黒人知識人自縄自縛と「底辺校」教師の苦悩

 南北戦争後、ボストンに住んだ黒人エリートたちは、能力主義が人種主義を克服すると信じ、黒人の生活の実態を見ようとはしなかった。第一次大戦で、黒人は人口比以上の徴兵に協力したが、軍内部で差別を受けた。人種は厳格に分離され、黒人兵は勇気を疑われ、戦闘部隊ではなく補給や雑役に回された。そして、戦後アメリカに帰った黒人兵士たちを待ち受けていたのは、人種暴動とリンチ。1919年末までに、30件の暴動、80人がリンチ殺人。うち14人が火あぶり、うち11人は元兵士。
 黒人知識人の多くは自縄自縛に陥る。人種差別はある。しかし、黒人への特別な配慮や対策を要求したり、黒人が団結して抵抗してしまえば、本来あってはならない人種という区分を許すどころか強調することになる。やるべきは、人種カテゴリーの解体だから、差別は個人の努力と才覚によって乗りこえるほかないのか・・・。
 人種主義を直視し、正面から受けとめるべきだという声は同時代の黒人からも上がった。現実に対して目をつぶっていては何もできない。

   日本の「底辺校」の教師たちも、ボストン黒人エリートたちと同じ立場にいる。世間は学力が低迷する者たちの、学力や生活習慣などといった個人的問題以上を見ようとはしない。「底辺校」の教師たちは、個人的問題以上の、階層の問題があることに気付きはする。しかし個別に補習を施して個別に脱出を試みるのみだ。階層構造はそのままに順位の入れ替えにはしる。「努力したものが報われる」と。貧困の連鎖も個人の努力と才覚によって乗りこえるほかないのか。たとえ大学に入れたとしても、奨学金破産が待っている確率は低くない。
 「仕方ないじゃないか、ほっとけないじゃないか、どうしろというのだ」その通りだ。しかしそれではこの地獄の存続を助けるだけだ。貧困の連鎖は人を替えて、深くなる。

 人種問題に比べれば、その気になりさえすれば解決は単純で早い。学力というカテゴリーを解体するだけだ。そして、学力=地位=所得の結びつきを無効化する。既得権を持つ者が猛烈に抵抗するだろうが、既得権や特権は、何時でも直ちに廃止しなければならないものである。
 どんな職業に就いても、ほぼ平等な所得を保障する。すると、生徒や学生がこう言う。「それじゃ、頑張って勉強する者が居なくなってしまう」。それでいいのだ。学ぶ事か好きな者が学校に通えばいい。患者が好きになれない者が医者になる必要が無いのと同じである。現に、キューバでは医者になる学生は、収入に惹かれて医学部に入るのでは無い。人々に奉仕したいという動機で選んでいる。従って医者の所得は、他の労働者よりはむしろ低い。学歴・学校歴差別もなくなるだろう。
  そして全ての入試は廃止する。毎年の進級試験が事実上の「入試」になる。これは厳しくする。だから大学全体の定員を増やす必要は無い。公立高校は一番近い高校に入る。どうしても名門に拘るなら、希望者の少ない高校を名門の分校舎にする。教師も一番近いところで教える。希望するクラブが無いと言うならば、何処のクラブでも自由に入れるようにする。授業も同じ。小手先の工夫はいくらでもある。指定校推薦も姿を消すから、高校生も推薦書を気にして諂う必要がなくなる。遠距離を通学する高校生が減るから、通勤電車は楽になる。教師も近いところに通うから、概ね徒歩か自転車だ。全体では通勤手当が劇的に減る。入試が無くなれば、大学も高校も、普段の授業に打ち込めるだろう。入試に伴う費用も。数十万円数百万円単位で節約できる。
 塾や予備校などの受験産業は要らなくなる。この非生産的分野の資本と労働者は、人手不足に喘ぐ福祉・医療や伝統工芸などの生産的分野に回るだろう。塾の跡は、保育園や幼稚園に使える。入試の廃止には先例もある。イタリアである。

   大いなる不安がある。制服の無い高校でも、生徒達は「なんちゃって制服」で揃えてしまう。そこまで同一であることに拘るのに、何故仕事の待遇を平等化することや学校間の格差を無くすことには嫌悪感を顕わにするのだろうか。ここが、入試廃止の厄介なアキレス腱になるとおもう。
   僕らは、平等に絶えられずに、見かけの画一性に逃げ込むのだろうか。かつて「八紘一宇」「五族協和」を声高に叫んだくせに、現地では暴力的な差別と虐待に明け暮れた我々なのだ。実質的平等を回避して、言葉の上の平等に酔うのだ。平等と自由が結びついていない。
   制服やなんちゃって制服で同調することは、実は内部を揃え画一化して、他校との差別化を誇ることである事に気付かねばならない。高校生も大学生も労働者も、思考停止に追い込まれ、互いに連帯できないのだ。我々は地獄を自作している。

「・・・もう君に教えることはない」こう置き手紙をして逃亡してしまう教師。どんなにその美しきが僕を打っただろう

 「・・・コロレンコの小説の、某という家庭教師だった。小説の名も忘れ、コロレンコでなくてゲルツェンだったかも知れぬ。とかくそれはロシヤへやってきた渡りもののドイツ人青年家庭教師だった。 
   ロシヤ貴族特有の半アジヤ的空気のなかで、身分の低い若いドイツ人が一心に子供を教えて、子供がまたなつく。馬鹿にされながら、居候あっかいされながら、子供を、持ってきたヨーロッパで教育して、師弟は学友になり、この師弟・学友関係がもうひとつ高い段階へのぼろうとするところである朝教師が逃亡してしまう。 
 私は君を私の能力の限界まで教育しました。これ以上君に教えることは私にありません。私はほかへ出かけましょう。こう置き手紙をして手ぶらで逃亡してしまう。どんなにその美しきが僕を打っただろう」
  これは『五勺の酒』で、旧制中学の校長が友人に宛てた手紙の一部分である。

  『五勺の酒』を初めて読んだ初めてのは、教師になりたての頃。この箇所を美しいとは思わなかった。自分の無能を悟って去るのはいいとして、何故「これ以上君に教えることは私にありません」になるのだろうか。知る・学ぶという事は、その度に、知識で頭や心が埋まってゆくことなのか。教える方は、それが段々空になるのか。
 僕は、識るたび学ぶたび加速度的に、疑問と好奇心が増えてゆくと考えている。分からないことが増える、それが社会を、世界を、歴史を、宇宙を認識する事ではないか。分かることによって分からない事が増えるとは、我々の内的世界が膨張しているという事だ。これが学ぶ喜びの核になる。
 だから「限界まで教育」するという言い方は、宇宙に限界があるという宇宙観と同じく詰まらない世界観であると思った。
                                               
 一度作った講義ノートを後生大事に、紙が黄ばんでも使う教師は絶えない。大学に合格した途端、勉学意欲が急速に萎えてしまう学生は多い。そして読解力も表現能力も衰えるのである。高校と大学で教えた経験から、青少年の勉学意欲の頂点は、高校二年であると僕は自信を持って言う。外国の夏休み、図書館に朝早くから大勢の学生が並んでいるのをよく見る。特定の日だけに並ぶのではない。まるで時が過ぎるのを惜しむかのように、毎日図書館に並び、並んでいる間もノートを広げるのである。日本の大学でそんな光景を見た事はない。

 青少年の好奇心や疑問に限りがない以上、教師の好奇心や疑問は更に多様で深いものである必要がある。高校の教科職員室の壁は書架が作り付けられ、びっしり書籍が並んでいたものだ。1970年代、80年代までは。飲み屋での話題も教科や専門そして生徒のこと抜きには済まなかった。何処の学校にも地域の大きな書店が出入りして、教員にカードを発行して割引で書籍を届けてくれたものである。
 しかし高度成長を経て、教師の話題にゴルフや車が増えるようになった。先ず工業教科の教員、何故なら彼らには産業教育振興手当が付いていたからである。ゴルフや車に時間も興味も盗られていったのである。学ぶ意欲を無くしたのは、教師が先である。

 シュタイナー学校では12年間の教育のうち、1学年から11学年までを一人の教師が受け持つ。三回担任すれば、33年、担任が終われば数年の空きがあるからこれで定年を迎えてしまう。11年間の全ての教科を受け持つから、大変ではある。しかし生徒たちの成長の全てを把握する事も出来る。時間割は担任に任される。一週間続けて算数という事はざらにある。何ヶ月も数学がないこともある。1年生にとって先生は何でも識っている「スーパーマン」である。それは裏切られない。教員の養成課程で十分な準備をし、絶えず研究するからである。
 しかし11年生になると、担任はある贅沢な不安を抱える。それは生徒達が、何時担任を批判し始めるかである。「あいつの限界は・・・」という声が聞こえてくるのをソワソワと待つのである。そしてそれが聞こえて、担任は「ほっ」とするのである。この時が発達段階では、自立の時期である。高校二年生、そういう時期である。日本ではそれに相応しい体制をとっているとは言いがたい。12学年は各自が、自分の進路を考えて行動するのである。

 その点では、「置き手紙をして手ぶらで逃亡」した教師は、懐いて学友になった子どもを自立に導いたのであるとも言える。教師が生徒から自立出来ず、何時までも指導したがる傾向は日本では強い。その点でも逃亡は必要といえる。

 僕は読みが浅かった。中野重治がこの旧制中学校長を描いたとき、校長は戦中の中学生を相手にしていたという設定だ。その頃この校長は、コロレンコを読んでいるのである。  日本中が八紘一宇や五族協和といった実体のない大きな価値に振り回されている最中に、この校長は「師弟は学友になり、この師弟・学友関係がもうひとつ高い段階へのぼろうとするところで・・・置き手紙をして手ぶらで逃亡してしまう」。それに、打たれる事の意味を僕は捉え損ねていた。

   当時全国の校長が、満蒙開拓団や予科練生徒の割り当て消化に鎬を削っている時に、個別の師弟関係に打たれる事の「非国民」性を思わずにはいられない。特攻機で命を捨てることを美しいと中学生自身が信じ切っていたのだ。教師はそれを煽っていた。そんな時巨大な歴史の逆波に、敢えて抗しなければ「置き手紙をして手ぶらで逃亡してしまう」事の美しさに打たれはしない。ロシア貴族の子どもと家庭教師の間に潜む、小さく私的な繋がりに拘ることで、大きな価値を疑うのである。それは戦中の作家としての中野重治の生き方そのものである。転向した作家の中で、彼ほど体制に媚びなかった者はない。

「政治家も噺家も金儲け考えるようになったらおしまいだよ」教員も

 2018年4月14日、金子勝教授の怒りを込めた演説があった。

 ・・・安倍は歴代の首相の中で、最も愚かな首相であります!
論理的に考える能力が著しく欠けています。でもバカほど恐ろしいものはない。自ら愚かであれば批判する者を強権で弾圧します。佐川や迫田や昭恵や谷や今井は自由なのに、籠池は8ヶ月も閉じ込められています。
 都合悪い真実をしゃべる者は監獄に閉じ込めておくということです。これは共謀罪そのものです。愚かな安倍は、官僚に言うことを聞かせるために、人事局を握って、昇進やあらゆる手段を使って、言うことを聞かせて、自ら権力者であることを誇ろうとしているわけです。
 バカだからです。いいですか? バカほど、愚かな者ほど、恐ろしいものはありません。なぜなら、過去の独裁者は全て愚か者だからです。私たちは、自体を甘く見ず、愚かな安倍を絶対に許さず、徹底的に辞めるまで追究しないと。社会が壊れるところまできています。
 こう言って国会前集会参加者の喝采を浴びた。動画はここ←クリック   
 バカが怖いのは、自分のバカさに気付けないからである。自分の間違いを認識出来ないからである。


 先月も、頑固者の政権批判がNHK教養番組からも流れた。
 3月11日のNHK Eテレ『演芸図鑑』は、人間国宝柳家小三治と9代目林家正蔵との対談だった。 正蔵が司会役で小三治に聞いた。
 「これからの落語界って、どう危惧されてたり、思われてたりなさってますか?」と可笑しな敬語で質問をした。小三治は、
 「・・・危惧は自分たちが感じるもので、俺たちがいくら危惧してなんか言ったって、言ったってわかるような奴らじゃねえもん。そっちがいま聞いてて『あ、そうか』と思うけど、明日から落語変わるかよ? 変わんねえだろ?」と言っておいて、続ける。
 「それはいまの政府でも同じなんじゃねえの? 総理大臣に言ってくれよ、『いつまでやってんだ』って」さすが人間国宝、運びが上手い。正蔵は慌てて
 「落語の番組なんで。政治の番組ではないので・・・」と言う。小三治は笑って
 「あぁ、そう」と答えるものの
 「政治家も落語家も金儲け考えるようになったらおしまいだよ。はい。金儲け考えるようになったらおしまいです」

  柳家小三治のお父さんは、四谷第四小学校で書道を教えていたことがある。家は大京町にあってご近所。小三治は落語ブームにも背を向け古典落語に打ち込んだ頑固者である。おかげで人間国宝に認定されるものの、収入には結び付かない。
 しかしだからこそ、小三治は、平気で政権批判をNHKでやってのける。またTVで呼んで貰おうなどとは考えない。噺家も教員も、地道に本業にのめり込むのがいい。金子勝も小三治もメディアを遠ざけているからこそ、痛快な発言が出来る。この痛快な開放感は、千金を積まれても味わえない。

 教師も、一に授業で、第二・第三も授業で、次いで教材研究。
 生徒の一人ひとりを前に、直の反応があってこその教育である。マイクやカメラや原稿の束の向こうの不特定多数から、直の反応があるわけがない。金を仲立ちにしての関係はいつか虚しくなる。批判精神の痛快さはなくなる。
 教員も「政治家も噺家も金儲け考えるようになったらおしまいだよ。はい。金儲け考えるようになったらおしまいです」
 金儲けとは、僅かな手当に釣られて主任教諭とか指導教諭の肩書きを欲しがり書類作成に励み、授業を忘れる事でもある。

「由らしむべし、知らしむべからず」の政治が如何に人民の愛国心の発達を阻害するか

  官軍を率いた板垣退助が、会津城を攻撃した時の事である。藩士たちが会津藩危急存亡の秋と悲壮な戦いに命を散らしているのを尻目に、民百姓が平然と官軍を迎え入れる有様を目撃し「由らしむべし、知らしむべからず」の政治が如何に人民の愛国心の発達を阻害するかに思い到ったという。これが後に、板垣をして自由民権運を決意させている。

 同じ構造は、鬼畜米英に対する総玉砕を叫んだ筈の皇国が、占領軍を特殊慰安施設付きで受け入れた時に現れている。「由らしむべし、知らしむべからず」は、「現人神」の国になって一層強固に広範に叩き込まれていたのである。上から国民に神憑りの愛国心を叩き込んだ張本人たちが、国際法違反の東京大空襲・広島長崎原爆投下責任者カーチス・ルメイに、勲一等旭日章を授与した。この時我が国の「愛国心」は「由らしむべし、知らしむべからず」の構図によって支配者自身が粉微塵打ち砕き、新たに再構成されのだ。それが対米従属という事態である。他国に軍事支配された国家が、愛国心とは片腹痛い。

 去年12月12日、小野寺五典防衛相が1基1000億円で2基購入することを発表した「イージス・アショア」は、実際には米国(ハワイやグアム)へ飛んでいくICBMを落とすためのもので、日本国土の防衛用ではない。米国のために、米国に対して、日本国民の税金を2000億円もつぎ込むのである。大した「由らしむべし、知らしむべからず」の愛国である。

  丸山眞男はこういう。
「統治関係を安定させ強固にする為にも、治者は自己の重大な権益が侵されない限りに於てそうした社会的価値を被治者に配分する方が得策なのです。 
 況んや、被治者の政治的自覚の向上とともに、下から権力・財貨・名誉・知識等への参与を要求する声はそれだけ峻烈になりますから、治者はこの点からも或程度の譲歩を余儀なくされます。 
 こうして近代国家に於ては、もはや、支配階級に依る価値の排他的独占ということは実際的に不可能になったのです」

  カストロがグランマ号で上陸する日時を、反対を押し切って仲間に予め伝えていたことの意味を改めて思い知るのである。勿論そのことでバチスタ軍の待ち伏せをうけ、大きなダメージを受ける。だが、彼は逆に勝利を確信したのである。

 あるとき、職員会議で社会科教員が生徒に試験監督の一覧を見せているのではないかと、古手の教員から強く詰問されたことがある。不思議な抗議で呆れたが、生徒たちが自分のクラスの監督が誰になるかによって、カンニング出来るかどうかを判断するから監督一覧を一切生徒に見せてはいけないと言うのだ。彼は、生徒が社会科準備室に頻繁に出入りしている事そのものが許せなかった。様々な「秘密」や不都合がそこから漏れて「由らしむべし、知らしむべからず」の構図が崩れるからである。秘密や不都合が何であるかは、彼が独断で判断するのだ。そしてそれが若い社会科教員が震源であると非難するのである。
 彼は職員会議の議題を、生徒が知ることもいけないと考えていた。

 まともな国では、学校運営の最高機関である学校評議会に、生徒代表は教師代表らと共に参加し討議評決する。日本でも、新制高校発足当時多くの学校で、生徒が職員会議に出席して発言していた。しかし、殆どの高校で職員会議は生徒や親に対して公開されない。
 行政でさえ、主権者に公文書を公開したがらない、公開しても黒塗りばかり、挙げ句の果ては破棄したと言い逃れる事が出来る。
  それが、生徒の愛校心を阻害し「人民の愛国心の発達を阻害」するのである。
 だから、部活が公式試合で優勝したり、名門校に大勢合格させたりの仕掛けで排他的愛校心に依存する。オリンピックのメダル数が多くなければ、周辺諸国を貶めなければ、愛国心を喚起できないのだ。

追記 僕は「「由らしむべし、知らしむべからず」の構図によって・・・新たに再構成されたのが対米従属という事態であると書いた
 政治学者白井聡は、こう言い切る。「・・・戦前の「国体」。それを戦後の日本は廃棄したつもりでいるけれど、実は違う。我々は「戦後の国体(特殊な対米従属構造)」に縛られているのです。
 「国体」の根本的な問題点は支配の現実を否認させること。「国体」は、支配される人間から考える意思と能力を奪い、「愚かな奴隷」にしてしまう。
 揚げ句、その奴隷たちは、自由で批判的な思考をし、行動できる人間に対して、体制に従順でないと言って、誹謗中傷するようになる。こんな愚劣なメンタリティーが戦中と同じく、最近、増殖してきました」 面白い分析である。


「楽園で農地を無償譲渡」と言った政府・それを信じた棄民の悪夢

 「ブラジル人男性とは違い、彼らは一様に暗い目をしていた。カウンターでピンガを呷るその背中は、ひどくうらぶれ、荒みきって見えた。アマゾン奥地での開墾に失敗し、妻や子供を失った挙句、一文なしでこのベレンの地に流れ着いた男たちだ。 
   戦前からの日系人は、彼らのことを(アマゾン牢人)と呼んでいた。やがて、衛藤はそんな彼らの身の上話を聞いた。 例えば、ある男はモンテ・アレグレという入植地から逃げ出してきていた。1953年から55年にかけて計128家族が開拓農として入植したこの土地への、男は第一次の入植者だった。 だが、ここでも外務省の謳っていた入植条件は大いに違っていた。脱耕者が相次ぎ、一年後の56年にはすでに80家族にまで減っていた。この男が風土病で家族を亡くし入植地を逃げ出した61年には、33家族にまで激減していたという。 
 またある者は、ベレン郊外60キロの場所にあるグァマ入植地から命からがら逃げ出してきていた。入植地は湿地帯だった。たび重なる増水に遭い、何度耕作をしても農作物は水に流された。毎年脱耕者が相次ぎ、業を煮やしたブラジルのINCRA(内国植民農地改革院)は、ついに1963年、残る日本人入植者すべてからパスポートを没収し始めるという暴挙に出た。 移動の自由を奪い、死ぬまでその土地に縛りつける。まるで奴隷の扱いだ。 それを事前に察知した男は、身一つでグァマを逃れ出たのだという。 
 「領事館は?」 以前あれほどの屈辱を味わわされながら、それでも衛藤は聞かずにはいられなかった。 
 「それを領事館の連中は、黙って見過ごしたのか」 
 「あの、馬鹿どもか」男は自嘲気味に笑った。 
 「やつらが進んでやることといえば、逃げ出したおれたちを犯罪者として突き出すぐらいが、関の山だ」 衛藤はあきれた。開いた口が塞がらなかった。 
 気の遠くなるような場所から流れてきた人間もいた。南米大陸中央にある内陸国・ボリビアからアブニャ河を下って国境を越え、マディラ河、アマゾン河を伝って約5000キロを旅し、このベレンに流れ着いたという。 「あの国も地獄だった」男はぽつりとつぶやいた。それで、移民者たちの不幸がなにもこのブラジルに限ったことではないのを知った。 
 衛藤はすでに知っていた。ブラジル移民のみでも、1953年から61年までの9年間だけで、約4万2500人の日本人が海を渡ってきている。 ろくに現地調査も行わないまま現地政府といい加減な取り決めを交わし、蜜の誘い文句で移民者たちを未開の地に放り込んだあとは、知らぬ存ぜぬを決め込む。 いったい中南米全体で、どれほどの人間が路頭に迷い虚しく土くれと帰していったのかと思うと、目眩を通り越して吐き気さえ覚えた。 許せなかった。 
 日本政府も外務省もそしてブラジル政府もクソ喰らえだと思った。と同時に、国家などという得体の知れぬものを妄信していた自分が甘かったのだと思い至った。 
 国家など、所詮は巨大な利害が絡み合った有機体にすぎない。そしてその利害はいつの時代にも無知な大衆向けの甘ったるいオブラートに包まれ、そのときの情勢に応じて変化してゆく。押しっぶされてゆく少数の人間のことなど見向きもしない。 そんな甘言にまんまと乗った自分のおめでたさを呪った。その代償はあまりにも大きすぎた」                                  垣根涼介『ワイルド ソウル』幻冬舎 
 日本はまともな人口政策を立てたことがない。常に場当たり的に、貧しい厄介者を棄てる事を画策していた。
 敗戦後、日本には引き揚げ者や失業者が600万人も溢れかえった。政府はこの厄介者の排除を目論んで、「移民政策」を積極的に推進、その一つがドミニカ。
 国が示した条件は「300タレア(東京ドーム4つ分)の土地を無償譲渡、さらにその土地は肥沃」な筈だった。ドミニカへの移民は1956年から始まり、約1300人が応募。
 他の移住地に比べ格別の好条件に移住者達は、「カリブの楽園」と胸を躍らせた。しかし、彼らを待ち受けていたのは地獄のような日々、無償譲渡されたのは日本政府が約束した土地の1/3似すぎず。しかも、岩や石ころだらけの不毛の荒地、塩の一面の砂漠など、そのほとんどが農業に適さない耕作不適地で、さらに深刻な水不足も追い打ちをかけた。土地の所有権も認められなかった。
 「カリブの楽園で広大な農地を無償譲渡」。この日本政府の言葉を信じ、海を渡った約1300人の日本人の夢と希望は一瞬にして打ち砕かれた。入植時のドミニカはトルヒーヨ独裁政権下で、強制収用した土地も多く、日本人移民を見る現地の目は冷たかった。自殺した人々も少なくない。トルヒーヨは国境の荒れ地帯有人化のために、移民を利用したのである。
 
 2000年7月、移住者177人は半世紀に及ぶドミニカ移民の窮状に何ら有効な対策をとらなかったとして、国を相手に総額31億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。
 177人の移民たちは国の示した募集要領は全くのデタラメで、約束の土地や条件が与えられなかったと謝罪を要求。
これに対し、国はドミニカ移民は“国策”で行なったのではなく、ただ「斡旋」しただけだと言い逃れた。
 裁判が進むにつれ、移民計画を立案した外務省のずさんで、信じ難い移民交渉の始終が浮き掘りとなる。土地の所有
権を事実上認めないドミニカ共和国の植民政策について、ろくな調査もせず、政策を推進。石ころだらけや塩の荒地の条件の悪さも知っていたのである。重い腰を上げ視察に来た外務省職員に『石も3年経てば、肥料になる』と言われた移住者もある。
 「私達はカリブ海の島に棄てられたんですよ。棄民なんです」と言ったのは原告団事務局長である。
 未だ解決の糸口さえ見つからないドミニカ移民問題。
 2004年3月参院予算委で、小泉首相は国に不手際があったことを、「移住者の方々にはしっかりとした対応をしたい」
と言明。しかし、外務省は「首相発言は法的なものでなく、和解の意思はない」と言ってのけている。 
  2006年6月の判決は「国は農業に適した土地を備えた移住先確保に配慮を尽くしておらず、国家賠償法上、違法の評価を免れない」と国の責任を明確に認めたものの、二十年間の除斥期間が経過して賠償請求権が消えたと訴えを退けたのである。
  
  『ワイルド ソウル』は映画化が一度決まったが、結局中止されている。「日本スゴイ」的風潮の中で、『ワイルド ソウル』は日本政府の移民政策の無限の闇を暴露するからだ。
   対して「エルネスト」は、ゲバラ人気とキューバ政府の誠実なイメージに乗じて移民の闇をやり過ごし、恰も移民は結果的には賞賛に値する結果を生んだ、やはり日本人は素晴らしい、と言わんばかりである。巧妙な政策洗浄(ロンダリング)だ。キューバが合作に合意したことを残念に思う。
 貧しい同胞を厄介者として不毛の地に「棄民」して措いて、風向きが変われば同じ彼らの例外を良き「日本人」として強調するこの国の意識構造を、僕は好きになれない。

 『ワイルド・ソウル』に主人公が、あるドキュメント番組を見る場面がある。
 「強制移住させられ、飢えと闘いながら老いさらばえていった移民たちのその後の四十年だった。 最後に、外務省領事移住部のある役人のコメントが紹介された。 
 「どんな世界にも、成功した人と失敗した人間がいるでしょう。失敗した人の側面ばかりを取り上げて、それで国の責任云々と言われるのも、どうかと思いますがねぇ」 
 久々に腸が煮えくり返った。 その腑抜けたコメント、怒りに全身が震えた。 こいつらは何も考えていない。相手の立場に立って物事を考えたことなど一度もない。そして四十年経った今でも、まったくそのことに気づいていない、恐るべき想像力のなさ、無責任さ、無能さだった。そして、こういう人売りたちが今も日本を動かしているのかと思うと、絶望に近い気持ちを味わった。 そして深い悲しみに襲われた」

 メキシコ革命に於ける野中金吾、スペイン市民戦争に於けるジャック白井、『エルネスト』におけるフレディ前村ウルタード、いずれも移民あるいはその子孫である。
  彼らは物語の中で、日本人・「さむらい」と評価される。釈然としないのである。何故なら、侍とは主体性も正義も滅却して主家に奉公する存在であり、革命的主体とは対極にあるからである。しかもそれが亡国のイージス』の監督によってつくられている。

   1956年日本とボリビアは移住協力協定を締結し、サンファンには翌年第1 次移住者が到着。しかし、移住募集条件にあった道路はなく、農業調査・移住地適地調査は不備、雨季の長雨や深い密林など自然条件を周知しない など、日本政府の責任は逃れられない。
 第1次移住者が到着した1957年は異常な長雨と寒波に襲われ、開拓は進まず、現地からは後続移住者の送り出し中止要請がなされた。政府はこれを無視、第6 次まで移住が続けられた。その結果、サンファン移住地は混乱、外務省や海協連への抗議は激しく、住民同士の不和も深刻化。アルゼンチンやブラジルに転住する者や失意のうちに帰国する者も。
 「犬も通わぬサンファン」と慣用句が、当時の移民社会にあった。道路も含めた環境条件の悪さを表現して。移住地中で格段に劣悪であった事を表す言葉である。

  『ワイルド ソウル』の登場人物は、日本の裁判に期待しない。移住から40数年後、3年をかけて周到かつ綿密な計画を立て、たった4人で日本政府に対する、爽快で死者を伴わない報復を仕掛けるのである。
                                                  続く


もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...