも、彼が如何に危険な思想と言動の主かを列挙してはいるが、病状については一切触れていない。ペスト並の病気より、思想が光田には恐ろしかったのである。

 1936年第15回癩学会は『朝日』や『毎日』の報道によって、小笠原説が徹底的に糾弾され絶滅隔離派が圧勝した印象を世間に与えた。しかし地方紙『新愛知』は「・・・論戦を繰展げ・・・伝染はするが決して恐るべきものではないとの妥協点に至り、結局今後の研究にまつことを双方約して二日間に亘る癩論争の幕を閉じた」と報じている。そればかりか、小笠原攻撃の急先鋒の一人外島保養院村田院長も「今頃癩の伝染力をさ程に強いと思つてゐる者はゐない」と論戦の中で言い切っている。又、恵楓園宮崎松記園長も京大に小笠原博士を訪問、「癩ヲ扱フコト結核ヲ扱フ程度ナラシメントストノ意向」を伝えたことも確かめている。これは第15回日本癩学会総会直前である。
 「癩業界」内部では「癩ヲ扱フコト結核ヲ扱フ程度」との見解は寧ろ一般的でった。そうであればこそ、鹿屋の星塚敬愛園が「国立療養所入所規定」第一条で癩はこの規定から除かれることを明示していることを承知で、第七条と八条によって追放(退園)を命じたことに合点がゆく。ハンセン病を入所規定から除いた根拠が存在しないことになるからである。しかしそうなれば、隔離の根拠が無くなる。
 両義足の患者を山中に遺棄したり、博奕で追放したり、思想要注意人物の再収容を阻止したり、彼らにとって何の不都合もない。『癩業界』が外部向けに捏造したハンセン病像に慌てふためいたのは、「癩業界」から隔離された者ばかりであった。
 愛生園の医師二人が追放に立ち会って震えたのは、自分達の行為が国民と歴史と科学を欺く途方も無い犯罪であると知ったからではないか。震えた一人早田皓は、小笠原にわざわざ長文の手紙を送って、絶対隔離を認めるよう迫った男である。来たものは誰であろうとも欺くために、愛生園の予防措置は度外れて厳重を極めていた。
                樋渡直哉著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』から引用加筆した。

  ハンセン病も「らい学会」自己批判や「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」判決でその不当性明らかになったにも拘わらず、関係者の処罰は一切ない。僅かな園職員が転勤したのみである。特定の情報が飽和に達した集団が、生まれ変わるためには飽和状態を一掃する革命が必要なのだ。ハンセン病関係で言えば、
「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」原告の谺雄治さんが国会の議長になり、厚労省大臣に島比呂志が就任して汗を流す体制が少しも過激でない世の中になる必要がある。
 空気が水蒸気で飽和状態になれば雨が降るように、知識の飽和状態も何らかの方法で解消される。丁度コンピューターの中に断片化した情報やゴミが溜まれば、動きは緩慢になる。フラグメントを除去しなければならない。
 官僚李白が詩を作り、アインシュタインはバイオリンを嗜んだように。

 知識の飽和状態を解消して、未知のものを受け容れることが出来る。
 業界人にならないことだ。友達も親も兄弟も配偶者も教師というのは危ない。

個人の尊厳と自治体規模

  ハンセン病療養所多磨全生園で、子ども舎の寮父を永く務めた三木さんが、興味深い話を残している。
  「お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね」 樋渡直哉著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』      
 社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方・人間のあり方を変える。
 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とし、様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。
 人口が増加すれば、こうした判断は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を失い、雑多な厄介者の一人として一括処理される。彼らが鼻つまみという孤立状態から共同体へ回帰するためには、多数への追従・同化という手続きのみが残り、同化できなければ罰と排除が待っている。 鼻つまみの全生活の複雑性の理解と把握は、顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。
  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。
 千人程度の「奇妙な国」=ハンセン病療養所で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」(療養所入所者たちは、療養所外の世界を「社会」と呼んだ)では、企業も自治体も学校さえもが合併を繰り返して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応ささせられ、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
 少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(毛涯は、療養所職員で患者たちの風紀を取り締まり、理不尽な罰を加え、患者たちから恐れられた。彼の加えた罰によって死亡した者もある)が居てはありえない。何故なら療養所のあるべき人間像は、上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。
 ハンセン病の子どもたちの学校・全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという集団の大きさが関わっている。

  日本の「市制及町村制」が発足した1888年には、7万0314の市町村があった。しかし直ちに明治の大合併が実施され、市町村数は1/5になる。その後もひたすら、行政の効率化が図られ、敗戦を経て地方自治法が成立した年には、10,505の自治体が残っていたに過ぎない。それでも町村合併は繰り返されたのである。その結果自治体数は激減し、現在1718に過ぎない。フランスは3万8000、ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。
 ドイツ憲法第一条と日本国憲法第十三条の違いは、ここにある。ひとり一人の尊厳が、全ての行政機構で尊重されるためには、基礎自治体の規模は小さくなければならない。 ヨーロッパでは、小学校の規模は、校長が全児童の名前を覚えることが出来る大きさに制限されている。父母が校長に会えば、校長は父母の個人名から生徒の成績や生活に至るまで即答しなければならない。それが出来なければ、罷免の対象になる。
 我々日本社会の自殺の多さ、絶えざるいじめ、社会的弱者への不寛容、ヘイトスピーチの執拗さは、ここに根を探る必要がある。鼻つまみの酔っ払いさえ、生まれ変われる「生きやすさ」に満ちた自治体は、ひとの普遍的な権利なのである。
 

 荒れた生活を続けていた高校生に、夕闇迫る校庭ですれ違った教師が「○○君今晩は」と声をかけたことがある。荒れていた筈の生徒は、件の教師が教室に入ると同時にノートを広げ鉛筆を握って待ち構えるようになった。都心の、廊下で花火が発射されていた学校での話である。似た話は無数にある。
 
 学校も会社も国も小さい方がいい。オリンピックで金メダル
を幾つも取るなんてどうでもいいことだ。
   富山県船橋村は人口3000人、面積は3.47kmと日本一狭い。1990年には、人口も僅か1371人に過ぎなかった。どんなに住みやすいか、村立図書館長高野良子さんの言葉がいい。
 「新しい親子連れが図書館に来たら、必ず声をかけて、お子さんのお名前を聞いています。・・・今日も若いママが2組、初めて赤ちゃんを連れて来てくさったので、お名前を聞きました。・・・名前で呼んであげると、親御さんは『うちの子の名前を覚えていてくれた』と喜んでくださる」  https://www.huffingtonpost.jp/2016/01/04/funahashi-vill_n_8909360.html    
  名前で呼んで貰えた子どもは、もっと嬉しいはず。住み易いから人口は増えている。子どもの割合は日本一である。

先駆者の孤立と苦難、団結・連帯とは何か

水浸しの作業場での洗濯も患者作業であった。死者も出た。

  野間宏は、ハンセン病療養所を日本の最も暗い闇」と呼んだ。その闇を、楽園と呼び賞賛した医者が林 文雄である。
 「療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。
 療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が要る。
 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。註 そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。
 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園とした・・・。
 全治者を退院せしめよの声は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。・・・
 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである」 1930年 林文雄 『醫海時報』
                                             
 アンパン一つが3銭の時代である。重い炭俵を担いで氷雪に凍てつく断崖を血の跡を残しながら登るのも、大きな石を運び道普請するのも患者作業だった。神経が麻痺した患者は、例えば釘を踏み抜いても疲労が限度を越えても気付くことなく労働に精を出した。こうして過酷な強制労働は、患者の命を縮めた。
 それがいかに過酷な労働であったかを語る挿話がある。


 1960年、不自由舎(不自由な患者の病舎)での患者付添(不自由舎付添は、一室7人の病人を住込み一人で面倒を見た。昼も夜もなく、週休も有休も祭日もなく、一年を通して働いたのである)が、患者労働から職員看護に切り替わる。
 だが、労働の担い手が病人から健康な職員になったにも拘わらず、あまりの激務に過労とノイローゼで倒れる看護婦が続出し、週刊誌沙汰になった。「重症者に日夜侍して大小便の世話」をするのが如何に過酷か、この時職員は初めて知るのである。患者による患者付添の過労は美しき愛の働き、職員看護のそれは過酷。ここに横たわる人間観・世界観を、吉川四郎の『牢獄か楽園か』という題名が捉えている。林は肉親に囲まれて「コンナコーフクナモノハナシ」と書いて最期を迎えている。光田や林が、強制的に隔離して肉親から切り離された患者たちの淋しくやるせない最期を、彼らはどう考えていたのだろうか。
   患者労働を楽園のように描いた林論文は、患者の隔離に反対し「治療解放」を主張する青木大勇 長崎皮膚科病院長の論文への反論として掲載されている。論争の背景には、療養所の役割が「隔離・監禁」から「治療・研究」へ変化する国際的潮流に目を背け、絶対隔離に拘る日本癩学会の姿勢がある。

   林文雄は北大を出て、将来の教授を嘱望されたが、全生病院に勤務、光田健輔の全幅の信頼を得る。研究者としての業績もあり、診療、文化、生活でも患者との日常的接触に努力。昭和初期は、林のような青年クリスチャン職員たちが増え、患者との間に隔てを置かぬヒューマニスト的生き方は、患者の心をのびやかに明るくするものであったと『倶会一処』は書いているが、彼らの動きは数年で幻のように消えた。

  全患協(ハンセン病者の全国組織)が、予防法廃止と隔離政策による損失補償等を要求する運動方針を採択したのは1963年。方針に基づいて「らい予防法改正要望書」を提出、予防課長は協力を約束したが、事態は捗るどころか療養所の統合再編等の構想が出るなどまさしく逆向きであって、入所者の厚生官僚に対する不信は募るばかりであった。

  1985年全生園介護職員5名が「危険手当」(患者との接触度(感染の危険率)による職員給与の調整給  様々な困難に手当があるのは当然であって、それが虚偽の(感染の危険率)に基づいていることが差別であり不当なのである)への異議を申し立て、法務局に手当額を供託している。24%もの特権的手当を不当として、職員の側から予防法に問題提起した英断の歴史的意義は大きい。だが支援も広がらず5人は退職に追い込まれたと聞く。1982年全生園自治会は東村山市に対患者危険手当撤廃要求を出している。5人の提起はこれを受けてのことであったのか、先覚者の孤立・苦難である。

   僕は、高校生がこういう人々を尊敬する社会を作りたいと考えてを授業を組み立てていた。「地の塩」に気づくのは難しいとつくづく思う。

 隔離政策に決定的突破口が開かれるのは、それから10年後の1994年。らい予防法廃止の意向を元医務局長が公表、「大谷見解」と呼ばれる。入所者の処遇を維持・継続しながら、予防法は全面廃止し関係機関の反省を求めるという至極常識的なものである。しかしこれを画期的と言わざるを得ない歴史的無念がある。
 大谷藤郎は療養所課長在任中、課長室に患者を招き入れ一緒にお茶を飲み、予防法遵守の不必要性を示唆した行動的人権感覚の持ち主であった。それでも予防法廃止には踏み切れないでいた。入所者の処遇改善予算要求には、予防法の隔離条項を強調するのが便利だった。強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理である。官僚側にも、入所者の側にもそれはあった。  しかし、表裏一体論は、官庁内交渉技術でしかない。内輪の手法を、主権者の人権よりも優先させて恥じない風潮は官庁街を闊歩して止むことを知らない。「大谷見解」は、彼の退職後である。退職後の私的見解という点に、この「業界」のおぞましさがある。

   翌1996年、国会は予防法を廃止。「癩予防に関する件」制定からは89年もの歳月を浪費したのである。だが、断種・新生児・胎児殺し・・・いずれも自然現象ではない、れっきとした犯罪である。誰一人起訴さえされていない。医師免許を返上していない。そればかりではない。 予防法が廃止されてなお、危険手当は支給され、行政の責任も明記されず、癩業界は自らの恩恵は死守した。
                                                   
 あろうことか、自己批判を口にしたその舌の根も乾かぬうちに、ハンセン病学会(らい学会改め)会長高屋豪瑩弘前大学教授は「「らい予防法」の廃止は間違いである」「患者の人間性とか社会生活なんて関係ない」との見解を『東奥日報』(1996年8月31日夕刊)に投書。追求する毎日新聞記者に「もしあなたがハンセン病患者なら、私はすぐ逃げるよ」と発言、学会会長職だけを辞した。この時、彼は「偏見の解消は学会ではなく患者が努力すべき問題だ」とも言って恥じなかった。


追記 1941年洗濯場事件。穴の開いた長靴で作業していた相撲取りのような青年が、敗血症で死んだ。主任の山井道太は、穴の開いていない長靴を要求したが、全生園当局は拒否。洗濯場は、抗議のサボタージュに入る。園当局は山井と妻を草津の「重檻房」に送り、殺してしまった。全国の反抗的患者を懲らしめるために、光田健輔が作らせたのが「重檻房」である。冬は零下20度にもなる過酷な環境と劣悪な待遇のため、収監された93名中22名が死亡した。

救癩とは、患者を多く殺すこだ。・・・ぼく(沖縄愛楽園早田園長)は任期中に百何名か殺した、だから金鵄勲章もんだ

治療はなくても解剖は行われた、瓦礫の中での「報国」
  「救癩」の父にして絶滅隔離の発案者、光田健輔は自らの仕事を戦時体制にも関係付けている。
 「軍人は国のために屍を満州の野に晒すを潔しとし、進んで戦場に赴いた。同じく癩患者も村の浄化のために、・・・進んで療養所に行かなくてはならない」 藤楓協会編 『光田健輔と日本のらい予防事業』

 進んでハンセン病療養所に入って何をするのか。
   沖縄戦下のハンセン病療養所沖縄愛楽園では。三百名弱が死亡した。

 「早田園長が、ぼくは救ライに大きな功績を残した、・・・救ライということはライを撲滅させることだから、患者を1人でも多く殺すことは救ライにつながっているんだと。・・・ぼくは任期中に百何名か殺したと。だからこれが戦後、金鵄勲章もんだといってですね、いばるんですよ」 『沖縄県史10巻沖縄戦記録 2』 p965
 「冗談だったのかも知れないが、きつく響いた」と証言者は、続けている。 しかし早田は那覇大空襲では 
「敵の爆弾で負傷し、日本の薬で治療するとは何事だ。利敵行為ではないか」
と発言しているのだ、これが医者の冗談と言えるか。
 
生産力・兵力として力を発揮することだけが価値あることで、健康に欠ける者は社会に負担を強い、害を及ぼすものとされたのである。
 従って療養所医師の役目は治療を施すのではなく、「患者を1人でも多く殺すこと」であった。患者からみれば、一日も早く死ぬことが、「報国」であったのだ。
 「(1939年)5月・・・少年寮に入れられました。少女寮や学園もありました。国の定めた学校ではありませんが、生徒は男女40人ぐらいいて、教室は三つ。どの教室も複式学級で、3人の先生も皆同じ病気(ハンセン病)の人でした。子供たちにもいろいろイヤなことがありました。特に私がイヤだったのは、「文化人」や僧侶たちの講演でした。講演会があると、子供たちは会場の最前列に坐らされ、逃げ出すこともできません。話はきまって「お前たち患者は戦争の役に立たないどころか、じゃまな人間だ。非国民だ。日の丸の汚点なんだ」というのでした。私は子供心にも、ずいぶん悔しく思いました。
 翌年春、私も内緒で迎えにきた姉の手引きで全生園を脱出しました。「あそこは人間の住む所じゃねえ」と言う父のいいつけでした」谺雄二 
谺さんは、1999年原告として東京地裁に「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟」を提訴した詩人である。
 たかが療養所職員の異動や昇進昇格の祝いにまで、子どもを並ばせ欠席は許さかった。座った子供の目の高さに、壇上のエライ人や職員のスリッバが見えたという。常に一段低い場所に置かれたのである。
 エライ人は、「お前達は役立たない」と言うたびに、自分が美しき皇国の股肱である気分に浸れた。根拠のない優越感に浸るために他を見下げ毀損する。これは、人間関係から国家関係に至るまで対等平等の視点を持てない近現代日本のアジアに対する一貫した姿勢でもある。  

  「映画会の時など、礼拝堂の一段高い席にいた職員の子どもたちから、落花生のカラや、キャラメルの空き箱を投げ付けられたり「かったいは、汚い、臭い」と蔑まれたこともあります。一段高い職員席には、分厚い木の欄干があって、患者は立ち入り禁止だったので、私も他の子どもも一言も言い返せず、くやし涙をこぼしました」 冬敏之(作家)
             
 戦時下、子どもたちは、少年少女団に組織された。下着にも不自由するというのに、国防色のお仕着せ・靴下・靴だけは救癩団体が支給。引換に皇族や名士が来る度に並び、頭を下げ、万歳する。木枯らしでも炎天下でも同じ団服の下は、ボロボロの下着。神経を傷めて立つのも大変な足で、長時間整列。皇居遥拝は敗戦まで毎月、その上病人で子どもだというのに教練が月に二度あった。沖縄戦下の愛楽園の子どもたちは愛楽突撃隊に組織され、日本精神徹底と戦意高揚の掛け声で、防空壕堀と修理、開拓や草刈りなど重労働に狩りだされた。
 院長や職員は、団服に身を整えた、規律正しい少年少女団員たちを、よく管理され平和な全生病院のシンボルとして、ショーウインドウの人形として外来者に誇らしげに見せつけたが、それらの少年少女たちが「病気を持つ子供」だということを本当に考えたことがあっただろうか。                    
 行事から逃げる知恵や術のない従順な少年たちは、体を痛めて青年になる前に死んだという。おまけに、式や行事の「主催」だけは少年団というイカサマもあった。「主催」とは、お国のため療養所のため自らすすんで叱られ蔑まれ、病気を悪化させ、一刻も早く死んで国土浄化のお役に立つことに他ならない。
 療養所では、子どもの親権者は園長であった。その園長の官舎一棟建設に、療養所全体の家屋建築予算の一割もが使われた。親権者である園長は、「聖者」と讃えられ豪勢な住宅の温かく柔らかな布団に包まれた。「日の丸の汚点」と罵られ病状悪化に苦しむ子どもは重く湿った煎餅布団で寂しく死を迎える。この非対称的現実こそ、若き林医師賞賛の「楽園」の構図であった。
 

   僕は「アスリート ファースト」を聴くたびに、胸くそが悪くなる。ここには、人間には役立つ者と役立たない者があり、役立たない者の価値は認めないという思想がある。
 ハンセン病者を差別し続けた100年を思い出す。なぜ、人間優先と言えないのだ。メダルを量産する競技選手を優先して、「生産性」のない国民を揶揄する言葉が堂々と新聞やTVで流されている。戦時下と同じ雰囲気が満ちている。あろうことか国会議員や閣僚が「生産性」のない社会的弱者や少数者に向かって「いつ死ぬのか」「早く死んでいただきたい」などと言う。重大な憲法違反である。
 憲法99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務」を負う知らないとでも言うか。
 オリンピック招致は、一体どこで決めたのだ。都民も国民も知らぬ間に、「招致委員会」が勝手に招致したのである。
誰が招致委員会を選んだのだ。勝手に出かけて、勝手に招致しておいて、「おもてなし」と浮かれながら他人の財布に手を突っ込むのは掏摸である。犯罪である。招致委員の個人財産でオリンピックはやれ。福祉予算や医療費に手を付けるな。弱者を苦しめて何がスポーツの祭典だ。何が子どもたちの「夢」だ。招致関係者は、子どもを山車にしていつの間にか自分たちの夢=事務所の建て替えまでやっている。


追記 冒頭の写真は、爆撃後の沖縄愛楽園での解剖。真ん中で執刀しているのが早田。患者は死んで初めて「報国」出来たことになる。しかし解剖がどれだけ行われても、治療には生かされていない。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...