自治と「他」治 / 「指導」の実態は「妨害」に過ぎない

  承前

 件の高校生が、答案の裏に書きっ放しでは収まらないとわざわざ謝りに来たと言う。口先の語句だけでは責任は示せない、彼も国会中継を見ていたのだろうか。 

 やはり彼は、少年から青年へ成長したのだと思う。政治家も官僚も社長も、党籍離脱や口先や入院で当面の風当たりりをしのごうとする醜さは、少年たちの反面教育に大いに役立っている。

 国会中継を見て幼児が「母ちゃん、あれはバカだね」と言う光景が広がるに違いない。


 しかし好事魔多しという。M先生は生徒会を背負って立つているかに見える高校生に「期待しているよ」と声をかけた。

 「期待しないでください。私はそんな力がないです」と言われて、先生は「しまった」と後悔した。若い教員の過剰な自信と生徒の自信のなさとのギャップの大きさに日頃から驚いていた先生らしい。件の高校生は重荷に喘いでいたのだ。

 医者は肉親が患者になると誤診をする。重荷になるからだ。

 「しまった」は興味深い。

 先生がそのあと続けて「・・・実は僕も力不足でね、教室に入るとき胃が痛くて困ってるんだ」と返せばどうだっただろうか。二人の間に「共感」が生まれたかも知れない。

 評価すれば嬉しくてますます張り切る者もある。評価が重荷になる者もある。評価されるたびに傲慢さを増す者もある。正当に評価することは難しい。すぐさま「しまった」と気付いたことが、さすがと思う。


 日本の学校では、自治が「他」治でしかない。上から目線の指導が好きなんだ。サッカー好きの大人は自らチームを組んでゲームに汗すればいいと思うが、なんと多くの大人が少年サッカー「指導」に押し寄せる。子どもより指導する大人のほうが多いことすらある。

 しかし彼らが指導や自治を知っているとは思えない。第一、学生時代に自治会を経験したことがない、地域の自治活動もない。組合の役員にも学生運動経験者は、吃驚するほど少ない。そのことが、先生の言う「若い教員の過剰な自信と生徒の自信のなさとのギャップの大きさ」に繋がる。つまり自治も指導も、知識だととらえているから妙な自信に満ちる。 

 自治は多かれ少なかれ「独立」への志向を含んでいるから、安定と秩序を求める「当局」の妨害や弾圧に曝されやすい。それゆえ自治意識に磨きがかかるとも言える。進路に有利なんてことは在りえない。

 再就職するサラリーマンが面接で「何がやれますか」と聞かれて、「管理職なら」と口走る話は昔から有名。上に立ち、指示を出す快感が好きなんだ。


 やるもやらぬも決定権は我にあり。それが自治の根底になければならない。文化祭も体育祭も学校行事なら生徒自治会がやってはいけない。毎年その行事ごとに、有志の独立実行委員会を作らねばならない。独立とは決定権を持つという事。集まらなかったら流す。生徒会の目的は自治、学校との交渉が任務。下請けじゃない。


  学生運動や労働運動・社会運動が盛んなヨーロッパにもAALA諸国にも、教師による生徒「指導」はない。    「罰」する機能は管理職にはあるが、教員は係わりを持たない。

 処分する分掌が同時に自治指導する体制は常軌を逸している。そんな関係の下で教師の待遇改善要求に生徒が、生徒の権利獲得に教師が夫々連帯することが出来ようか。

 ここから我々が認識すべきは、我々が「指導」と思い込んでいるのは、実は「妨害」に過ぎないという実態だ。

 そうでなければどうして、大学は生徒会経験者を推薦入試で優遇するのか。生徒会役員経験者は、企業や大学など組織への奉仕を期待されているのさ。舐められるな高校生、反乱しろ。


人格陶冶 / 「みんなで」から「たとえ一人でも」へ

  埼玉のM先生からmailがあった。要点だけを引用させてもらう。

 今日、テストがあり、その解答用紙の裏に、次の文を書いてくれた生徒がいました。

<<たくさん勉強しても点が取れないけど、がんばりを認めてくれたのは先生が初めてです。うれしかったです。・・・。どんなにボロクソな点をとっても勉強をがんばったって認めてくれて本当に本当にうれしかったです。・・・。>>

 <<1学期の件 素直に認められずすみませんでした。自分の非を認められなかった幼稚な考えを改めます。本当にすみませんでした。>>

 同じことを繰り返して書いてあって、そんなにうれしかったのか・・・  (後半の部分は)授業で彼の行動を私が注意したことです。書かなくても、謝らなくてもすむのに。

  M先生はmailで高校の状況をこう書いている。

  <<今、教員は、生徒との「共感」が、授業でも授業以外でも少ない感じました。>>


   教室に授業に共感の空気が流れていれば、褒められても叱られても嬉しいに違いない。そこで生徒も教師も、自己を再発見するからである。自分の本当の姿になかなか人は気付かない、それが欠点であればなおさらのことだ。

 M先生は来年教壇を降りる。彼は日々の授業を、生徒たちとの対話を中心に構成してきた。だからいつも笑いやお喋りに満ちている。ところが去年、何時までもお喋りが止まない。堪りかねた知り合いは、苦言を呈した。

 すると、以外にも「叱ってくれた」ことに嬉しさの感情を見せたのである。ただ甘っちょろくで生徒に迎合するだけの教師ではないときづいたのだ。

 更にこの生徒の場合は、集団として𠮟責されたことを、個人の問題としてとらえ直している。   

 ここにみられるのは、少年から青年への成長である。
 中学生的「みんな」意識に心身ともに拘束される段階から、「みんな」や他人がどうであれ「僕個人」は・・・と自立した価値観を形成する段階への移行という重要な成長の課題がここにはある。高校の前半がこの時期に当たる。静かで深い思索を伴う、しかも個別的で一斉ではない。

 この時期を、日本の少年は軍国主義や集団主義的思考と行動で明治以来奪われてきた。だから官僚も経営者も軍人も「みんな」がしている式の「無責任」が標準となる。国家自体までが歴代の侵略行為に対して「無責任」を貫いてしまっている。


   M先生は、少年の倫理的成長という課題に的確に対応しておられる。高校と中学が互いに独立している意味を教師は深く静かに考えねばならない。受験や部活の便宜のために、人格の陶冶を軽んじてはならない。

 今学校には共感の居所はない、競争による傲慢と絶望が蔓延して学園物のドラマも消えた。tvドラマで描かれるのは犯罪と警察だけになった。

 画像は白バラ抵抗団の一人、医学生だったがナチによって二人の友とともに処刑。彼らはナチス少年団という巨大な「みんな」から知的に自立し、命を賭して闘った。最後に彼らの一人・ゾフィは、命だけは助けようというナチスに向かってこう言った。 

「私は自分が何をしたかを理解しています。機会があるならばもう一度同じことをします。私は間違ったことをしていません。間違ったことをしているのは、あなたたちです」

  この時もなお人々は、ヒトラーの言葉に酔い痴れていた。経済が回っていたからである。


 


若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...