対米隷属の源は占領軍上陸以前にある

 『占領軍調達史』という本がある。出版したのは,調達庁占領軍調達史編纂委員会である。調達庁は1952年駐留米軍用の物資や労務などを調達するために設置された機関で、後に防衛施設庁となった。
 『占領軍調達史』は、「工事」「役務(サービス)」「芸能・需品・管材」「占領軍調達の基調」「占領経費に関する統計」の5巻から構成されている。

 日本と同様連合軍に占領されたドイツの場合は、中央政府および元首を認めず、国家の最高権力は四ヶ国からなる占領国の掌中にあった。ドイツ政府を占領軍当局は信用しなかったし、当てにもしなかった。
 ところが日本は狂気じみて一億総玉砕を声高に叫んでいたはずが上陸してみれば、政府が率先して特殊慰安施設協会「Recreation and Amusement Association」(RAA)を、当時の金額で一億円(この年の国家予算215億円)という巨費を投じて開設して待ち受けているではないか。←クリック 占領当局は、日本支配層の奴隷的体質を直ちに見て取ったに違いない。

 高見順『敗戦日記』8月22日には、文報に出かけたおりの事がある。
 「・・・文報のこの奴隷のような性格を私ははじめて知った。・・・ある情報官は今後は、たとえばアメリカの御機嫌をとって貰うような作品を書いていただくかもしれません」と、はっきり言ったという。ああなんということだろう」
 文報とは日本文学報国会の略称、大政翼賛会の一翼を担っていた。事務局は内務書の情報局内。そこで、敗戦から僅か一週間で官僚がこの発言である。
  マッカーサーが、日本の統治を既存の政府を残したまま利用した方が得策と考えたのも無理はない。従ってGHQの要求は、まず日本政府に対して発せられ、それが日本政府を通じて各現場に「調達要求書」として伝えられ事になった。
 敗戦後の天皇制継続はこの文脈で考えるべきだし、天皇メッセージの売国的性格はこの時既に織り込まれていたのである。日本の行政・司法・立法機構の民主化がドイツやイタリアに比べ不徹底であった訳も分かる。又米軍基地地位協定が外国に比べ、著しく不平等である事も推し量れるのである。 
  
 相手に銃を突きつけられる前に予め迎合する日本の支配層は、一体何のために開戦したのか。石油は確保できない。資源もままならない、食料さえ底を尽き、アジア諸国の自然文化と数千万人命を奪い、日本の文化も自然も破壊。そのために若き命を300万人以上を失い、その愚行の為に費やした額は、当時の国家予算の280年分、今日の価値に換算すすれば…4400兆円。
 初めから米英の要求を受け入れて国際交渉を続けた方が、どんなにましだったか。勝つ見込みの無い国家規模の博打に国民を引きずり込んだのである。戦力を持つことの不幸である。愚かな支配者の武装ほど恐ろしいものはない。  

 米軍基地を置く外国にも例が無い思いやり予算も、こうした忌まわしい歴史に載せて理解しなければならない。僕は米国大使館から毎年「突きつけられる」年次改革要望書「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(The U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative)は、「調達要求書」が姿を変えたものだと思う。そうでなければ日本の立法過程も政治過程も甚だ合点がゆかない。公式には1993年の宮澤クリントン会談以来開始され、2009年民主党へ政権交代の鳩山内閣時代に廃止された事になっている。

  年次改革要望書の要求どおりに成立した主たる法案を挙げてみると以下の通り。
1996年 大型自動二輪車の運転免許証制度改正
1997年 独占禁止法改正。持株会社解禁。
1998年 大規模小売店舗法廃止。大規模小売店舗立地法成立。建築基準法改正。
1999年 労働者派遣法改正。人材派遣自由化。
2002年 健康保険本人3割負担を導入。
2003年 郵政事業庁廃止。日本郵政公社成立。
2004年 法科大学院設置と司法試験制度変更。労働者派遣法改正(製造業派遣を解禁)。
2005年 日本道路公団解散、分割民営化。
2007年 新会社法の三角合併制度施行。

 要望書の傲慢さについては、与党議員(小泉龍司)でさえ、衆院特別委員会において、「内政干渉と思われるぐらいきめ細かく米国の要望として書かれている。と指摘している。
 実は、安保条約第2条(経済的協力の促進)は、「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを規定している。傲慢さでの根拠はここにある。
 元来が、占領軍による敗戦国家政府に対する要求指令書であれば、内政干渉になるのも当然である。全面講和を今からでも重要な外交課題としなければならないのである。それもせず、常任理事国入り工作をする神経は独立国としてのものでは無い。

焼酎と説教・説教は頼まれてするもの

 僕の大叔母は、よく頼まれて説教をした。頼んでくるのは、本人か家族であることが多かった。大叔母は、戦争で夫も子どもも無くして、姉である祖母の家で暮らしていた。そこに僕らも暮らした。
   説教がある日、僕は昼前から親戚にやられた。小学校三年生の早春の事だけは少し覚えている。水仙や梅が咲いていた。うろうろして出かけ遅れた僕は、門を出たところで、小さくうな垂れた母親に連れられた若者とすれ違った。硬い表情で、2人とも紋付きの羽織を着ていた。
 僕には、叱ってくれと頼む事そのものが不思議でならなかった。叔父たちに聞けば、大叔母は説教の名人で、遠くからわざわざ汽車でやってくる人もあると言っていた。「町誌」の編纂に加わったある叔父は、
 「お前のうちは代々、水路や城壁の工事を設計監督する下級の侍じゃった。だから皆数学をやる、仕事上計算することがたくさんあるからだ。川の水量や速さ、石や土の量、人夫の数、工期、費用の見積もり。技師としての仕事の他に、避けて通れぬ役目がついてきた。それが仲裁だ。工事をする人夫たちは、気が荒い。喧嘩が絶えない。喧嘩が起きれば仕事は進まない。だからお前の先祖は、人夫たちが喧嘩しないよう気を遣わなければならなかった。揉め事があれは、事情をよく調べ、双方の言い分も聞き、仲裁した。焼酎は欠かせない道具でもあった。
 そのうち、工事に関係の無い揉め事でも、仲裁を頼まれるようになったらしい。明治になつてからは、工事の機会も増え喧嘩も派手になって、仕事をする暇も無い位。あっちこっち仲裁をしていたようだ。中でもお前の爺さんは、仲直りさせるのが上手かった。大叔母さんもその血を引いてるんだ」と何度か話してくれた。 
 「お前の住んでいるあの家も、お前の爺さんが仲裁のために建てたんじゃなかろうか。座敷を開け放しても、周りの家に話し声は聞こえない、眺めはいい。いい景色を見ながら焼酎を飲めば心は穏やかになる。説教が終わる頃には、夕日が桜島の噴煙の中に沈むのが玄関に立てば見える。叱られに来た人も、帰る時には綺麗な景色で気持ちが和むように出来てる。
 お礼は焼酎の瓶一本だけ。食べ物の支度は婆さんたちが朝早くからやるんだ、一銭の得にもならないのに。残した料理は、折りに詰めて焼酎を包んできた風呂敷に戻して渡すのさ」
 「今日ちょっと早く帰ってごらん。叱られに来た親子がどんな顔して帰って行くか、見てごらん」そう言うのだった。
 何度も中を覗いては、入っちゃいかんと制止されたが、やがて客が玄関に出て、親子の顔を見ることが出来た。
 2人とも、昼前見たときとは別人のようだった。晴々と満面の笑みを浮かべながら、見えなくなるまで何度も何度も振り返ってお辞儀を繰り返すのだった。

 鹿児島の方言で、「叱る」を「がる」という。
  「なんごち(どうして)がられっせー(叱られて)嬉しかとやろかい(嬉しいんだろうか)」と大叔母に聞くと
  「ここに来る決心をしたときには、大抵どっちとも大体の反省は出来ているものだよ。ただどうして啀み合うようになったか、順序立てて話を聞く、揉め事には言いたいことが双方に山ほどある、それを全部聞くのさ。言いたいことを言い終わると重く胸を塞いでいたものが消えて体中が軽くなる。その頃、焼酎を飲みながらお膳をつつく。そうすると、啀み合っていた時には出来なかった話も出来る。あれもやろう、これもやろうと相談もする。
 だから、あたいゃ(わたしゃ)がりゃせんでんすんとじゃ(叱らないでも済むんだよ)」  そうか、だから暮れの大掃除や餅つきや薪割りには、説教された人たちが来て加勢してくれたのだろうと思う。

  学校の生活指導としての説教=訓戒は、こうした「とき」を待ち「頃合い」をはかる事が無い。学校の都合に合わせて、最悪の時に説教してしまう。立ち直りを台無しにしたり、拗らせてしまったりするのだ。そもそも「説教」は、分掌として引き受けたり、職員会議の決定でやるものでは無い。最大の欠点は、説教と罰を一体化させてしまったことにある。
 本人たちから頼まれるような関係を、「授業」や生活の中で自然に作り上げねばならない。それは面倒くさい回り道だが、結局は最も効果的なのだ。
 「バカの考え休むに似たり」これは大叔母の口癖であった。

願い事は、最も相応しい時期を選んで向こうからやってくる

 1980年代の終わり頃のことである。傘がないとき雨に降られると、上着をたたみ鞄に押し込んで、びしょ濡れになって帰宅する生徒がいた。A君である。彼は左利き、小学校の担任は左利き矯正に異常に"熱心"だった。A君の担任によれば、今の日本は全てが右利き前提で文字さえ右手で書くように出来ている。受験には不利だから「直して"あげ"なければならない」そう思い込み、他にも2人いた左利きと共に「指導」された。A君たちが左手を使うと、級友たちに注意して"あげる"よう「指導」した。A君の左利きは"直らない"、A君もご両親も苦しんだ。人間は他人の苦しみは、いくらでも我慢できるのだ。なかなか右手を使えないA君に級友たちの意識が集中して注意される、担任にも報告がゆく。担任は叱る。叱ってなおるものではない。
 僕は、小1の初め筆圧が高すぎて、書き方帳は破れ鉛筆の芯は削っても削っても折れ続けた。おかげで小刀の扱いは忽ち上達したほどであった。担任の松本先生は笑って、土曜日の放課後何度か補習をしてくれた。←クリック
 おかげでますます授業が好きになった。A君の担任のようなやり方だったら、僕はあっさり登校を止めていたと思う。 A君は右手を使えない自分を責めるようになった。血が出るまで手を掻いたり、頭を壁にぶつけたり、自傷行為が始まる。ご両親の戸惑いが目に浮かぶ。ご両親は左利きを肯定して励まし続けた。が、担任は頑固だった。
 中学生になり、左利き矯正強要はなくなった。卓球部に入り、左手を使うととても上手い。A君は、左手を使うと相手に悪いと、あまり上手くない右手を使い続けた。自傷行為は時々あったが、少なくなった。校生になって、僕のクラスになった。決して付和雷同する事はなく、いつも文庫本の小説を読んでいた。周りの生徒が心配して、僕に相談に来るほど寡黙であった。

  B君も無口だ。中学でいじめに巻き込まれて登校拒否気味になった。いじめられる本人ではなかったが、周辺にいた。いじめられた当人のご両親の訴えに、担任は正面から向き合う事はせず、対立してしまった。この対立的関係はB君にも及び、B君もB君のご両親も悩み自殺まで考えたと言う。
 高校に入って、B君は忘れ物がひどくなった。毎日のようにお母さんはB君からの電話で学校に走った。高校にも適応できず又登校拒否するのではないか。お母さんは心配した。
 しかしいつの間にか忘れ物は全く無くなった。僕はB君が忘れ物していることにすら、全く気がつかなかった。B君のお母さんからこの事と次第を打ち明けられたとき、彼は既に良き友人を得ていた。相変わらず無口で、笑う時も控えめなのだ。

  どんな教師が子どもの担任になるかは、親にとって気が気ではない。まさに命に関わる重大事である。

 5月連休明けの遠足でA君とB君は突然脱皮した。行き帰りはバスだったのだが、生徒たちは意外なことを言う。バスガイドのお喋りや歌が鬱陶しくて煩い、というのだ。生徒たちは知恵を絞った。目的地は甲府郊外、クラスに甲府生まれの明るい少年がいて彼にガイドをさせたのである。「あれがおじいちゃんの会社です」「あっ、近所のおばさんだ。○○さーん」などと言いながら名所を解説して笑わせた。帰りは、ガイドがマイクを握り失地回復とばかりに張り切ったが、生徒たちは遊び疲れて「お姉さん、静かに寝かせてよ」と言う。「元気ないわね」と不満顔であった。一時間ぐらい寝た頃、突然T君が飛び上がるように座席を駆け巡りながら歌い始めた。一気に盛り上がり皆が手拍子する。T君はB君にマイクを投げB君も跳ねながら唄った。B君はA君にマイクを投げた。A君は「いくよ」と言うと同時に車内を舞うようにして唄った。学校に着いても皆の興奮は収まらず、しばらくバスは揺れ続けていた。

 遠足の帰路で3人はヒーローであった。だが学校の日常が始まると、3人は元の穏やかな凡人に戻った。もう誰も彼らを心配しないで安心している、少し笑顔が増えたかも知れない。僕はこんな人間関係が気に入っている。

  「願い事は心の深いところで願っていれば、いつか実現する。最も相応しい時期を選んで向こうからやってくる」多くの思想家が同じ趣旨の事を言っている。僕は「忘れた頃、思いがけずやってくる」ような気がしている。 もっとも「心の深いところで願う」と「忘れた頃」は同じ事を言っているのだが、願う行為はどこかで押しつけがましさを産んでしまう。遠足の帰路で3人が突然みんなを興奮させた出来事も、僕が彼らの「無口で孤立」した現象を忘れて「対策をとらなかった」から湧き上がった事だと思えるのだ。

追記 A君の場合もB君の場合も、憲法に関わる人権問題として正面から申し入れる事が大切だと思う。それが憲法を豊かにする事だし、行政に憲法を尊重させることになる。
 誰が担任になっても安心できる仕組みは、憲法に内包されている。しかし使わなければ錆び付いてしまう。いま錆び付いている。
 校長や教委までもが、無理解であるなら、指導の停止を求めて仮処分を申請する事も考えるべきである。

指導する人間の最も重要な任務は、できる限り早く消える事である

 僕はOkxfordの漕艇methodが気に入っている。通常、漕ぎ手と舵手でクルーと呼ばるチームを構成する。頭の薄くなりかけた大学院生から新入生までがオールを合わせる。舵手は体重が軽い方が有利だから、女性が務めることもある。

  勉学を優先する。日本の体育会お得意の合宿所で共同生活して毎日練習するわけにはゆかない。いつも一緒だから仲良くなれるなどと考えない。普段の別々であることを尊重しているからこそ、チームワークが保たれるのだという。これはとても大切な事だ。日本では「同じ釜の飯」を団結の証にするが、ながく続けば、互いに粗が見えて諍いも起こる。それを避けるために互いに我慢を重ね、精神的健康を損ねてしまう。集団の規律のために、互いの秘密を共有するのが我が国の集団主義の特徴であり、それが強さの秘訣だと錯覚している。異質な部分を次から次に排除してしまう事になる。

 対してOkxford methodの場合、互いに距離を保ち私的領域には干渉せず尊重する。ナチスに徹底的に抵抗した英国的自由主義の基礎がここにもある。
 普段の練習は、自分の身体の特性にや弱点を考えて個人が行い、週に一度土曜の午後にはオールを合わせる事に集中する。体は一人ひとり、各部分の長さも筋肉も重さも異なっている。異なった体が同じ動きをすれば、オールの動きは揃わない。オールの動きを合わせるには、一人ひとりの動きは微妙に違っている必要がある。
 日本の漕艇部の殆どは、オールを合わせるために、生活の全てを統制していしまう。これは漕艇部に限らないし、スポーツ組織に限らない。入社前に合宿し愛社精神を叩き込んで入社式をやり、伊勢神宮で集団禊ぎをしなければ、安心できないのだ。

 指導する人間の最も重要な任務は、できる限り早くクルーから見えないところに消える事である。指導者を中心にしたり、当てにしたりは最も避けなければならない。
  僕が漕艇で一番気に入った習慣は、動作を終えるごとに「ありがとう」とコックス(舵手)が皆に言うことであった。この「ありがとう」が自然に出るようらなると、クルー全体がなんとなく紳士らしく見えて、他のクラブと一線を画すのである。従って、準備から終了までも、学年関係なく平等に作業する。

 漕艇で最も権威ある試合はHenley Royal Regattaで、Wimbledon、Royal Ascot Race Meeting、The Open Championship と並ぶ初夏の風物詩である。勿体ぶった主催者の挨拶や宣誓などは一切なく、第一レーススタートの合図が始まりである。放送もない。賞杯を受け取るのも、キャプテンが全く区別のない観客席に上がり、お辞儀や礼も表彰の言葉もなしに片手で受け取り握手をして終わり。Royalとはいうものの、スポーツの前では徹底して平等なのだ。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...