少なくとも卒業までの 三年間、毎日「皇帝」は流れた |
放送室も無い四谷二中ではレコードプレーヤーと剥き出しのマイクが職員室窓際に置かれ、毎朝ベートーヴェンピアノ協奏曲「皇帝」が日本一長い木造校舎を駆け巡った。
雨が降れば授業が中断するバラック同然の代物だったが、校舎自体が巨大な共鳴箱として機能した。
僕は毎朝、曲の始まりと同時に校舎に入った。朝早く教室と廊下の窓を開け放つ。ヒマラヤ杉の森からの空気は冷たく新鮮だった。第一楽章から第三楽章までが流れる間に、生徒が増え音質は軟化するのだった。
プールも体育館も無かった。体育は雨が降れば自習。校庭は50mコースさえ取れない。クラブ活動は週一度、それでも押し合いへし合い。一学級は52人で一学年10~12学級。細長校舎はどんどん奥に伸びた。
図書館の本棚はガラガラ、視聴覚教室も無い。昼休みの居場所もない。だから隣の御苑との塀にはいつもどこかに穴があき、狭い校庭を補う「空き地」として機能した。
伊勢丹書籍売り場や紀伊国屋書店は、書籍不足の図書室の延長であり、生徒の日常に欠かせなかった。伊勢丹からも紀伊国屋からも苦情がひっきりなしに来ていた。彼らは苦情の申し立て先を間違えていた。政権党や文部省に怒鳴りこむべきだったのだ。教育条件整備が任務の文部省は、教育の自由の抑圧や日の丸強制に血道を上げている場合じゃないと。
団塊の世代は、越境入学生流入で限界をこえて膨張。辛うじて机と下駄箱だけはあったが、チョークや職員室までも不足。学区には、歌舞伎町や柳通りの花街、貧民街から高級住宅地が含まれていた。
ならず者や日雇い、芸能人の「洟たれ小僧」、財界人や学者・記者や弁護士の「お坊ちゃん」、社会のあらゆる構成要素がぎっしり詰め込まれていた。いなかったのは、皇族だけ。
それでも二中が「崩壊」しなかったのは、多様性が作る絶妙な動的平衡があったからだ。複数の緊張が絶えず教室や廊下を支配していた。便所裏ではやくざ子弟の「愚連隊」が、チェーンや剃刀の刃で渡り合っていた。カツアゲもあった。休み時間の廊下は生徒で溢れ、女子が安全に歩くのは大変だった。それでも越境生が押し寄せる不思議な「魅力」が二中にはあった。 警察や救急車沙汰にならなかったのは、生徒間の複雑な利害関係が教員や外部の介入を抑止する自前の「公」的繋がり=「コモン」が芽生えていた。
(例えば、やくざの子ども勉強が嫌いな者ばかりではなかったから、教えたりカンニングさせたりの関係もあった。愚連隊生徒の親が、カツアゲされる生徒の親には頭が上がらないケースも稀ではなかった。肩で風を切って校内を歩きはするが、団塊の世代と越境生の中では所詮少数派だったから理不尽には限度があった。HRの議論に「愚連隊」は沈黙していた)
「越境入学」禁止通達と同時に、二中が暴走族のメッカと化したのはその為。通達で越境入学者だけが消えたわけではないからだ。学区内の知的階層や裕福な家庭の子どもたちも私立に逃げ、越境者も地元の公立に戻りはしなかった。選別教育の矛盾は先鋭化、公教育は教育産業の草刈り場と化したのだ。
行政がやるべきは、越境せずに済む自由で平等な学校づくりだった。だがそれは、公選制教委だけが成し得る課題である。何故なら自由で平等な学校は、あらゆる特権を排除するからである。
なにもない学校空間の混沌は、少年たちの知的好奇心を刺激して止まない。スタンダールならCrystallization=結晶化と言うところだ。
休みには、神田や上野界隈の書店・博物館、有楽町日劇地下には科学映画と漫画とニュース専門の映画館があり、小中学生で満員だった。「子どもの科学」付録の小さな部品も、壊れればバラで買えた。この界隈に無いものはなかった。
頼みもしないプールと体育館は、狭い校庭を更に削って造られた。水泳は熱暑しのぎにはなるが、そのあとの授業は塩素臭さが教室に満ち、だるさで頭は働かず居眠りどころか皆が爆睡した。体育館は風通しが悪く、剣道や柔道で打ち身する痛く汗臭さい場所になった。校庭の木陰に腰を下して、体のしくみと運動の理論を学ぶ方がどんなに学校らしかったか。
土建資本は文化や教育を貪欲に喰ったのだ。これが「傾斜生産」の実態だった。気が付いた時には、福祉や医療も環境や平和さえ飲み込んでいた。
四谷二中の施設や備品は、考えられる限り最低であった。しかしその最低を切り盛りして行われる授業や工夫は、素晴らしいものがあった。特に、体育、美術、音楽、理科第一分野は、プールの後でも目が覚めるほど素晴らしかった。公選制教委はすでに無かったが、その精神は教師と保護者の行動の中に消えずに残っていた。それを享受した僕らには、消えた公選制や旧教育基本法を受け継ぐ義務がある。