カメラの脇には大叔母がいて「良かねー、もういっき学校やね」と声を掛けている。そのたびに僕は少なくとも身内にとっての「百万ドルの笑顔」になった。妹はすっかり疲れている。
この妙な写真(上下を切り取ってある)を撮った時期、我が家はどん底。米も買えず、僅か三年余の熊本滞在中に税務署の差し押さえが二度。ろくに家具調度のない長屋に複数の税務署員が上がり込み卓袱台や電球にまで札を張る傍で、母はただ泣くだけだった。食費に窮したおかげで、母のおからとラードを使ったおかずだけが旨かった。当時おからも肉の油もただだった。
にも拘らずこの写真である。まるで付属小に入学する坊ちゃんのような出で立ち。写真館の費用などあったはずがない。表紙付きの台紙に張られて身近な親戚に配られた。
学童服は祖母、ランドセルは大叔母、靴と上履き入れはもう一人の大伯母、写ってはしないが机と椅子は祖父、一緒に写っている妹の靴やバッグは叔母。そのお礼にと記念写真を配らせたは祖母である。
台紙に貼り付けた写真、妹と並んだ入学記念など周囲の誰も撮ってはいない。
贈り物には一つ一つに物語があって、大叔母か繰り返し語った。学帽は方々を歩き回ったが、頭が大きくてどれも入らない、泣きたくなった。取り寄せる羽目に。どれも大叔母が走りまわった。
贈り物の一つ一つの由来がはっきりしている、にもかかわらず、帽子の送り主を僕は聴いた覚えがない。例えば学童服は、祖母が「あたいが購うじ、買わんでよかよ」と母に何度も念を押していた。
学童帽は、恵楓園の祖母の贈り物であったか。写真は恵楓園の祖母のためだけに撮ったのではないか。
眠ったままの面会は、誰の願いだったのか。
最大の謎は、わざわざ熊本に住んだことだ。そしてそのどん底生活を、母は何故容認したのか。
故郷にいれば、いくらか仕事はあった。 叔父の話によれば、国鉄や役場からの誘いがたびたびあり、県内の大きな市からは課長の地位の申し入れもあった。30そこそこの失業技師のどこに目をつけたのだろうか。「兄さんな、なんごち貧乏ば選んだかね。俺には分らんとたい」 続く