子ども手当の起源は、戦時下の「奇妙な国」にある / 氷上恵介と松本馨

子どもにも患者作業 広報用写真だから何もかもが新品だ
 野間宏が日本の最も暗い闇と呼んだハンセン病療養所で、日本最初の子ども手当が始まったことを君は知っているか。それは日米開戦の年であった。戦争の狂気に日本中が飲み込まれていた時期の奇跡でもある。僕は奇跡という言葉を好きになれないが、日本の子ども手当が「奇妙な国」で昭和16年に始まったことを「奇跡」と言うことに殆ど躊躇いはない。
 

  「あなたがたは、面積が四十ヘクタールで人口が千余人という、まったく玩具のような小国が、日本列島の中に存在していることをご存じだろうか。・・・厳とした国境があり、みだりに出入国はできないし、また憲法や建国の精神というものもあって、国民生活に秩序があることも一般の国家と変わらない。ただ変わるところは、どのような国、つまり資本主義の国にしろ社会主義の国にしろ、すべての国がその目標を発展ということに置いているのに反して、この国では滅亡こそが国家唯一の大理想だということだ」            島 比呂志 「奇妙な国」『ハンセン病文学全集3 』p230 (島 比呂志は作家(1918 - 2003) 東京農林専門学校助教授時代発病。国立癩療養所大島青松園隔離収容、翌年星塚敬愛園へ転園。同人誌「火山地帯」を主宰。らい予防法国家賠償法訴訟の切っ掛けをつくった)

 「奇妙な国」は、日本の中に何箇所も作られたが、その最初の国は全生病院(後の多磨全生園)であった。先ず、戦中のハンセン病療養所多磨全生園の子どもたちの生活を見てみよう。
 

 戦中の1943年、氷上恵介は全生学園教師を引き受け、園長(彼が奇妙な国の独裁者である)印を捺した「学事世話係を任ずる」との辞令じみたものを渡された。同じものは患者自治組織全生常会役員も渡され、療養所の支配関係を示している。
 教師となった余禄は、小さな机と読書灯。12.5畳に8人の雑魚寝生活は変わらない。先任の牧田先生と、20人あまりを上級生と下級生に分けて受け持った。症状悪化に苦しむ者も多く、病棟に入ったり出たりで生徒数は一定しない。義務教育段階を過ぎた年齢の少年少女のために夜学補修科もあって、思春期の男女が公然と同席できる数少ない機会となっていた。悩みは本が無いこと。氷上先生は新聞社の兄さんに手紙を出して、教科書を古本屋から手に入れて使った。
  B25が日本本土を空襲する。子どもたちの生活も悪化の一途。氷上先生は、せめて友達になって話を聞こう、仲間になって遊びながら学ぼうと決意する。国語は百人一首、理科は狭い園内の薬草を探したり、栗を拾ったり、体育は三角ベースをしたりで教育技術や教材不足を精一杯補った。 
 子どもたちと園内を歩いている時に、首吊り死体(ハンセン病それ自体による絶望ではなく、あらゆる血縁関係や社会関係から隔離され、死ぬまで収容されるという状態による絶望が、自殺を促していた)に遭遇することもしばしばあった。
 だが最大の問題は、ひもじさ。牧田先生と相談して園内の耕地を借り、自分たちの下肥を奪われないようにして腹に溜まるさつま芋やじゃが芋を育て、先ずは食べ余りで澱粉の実験をした。氷上先生に教わった人達は、いい先生だったと誰もが言う。子どもの話をよく聞き、話は決して飽きさせることのない優しい先生だった。

 1944年、薪不足で風呂は二ヶ月に一度、棺桶の板さえなくなる。

  「・・・野良犬や、野良猫、ヘビ、カエル、野鳥は唯一の動物性たんぱくとして食した。胸を病んでいる者はネズミの裸の子を生きたまま飲んだ。気の狂っていた患者は誰も食べようとしない毛虫やイモ虫をとって食べていた。栄養失調で患者は皆痩せこけていたが、なぜかイモ虫は丸々と太っていた、それを生のまま泡を吹きながら食べているのを見たとき、私はこの世界は生きながらの地獄と思った」           ラザロ・恩田原  (松本馨 ハンセン病者は本名を捨て、複数の筆名を使わねばならなかった)

 栄養失調による死者は増え、1942年140人、1943年 114人、1944年 133人、1945年 142人、1946年150人。一時は定員を超えて1400名の全生園はたった五年で半数が死亡、新しい患者と入れ替わった。 

 子どもたちの面倒をみたのは患者教師ばかりではない。子どもは少年舎・少女舎で生活するようになり、寮父・寮母が患者作業として配置される(1920年代)。
 寮父・寮母を、子どもたちはお父っあん・お母さんなどとよんだ。

 1941年から寮父を引き受けた松本馨は、条件として作業(患者作業 深い谷から重い炭俵を担ぎあげる、重い敷石を運ぶ、目の不自由な患者が大きなタライで洗濯をする、園内の仕事を患者は半ば強制的に割り当てられた。報酬は1日に牛乳一瓶を買える程度)をしなくても子どもが治療と学業に専念できるよう援助を要求した。
 それが日本で最初の子ども手当になった。患者たちの互助組織全生互恵会 (財団法人全生互恵会である。患者の売店等の資産・寄付によって1931年設立、患者の相互扶助を目的にしていたが、当時の運営実権は園側にあった)から月一円の日用品費が、「奇妙な国」多磨全生園全ての子どもに支給されるようになる。この着想は、松本も加わった原田嘉悦の茶会に集う若者たちの議論の中から生まれたのではないだろうかと僕は睨んでいる。 彼は原田嘉一から「将来科学の進歩によって(ハンセン病の)治療薬が発見される時が来る」という内村鑑三の言葉も聞いている。子どもの患者はその大部分が青年になる前に死んでいた。その時代に彼は、子どもに死を待つ子どもの絶望ではなく、未来を迎える希望を見ていたと言えよう。

 他の療養所の子どもたちの労働はどうだったのだろうか。同じ時期の長島愛生園や戦後(1950年)の松ヶ丘保養園の様子が検証会議証言にある。

  長島愛生園では・・・子どもたちも重労働に従事し、療養所の運営を補完する役割を担わされたのである。「薪の運搬、田植え、ため池工事や望が丘の土地の開墾などの重労働によって、体に傷をつくったり、障害をさらに悪く・重くする子どもを多く出すことになった。                                
 (松が丘保養園の)子どもたちは新聞配達や牛乳配達を日課としており、それが授業時間に食い込んでも、だれも文句を言わないというありさまでした。ここまでやらなければ生活を維持できなかった・・・。                   
 月一円の日用品費は、「奇妙な国」の子ども手当と言うべきである。その意義は、1933年の「児童虐待防止法」が、14歳未満の労働を禁じてはいたが、子どもへの手当は1972年の「児童手当法」を待たねばならなかったことに現れている。農家の娘たちが売られていた頃「農村の少年は、5歳になるとすでに縄ないを始め、11、2歳になると田仕事に追いやられ」た時代である。1944年には国民学校高等科児童の勤労動員が始まること、更に朝日訴訟(1957年)で憲法25条を巡って争われた日用生活費が僅か600円であったことを考えれば、その意義の強調は不当ではない。日本の最も深い闇に於ける先駆的試みである。これは一度も打ち切られず増額され、新良田教室(岡山県立邑久高校定時制課程新良田教室。全国のハンセン病患者を対象として昭和28年の「らい予防法」闘争により昭和30年長島愛生園に設置された)に進学した全生園出身高校生にも送られ続けた。

 松本馨が交渉した相手は、園の事務官(厚生官僚)であったという。人間的対応をする事務官であったと松本は書いている。
 当初は半日ずつの作業が毎日行われていたが、当時は週三日半時間ずつになっていた(別の記述では1時間ばかりのガーゼ伸ばし等で子どもの収入は月30銭~50銭とある)
 だが、子ども作業廃止と一人一円支給の画期性はいくら強調しても不当ではない。

 本物の「奇跡」に相応しく、歴史の何処にも記述されていない。なぜならこの奇跡を根拠とする、組織としての教会や宗団がないからである。
 志賀直哉であれば、この事実をどう書いただろうか。(彼には、北条民雄『命の初夜』の芥川賞選考に関して苦い記憶がある。他方彼は、松本馨同様内村鑑三にも深く傾倒していた。)

 松本は同時に、
全生学園を卒業した少年と児童を分離することも要求して実現させている。
 こんな証言がある。
 (草津)楽泉園には少年寮や少女寮もなく・・・大人たちが夜に男女の話をしていた。わたしは子どもでしたので「早く寝ろ」と大人たちに言われても、うるさくて眠れずに困りました。『楽泉園入所者証言集 中』 創土社 p127~128
 子どもには、子どもだけの時間と空間が必要なのである。これをハンセン病療養所における「子どもの発見」だと僕は考えている。
 この時、松本馨は23 歳であった。この後の彼の波瀾万丈については、稿を改める。

 引用は『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊からとった。

記 1941年の日雇いの賃金は1日2円、対して1957年の日雇い賃金は1日500円であった。

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