怠けない人間は、反省しないと生き延びられない

羽仁 進 「確かにライオンを見ていると、腹がいっばいになったときは追いかけないし、よけいなものを食っていないように見えるが、それは道徳ではない・・・ 捕れればいくらでも捕るんです。食い過ぎて、半年後は次第に獲物が尽きて、自分たちがどんどん死んでいくという、バカなことをする。雨の日に、食いきれないのにハイエナが何百匹もガゼルを殺したということもある。 それを抑止しているのは道徳ではなく、一種の怠惰さですね。怠けるということも生物的に非常に重要で、人間ぐらい怠けないものは珍しい。 それどころか、人間の世界では、怠けるということは常に悪徳とされてきた。非常にドミナントな、力が強かったり、体が大きかったり、いろいろ生物的な可能性をもっている生物には皆、非常に強く働く怠惰というものがどうも人間にはあまりない。 つまり、怠け者のライオンは反省しなくてもいいんだけれども、怠けない人間はときどき反省しないと、種として生き延びられないんじゃないか」 
小原 秀雄 「そうなると、イヌは働きものになるんですね」 
羽仁 進 「家畜は、怠けることは許されないわけですよ」                                           小原 秀雄・/羽仁 進 『ペット化する現代人』NHKブックス

 怠けることが許されないということでは、日本の生徒も教師も、家畜そのものである。佐高信いうところの「社畜」だけではない。社畜としての基礎を鍛えているのは、学校なのだから難儀である。
 家畜性から脱却するためには、反省して怠けなければならない。「真剣に反省して、一生懸命怠ける」という一種の逆説的道徳性を帯びなければ、怠けられないほど我々は、家畜である。
 皆勤・精勤という習慣は、いつ始まったのだろうか。僕は教員になってから知った。タレントや運動選手が、呪文のように「頑張ります」という光景もなかった。だが今や、年寄りや障碍者までが「頑張」らなければ「いつまで生きるつもりだ」と閣僚から脅迫される。

 手遅れかもしれないが、怠ける訓練をする必要がある。閣僚や企業CEOも。そうでなければ「いくらでも捕るんです。食い過ぎて、半年後は次第に獲物が尽きて、自分たちがどんどん死んでいくという、バカなことを」を繰り返す。
 守銭奴の強欲は死んでも治らず、原爆生産や、原発増設は分かっていて止められない。受験勉強も、青年らしい理性と行動を殺して、受験業界だけが栄えて、国民の知的水準は遅れるばかりである。
  怠ける訓練は、先ず集団から離れることだ。例えば通学電車を終点まで乗り過ごしたり反対方向の電車に乗る、自転車通学でいつも目にしている遠くの丘を目指すことから始めたい。校長も、教育長もだよ。

敗戦と小学生の自治

何でも読まなくちゃ、現代社会は分析できない。
現代社会を知らない者に企業の先行きは読めないよ
   Qさんは、敗戦の年に小学生であった。当時小学校は国民学校と自称していた。国民学校でもGHQの肝いりで自治会づくりが行われる。Q少年は呼びかけに応じて集まった仲間と自治会づくりを始めたが、何をしたらいいかわからない。教員はもっと何も知らない。子どもたちだけで話し合ったという。こういう話し合いは、子どもだけでは無理だ言うが、そんなことはない。日常の生活と遊びにいくらでもヒントは転がっている。
 大切なのは、教師が自信を失い、子どもには混沌と希望があることだ。教師は存在するだけで、子どもに依存心を芽生えさせてしまう。彼は高学年だったので中学性になっても、自治会づくりをしたという。高校、大学でもその経験は生かされた。大学では入学早々、学費闘争が始まる。

 ここで書きたいのは、その後のQさんの生きざまである。工業化学を専攻して、あるメーカーにセールスエンジニアとして就職したが、根っからの正直者であるため顧客には歓迎されるが、売り上げは伸びない。嘘が言えないから他の会社の製品を薦めることも屡々で、僕が知り合った頃は数度目の失業中であった。

 当時僕は高校生だった。Qさんとは同じ団地に住んでいた。あるとき自治会幹部たちが自治会費を私的に流用しているのではないかとの噂を聞きつけ、さっそく調べた。案の定酒宴を繰り返していた。僕はガリ版を切り、部室の謄写版でビラを手刷りした。都内有数の巨大団地だったから、三千枚近くを運び配って歩いた。さっそくいくつかのコンタクトがあった。Qさんからは封書で、高校生を対等な大人として扱う丁寧な共闘の誘いが届いた。
 瞬く間に組織が立ち上がり広がった。機関紙を発行して自治会民主化の狼煙を上げ、臨時総会に持ち込み勝利した。その間様々な邪魔や懐柔そして脅迫も経験した。
 同じ年代の高校生や若者との連絡もつけることが出来た。周辺の零細企業の青年たちとも知り合えた。

 Qさんの書斎には、相対性原理や化学の専門書などに交じって社会科学や哲学の本がぎっしり詰まっていた。休みにはよく訪ねて話を聞いた。高校の社研で学んだことが、彼の経験を通して具体的で身近な像として見えてくるのであった。晩御飯を御馳走になって遅くなることもあった。

 一年経った頃、巨大財閥が外国大資本との合弁企業をつくることになり、Qさんは昔の同僚から「君のような変わり者を探しているらしい」と紹介されて就職した。英語が達者な彼は忽ち頭角を現し、人事課長に抜擢され小田急沿線に引っ越した。
 僕も68年からの大学闘争で暫く会えなかった。怒涛の大学生活を終えて、僕は教員になった。新しいQさんの書斎に入って僕は驚いた。その頃はすでに人事部長になっていたが、書棚は縦にも横にも広がり、図書館の一角のようであった。マルクス・エンゲルス全集もレーニン全集も並んでいた。驚いたのは、部下が時候の挨拶に訪れても、彼は書斎に案内していたことだ。 
 「いいんですか、こんな本を読んでも」と部下が驚く始末。
 「読む自由があるうちに何でも読まなくちゃ、現代社会は分析できない。現代社会を知らない者に企業の先行きは読めないよ」とあっさり言うのであった。
 人事部長として、彼が当時心掛けていたのは中間管理職の負担を軽くすることと休暇を取らせることであった。彼はこう言っていた。
 「課長になれば、みんな子どもが二人はいて其々問題を抱えている。爺さんや婆さんを抱えていたり夫婦の間にも軋轢はあったりする。そんな課長が直接面倒を見られるのは、何人だろうか・・・僕は5人でも多いと思うんだ」

  合弁相手の重役と協議していた時、向こうから
 「Qさん、単身赴任どう思いますか」と唐突に聞かれた。
 「実は悩んでいます」と正直に言うと
 「単身赴任はいけません、あれは人権侵害です。やってはいけません」と明確に言い切ったという。

 労働組合との交渉でも、Qさんにはじれったいことがあった。それは春闘の要求が低すぎること。巨大企業の重役の多くは、労組幹部出身である。だから若い労組幹部も、いずれ重役にと考えてしまう。だから働く者としての要求を、前面に押し出さない。賃金要求も低いが、そのほかの労働条件などの要求は個々の要求を羅列しただけ、やる気の無さが丸見えである。一計を案じて、労組の若者を飲みに誘った。Qさん自身は全く飲めない。会社が公表している書類から、会社がどれだけ儲けているのかの読み取り方から講義しなければならなかった。そして諸要求をまとめるとはどういうことなのかについても、一から教えた。にも拘らず、出てきた要求の低さに呆れた。

 また、社員から制服とバッジの要求が出てきたときは
 「君たちは自分自身ではなく、バッジで判断されたいのか。そんなに奴隷になりたいのか」と怒って、断乎として拒否したという。採用時の面接で書類から出身大学名を削除する試みもした。
  Qさんにはこうした挿話が沢山ある。環境保護活動など地域の問題にも力を注いでいた。小学校から大学まで一貫して自治にこだわった人らしい生き方である。


 僕にとって最も忘れられないのは、公安警察が作成するブラックリストのことである。僕はその存在を高校生の時知り、この国に愛着を持てなくなった。学ぼうとしても全く意欲がわかないのである、まるで脳が硬質の陶器のように何も受け付けないのだ。これは生まれて初めての経験で、閉口した。馬鹿になったかと悩むばかりの虚しい数年が過ぎた。

 例えば高校生の政治的活動家のリストが、データーとして存在する。もちろん大学生、外国人・・・。ぼくはそれを企業の人事部は、使っているのではないかと彼に聞いた。即座にそんなものはないよと否定した。しかしその質問から二十数年、取締役として退職間際、体調の衰えがめだってきたQさんは僕を呼び出して
 「あれは、君の言った通りある。使いたくなかったが、使ったよ。リストに載っている学生は、みんな採用したくなるような突出した能力、魅力的人格の持ち主だった」としみじみ語った。ずっと彼の心に引っ掛っていたのだ、嘘の言えないQさんらしい。
 僕の高校の同期で、このリストに載ったことが明白な者の中に、大企業に採用された者や官僚になった者はだれ一人いない。それは僕の誇りである。


追記 巨大企業に就職した友人で、会社の独身寮に暫く居た者がある。大学時代に使った書籍を持ってゆくのだが、出勤中して戻ると書棚の様子がおかしい、いくつかの本が逆さまになっている。翌日きちんと並べなおしたことを確認して出たが、又逆さまになっている。誰が何の為にと思い、古手の寮生に聞くと
 「それは管理人だ、逆さの本は、思想的に左だろう」という。その通りだとこたえると
 「管理人は、親切のつもりさ。早めに反省して棄てれば良し、そうでなければ報告が人事課にゆく仕掛けだ」彼は憮然として、寮に戻るなり管理人に抗議したが、気になって押入れの箱に入れて出勤。帰ると今度は、それが畳の上に出してある。
  彼は我慢がならず、人事課に直接抗議した。人事課長は知らないと言い、管理人には注意すると約束して一応ことはおさまった。人事課長はとぼけたのか、管理人が功を焦ったのかわからない。昇進に影響はなかったと後から聞いた。
 ある都市銀行の社員寮ではもっと露骨で、入寮に際して心得として禁書の類が言い渡されたという。朝日新聞と世界がダメで、あとはそこから推測しろという。ある宗教団体の新聞とその政党機関紙は、逆に奨励された。これは1970年代のことである。

君が代強制は公立学校教師だけに留まる問題か

 「今日、進化という問題をとりあげて、それを公立学校で教えるのは罪であるとすることができたなら、明日には、私立学校で教えるのも罪とすることができるでしょうし、来年には、選挙演説で話題にしたり教会で教えるのを罪とすることもできるでしょう。そして次には、本と新聞を禁じることになるかもしれません。・・・無知と狂信はつねに活動し、餌を必要としています。一度味をしめれば、もっと欲しがるものです。今日のところは公立学校の教師ですが、明日になれば今度は私立学校です。その次の日になったら、牧師に説教師に雑誌、本、新聞です。裁判長閣下、しばらくすると今度は、人間と人間、宗派と宗派が敵対する番です。それは・・・偏狭な人間たちが、人類に知識と啓発と文化をもたらそうとした人間を火刑に処した16世紀に逆戻りするまで続くでしょう」クラレンス・ダロウ弁護士(1925年進化論を公立学校で禁じる法律を成立させた米テネシー州対スコーブス裁判最終弁論)

  アメリカ自由人権協会(ACLU)は進化論教育を禁じる法律を裁判にもっていくために、進化論を実際に公立学校で教えて逮捕される志願者を広告で募集した。そして実際に進化論を教えて逮捕されたのがレイ・セントラル高校の教師ジョン・スコープスである。スコープスは有罪となり、罰金100ドルが科せられた。裁判自体は、ダロウが反進化論側に神が実際に6日間で世界を創造したわけではないかも知れないと認めさせたことから、ダロウの勝ちとなった。だが、ダロウが罰金額に対して異議を唱えなかったために、裁判自体がないものとされてしまった。裁判による法律の廃止を狙ったACLUの思惑はくずれてしまう。結局1967年にこの法律の廃止が決定されるまで、40年以上もの間、反進化論法が存続した。しかし、自由人権協会(ACLU)の積極的闘争性は羨ましい。



  教員が君が代を唄いたくなければ、私立に行けとという輩は学校管理職や議員にも多い。つまり逃げれば済む個人的な問題と考えている。生徒や親の中にもいる。

 クラレンス・ダロウの弁論は、この「日の丸・君が代」問題の本質をも貫いて、憲法を変えて行き着く先の、ある局面を教えている。「人類に知識と啓発と文化をもたらそうとした人間を火刑に処した」に当たるのは、大逆事件であろう。

ユーモア精神と、死をかけた反抗

 
1518年の改定版は
小国バーゼルで印刷している
アメリゴ・ヴェスプッチの新大陸旅行記『新世界』を読んだ英国大法官モアは、自然に従って生き私有財産を持たない共同社会が実在しうる事を確信し、『ユートピア』を書いた。左にある画像の書名には「最良の社会体制ならびにユートピア新島について。いとも著名にして、雄弁なるトマス・モアによる、機知に富むばかりか、効能もある、真の黄金の書物」とある。

 その『ユートピア』の中に「羊はおとなしい動物だが人間を食べつくしてしまう」という鋭い風刺表現がある。村落共同体を破壊し、農民たちを放逐する囲い込みを進めるイングランド紳士たちを批判している。

  のちにトマス・モアは反逆罪で斬首されるが、処刑されるときでさえ、三つも冗談を飛ばしている。まず断頭台に登るとき、警備長官に、
 「階段を登るのを手伝ってくれたまえ。降りるのは自分でなんとかできそうだから」と頼んでいる。
 また恐怖に震える断頭台の死刑執行人には、
 「きちんと自分の仕事をやり遂げるのだぞ。もし打ち損じれば、おまえの評判に傷がつく」と忠告。そして断頭台に首をのせても、顎髭を斧で切断されないよう脇によけながら、
 「この髭はなんの反逆罪も犯しておらぬからな」と言ったという。

 処刑のわけは反逆、女癖の悪い国王の離婚と国王至上法(国王を、カトリックから独立した英国教会の「唯一最高の首長」とする法)の制定に反対したことが、狂気の王ヘンリー八世の逆鱗に触れたのである。この処刑は「法の名のもとに行われたイギリスで最も暗い犯罪」と評価されている。

 今度の衆院選選挙公約に自民党は憲法改正を盛り込み、「緊急事態対応」を掲げている。これが、ヘンリー八世の国王至上法ナチス全権委任法に並ぶ暗黒を抱えている。
 日本にトマス・モアは現れるだろうか。もうすでに日本の、村落共同体は破壊され、国家の独立までが蹂躙され、国土そのものは核汚染を止めることが出来ない有様である。日本の農民労働者を食っているのは、羊ではない。新自由主義という一見魅惑的厚化粧のバケモノである。この惨状をユーモアを以て鋭く分析する強い知性が、集団にも個人にも必要である。

追記 ゲバラは自分の銃殺をためらう兵士に向かって「おい、撃て、恐れるな」と告げて、兵士をたじろがせている。トマス・モア最後の言葉を思わせる。
 ところでトマス・モアは、肖像画でも映画でも、脇によけるほどの顎鬚はない。それで敢て言った言葉であれば含意は更に深まる。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...