「・・・コロレンコの小説の、某という家庭教師だった。小説の名も忘れ、コロレンコでなくてゲルツェンだったかも知れぬ。とかくそれはロシヤへやってきた渡りもののドイツ人青年家庭教師だった。
ロシヤ貴族特有の半アジヤ的空気のなかで、身分の低い若いドイツ人が一心に子供を教えて、子供がまたなつく。馬鹿にされながら、居候あっかいされながら、子供を、持ってきたヨーロッパで教育して、師弟は学友になり、この師弟・学友関係がもうひとつ高い段階へのぼろうとするところである朝教師が逃亡してしまう。
私は君を私の能力の限界まで教育しました。これ以上君に教えることは私にありません。私はほかへ出かけましょう。こう置き手紙をして手ぶらで逃亡してしまう。どんなにその美しきが僕を打っただろう」これは『五勺の酒』で、旧制中学の校長が友人に宛てた手紙の一部分である。
『五勺の酒』を初めて読んだ初めてのは、教師になりたての頃。この箇所を美しいとは思わなかった。自分の無能を悟って去るのはいいとして、何故「これ以上君に教えることは私にありません」になるのだろうか。知る・学ぶという事は、その度に、知識で頭や心が埋まってゆくことなのか。教える方は、それが段々空になるのか。
僕は、識るたび学ぶたび加速度的に、疑問と好奇心が増えてゆくと考えている。分からないことが増える、それが社会を、世界を、歴史を、宇宙を認識する事ではないか。分かることによって分からない事が増えるとは、我々の内的世界が膨張しているという事だ。これが学ぶ喜びの核になる。
だから「限界まで教育」するという言い方は、宇宙に限界があるという宇宙観と同じく詰まらない世界観であると思った。
一度作った講義ノートを後生大事に、紙が黄ばんでも使う教師は絶えない。大学に合格した途端、勉学意欲が急速に萎えてしまう学生は多い。そして読解力も表現能力も衰えるのである。高校と大学で教えた経験から、青少年の勉学意欲の頂点は、高校二年であると僕は自信を持って言う。外国の夏休み、図書館に朝早くから大勢の学生が並んでいるのをよく見る。特定の日だけに並ぶのではない。まるで時が過ぎるのを惜しむかのように、毎日図書館に並び、並んでいる間もノートを広げるのである。日本の大学でそんな光景を見た事はない。
青少年の好奇心や疑問に限りがない以上、教師の好奇心や疑問は更に多様で深いものである必要がある。高校の教科職員室の壁は書架が作り付けられ、びっしり書籍が並んでいたものだ。1970年代、80年代までは。飲み屋での話題も教科や専門そして生徒のこと抜きには済まなかった。何処の学校にも地域の大きな書店が出入りして、教員にカードを発行して割引で書籍を届けてくれたものである。
しかし高度成長を経て、教師の話題にゴルフや車が増えるようになった。先ず工業教科の教員、何故なら彼らには産業教育振興手当が付いていたからである。ゴルフや車に時間も興味も盗られていったのである。学ぶ意欲を無くしたのは、教師が先である。
シュタイナー学校では12年間の教育のうち、1学年から11学年までを一人の教師が受け持つ。三回担任すれば、33年、担任が終われば数年の空きがあるからこれで定年を迎えてしまう。11年間の全ての教科を受け持つから、大変ではある。しかし生徒たちの成長の全てを把握する事も出来る。時間割は担任に任される。一週間続けて算数という事はざらにある。何ヶ月も数学がないこともある。1年生にとって先生は何でも識っている「スーパーマン」である。それは裏切られない。教員の養成課程で十分な準備をし、絶えず研究するからである。
しかし11年生になると、担任はある贅沢な不安を抱える。それは生徒達が、何時担任を批判し始めるかである。「あいつの限界は・・・」という声が聞こえてくるのをソワソワと待つのである。そしてそれが聞こえて、担任は「ほっ」とするのである。この時が発達段階では、自立の時期である。高校二年生、そういう時期である。日本ではそれに相応しい体制をとっているとは言いがたい。12学年は各自が、自分の進路を考えて行動するのである。
その点では、「置き手紙をして手ぶらで逃亡」した教師は、懐いて学友になった子どもを自立に導いたのであるとも言える。教師が生徒から自立出来ず、何時までも指導したがる傾向は日本では強い。その点でも逃亡は必要といえる。
僕は読みが浅かった。中野重治がこの旧制中学校長を描いたとき、校長は戦中の中学生を相手にしていたという設定だ。その頃この校長は、コロレンコを読んでいるのである。 日本中が八紘一宇や五族協和といった実体のない大きな価値に振り回されている最中に、この校長は「師弟は学友になり、この師弟・学友関係がもうひとつ高い段階へのぼろうとするところで・・・置き手紙をして手ぶらで逃亡してしまう」。それに、打たれる事の意味を僕は捉え損ねていた。
当時全国の校長が、満蒙開拓団や予科練生徒の割り当て消化に鎬を削っている時に、個別の師弟関係に打たれる事の「非国民」性を思わずにはいられない。特攻機で命を捨てることを美しいと中学生自身が信じ切っていたのだ。教師はそれを煽っていた。そんな時巨大な歴史の逆波に、敢えて抗しなければ「置き手紙をして手ぶらで逃亡してしまう」事の美しさに打たれはしない。ロシア貴族の子どもと家庭教師の間に潜む、小さく私的な繋がりに拘ることで、大きな価値を疑うのである。それは戦中の作家としての中野重治の生き方そのものである。転向した作家の中で、彼ほど体制に媚びなかった者はない。
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