1羽ずつ仕切られた籠が並ぶ養鶏場、そこから2羽を選んで、突然自由にする。放たれるや喧嘩を始め、片方が息絶えるまでそれは続くという。
卵を産まなくなった養鶏場の鶏を百羽、みかん園に放し飼いにした話がある。半数はじっと餌も食べずそのまま死んだという。残りが餌を探して歩きまわるようになるのには、ひと月を要したと言う。
解放直後の元奴隷 強制収容所の看守たちがすべて逃亡したあとの囚人たちの行動を思う。或いは、敗戦の劇的瞬間を迎えたにもかかわらず、政治思想犯の解放に向かわなかった我が日本。
一体何歳になる迄であれば、あるいはどれぐらいの期間以下であれば、我々は与えられた環境から自らを自由にできるのか。体罰を受けた高校生たちが、あれはいい先生だったと頑なに暴力を肯定する。暴力を受けた屈辱を、批判精神に転換出来なくなる取り返しの効かなくなる時点がある、可塑性が消滅するのはいつなのか。
大阪桜宮、浜松日体・・・体罰暴力教員は生徒父母から擁護され、批判告発者がヤリ玉に挙げられる。ストックホルム症候群。抑圧状態に置かれた者が、抑圧者やその状況を肯定する。ハイジャックなどの凶暴なものから格差を前提とした学校、「会社」、教団・・・に至るまで。
抑圧が過酷であればあるほど短期間のうちに抑圧者に対する肯定が始まる。抑圧と気づかずむしろ自発的に。
追記 学びの共同体的実践を選別体制下の高校で実施して、仮に成果があったする。しかし同時に選別体制を高校生が肯定したのでは何にもならない。賢い奴隷・家畜人の誕生にすぎない。混乱と無知の奴隷制より秩序と賢さの奴隷制なのか。小中学校で学びの共同体的学習を経験した子どもたちもやがて、選別されてゆく。必ず。そこで培った賢さや友愛精神はどうなるのだろうか。進学先の選別された環境の中に賢さも友愛精神も封印されて、選別を肯定し始めるのではないか。仕切られた籠の養鶏場は、選別体制下の学校そのものである。
元いじめられっ子と元番長たちの仲間付合い
遅刻のずば抜けて多いクラスだったが、 |
下町にあった工業高校元番長たちが学習意欲を高めたのは、小中学校ではいじめ尽くされ、すっかり自信を失っていたO君と仲間になってからである。
学級担任することになって、僕のクラスにだけ元番長が三人も揃ったことが判ったとき、多くの教師が「陰謀」を疑った。僕はそれらしい「陰謀」の主たちを思い浮かべてムカッとしたが、知らんぷりすることに決めた。 初めてのHRで、僕は開口一番「中学校からの内申書は見ない、人間は誰だって知られたくない過去がある」と言っておいた。
すぐに、どこかそれらしさが残る生徒が準備室にやってきて
「先生、ほんとは知ってんだろ、俺のこと」
「名前以外は知らない、内申書のことだろう、見るか」と言ってロッカーの引き出しを開けてみせた。一クラス分の内申書が一通ずつ封したままひもで括られて、入っている。
「ホントに見てないんだ。先生、俺番長だったんだよ。でも安心しなよ。俺もうしない。そう決めてんだよ」
「そうか、君は有名人だったのか。でもやめるんだろ。だったら今聞いたことも忘れるよ。これから君がこの学校でやることだけが、君の価値を決めるんだ」
次の日、三人の元番長が揃ってやってきて、それぞれが別々の学校で総番長をしていて互いに知り合いだったと自己紹介をした。その一人はある区の番長組織のサブリーダーだった。三人とも口を揃えて
「高校生になってから突っ張るのは、ガキ。高校生デビューっていうんだ。だからもうやんないよ、安心しなよ」という。
「じゃー勉強するために、学校に来たのかい」
「そのつもり、一応将来のことも考えようと思ってんだ、よろしく、先生」三人とも人懐っこい顔していた。
さっそく始めた個人面接では「君たちの名前以外何も知らないから、自己紹介してくれ」と言ったのだが、O君は下を向いたまま怯えているようで何も言わない。
「いじめられたかい」と聞くと、大粒の涙が落ちて音を立てた。小学校でも中学校でも、男子からも女子からもいじめ尽くされた経験を語った。
「このクラスになったからには、絶対にいじめはさせない。約束するよ」そういうと
「・・・先生、僕勉強できるようになりたいんです。どうしたらいいんですか」
「二つある。一つは友達に教える。二つ目は自分が興味を持ったことを、自分で調べてノートを作ることだ。なるべく長く一つのことを」
彼が興味を持ったテーマは『教師の犯罪』。夏休みや冬休みのたびに、大学ノート一杯に新聞記事を貼り付け、本からの引用を使った感想を添えて、見てくれと持ってきた。選んだテーマに彼が小中学校で受けたいじめの実態が見えてきて、胸が痛んだ。
授業が始まって暫く経つと、O君が級友に親切に教えていることは教員の間でも知られるようになった。友達から聞かれてわからないことは、自分で調べたり教員に聞いたりした。番長たちは、ことあるたびにO君の厄介になることになった。教えたお陰で、彼の成績は三年間すべて「5」。彼がつくった実習の作品も素晴らしい出来で、卒業後も学校に残されて展示された。
だが、彼の家庭には不幸や不運が続き、アパートの電気やガスが止められたりした。昼飯を抜いて教室でぐったりすることが続いた。元番長は、オロオロと心配して僕に助けを求めた。
「先生この頃、O君何も食べないんだよ。昼休みも机に突っ伏したまま。俺たちがパンを持って行っても食べてくれないんだ。何とかしてよ」百戦錬磨の番長たちが、友達のことではオロオロするのがおかしかったが、O君を呼んで話を聞いた。父親も姉も家を出て、家賃も払えない部屋に彼一人が残されたのだった。放課後飲み屋でアルバイトしていたが、そこで晩飯が出る、それだけで堪えていたのだ。しかし彼の成績が下ることはなかった。
夏休みに元番長三人は神津島に行く計画を作って、O君を招待した。そんなつもりで一緒に勉強したんじゃないと固辞するO君を、説得してくれと泣きついてきた。
「あいつらは、君と親友になれたんじゃないかと喜んでる。きみはどうだい」
「僕も嬉しいです、こんな友達が出来たのは初めてだからどうしていいかわからなくて」
「こうしょう。今は金がなくて苦しいから、借りる。就職して楽になったら、かえす。または君があいつらを招待する」
「わかりました。そうします」
対等な関係が育む友情は、三人にとってもO君にとっても初めての経験だったのだと思う。
区内きっての番長というマイナスの評価、小中学校通していじめられっ放しというマイナスの自己評価、それが出会っていい友人関係が生まれて目出度しめでたしだろうか。
この四人は、なぜマイナスの評価に甘んじなければならなかったのか。誰がマイナスと判断したのか。どんな社会がそんな評価の物差しを必要としているのか。
絶対値で見れば、つまり人間そのものとして接すれば、四人とも初めから抜きんでたものを持っていた筈。それがひょんなことで集団の機嫌を損ねたに過ぎない、特に教師と良い子たちの。その集団の機嫌が一方的で頑なな時、困ったことが起きる。
四人の少年は、過去の困った人間関係に翻弄されていたのを、自らの才覚でリハビリしたのである。ここには、自発的「自由と平等と友情」がある。
便利さに耽溺しないで道具を制御出来るか。ファノンを想う
「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」 フランツ・ファノン
携帯電話という手段を得て我々は、何を得たのか。電話のないところにいる時の緊急の連絡だろうか。電話のない頃、我々は、どれほど不便であったのだろうか。例えば教師と生徒の場合、どんな利便があるのか。僕には、生活指導に関する問題は、時間をおくことが重要な場合が多い。時間が解決するという言葉を忘れてはいないだろうか。
仲違いして絶交すると息まきたい時、電話その物が無ければ手紙を書くだろう、書いている間に興奮が冷めて何がいけなかったのかわかることもある、投函するまでの間に自分が間違っていたと反省することもあるだろう、詰まらないことで熱くなっていたことが恥ずかしいと気が付くには時間が必要である。
帰宅途中、携帯で高笑いする自転車の高校生とすれ違った。危ないなと胸騒ぎがした。暫くして自転車と車が激しく衝突する音がして急いで引き返すと人だかりが出来て、むやがて血の匂いが立ち込めてきた。救急車やパトカーも駆けつけて大騒ぎになったが、どうだったのだろうか。
長年の知り合いが癌で急死して、奥さんが緊急の連絡先が判らない。やむを得ず携帯を開くと、おびただしい量の不倫関係データーが出て来た。奥さんは二重のショックで自殺寸前。20年もバレなかったのは携帯のお陰であった。電話や手紙なら感付く。互いの異変に気付いてこその家族である。
今年1月1日、衝撃的だが至極当たり前の外信がフランスから飛び込んできた。「労働者が勤務時間外に仕事メールを見ない権利獲得」これは法律として、2016年5月に成立して今年1月1日から施行された。既にフランスでは2000年以降、週35時間労働制が法律にもとづき実施されている。
フランスでは、便利な道具・携帯の機能を制御している。それだけではない、同時に政府や法律を、わが物としてコントロールするのである。日本では、便利な道具が学校でも家庭でも職場でも、人間関係と健康や命を脅かしている。
国民のため、子どもの夢だと御託を並べて、議員が約束する、体育館・劇場・博物館・ショッピングセンター・・・これらは市民や学生の意識を豊かにするどころか、意識の目覚めを妨げ、意識を解体する。
「学びたい」「働きたい」の根幹である、何のために、誰のためにという自立した思考欲求、それをファノンは「市民の筋肉と頭脳」と力強く表現した。必至になって知恵を絞り試行錯誤を続ける。その経験が主体を形成する。
止まらぬ更新拡大を繰り返す日本の学校施設からオリンピック施設まで。それらは降って湧いたのか。その見かけの経済効果に一喜一憂する。様々な競技的クラブや自治・学習の内容まで、予め早手回しに用意する、それが経営体としての学校の売り。構想し運営する主体としての少年青年は、知的に後退し消滅して、それらを制御できない。
我々教員は救いの神の代理人になった気でいる。お陰で青年たちは、イデオロギーを綺麗さっぱり収奪されてすっかり腑抜けてしまった。奇妙な光景だ。OECD諸国で日本だけが賃金が実質的に下がっているのに目をつむり、自分の持ち物ではない株の値上がりに期待する。世界に類例のない通勤ラッシュが一生続くというのに、一生のうちに乗る費用も機会もありそうにないリニア新幹線を作りたがる議員に票を入れる。
遊び場にも道具にも事欠く少年や零細企業工場商店の若者が、先ず自らの要求に目覚め自らを組織し、空き地を見つける。不足があれば、連合する。構想し大人や雇い主、行政と交渉決定運営する。政治活動とはそういうことだ。お膳立てされた投票ではない。主権者であるとは、先ず自分を組織することである。
任せて安心の進路、頑張るだけのクラブ、見栄えのいい設備、可愛い制服、華々しい行事、厳粛な式、それらが「救いの神」によって、並べられる。至れり尽くせりに見せて、依存させる。依存させ奴隷化する。安全便利な駅、テロのない街。しかし少年や青年の「筋肉と頭脳」を経はしない。学校も自治体も国家も若者のものとなることはない。
ファノンはアルジェリア独立戦争に参加、フランス植民地主義を批判して闘争を理論的に指導した精神科医。対独レジスタンスを闘ったはずのフランス知識人は、アルジェリアにフランス共同体に止まることを求めた。
我々は憲法を、本気で擁護するつもりがあるのか 1
君が代を拒否する我々は、校歌斉唱の練習を生徒には強制して恥じない。前者は内心の自由・表現の自由の範疇で、後者は愛校心の範疇と言いなおれる神経こそが疑われねばならない。
下町の工業高校にいた1980年、僕は生徒会の担当を一人にすることを条件に生徒会「指導」を引き受けた。生徒部は誰もやりたがらない、やりたがらない者が集まると、会議ばかりが増える。
フランスのリセでは、学年初めに徹底的に全体で、場合によっては数日かけて議論。その方針に基づいて、担当教師が一人で執行する。独断もあるが決定は早い。目に余る逸脱があれば、リコールされる。そう言って、一人にしてもらった。生徒会の執行部に提案して、教師と生徒の対話集会を開くことにした。そのことを三年生のあるクラスで聞いてみた。
「話したって、無駄ですよ、先生」
「話すことがないよ、むつかしいな」
「誰が聞いてくれるんですか」
「まず君達の身近かな問題から取りあげる。日頃から感じていること、考えていること、不満に思っていること、いつも君達が喋っていることから始めよう」
「話し合ってもいいけど、どうせ無駄なんだ」
「絶対、話し合っても何も変わらないよ」
「どうせ、全部職員会議で決めるんだろ」
「授業にしようよ」
「なぜ無駄か聞かせろ」
「いい例が制服だよ。一方的にだまし討ちで、突然職員会議で決めたじゃないか。生徒の意見も開かずに」
「服装が自由だから皆この学校に入ったんだ。それなのに俺達の意見は無視されて、きたねえよ」・・・教室騒然となる。
「いや、我々は君達が全体で話し合ったものは無視出来ない。集団的に練り上げられた要求はきっと尊重される」
「うそつき」 「だめだめ」 と騒がしい。
「そうだ、修学旅行もいつの間にか知らない所で決まっているし、あんな所行きたくはないぜ」
「いつも俺達とは関係ない所で決まるんですよ」 拙著『普通の学級でいいじゃないか』地歴社
教員と学校への不信は募っている。このやり取りの前、憲法について授業した時、生徒たちの意見は、「いい憲法だけど、絵に描いた餅」というものだった。既に青少年の憲法離れは進んでいた。企業では、QCサークルが組織され、高校で疎外された若者たちが、すすんで企業に取り込まれ、労働強化にはまり込んでいた。
若者や高校生にとって教師は、「言うだけ番長」に過ぎなかった。口では憲法を言うが、生徒の生活を守る人権規定として、教師自らをも律するものとしてとらえる覚悟はないと見做されている。教師を一括して「日教組」と見做す風潮の中で、憲法は教師の特権を守るものでしかないとの認識は広がりつつあった。学校の見てくれのために、制服導入を強行し服装検査に励む姿を見れば、高校生や中学生がそう思うのは自然の成り行きであった。
幸い教師と生徒の対話集会は、生徒会執行部の口コミで、大きめの視聴覚教室一杯になった。生徒会の司会で、日頃から不満を内向させている生徒たちも果敢に教員に反論、夜遅くまで続いた。授業への不満が具体的であり、改善の方向も生徒たちの発言の中に有った。職員会議でも反省や自己批判も語られ学校のあちこちで、酒場で小さな研究会がもたれ、授業の相互公開も行われた。その経過と中身は、『普通の学級でいいじゃないか』に書いた。
その中でわかったことの一つは、「静かな授業」があまり褒められたものではなく、ざわついたり時には喧騒を極める授業に見習うべきものがあるということだった。ベテランの先生たちは、僕の授業がうるさいのに、生徒たちが聞いていることを不審に思い、授業に忍び込んでいて気が付いた。うるさいのは、授業の中身を互いにやり取りしてしていたのである。僕は感付いてはいたが、少し驚いた。騒めきの大部分が授業を巡ってであることに。ビゴツキーの「最近接領域」はこうして現れるかもしれない。
ともあれ、憲法を守れという時、我々は政権に対して声をあげるとともに、「公僕」の一員としての自分に向き合わねばならない。
かつて制服導入や生徒管理規定制定に励んだ自称「民主的」教師たちは、秩序が回復したら直ちに制服は廃止する、管理主義は自然になくなると言っていた。あの頃に比べれは、生徒たちの大人しさはいやになるほどだ。一体何時どこで制服をやめたか、管理を反省したか。逆に大人しさに乗じて拡大強化してさえしている。「秩序が回復したら直ちに制服は廃止する」と断言した教師たちはとっくに退職し他界している。
部活から抜けたがっている生徒を、集団の論理から守ろう。憲法は奴隷的苦役を禁じている。第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
我々が訴えることの正当性は、我々自身が判断するのではない。
中野重治が『五勺の酒』で
下町の工業高校にいた1980年、僕は生徒会の担当を一人にすることを条件に生徒会「指導」を引き受けた。生徒部は誰もやりたがらない、やりたがらない者が集まると、会議ばかりが増える。
フランスのリセでは、学年初めに徹底的に全体で、場合によっては数日かけて議論。その方針に基づいて、担当教師が一人で執行する。独断もあるが決定は早い。目に余る逸脱があれば、リコールされる。そう言って、一人にしてもらった。生徒会の執行部に提案して、教師と生徒の対話集会を開くことにした。そのことを三年生のあるクラスで聞いてみた。
「話したって、無駄ですよ、先生」
「話すことがないよ、むつかしいな」
「誰が聞いてくれるんですか」
「まず君達の身近かな問題から取りあげる。日頃から感じていること、考えていること、不満に思っていること、いつも君達が喋っていることから始めよう」
「話し合ってもいいけど、どうせ無駄なんだ」
「絶対、話し合っても何も変わらないよ」
「どうせ、全部職員会議で決めるんだろ」
「授業にしようよ」
「なぜ無駄か聞かせろ」
「いい例が制服だよ。一方的にだまし討ちで、突然職員会議で決めたじゃないか。生徒の意見も開かずに」
「服装が自由だから皆この学校に入ったんだ。それなのに俺達の意見は無視されて、きたねえよ」・・・教室騒然となる。
「いや、我々は君達が全体で話し合ったものは無視出来ない。集団的に練り上げられた要求はきっと尊重される」
「うそつき」 「だめだめ」 と騒がしい。
「そうだ、修学旅行もいつの間にか知らない所で決まっているし、あんな所行きたくはないぜ」
「いつも俺達とは関係ない所で決まるんですよ」 拙著『普通の学級でいいじゃないか』地歴社
教員と学校への不信は募っている。このやり取りの前、憲法について授業した時、生徒たちの意見は、「いい憲法だけど、絵に描いた餅」というものだった。既に青少年の憲法離れは進んでいた。企業では、QCサークルが組織され、高校で疎外された若者たちが、すすんで企業に取り込まれ、労働強化にはまり込んでいた。
若者や高校生にとって教師は、「言うだけ番長」に過ぎなかった。口では憲法を言うが、生徒の生活を守る人権規定として、教師自らをも律するものとしてとらえる覚悟はないと見做されている。教師を一括して「日教組」と見做す風潮の中で、憲法は教師の特権を守るものでしかないとの認識は広がりつつあった。学校の見てくれのために、制服導入を強行し服装検査に励む姿を見れば、高校生や中学生がそう思うのは自然の成り行きであった。
幸い教師と生徒の対話集会は、生徒会執行部の口コミで、大きめの視聴覚教室一杯になった。生徒会の司会で、日頃から不満を内向させている生徒たちも果敢に教員に反論、夜遅くまで続いた。授業への不満が具体的であり、改善の方向も生徒たちの発言の中に有った。職員会議でも反省や自己批判も語られ学校のあちこちで、酒場で小さな研究会がもたれ、授業の相互公開も行われた。その経過と中身は、『普通の学級でいいじゃないか』に書いた。
その中でわかったことの一つは、「静かな授業」があまり褒められたものではなく、ざわついたり時には喧騒を極める授業に見習うべきものがあるということだった。ベテランの先生たちは、僕の授業がうるさいのに、生徒たちが聞いていることを不審に思い、授業に忍び込んでいて気が付いた。うるさいのは、授業の中身を互いにやり取りしてしていたのである。僕は感付いてはいたが、少し驚いた。騒めきの大部分が授業を巡ってであることに。ビゴツキーの「最近接領域」はこうして現れるかもしれない。
ともあれ、憲法を守れという時、我々は政権に対して声をあげるとともに、「公僕」の一員としての自分に向き合わねばならない。
かつて制服導入や生徒管理規定制定に励んだ自称「民主的」教師たちは、秩序が回復したら直ちに制服は廃止する、管理主義は自然になくなると言っていた。あの頃に比べれは、生徒たちの大人しさはいやになるほどだ。一体何時どこで制服をやめたか、管理を反省したか。逆に大人しさに乗じて拡大強化してさえしている。「秩序が回復したら直ちに制服は廃止する」と断言した教師たちはとっくに退職し他界している。
部活から抜けたがっている生徒を、集団の論理から守ろう。憲法は奴隷的苦役を禁じている。第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
我々が訴えることの正当性は、我々自身が判断するのではない。
中野重治が『五勺の酒』で
「中身を詰めこむべき、ぎゅうぎゅう詰めてタガをはじけさせて行くべき憲法、そこへからだごと詰めこんで行こうとて泣きたい気になったものは国じゅうにもたくさんなかつたと僕は断じる」と、校長に言わせていることの意味を感じたい。
ある「音の記憶」
ふと授業に出たくなった。二階の階段教室の窓から銀杏並木の新緑が目に鮮やか。僕は教室の一番奥に座った。タンゴのメロディが風に乗って入ってくる。
「誰か、あのレコードを止めるように言ってきてくれないか」先生がそう言った。学生が一人駆け出して、息を切らせながら戻ってきた。
「先生、あれは生です。やめさせますか・・・」
「そうか、うまいね。暫く聞こうか」先生は窓を向いて腰を下ろした。殺伐とした大学紛争の最中、石造りの校舎に挟まれた小径に、小編成のバンドの演奏が響いている。一区切りついたところで、先生は窓から体を乗り出して拍手した。
「もう一曲、頼む。古いのがいいな」そう先生は、窓のすぐ下の楽団に声を掛けた。
「先生、失礼しました。これっきりにします」と返事があって、懐かしいメロディが聞こえてきた。
自然なルールが形成される瞬間だった。
「誰か、あのレコードを止めるように言ってきてくれないか」先生がそう言った。学生が一人駆け出して、息を切らせながら戻ってきた。
「先生、あれは生です。やめさせますか・・・」
「そうか、うまいね。暫く聞こうか」先生は窓を向いて腰を下ろした。殺伐とした大学紛争の最中、石造りの校舎に挟まれた小径に、小編成のバンドの演奏が響いている。一区切りついたところで、先生は窓から体を乗り出して拍手した。
「もう一曲、頼む。古いのがいいな」そう先生は、窓のすぐ下の楽団に声を掛けた。
「先生、失礼しました。これっきりにします」と返事があって、懐かしいメロディが聞こえてきた。
自然なルールが形成される瞬間だった。
さぼる義務・断る義務・やめる義務
元気であっても、暇があっても、「さぼる・断る・やめる」。どんなにあてにされても、泣きつかれても、おだてられても「さぼる・断る・やめる」。
部活・仕事・付き合いはもちろん、市民運動・慶弔事・・・・あっさり停滞し後退する。それで、大学への推薦や就職がフイになっても「さぼる・断る・やめる」。たとえ勲章や博士号をやる、何とか賞をあげると言われても死んだふりする。敢て義理を欠く。
みんなが頑張っているときに、ひとりだけさぼれない。そうだろうか。そうやって誰もが我慢しているのではないか。誰かが最初の一人になる必要がある。中学生も長時間部活で、体を精神を痛めている。教師のの残業時間は過労死ラインを突破している。
ある福祉施設に、家族にも見放された不満たらたらの老人が入ってきた。「誰が俺の面倒を見るのか」「一体俺をどうしようというのか」を職員にぶつけるが、誰も取り合わない。・・・数日して瀕死の重傷で意識不明の少年が運び込まれてきた。家族で事故にあい、少年だけが助かったが、目も見えず話すことも体を動かすこともできない。回復の見込みはなかった。「まだ小さいのになんてことだ、かわいそうに」「誰が世話をしてやるんだ」と職員に言うと「あなたがやったら」と返ってくる。「なんてことだ」と呟いて部屋に戻る。夜になっても落ち着かず廊下をうろうろする。
意を決して少年のベッドに近づき、「やぁ、坊や」と言って頭を撫でるが反応はない。ベッドの傍に椅子を置いて座って、手を握って「こんにちは、私は年寄りの○×だよ、坊やどうだい」と話しかけると、手を握り返してきた。それから毎晩、老人は手を握って絵本を少年に読んだ。
一週間後、老人は息を引き取っていた。穏やかに微笑んでいたという。
僕はこの話を、雑誌で読んだのだが、探し出すことが出来ない。カナダか米国の話だったと思う。機嫌を損ねた老人が、少年に係わって安らかに息を引き取れたのは、すべての活動から手を引いていたからである。
部活・仕事・付き合いはもちろん、市民運動・慶弔事・・・・あっさり停滞し後退する。それで、大学への推薦や就職がフイになっても「さぼる・断る・やめる」。たとえ勲章や博士号をやる、何とか賞をあげると言われても死んだふりする。敢て義理を欠く。
みんなが頑張っているときに、ひとりだけさぼれない。そうだろうか。そうやって誰もが我慢しているのではないか。誰かが最初の一人になる必要がある。中学生も長時間部活で、体を精神を痛めている。教師のの残業時間は過労死ラインを突破している。
「もしも労働者階級が、彼らを支配し、その本性を堕落させている悪疫を心の中から根絶し、資本主義開発の権利にほかならぬ人間の権利を要求するためではなく、悲惨になる権利にほかならぬ働く権利を要求するためではなく、すべての人間が一日三時間以上労働することを禁じる賃金鉄則を築くために、すさまじい力を揮って立ち上がるなら、大地は、老いたる大地は歓喜にふるえ、新しい世界が胎内で躍動するのを感じるだろう」 ポール・ラファルグ『怠ける権利』人文書院教師はその優しい献身性までが、評価の対象であり、デパートの店員や旅館の従業員は腰の低さと笑顔が売り物になっている。我々自身のものとして残されているのは、不機嫌と怠惰だけ。「さぼる・断る・やめる」ことは、もはや権利ではなく義務である。
ある福祉施設に、家族にも見放された不満たらたらの老人が入ってきた。「誰が俺の面倒を見るのか」「一体俺をどうしようというのか」を職員にぶつけるが、誰も取り合わない。・・・数日して瀕死の重傷で意識不明の少年が運び込まれてきた。家族で事故にあい、少年だけが助かったが、目も見えず話すことも体を動かすこともできない。回復の見込みはなかった。「まだ小さいのになんてことだ、かわいそうに」「誰が世話をしてやるんだ」と職員に言うと「あなたがやったら」と返ってくる。「なんてことだ」と呟いて部屋に戻る。夜になっても落ち着かず廊下をうろうろする。
意を決して少年のベッドに近づき、「やぁ、坊や」と言って頭を撫でるが反応はない。ベッドの傍に椅子を置いて座って、手を握って「こんにちは、私は年寄りの○×だよ、坊やどうだい」と話しかけると、手を握り返してきた。それから毎晩、老人は手を握って絵本を少年に読んだ。
一週間後、老人は息を引き取っていた。穏やかに微笑んでいたという。
僕はこの話を、雑誌で読んだのだが、探し出すことが出来ない。カナダか米国の話だったと思う。機嫌を損ねた老人が、少年に係わって安らかに息を引き取れたのは、すべての活動から手を引いていたからである。
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若者を貧困と無知から解放すべし
「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」 黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。 ...