人はひとを評価出来ない ① 教科「道徳」を嗤う/ 志賀直哉の慧眼

スペイン風邪は日本でも猛威を振るい48万人が死んだ
 志賀直哉に「流行感冒」という短編がある、1919年の作。流行感冒とは、世界的に流行したスペイン風邪をさす。世界で5億人が感染、死者5,000万から1億人を出した。日本での死者は最新の研究では48万人、当時の日本人口の1%が死んでいる。今で言えば、100万人の死者である。
 

 主人公には妻と幼い女の子があり、女中が二人いる。晩秋の我孫子が舞台で流行性の感冒が近づく。主人公夫婦は娘の健康に臆病なほど気を遣って、二人の女中にも人混みに近づかぬよう厳しく言いつけていた。ところが、女中の石が町にやってきた芝居を見に行ってしまう。問い詰めても嘘を言い張り、もう一人の女中きみにも嘘をつかせる。腹を立てた主人公は、石に暇を出すことにする。しかし妻は、自分たちも後悔することになると反対して、石は奉公を続けるのだが依然として嘘を認めない。そうこうしているうちに、スペイン風邪が流行り出す。主人公も妻も感染して、看護婦を二人雇う。その看護婦の一人もきみも感染して、幼い娘の左枝子まで感染してしまう。

 「今度は東京からの看護婦にうつった。今なら帰れるからとかなり熱のあるのを押して帰って行った。仕舞に左枝子にも伝染って了って、健康なのは前にそれを済ましていた看護婦と石とだけになった。そしてこの二人は驚く程によく働いてくれた。
 末だ左枝子に伝染すまいとしている時、左枝子は毎時の習慣で乳房を含まずにはどうしても寝つかれなかった。石がおぶって漸く寝つかせたと思うと直ぐ又眼を覚んて暴れ出す。石は仕方なく、又おぶる。西洋間といっている部屋を左枝子の部屋にして置いて、私は眼が覚めると時々その部屋を覗きに行った。二枚の半纏でおぶった石がいつも坐ったまま眼をつぶって体を揺っている。人手が足りなくなって昼間も普段の倍以上働かねばならぬのに夜はその疲れ切った体でこうして横にもならずにいる。私は心から石にいい感情を持った。私は今まで露骨に邪慳にしていた事を気の毒でならなくなった。全体あれ程に喧しくいって置きながら、自身輸入して皆に伝染し、暇を出すとさえ云われた石だけが家の者では無事で皆の世話をしている。石にとってはこれは痛快でもいい事だ。私は痛快がられても、皮肉をいわれても仕方がなかった。ところが石はそんな気持は気振りにも見せなかった。只一生懸命に働いた。普段は余りよく働く性とは云えない方だが、その時はよく続くと思う程に働いた。その気特は明瞭とは云えないが、想うに、前に失策をしている、その取り返しをつけよう、そう云う気持からではないらしかった。もっと直接な気持かららしかった。私には総てが善意に解せられるのであった。私達が困っている、だから石は出来るだけ働いたのだ。それに過ぎないと云う風に解れた。長いこと楽しみにしていた芝居がある、どうしてもそれが見たい嘘をついて出掛けた、その嘘が段々仕舞には念入りになって来たが、嘘をつく初めの単純な気持は、困っているから出来るだけ働こうと云う気持と石ではそう別々な所から出たものではない気がした。
 私達のは幸に簡単に済んだが肺炎になったきみは中々帰って来られなかった。そして病人の中にいて、遂にかからずに了った石はそれからもかなり忙しく働かねばならなかった。私の石に対する感情は変って了った。少し現金過ぎると自分でも気が咎める位だった。
 一カ月程してきみが帰って来た。暫くすると、それまで非常によく働いていた石は段々元の杢阿弥になって来た。然し私達の石に対する感情は悪くはならなかった。間抜けをした時はよく叱りもした。が、じりじりと不機嫌な顔で困らすような事はしなくなった。大概の場合叱って三分あとこは平常通りに物が言えた


 石に縁談があって、実家に戻る。このとき主人公は四谷に引っ越していた。

 「いよいよ石の帰る日が来たので、先に荷を車夫に届けさして置いて、丁度天気のいい日だったので、私は妻と左枝子を連れて一緒に上野へ出かけた。停車場で車夫から受け取った荷を一時預けにして置いて、皆で動物園にいった。そして二時何分かに又帰って改札口で石を送ってやった。
 私達には永い間一緒に暮した者と別れる或気持が起っていた。少し涙ぐんでいた石にもそれはあったに違いない。然しその表れ方が私達とは全く反対だった。石は甚く不愛想になって了った。妻が何かいうのに禄々返事もしなかった。別れの挨拶一つ云わない。そして別れて、プラットフォームを行く石は一度も此方を振り向こうとはしなかった。よく私達が左枝子を連れて出掛ける時、門口に立っていつまでも見送っている石が、こうして永く別れる時に左枝子が何か云うのに振り向きもしないのは石らしい反って自然な別れの気持を表していた


 この無愛想でかたくなな石の一途な心情を、なんと言うべきだろうか。傾慕と言う単語が浮かんで、僕は唐突に「坊ちゃん」の下女 清 を思った。夏目漱石は「坊ちゃん」で清を随分書いているが、坊ちゃんが幼児の頃のことは書いていない。清のモデルは漱石の友人の祖母である。だから墓は養源寺実在するが「清」のでは無い。
 志賀直哉はかたくなで一途な下女の心情を、漱石に増して書き込んでいる。

 
 「然し私達の石に対する感情は悪くはならなかった。間抜けをした時はよく叱りもした。が、じりじりと不機嫌な顔で困らすような事はしなくなった。大概の場合叱って三分あとこは平常通りに物が言えた」の件もいい。主人公の人間が出来てきたのである。
 人に「己をもって人を律す」類いの説教を垂れるたがる人間にこの箇所は読ませたい。特に学校の教師、分けても校長や教頭に。「背負うた子に教えられ」とはよく言うが、「叱る相手に教えられ」ことには及びもつかない。大抵気分が激しているからである。
 

 「私は・・・眼が覚めると時々その部屋を覗きに行った。二枚の半纏でおぶった石がいつも坐ったまま眼をつぶって体を揺っている。人手が足りなくなって昼間も普段の倍以上働かねばならぬのに夜はその疲れ切った体でこうして横にもならずにいる。私は心から石にいい感情を持った。私は今まで露骨に邪慳にしていた事を気の毒でならなくなった。・・・石だけが家の者では無事で皆の世話をしている。・・・私には総てが善意に解せられるのであった

 もの言わぬ石の左枝子への傾慕が、主人公の人格を静かに淘汰している。無言のうちに
「己をもって人を律す」ことの危うさを主人公に教えたのだ。
 文部行政の「売り」教科「道徳」のせっかちで浅薄な人間観の中では、石を咎め反省させる以外の結末は無い。皆が不満たらたらで不幸になる。何も学べない、従って誰一人成長しない。そのどこに教育があるか。  続く

人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である

  
人間の尊厳は不可侵と宣言し、それをを守る覚悟
ベトナム戦争中、米国は同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約(武力紛争に際し、戦闘行為に参加しない民間人や、戦闘行為が捕虜、傷病者などの保護を目的としてつくられた条約。ジュネーブ条約がつくられたのは、武力紛争の最中であっても、人道をふみはずす行為は許されないという世論があってのこと)を遵守した。
 ドイツは米国の民族皆殺し政策に加担せず、南北ベトナム双方の民間人を治療した。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んだ。沖縄の米軍基地を爆撃に使わせるのを断って、日本が病院船を派遣すべきだった。沖縄とベトナムなら補給や重傷者の移送も迅速に行われたはずだ。憲法九条を持つ国にそれが出来なくて、ドイツには可能だったのか。
 
    ドイツ憲法第1条
   人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である。

    日本国憲法第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

  「人間の尊厳」とは、その存在の尊さ言う。存在の無条件の承認である。何かが出来るから、名門に合格したから尊いのでは無い。大会を勝ち抜いてメダルを囓る姿が素晴らしいのでは無い。生きている事実そのものが尊い。
 そんなことは言われずとも分かっている筈なのに、我が子や我が校が一歩でも抜きん出ることを目指してしまう。  


 「だのに何故、歯をくいしばり、君はゆくのか、そんなにしてまで・・・」。映画「若者たち」の主題歌は、そう歌っていた。貧しい兄弟たちは、助け合い罵り合いながら、平等と正義を求めて苦闘した。しかし、食うや食わずからの貧しさからほんの少し抜け出して見れば、助け合いや平等への熱情は冷めるばかり。競争とは無縁の高校生のクラブ活動分野にまで、無理矢理競争が持ち込まれている。連帯と友情の影はきれいさっぱり消えている。

 映画「若者たち」に、気に入りの場面がある。兄弟唯一の大学生サブが、破綻せんばかりの悩みに打ち萎れる友達に、工面したなけなしの金を貸し、笑いかけながらこう言うのだ。「いっちょう揉んでやるか」、そして、二人して
大学の森を駆け抜けてグラウンドに向かう。サブはラグビー好きだったが、学費のためのアルバイトと学生運動で、クラブに属する贅沢は出来ない。しかしどこからかボールを調達して来て、芝を駆け回る。スポーツは、こんな働く青年たちのものである。たまの偶然に出来た僅かの時間に楽しめる、そんな開放的仕組みがあっての「人間の尊厳」だろう。
 
 資金と時間を持つ者だけが特権的にグラウンドを占領し、当局の補助とマスメディアの称賛をあてにメダルを目指す。貧しい者たちは、見るだけ、憧れるだけ。ここに個人の尊厳は無い。メダルを稼ぐ奴隷と、賃金奴隷だけだ。

 尊厳が組織や集団のものとなれば、個人は組織に属することを誇るようになる。組織が尊厳の単位になれば、外部を排除する意識は生まれやすい。それが民族単位になれば、排外主義となる。
 
 日本国憲法では、権利の対象をわざと「国民」に限定している。戦中は強制同化して「日本人」
としての死を強要した諸民族を、都合よく「尊厳」ある人間から排除して恥じない。日本を見苦しくアジアから隔離する意識が、13 条にはある。
 戦犯としてのけじめもつけぬ「天皇」を、
憲法本文の冒頭に置いたのでは、「人間の尊厳は不可侵」を掲げた憲法とは言い切れまい。だから日本国憲法第十三条は歯切れが悪い。
 第一条と第十三条とでは、覚悟が違うのだ。「公共の福祉に反しない限り」を挿入して、権利そのものの範囲を恣意的に限定することも可能にしてしまったのである。
 ドイツ憲法第1条と日本国憲法第十三条は似てはいる。しかし状況によって逆方向を向いてしまう。
 
 例えば、我々は公立学校の選別体制が、「人間の尊厳」に関わる桎梏と捉え闘ってきただろうか。それを憲法を守ることとして覚悟してきたか。
 制服や持ち物から個人情報が即座に読み取られてしまうのだ。創立100周年偏差値72 のA高校という情報を体の表面に貼り付けた少年と、定員割れで閉校寸前の偏差値38のZ高校という袋を被せられた少年の、3年または6年、場合によっては死ぬまでの生涯が、どんな格差を孕んでいるか分からない奴らにひとを指導する資格はない。高校生にとっては、偏差値が僅か「1」違うことが蔑視や劣等感の根拠となって、映画「若者たち」的青春を遠いものとしているのだ。その悔しさ悲しみを想像出来ないか。

 すべての青少年が「尊厳」ある存在であるためには、選別は許されない。生徒の尊厳を守るために選別体制廃止を主張し闘う覚悟を、日本の教師や学生は持ったことがあるだろうか。生徒には、学校や教師の尊厳を強要して「起立・礼」を強制したでは無いか。
東大闘争は、選別体制に一瞬でも立ち向かったか。尊厳を我々は分かっていない。
 「公共の福祉」を盾に一人一人の尊厳を押しつぶす行政の理不尽を、若者の意識に初めて植え付けるのは学校なんだ。

 人としての尊厳は不可侵であることを前提として、public =「公」の概念は形成される。そこに「公共の福祉に反しない限り」を被せれば、公=「おおやけ」は集団を覆う何重もの大きな屋根としての「大家」に過ぎなくなる。だから世界のどこでも許されていない米軍の理不尽や無法が、広義の「公共の福祉」としてまかり通るのである。(未完)

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...