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質素な教具と授業・貧しさの矜持

 繰り返し思い出す旅の光景がある。一つは北京の繁華街王府井での事。

 蒸暑さと人の多さに疲れて、木陰の老婆からアイスキャンディを買った。彼女は、断熱用の布団に何重にもくるまれた木籍から商品を出し素朴な包み紙を取り中身だけを出し「三毛(当時の交換レートで10円)だよ」と言った。包み紙は丁寧に伸ばして重ねられ木箱の上に置かれた。

 キャンディは山査子とサッカリンの微かな甘みがあった。あんなに美味しいキャンディを僕はその後知らない。一息ついた僕たちの前を、いかにも教師らしい二人が嬉しくて堪らないという表情で歩いて来た。男性の白髪老教師と若い女教師。それぞれ両手にどっさり教具らしいものを抱えて、声も弾んでいるのが判かる。老教師は歩みを止め、前方を指さし語りかけた。二人の会話が少しだけわかった。

 「折角の北京、名物でも食べようか」

 「賛成、やっと来たんですものね」

 「あそこはどうだろう」

 「素敵・・・そう・・・でも、私まだ買っておきたい物があるの。子どもたちの喜ぶ顔を見ましょう」

 「ウン・・・そうだね、戻ろう」

 粗末だが清潔な上着と黒い布靴の二人は、何日かけて北京に着いたのだろうか。寝台車に乗れば彼らの給料は飛んでしまう。街のコックは千元を嫁ぐが、教師は大学教授でも月給百五十元、(1元は30円余りだった)と聞いた。

 僕はある年、北京郊外のかなり高級なホテルに泊まった。精算するとあまりにも安い。間違いだろうと問うと

 「これでいいのです。今、年に一度の「教師節」で、先生たちの日頃の労苦に報いているのです。外国人教師も例外ではありません」と笑った。

  事程左様に、教師の給与は安いのである。だから王府井の二人は、帰りも硬い座席車に乗るに違いない。駅から村までは、破れた床から地面が見えるようなバスで更に半日は揺られるだろう。二人を見送りながら、貧しさの中の節度を想う。

 辺りには中国最大の書店、文具店、百貨店が軒を連ねる。書店に並べられた粗末な装丁の本は何れも手垢で背表紙が黒ずんでいる。学生達は参考書売り場に群がり、問題集を広げては議論し、そして買わない。理科の教師用指導書の大部分は身近な材料を使っての実験器具づくりに充てられていた。


 もう一つは、哈爾滨動物園での事だ。 檻の前で小さな日用品を並べ賭けに客を誘い、またたく間に金をまきあげる若い女。動物を見に来た筈の男たちが、動物には目もくれず、賭けに群がり、警察のサイレンと共に散り再び集る。

 ここは日本より広い黒龍江省随一の行楽地でもある。高さ3mの軌道を走る小さな人力モノレールに興じるのは大人たち。子どもはパトカーやサイドカーの形をした電動カートで狭いサークルを廻ってご満悦。

 肩を組んだ中学生らしい少年二人が、弁当箱を手にやって来る。満面の笑み、今にも歌い出しそうだ。檻の前で一つひとつ説明を読み、熱心に動物を観察し、何やら話し合う。やがて弁当箱を振り回しながら隣りの檻に移ってゆく。こんなに仲の良い少年を見るのは久しぶりだった。彼らも粗末だが洗いたての木綿の上着、破れかけたズック靴、髪は散髪したばかり。早起きして二人は、生れて初めての大都会を旅している。母親は星のある時間に起き、息子のために弁当をつくった。父も母もこの一日、遠い都会に出た息子の安否を気づかい落ち着かず、夕方になれば何度もバス停の方角を振り向かずにはおれない。夕餉のひとときは一家中が、小さな白熱灯の下でこの日の大冒険を語る少年に耳を傾けたに違いない。


追記 40年も前のことだ。今は姿を消した旧式の教具やありふれた動物に心ときめかせる国の平等な貧しさが、反転して眩しく迫る。今、僕らは生徒の意識を授業に向ける為に、過剰に刺激的で珍奇な「物」、痺れる味わいの事件掘り出しに躍起だ。 肝心の授業構造や論理はそっちのけ、ともかく惹き付けなければというわけだ。コンピュータも駆使して、真偽不確かなデータに教師までが翻弄される。某はその筋で教祖に登りつめ、手軽かつ見栄えするネタに若い教師を誘う。しかし感覚を痺れさせる教材の香辛料には限度がない。刺激に飽きた生徒を、教室に向わせる仕掛けはエスカレートして止まない、アメリカではすでにこれで失敗した。新たな刺激のために教師たちは初めは意欲的に働らき、やがて燃え尽きたのだ。

 授業は質素に限る、落ち着いて中身を精選充実させよう。奇を衒ってどうする

五十三才の老女教師と娘に襲いかかる「勤務評定」

 公選制教育委員会が始まったのは戦後間もない1948年、それが慌ただしくも56年の地教行法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)で首長による任命制教育委員会が強制された。その任命制教育委員会は、先ず何よりも教員に「勤務評定」で襲いかかることに専念した。

 この『暮しの手帖』への投書は、「勤務評定」が教育を如何に荒廃させたかを如実に語りかけている。

  ★母の異動

 二ヶ月ぶりに母から便りがきた。五月も終り近く教員の異動期はとっくに過ぎ、気にかかりながらも、母は新学期を迎えて元気に勤めていると決めていたのだった。しかし便りによれば母は異動組だった。しかも退職勧告を受け、はねたあげくの遠かく地異動。

 片道一時間半汽車に乗り、降りて四十分歩く里程。母は五十三才である。戦争未亡人で四人の子供を成人させ、戦後の日本をカツギ星、土方でくぐり抜けてきた。昭和二十五年、助教諭になり法政大学の通信教育、単位認定講習を七年間受けた。幼い子供をかかえて日曜もなかったこの期間は、どんなに辛かったことだろう。夜中にふとめざめて、洗濯をやっていた母をよく見かけたものだった。

 それにもかかわらず母は明かるい人だ、。ジメジメするのがきらいで私たちは安心して母によりかかっていた。しかし母は誰にもよりかからなかった。頼るは自分のみだった。

 一人娘の私が遠い地へ嫁ぐことも黙って耐えていた。子供をおいて私もまた職業をもつ身であるが、それに耐えかねるとき「子供は大きくなればわかってくれるよ」と言ったが母を支えていたものはこれだったのか……と思う。便りの末尾に「とにかく人のやれないことをやれ……という訳でがんばります」とあった。

 しかし恩給は助教諭だった七年間は年数に認められず、せめて年金を…と働きつづける母に教委は何故、こんな仕打をしたのだろう。老後の補償を自分で得ようとしてこの異動を受理した母が、させた社会が私には悲しいのである。

     松下 雅子『暮しの手帖9号』(1967)


 第一次アメリカ教育使節団(1946年)は、戦前戦中の天皇制軍国主義教育が恰も国民に狭窄衣を着せたようなものであったことを指摘し、日本の教育改革は狭窄衣から教師を解放する事でなければならないと報告書を作成した。この勧告に基づいて独立行政委員会としての公選制教委が教育委員会法によって組織された。

 地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会として公選制教育委員会は、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持った。

 しかし1951年の単独講和暴挙後、占領軍は各地に基地を置き沖縄を占領したまま撤退する。早くも1956年、公選制の廃止と任命制の導入を強制する地方教育行政法が成立している。  

 任命制教育委員会は、一貫して教育と子どもに関心を持たなかったと言って良い。彼らは教育委員会を、政治に従属させ私物利権化を図り今日に及んでいる。「勤務評定」は複雑強権化したに過ぎない。 

使って初めてわかる自由。The proof of the pudding is in the eating.

 警察や法務省の統計によれば、少年の非行が減少している。少年1,000人当たりの検挙者数を見るとは、2014年が6.8人で、戦後最多だった1982、83年の18.8人の半分以下。13歳以下の少年の補導件数も減少を続けている。だが 内閣府「少年非行に関する世論調査」では、約8割の人々が、少年非行は「増えている」と感じている。

 全く人々は事態を正しく認識していないのか。それともただ単に若者を強く罰したいのか。一体どうしたことだろうか。我々の感覚は麻痺したのか。


 山手線に近い都立B高校定時制課程が荒れ、生徒たちが校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火・校庭にたばこの吸い殻や菓子袋が散らばったのは、すでに少年非行が減り始めていた90年代半ばであった。それ故B高校の荒れは世間に目立ち、教師の対策も苛烈を極め精魂尽きてしまった。あれからおよそ20年、日本の少年非行は更に減少している。

 少年たちは温和しくなっのか、ひょっとすると非行すら出来なくなったのではないか。少年たちは厳しい校則へ依存してしまったのではないか。生徒だけではなく、親にも教師にも行政にも広がってしまった。暴力を伴う過剰な依存が。社会的弱者や少数派への悪口雑言はsns上で直ちに歓迎され、選挙の得票に直結してしまう。そのことが、更に秩序への過剰依存を政治潮流にまで押し上げている。


 非行が学校を駆け巡った1970年80年代、教師たちは「教研」活動の組織に忙しかった。僕の職場では、職員会議を潰して具体的教師の授業が議論され、日が暮れても議論は続き、様々な取り組みが生まれた。このような職場教研を基礎に毎週支部教研が、学期ごとに都道府県教研が、年一度全国教研が開かれ、多くの教育実践が交流していた。

 教研を組織しながら我々は生徒の「荒れ」を、授業や教育そして社会への「表現」「異議申し立て」と捉えてきた。

 だがこんな動きにも、歴史的反動はある。そんな甘いことでいいのか、「荒れ」そのものは「管理」して退治すべきとの動きが広がり、マスコミを賑わす。管理主義教育が、取り締まりが「偏差値」を挙げる手段して脚光を浴びるようになった。暴力を伴う取り締まりは生徒を追い詰め「死者」をもたらしても止まらなかった。様々な荒れを、生徒の表現= 権利と捉える教師たちの声は届きにくくなった。確かに管理主義のメッセージは短く単純だった。


 生徒たちの「荒れ」から学ぼうとする職場が徐々に減った後に、現れたのがB高校定時制課程の騒乱だった。騒乱の実態を見極める教師集団が衰えていたのだ。

 疲弊しきった学校に革命を巻き起こしたのは、夜間中学を卒業したたった数名のお婆ちゃん。彼女たちは、学び続けるために入学したのである。お婆ちゃんたちは、荒れる高校生に一瞬たじろぐが「なにしてるの、学校は勉強するところでしょう」と言いながら、教室に入り教科書とノートを広げた。数日の間に花火は姿を消し、静寂が訪れた。荒れ狂ったツッパリ達がおとなしく鉛筆を握ったのである。


 教師は何処でも、~するなと言う。命令である。お婆ちゃんたちは、~すると宣言し実行した。荒れるツッパリとその同調者だけで構成された空間。一見敵対する存在の教師はツッパリと同調者の結束を固めた、同質なのだ。

 夜間中学からのお婆ちゃんは異質。均質の空間に異質の存在が加わることで、突然湧き起きる根底的変化、それが革命であった。


 学校の日常を支配していたのは「掟」であり、その論理は学校ムラの壁を越える普遍性からは絶望的に遠い。「掟」に埋没する者は、突然の革命に遭遇して狼狽え呆然とする。革命を内側から理解するには、長い時間と捨て身の覚悟がいる。ムラ集団から「浮く」ことでしか壁は越えられない。「掟」に縛られる側も「掟」で縛る側も「掟」に中毒する。「掟」なしでは生きられない。


  そもそも突っ張り荒れる高校生たちは、嫌いな筈の学校になぜ登校するのか。どうしてサボらないのか。自由な時間を好きなことに使わないのか。「掟」に縛られるためか、「掟」に逆らうためか。自由が嫌いなのか、わからないのか。 中毒したからだ、掟に。自由は使わなければわからない。使うとは失敗する経験のことだ。何度か倒れなければ、自由に自転車は操れない。

 B高校定時制課程に革命を起こしたお婆ちゃんにとって、自由とは学び続けることとして既に明白であった。だから荒れに直面してもたじろがなかった。


 ツッパリは「掟」に逆らうことで名を揚げ、教師は「掟」を遵守させることで名を揚げる。教師も生徒も失敗しながら学ぶ必要がある。自由が何なのかわからないと言う点で、教師と生徒は同列なのだ。

  「ツッパル」のは疲れる。非常に消耗する。ヘトヘトになる。本音ではどこかでもう止めたいと思っている、生徒も教師も。だが一度振り挙げた拳はなかなか下ろせない。切掛や大義名分がいる。厄介なことだ。

 生徒であれ教師であれ、常識があれば「突っ張るから疲れる」と自ずから気付くものだ。

  当blog『「突っ張るのって疲れるのよ」 何もしないという作為 』 


 生徒たちの直面する現象(その大方は目を背けたくなる)を教材化しよう、その実態を暴き本質に肉薄することこそ社会科教師の存在意義。そこにしか我らの自由はない。 

「一に遊べ、二に遊べ、三・四がなくて、五に学べ」

 挨拶に立った校長は、風貌だけで入学式に居並ぶ参加者をシーンとさせた、痩せて哲学者を思わせる鋭い眼差し。而も「一に遊べ、二に遊べ、三・四がなくて、五に学べ」と生徒・父兄一同を仰天させた。親も子も、勉強好きを自負していたからだ。それを校長は叱った。君たちは点数が好きなのだ。遊びとは点数や順位から自由になること。そこから「学ぶ」事の意味が見えてくる。

 聞けば、校長は農業経済学者。放課後、僕は引き込まれるように農学部の研究室に向かった。 ノックすると内側からドアが開き、賑やかな部屋から校長の「入りなさい」と言う声が聞こえた。もうすでに校長と馴染んでいる者がいたことに吃驚。狼狽えた僕は「又今度、来ます」と言ってしまった。

   大きな転機だった。翌日僕は『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の読書会に誘われたからだ。文庫版『空想から科学へ』をファラデー『ろうそくの科学』の類だろうと買ったが、まるで歯が立たない。休み時間に四苦八苦していたのを上級生が見かけて誘ってくれたのだ。崩壊寸前の旧校舎での読書会は、放課後から星の出る時間にまで及び、毎回企業や大学の最前線で活躍する卒業生が招かれた。

    面白かった。中学とはまるで違う世界がそこにはあった。ベトナムについては卒業生による現地報告が切っ掛けだった。トンキン湾事件が起きたのは中三の時だったから、真相とその背景を知ったときは驚いた。それから様々な討論会や学習会に参加するようになった。ビラを作り教室を回ってアジった、デモも呼びかけた。高校から大学卒業を経て、サイゴン解放までは長かった。ホーチミンはすでに亡く、僕は就職していた。

 記憶の中に、校長の研究室に出入りしていた同窓生が浮かぶことがある。晴れた日も長靴を履き、寡黙で皆と一線を画していた。彼らが温室や畜舎に入りながら顕微鏡やシャーレー相手に奮闘していた姿を想像する。少年は、式や学年によって一律には成長するものではない。早熟も晩成もあって、なかなか混じらない。それでいいのだ。

 二中で僕は理科室の鍵を任され、夜も一人で実験を繰り返していた。だから顕微鏡とシャーレーは僕にも魅力的な世界だ。

 卒業名簿には、日本ではなく直接オランダやデンマークの農科大学に席を置く者が毎年何人かあった。外貨の持ち出しが厳しく制限された時期、特異な例だ。僕は一時期ローマのシネチッタに留学して、フェリーニから学ぶことを考え色々調べた。絶望的に難しかった。彼らはオランダやデンマークの農科大学へのツテをどのように掴んだのだろうか。 

 ベトナムが解放されるなら、何もかも諦めてもいい。そう考え行動し、父や母を泣かせ怒らせた。また同じことをするような気がする。この頃の自分に一言いうなら、苦虫を噛んだような顔で低くこう言う。「バカだな、お前」。

三戸先生の「まくら」は抜群に面白かった

  「まくら」とは 噺の導入部である。

 「先生、教師も芸人かい」と問う生徒が下町の工高にいた。「似ているな」と答えると

 「頼む、俺を弟子にしてくれ」と言う。

 その半年前は「子分にしてくれ」だった。

 一応のテーマは掲げるが、授業としては全編脱線、言わばまくらだけ。クラスがかわれば別のまくらになった。教科書やノート無しで、起立・礼もせず教壇に立つ。それで芸人と定義したらしい。


 桂小三治の高座は「マクラ」が抜群に面白かった。特に彼がヨーロッパ公演で体験した話がいい。まくらの語りを再構成してみる。

 パリの空港で荷物を引きずって難儀していた小三治に、小柄な若者が寄ってきた。

  「ニコニコしながら、『持ちますよ』と言ってくれたんです、その人が」

 「私のことを柳家小三治だって分かって、話しかけて来たり、手伝おうとする人が、中にはいるんです。そういう人は目や、顔の表情で分かります。でも、その若者は私のことを人間国宝だなんて知らないで、『持ちますよ』と言ってきたんだ。これは、彼の表情を見てりゃ分かりました」

 小三治は荷物を持ってもらい、丁重に礼を伝えた。その若者は、「いやあ、いいんです」と言いながら、ずっとニコニコしていた。

  互いに互いを知らないから、話はそこで終わる筈だった。ところが、小三治は荷物を持ってくれた男と再会する。彼は、テレビのなかにいた。パリの若者は2019年秋、ラグビー・ワールドカップに出場していた。

 「あ、あのときの・・・」

 小三治は驚いた。それからというものラグビー日本代表の彼を夢中になって応援した。毎試合その選手が登場すると、テレビに向かって叫んだ。「タナカ!」

 荷物を持ってくれた若い男は、日本代表のスクラムハーフ、田中史朗だった。


 ここにはスポーツ観戦の思想が見事に展開されている。見たいのは、闘う選手の優劣やメダルの数や賞金の額ではない。まして日の丸掲揚ではない。人生を他人の活躍や成功に託すことではない。直接であれ、週刊誌の記述であれ、街頭であれ、自立した個人の出会いの思い出なのだ。負けても勝っても、しみじみ心の奥から湧き上がる出会いの記憶。記憶の中の出会い。

 教師の授業が生徒に思い出されるとき、彼らの胸に去来するのは何だろうか。


 

  石神井高校で三戸先生の講義「世界史」に巡り合う者は幸福だった。先生の「まくら」も長かったし、その日の世界情勢でまくらは縦横無尽に展開した。1960年代から80年は、世界が激動し若者が変革を求めて行動した時代である。聞き手と話し手の息詰まる緊張が教室にみなぎった。 

 しかも先生の授業は終わりの5分間に、受験知識も含めて過不足なく見事にまとめられていた。僕がこの高校に異動したとき先生は既に退職していた。まくらはいつでも聴けるものではない。どんな出来事が彼を待ち受けているか、分からない。だからその日限りの一発勝負と言ってよい。

 僕は先生のまくらを聞きに出かけなかった。何故なら先生の授業のまくらは、先生と生徒たちの関係の中からしか生まれないからだ。真似はきかない。

   都高教研組織者会議が終わったあと、先生とはよく飲んだ。先生を含む数人の読書会も長く続いた。話に集中したくて酔いたくなかったが、旨い酒であった。今僕は全く飲めないが、あの旨さは記憶にある。


 授業が全編まくら噺になったのは、最初の赴任校が私鉄沿線の零細商工業地域の工高定時制課程だったからだ。あの頃定時制は全日制不合格者の溜まり場ではなかった。

 三戸先生の生徒たちに受験知識は差し迫った重大事。零細商工業地帯に「働く青年」たちが求めていたのは、まず職場の春闘方針の総括であった。彼らは組合役員を含む逞しい青年たちだった。僕より年長もいた。

 「先生、会社が儲かっているかどうやれば分かるのか」。咄嗟に財務諸表を持って来いと答えた。

  その経験が授業形式を決定した。だから受験を視野に5 分の授業を組み立てる三戸先生が、羨ましくも遠い存在に思えた。しかしPTAによって高校増設運動が進められ、新設校が続々と開校。働く青年と僕の束の間の幸福な関係は霧散した。


「勤評」は子供にどう見えたか

 

 熊本市の成績票は、教科の獲得目標ごとに「がんばりましょう」、「できました」、「よくできました」の三段階の欄に赤い○がつけられていた。初めて成績表を貰った時説明はあったが、よくは分からなかった。下校しながらみんなで考えたがやっぱり分からない。うちに帰って「どれが一番よかとね」と聞いたが、母はもとが小学校教員だったせいか、担任と同じ言い方をした。
 鹿児島に転校すると五段階評価。「1」と「5」のどっちがいいのかと周りに聞くと、笑いながらてんでバラバラに言う。成績票を祖母にみせながら「成績が上がったから褒美がもらえる」と友達が言ってたことを話すと、「褒美のために勉強しちゃいかん、成績はどげんでんよかよー」と手作りのおやつを出してくれた。

 だから成績で一喜一憂する必要は殆どなかった。殆どと言うのは、一度だけあったからだ。

 あれは四年生になった1958年の春だった。その日担任は機嫌が悪かった。社会科の点数で学級丸ごと叱られた。僕は名指しで「一番だが76点、一体どうしたんだ」と雷が落ちた。窓辺の学校菜園に茂った豆の光景と「76点」をいまだに鮮明に覚えている。

 帰るなり「今日は先生に叱られた」と事情を話して答案を見せた。暫く沈黙が続いたが祖母が「わっこが76点じゃ、教え方が間違っちょる」と断言。大叔母はものも言わずに下駄をつっかけた。こんな時の大叔母のコースは決まっていた。何人かの同級生のうちを回った後学校に走るのだった。


    次の日担任は「明日スケッチブックをもって来い」と言い、そのあくる日の三時間目「今日は勉強止めよう。築港で絵を描こう。弁当持って」こっそり学校を抜け出した。しかし50人がぞろぞろでバレないわけはない。わざわざ校長室の前を抜き足忍び足で通った。

 歩いて5分の港のあちこちに散らばって、先ず大方は早弁した。そして絵を描いた。担任は堤防の先にある灯台の陰で寝そべってしまった。こんな時僕はみんなに絵の下書きをせがまれる。構図を取るのだ。サッサと済ませうちに戻った。港周辺の子は大抵そうした。不思議なことに、僕が帰るのを予想していたように支度が整っていた。知っていたのだ。

 こんな事が何回か続いた。これは大叔母が関わったに違いないと気付いたのは、彼女が他界した後だった。彼女は「勤評」が、日本中の教室を荒廃させつつあるのを新聞で掴んでいた筈。それが故郷でも始まったのだと、僕の報告を通して知った。先ず校長に釘を刺し、担任には慰めの言葉とともに「築港で子どもと遊んで昼寝でもして全部忘れんね」とでも言ったはずだ。 公選制教委は廃止されていたが、経験は蓄積され続けた。 

 

全「隊」止まれ! は戦争の予行練習

  勝手に「授業を抜け出す」、授業中「歩き回る」、消しゴムを刻んて前の子に投げる。協調性がない。「小1プロブレム」のはしりと言われかねない要素を抱えていた僕だが、一度も咎められたことはない。

「爺ちゃん、日本はもう戦争せんとな」

「絶対戦争はせんと決めたんじゃ。戦争に良かこた何も無か」

 朝食前、筑港と町を隔てる権現島に登りながら、祖父はそう繰り返した。日の長い夏には夕食後の散歩もこの山だった。

   庭や露地で遊べば、祖母たちが「こん子たちゃもう戦争に行かんでん良かとじゃな」と繰り返していた。

 海軍のたたき上げ将校で兵学校教官だった祖父は、軍装や勲章の類をきれいさっぱり捨てていた。国防婦人会の先頭に立ち竹槍を構えていた大叔母は、家族の全てを戦争で失い「バカの考え休むに似たり」が口癖になっていた。

 町の商店街で大売出しの拡声器から軍歌や軍艦マーチが流れると、耳を押さえながら「好かーん」と足早に駆け抜けていた。お陰で孫は文字や数字を覚える前から戦争を憎むようになった。

  勉強を禁じられた僕は登校が嬉しく前の晩からそわそわして一時間も前にうちを飛び出した。「急がんでん学校は逃げんがね」と母は笑っていた。学校に着くまでにやることはいっぱいあった。誰もいない学校に着いてからも、花や昆虫を見つけるのに忙しかった。

 入学式と同時に授業が始まると信じていた僕は、式がだらだらと続き記念写真撮影で待たされるのに不機嫌になった。次の日こそ朝から勉強出来ると思って張り切っていたが、クラスごとに学校の中をぐるぐる回る。順番が来るまで教室で待たされる。席につかず立ち歩いたり消しゴムを刻んで投げた。

 ようやく授業が始まる、週一回「集団体育」の時間があった。右向け右、二列縦隊、前へ進め、全隊止まれなどばかりを、怒鳴られながら繰り返すことに嫌気がさして僕はうちに帰った。

 「どげんしたとね」、たまたまうちに来ていた大叔母と母は驚いた。僕は「「集団体育」が嫌だ、あれは勉強じゃない・・・」と訴えた。大叔母は「そんた戦争の練習じゃ」と叫ぶと下駄で学校に走った。その後僕の記憶に「集団体育」の記憶はない。鹿児島の故郷に転校してからも「集団体育」があり、憤然と早退した僕の訴えに「行かんでん良か」と血相を変えて学校に大叔母は走った。

 プロブレムは生徒や家庭にばかりあるのではない。第一わざわざ横文字を使う神経自体が問題。

 思い起こせば、学校で「問題」が起れば大叔母は「こんたいかん」と走った。その声を聞く柔軟さがこの頃の学校にはあった。そして教師は平和に敏感だった。

 前川喜平元文科次官が、「運動会の入場行進の「全たい進め」や「全たい止まれ」という号令の「全たい」は「全体」ではなく「全隊」である」と証言している。文科省はその流れを総括しないまま今日に至っている。「組み体操」や「体罰」を巡る愚かな醜聞は文科省の不作為の成果と言ってよい。そればかりではない。 

 高度成長の直前、日本の農村は崩壊、悲惨な様を曝しはじめた時、田舎の学究でも弁当に焼いた魚を新聞でくるんだり何も持たずに校庭でうな垂れる子が増えた。帰宅して話すと大叔母は「ぐらしかー、何を植えてん売れんごつなったとじゃ」とどこかに走った。数日して担任がアルミのドカ弁を幾つも抱え、弁当のない子たちに配るようになった。六学年全クラス分は大変な作業だった筈だ、一人では手に負えない。ひと月経つか経たぬうちに給食が始まった。町議会議長は父の叔父だったし、役場のあちこちに知り合いもいた。大叔母は根回しが巧だった。祭りが近づけば、庭は大叔母に知恵を借りる若者の溜まり場になった。町中の情報が集まり、動きはす早かった。

 大叔母は「公選制教育委員」経験者だったかもしれない。初め町は、大叔母を国防婦人会の活動家の経歴に目を付け無害な教育委員として立候補させたのだろうが、実際の動きは生徒や父兄の実情を行政に反映させるものだった。公選制教育委員会や公選制公安委員会が瞬く間に潰されたのは、この住民との密着行動を行政が恐れていたからに違いない。

 大叔母の口癖「バカの考え休むに似たり」は、行動する草の根民主主義の標語だった。帝大卒や士官学校・兵学校出の浅慮が、自国民とアジア民衆を苦難のどん底に叩き込んだ経験を祖父母も大叔母も決して忘れなかった。だから彼らは、孫に勉強を禁じ、冗談で「東大に入るよ」と言えば慌てたのだ。

教えたことを裏切らないという誠実性

  戦中の沖縄愛楽園に県警本部長一行が厳めしくやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。

 その時、患者の一人が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者が沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」

 と神をも畏れぬ大胆極まりない批判をした。

 忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎに

治療はなかったが解剖は承諾なしでも行われた
なった。彼は師範学校出の若い教員であつたが、職務半ばでハンセン病を発病して収容されたのである。

 同じように一家の働き手を徴兵で失った家族には、僅かながら援助があったのを、この元教師は捉えていた。ハンセン病患者は犯罪者ではないにもかかわらず、収入は断たれ家族は路頭に迷うことになった。

 「教えたことを裏切らない」誠実性はこういうことである。「重監房」送りになっても不思議ではなかった。光田健輔が虚構の絶対隔離の絶対安寧のために希求したのが、反抗者を死に至らしめる「重監房」=特別病室であった。全国から所長や職員の意に沿わない患者が送りこまれた草津の栗生楽泉園「特別病室」は、冬には零下18度暖房設備はあろうはずもなく、食事は握りめし一日2個と、湯のみ2杯の水。長期間の監禁により1947年(昭和22年)に廃止までの9年間で、延べ93名の患者が収監うち23名が死亡している。

 この重監房建設には、渋沢栄一の三井報恩会からの寄付があった。繰り返す、渋沢栄一は一万円札に相応しくない。

   この若い元教師のその後は分かっていない。


 

現役校長、行政を批判

  大阪市長松井一郎に現役の校長が「大阪市教育行政への提言」と題する文書を実名で送付した。本文を引用。

 豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために 

 子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。

 学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。

 今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。

 現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。

 また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。

 つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。


 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚しく、わたしたちの教育への情熱を萎えさせるものか、想像していただきたい。

 子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。

 あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。

 間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。

 「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。

 コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。

 根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。

令和3(2021)年5月17日

大阪市立木川南小学校 校長 久保 敬

 

  対し松井市長は「考え方が違う」と切り捨て、考えの中身には触れない。

 「校長だけど現場が分かってない。社会人として外に出たことはあるんかな」などと批判。教職員が意見を述べることについては

 「意見を言うことは問題ないが、大きな方針は組織として決定事項。決定事項の設計図に伴った職務を遂行してもらうのは当然。それを否定するなら、公務員としての職責を逸脱している」と主張。

 「ルールから逸脱するような形で、教育振興基本計画と違う形で学校運営するとあればルール違反。辞めてもらわな」と処分を匂わせた上に、

 「決めたことをやらないというなら処分の対象。考え方は違うけど、教育振興基本計画に沿って学校運営するのが当然の話。社会人として当然じゃないの?組織の決まったことを覆そうと言うのなら、自ら公約掲げて市長にならないと変えれませんよ」と維新お得意の論法を相変わらず振り回している。政治的少数派であろうが、多数派同様「主権者」であることを、了解しない。松井市長は自らが「civil servant」であることを学ぶ必要がある。

  相対多数を取った者が総取りするのが、彼らの「民主主義」観。政治が博打と同列になっている限り、多様性は在りえない。コスタリカの政治的多様性や生態系の多様性が、少数者や弱者を排除しない「抑制」の上に成り立つている。

 68年大学闘争の最中、大学構内で突然右派学生に取り囲まれたことがある。彼らはこう言った「お前、そんなに日本やアメリカがいやなら、ソ連に行け。」

 僕はこう言った。「君たちが日本人なら僕も日本人だ。僕の立場は「日本国憲法」が保証している。」彼らは余計いきりたった。

 ベトナム情勢が悪化したこのころ、僕はほとんど毎日教室を回り反戦ビラをまきアジテーションを繰り返していた。

 維新の論法はこの頃既にあった。いやなら黙れ、従えないなら辞めろ、出て行け・・・。

 教育の中身については、行政は口出しが出来ない。条件整備だけが任務、それが欧米の「公選制」教育委員会制度である。大阪でも東京でも日本中で、行政が教育の中身に介入している。そのことが憲法違反であるのに、なら憲法を変えろと議員が言う。議員の任務は憲法を擁護する事に尽きる。

 中身のない多数派は、少数弱者の悪口や蔑視感情を煽り立てる事でしか存在を主張できない。


 政治に口を閉ざしていた大阪の市民は、「 #木川南小学校長を支持します」のタグを瞬く間にsns上に溢れさせ始めている。だが周辺の校長たちは口を閉ざし続けている。小学生は口を閉ざす校長たちを「かっこ悪い」と思うだろう。絶好の「道徳」教育になっている。勿論教室で取り上げればだ。

校長の適否は授業を受けた生徒が最終判断すべし

 校長に「何故授業しないの?」と詰め寄った女子高生がいた。真っ当な詰問。
   OECDが国際教員調査「TALIS 2018」で、授業をする校長の割合を国別に調べている。日本の数値は突出して0.0%。東欧諸国は90%台、チェコでは校長全員が授業している。フランス13.2%、フィンランド60.7%、0.0%なんて国は他にない。異常なのだ。ある大学教師もそれを分かりやすく表にまとめている。 http://tmaita77.blogspot.com/2020/08/blog-post_28.html

 女生徒の慧眼は、OECDや大学に先んじていたわけだ。ただ大学の先生は、校長の職務規定に「必要に応じ児童の教育をつかさどる」の文言を加えたらどうかと提言している。

 「校長の適否は授業を受けた生徒が最終判断すべし」でなければならぬと思う。主権者教育とはそういうことだ。そんな学校で思う存分「生意気」を尽くした若者であってこそ、企業で政府で社会で筋金入りの批判的市民となり得るのだ。「公(おおやけ)」はそうした動きがなければ、絵に描いた餅に過ぎない。公は常に更新されねばならぬ。既に存在して「参加」するだけの入れ物ではない。

   校長の職務は、「校務をつかさどり,所属職員を監督すること」(学校教育法37条)で、教員の「児童生徒の教育をつかさどる」という文言がない。それを根拠に法令上授業出来ないと居直る事を恥とも不満とも思わない神経を、涵養しているのが日本の教育行政である。
 
 政権topは世襲の繰り返しで加速度的に劣化。劣化すればするほど
政権topは、短期的成果を求めて現場への独善的介入を繰り返す。思い付きの軽薄な介入が、支持率操作の常套手法となった。批判精神を捨てた愚者を、無分別な行政が選抜し引き上げる構図が定着。学校に限らずあらゆる組織の「長」に、忖度と恫喝以外の能力は要らなくなった。
 冒頭の校長は女生徒を恐れて、校長室に鍵をかけて籠もってしまった。

批判精神を育てる授業の頻度において、         日本はoecd諸国中断トツの最下位

機械化は人間を苦役から解放すると言う
前提の疑わしさをチャップリンはガンジーに指摘され
 モダンタムスは生まれた
 大学1年生と4年生の教職に対する意識を比較した調査結果がある。常葉大学紅林教授によれば、4年生になると現場で役立つ即戦力指向の学生が増えるが,社会問題や政治・選挙への関心は薄まるという。4年間の教職課程は、学校への服従を準備する過程となっているかのようだ。

 これは今に始まったことではない。 1990年代、僕が『平凡な自由』を書いて、編集者達から「タイトルが捻くれている」と揶揄された頃、神戸校門圧殺事件やな戸塚ヨットスクール事件など目を背けたくなる事件が相次いでいた。高校生達も身の回りの理不尽を答案の裏やノートに書き綴って怒りを表明していた。それが1988年の「内申書裁判」頃から微妙に変化し始める。高2までは批判精神に溢れていた生徒達が高3になるや、「近頃はすっかり現実的になって、悲しい気持ちが残りました」などと書き出したのだ。それまでは、世間と安易に妥協する兄姉や両親を冷静に観察し「あんな姿になるものか」と書いてた。僕は授業で麹町中内申書裁判の意義(裁判を通して、内申書に「この生徒は気に入らないから落としてしまえ」とは書けなくなり、内申書公開の世論も大きくなった)について語ったが、それでも「もし万が一」との恐怖が高校生の批判精神や闘いを抑制し始める。
  
 最近教職課程は採用試験対策と称し、授業技術やトラブル対処など「how to」に強く傾斜している。これは1970年代から既に始まっていた。(国立大学教育学部を出た教師が、自律性や批判精神と行動力を持つのを各地の教委が忌避し始め、素直な新設の女子短大卒を合格させ始めた。それらの短大の売りが「how to」)であった。
 
 早い段階の短期実習の機会が皮肉にも「未熟な我と経験豊かなベテラン教師」という枠を無意識に形成し,学生は物言わぬ存在へと導かれる。学生らしさは早くから奪われ、社会に対す関心は極度には薄れる。一説によれば教職課程学生の読書時間は、一般学生より低いと言われる。
 こうした学生が現場にくれば、教委や管理職に都合はいいとしても、現場に新風を吹き込むことはない。まして現行教育行政に批判的視点は持てず、上からの指示に従順だけが取り柄となり、自他ともひたすら『頑張る』ことを唯一の指針とする以外になくなる。

 OECD国際教員調査「TALIS 2018」では中学校教員に対して、授業で批判的思考を促す頻度を問うている、結果は仰天すべき水準。日本は調査48国中頻度が最も低く、日本以外の全ての国がポルトガルの97.9%からノルウェーの65.6%にかけて分布しているのに対して、日本は24.4%とダントツの最下位。日本の教育には質的な異常性が構造化していることを表している。

 2021年度中学、2022年度高校で学習指導要領が改訂、「主体的で対話的な深い学び」が喧伝され、 指導要領国語の解説には、「批判的」という言葉が41回使われているが中身が寒いものであることは言うまでもない。 何故ならあくまでも与えられテキスト内での論理的諸関係を問うに過ぎないからである。与えられた前提それ自身を疑うことはあり得ないという枠が最初にはめられている。
 面白いことに、
新しがり屋の社会科教師が一時期夢中になった「ディベート」が「与えた枠内」に限る批判であった。ある意味で文科省は「民間」の自主的な取り組みを利用している。
 日本の教師は、我が身を滅ぼす線路を張り切って敷いてはいないか。学校と若者の実態を「批判」的に分析すればそれを簡単に否定できない。自らの労働の前提を疑え。

子ども手当の起源は、戦時下の「奇妙な国」にある / 氷上恵介と松本馨

子どもにも患者作業 広報用写真だから何もかもが新品だ
 野間宏が日本の最も暗い闇と呼んだハンセン病療養所で、日本最初の子ども手当が始まったことを君は知っているか。それは日米開戦の年であった。戦争の狂気に日本中が飲み込まれていた時期の奇跡でもある。僕は奇跡という言葉を好きになれないが、日本の子ども手当が「奇妙な国」で昭和16年に始まったことを「奇跡」と言うことに殆ど躊躇いはない。
 

  「あなたがたは、面積が四十ヘクタールで人口が千余人という、まったく玩具のような小国が、日本列島の中に存在していることをご存じだろうか。・・・厳とした国境があり、みだりに出入国はできないし、また憲法や建国の精神というものもあって、国民生活に秩序があることも一般の国家と変わらない。ただ変わるところは、どのような国、つまり資本主義の国にしろ社会主義の国にしろ、すべての国がその目標を発展ということに置いているのに反して、この国では滅亡こそが国家唯一の大理想だということだ」            島 比呂志 「奇妙な国」『ハンセン病文学全集3 』p230 (島 比呂志は作家(1918 - 2003) 東京農林専門学校助教授時代発病。国立癩療養所大島青松園隔離収容、翌年星塚敬愛園へ転園。同人誌「火山地帯」を主宰。らい予防法国家賠償法訴訟の切っ掛けをつくった)

 「奇妙な国」は、日本の中に何箇所も作られたが、その最初の国は全生病院(後の多磨全生園)であった。先ず、戦中のハンセン病療養所多磨全生園の子どもたちの生活を見てみよう。
 

 戦中の1943年、氷上恵介は全生学園教師を引き受け、園長(彼が奇妙な国の独裁者である)印を捺した「学事世話係を任ずる」との辞令じみたものを渡された。同じものは患者自治組織全生常会役員も渡され、療養所の支配関係を示している。
 教師となった余禄は、小さな机と読書灯。12.5畳に8人の雑魚寝生活は変わらない。先任の牧田先生と、20人あまりを上級生と下級生に分けて受け持った。症状悪化に苦しむ者も多く、病棟に入ったり出たりで生徒数は一定しない。義務教育段階を過ぎた年齢の少年少女のために夜学補修科もあって、思春期の男女が公然と同席できる数少ない機会となっていた。悩みは本が無いこと。氷上先生は新聞社の兄さんに手紙を出して、教科書を古本屋から手に入れて使った。
  B25が日本本土を空襲する。子どもたちの生活も悪化の一途。氷上先生は、せめて友達になって話を聞こう、仲間になって遊びながら学ぼうと決意する。国語は百人一首、理科は狭い園内の薬草を探したり、栗を拾ったり、体育は三角ベースをしたりで教育技術や教材不足を精一杯補った。 
 子どもたちと園内を歩いている時に、首吊り死体(ハンセン病それ自体による絶望ではなく、あらゆる血縁関係や社会関係から隔離され、死ぬまで収容されるという状態による絶望が、自殺を促していた)に遭遇することもしばしばあった。
 だが最大の問題は、ひもじさ。牧田先生と相談して園内の耕地を借り、自分たちの下肥を奪われないようにして腹に溜まるさつま芋やじゃが芋を育て、先ずは食べ余りで澱粉の実験をした。氷上先生に教わった人達は、いい先生だったと誰もが言う。子どもの話をよく聞き、話は決して飽きさせることのない優しい先生だった。

 1944年、薪不足で風呂は二ヶ月に一度、棺桶の板さえなくなる。

  「・・・野良犬や、野良猫、ヘビ、カエル、野鳥は唯一の動物性たんぱくとして食した。胸を病んでいる者はネズミの裸の子を生きたまま飲んだ。気の狂っていた患者は誰も食べようとしない毛虫やイモ虫をとって食べていた。栄養失調で患者は皆痩せこけていたが、なぜかイモ虫は丸々と太っていた、それを生のまま泡を吹きながら食べているのを見たとき、私はこの世界は生きながらの地獄と思った」           ラザロ・恩田原  (松本馨 ハンセン病者は本名を捨て、複数の筆名を使わねばならなかった)

 栄養失調による死者は増え、1942年140人、1943年 114人、1944年 133人、1945年 142人、1946年150人。一時は定員を超えて1400名の全生園はたった五年で半数が死亡、新しい患者と入れ替わった。 

 子どもたちの面倒をみたのは患者教師ばかりではない。子どもは少年舎・少女舎で生活するようになり、寮父・寮母が患者作業として配置される(1920年代)。
 寮父・寮母を、子どもたちはお父っあん・お母さんなどとよんだ。

 1941年から寮父を引き受けた松本馨は、条件として作業(患者作業 深い谷から重い炭俵を担ぎあげる、重い敷石を運ぶ、目の不自由な患者が大きなタライで洗濯をする、園内の仕事を患者は半ば強制的に割り当てられた。報酬は1日に牛乳一瓶を買える程度)をしなくても子どもが治療と学業に専念できるよう援助を要求した。
 それが日本で最初の子ども手当になった。患者たちの互助組織全生互恵会 (財団法人全生互恵会である。患者の売店等の資産・寄付によって1931年設立、患者の相互扶助を目的にしていたが、当時の運営実権は園側にあった)から月一円の日用品費が、「奇妙な国」多磨全生園全ての子どもに支給されるようになる。この着想は、松本も加わった原田嘉悦の茶会に集う若者たちの議論の中から生まれたのではないだろうかと僕は睨んでいる。 彼は原田嘉一から「将来科学の進歩によって(ハンセン病の)治療薬が発見される時が来る」という内村鑑三の言葉も聞いている。子どもの患者はその大部分が青年になる前に死んでいた。その時代に彼は、子どもに死を待つ子どもの絶望ではなく、未来を迎える希望を見ていたと言えよう。

 他の療養所の子どもたちの労働はどうだったのだろうか。同じ時期の長島愛生園や戦後(1950年)の松ヶ丘保養園の様子が検証会議証言にある。

  長島愛生園では・・・子どもたちも重労働に従事し、療養所の運営を補完する役割を担わされたのである。「薪の運搬、田植え、ため池工事や望が丘の土地の開墾などの重労働によって、体に傷をつくったり、障害をさらに悪く・重くする子どもを多く出すことになった。                                
 (松が丘保養園の)子どもたちは新聞配達や牛乳配達を日課としており、それが授業時間に食い込んでも、だれも文句を言わないというありさまでした。ここまでやらなければ生活を維持できなかった・・・。                   
 月一円の日用品費は、「奇妙な国」の子ども手当と言うべきである。その意義は、1933年の「児童虐待防止法」が、14歳未満の労働を禁じてはいたが、子どもへの手当は1972年の「児童手当法」を待たねばならなかったことに現れている。農家の娘たちが売られていた頃「農村の少年は、5歳になるとすでに縄ないを始め、11、2歳になると田仕事に追いやられ」た時代である。1944年には国民学校高等科児童の勤労動員が始まること、更に朝日訴訟(1957年)で憲法25条を巡って争われた日用生活費が僅か600円であったことを考えれば、その意義の強調は不当ではない。日本の最も深い闇に於ける先駆的試みである。これは一度も打ち切られず増額され、新良田教室(岡山県立邑久高校定時制課程新良田教室。全国のハンセン病患者を対象として昭和28年の「らい予防法」闘争により昭和30年長島愛生園に設置された)に進学した全生園出身高校生にも送られ続けた。

 松本馨が交渉した相手は、園の事務官(厚生官僚)であったという。人間的対応をする事務官であったと松本は書いている。
 当初は半日ずつの作業が毎日行われていたが、当時は週三日半時間ずつになっていた(別の記述では1時間ばかりのガーゼ伸ばし等で子どもの収入は月30銭~50銭とある)
 だが、子ども作業廃止と一人一円支給の画期性はいくら強調しても不当ではない。

 本物の「奇跡」に相応しく、歴史の何処にも記述されていない。なぜならこの奇跡を根拠とする、組織としての教会や宗団がないからである。
 志賀直哉であれば、この事実をどう書いただろうか。(彼には、北条民雄『命の初夜』の芥川賞選考に関して苦い記憶がある。他方彼は、松本馨同様内村鑑三にも深く傾倒していた。)

 松本は同時に、
全生学園を卒業した少年と児童を分離することも要求して実現させている。
 こんな証言がある。
 (草津)楽泉園には少年寮や少女寮もなく・・・大人たちが夜に男女の話をしていた。わたしは子どもでしたので「早く寝ろ」と大人たちに言われても、うるさくて眠れずに困りました。『楽泉園入所者証言集 中』 創土社 p127~128
 子どもには、子どもだけの時間と空間が必要なのである。これをハンセン病療養所における「子どもの発見」だと僕は考えている。
 この時、松本馨は23 歳であった。この後の彼の波瀾万丈については、稿を改める。

 引用は『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊からとった。

記 1941年の日雇いの賃金は1日2円、対して1957年の日雇い賃金は1日500円であった。

学級が「home」 roomと呼ばれるのは何故か Ⅰ

言葉は行動から生まれる
 「底辺校」に異動して気持が荒んだ教師が、自ら養護学校(特別支援学校をこう呼んでいた)に転じて穏やかになったことを語った教育研究集会の古いメモが出てきた。1980年代のことだ。
 全く口をきかず教室を飛び出し暴れ回る一人に一年以上手を焼き続けたが、彼はある日暴れ回る生徒と一緒に走り回ることにした。生徒が疲れれば、先生は子どもをリヤカーに乗せて校庭を走り回った。走り回ることがどんなに気持ちいいか初めて気が付いた。そうすると不思議なもので、手を焼くのが苦にならない。ある夕方下校する生徒を教室からボーッと眺めていると、件の生徒が突然振り向いて手を振ったのである。嬉しくて眠れなかった。次の朝その生徒は、教室を見上げ初めて口を開いた。「先生おはよー」と言ったのである。しかし、それからも厄介ごとは絶えず、ちっとも教室に落ち着かない。雪の日も校庭を一緒に走り回り、ようやく給食を落ち着いて食べるようになるのに更に一年。
 この話をしてくれた教師は「お陰で気が長くなりましたよ、でももうあんなに走り回れません」と頭を掻いた。

 学校が僅か一学期間の付け焼き刃や一週間の泥縄で「結果をみせ」ねばならぬ社会になり、実績を見せろと教師が教師を追いつめる。他の教師を追い詰めることが「成果」になるのだ。「結果」は紆余曲折の果てに出るものであって、一日や一週間で出せるものではない。

 金融自由化以来、社会全体が短気になった。いじめも体罰もパワハラもそうした雰囲気が作り出す。生徒が動かないからと生徒部は鬼の目して、期限を細分化して成果を担任に迫って生徒を追い立てる。動かないことは、動けないことは犯罪なのか。

 長年「底辺校」に勤め各種行事での熱血指導振りが報道で賞賛された教師が、学区一番の進学校に異動を命じられた。底辺校では梃子でも動かない生徒が、進学高では行事も学習も生徒が「勝手に」動く。彼は、突然手持ち無沙汰になった。することがなく詰まらない。妙なことではないか。それまで手を抜いていた教科の研究が忙しくない訳がない。彼は組合活動家でもあった、様々な職場を訪ね、話を聞く重要な任務もある。生徒が選別・分断・隔離される中で、どう闘えば良いのか。どんな教育条件が、あらゆる高校生を自主的にのびのびと活動させるのか。考え闘うことは山積みだったはずだ。
 彼は梃子でも動かない生徒を、見事に動かし賞賛されることに生きがいを見出していた。黒子であるべき担任が主人公になってしまった。いつの間にか、生徒が彼の指示で動くこと自体に、喜びを感じていた。生徒が自主的に動くことではない。例えば合唱祭か近づけば6時間目が終わると同時に教室に鍵をかけ、逃げられないようにして合唱の練習をした。その「甲斐」あって合唱祭当日の「涙と感動」の場面は、多くのメディアが詰めかける名物にもなった。これは「奴隷的監禁」ではないか。指示し指示され、その結果にともに涙を流す爛れた関係を構築してしまった。結果さえ「涙の感動」であれば何をしても良いという思考停止の悪い癖が我々にはある。

 僕は雨の学徒出陣を撮った映画を思い出した。当時日本中が涙を流しながらこの映画を見て、殺戮の地獄に突入したのだ。僕はこの「奴隷的監禁」の高校と同じ学区で担任をしていたが、文化祭の時クラスで「行事は強制ではない、嫌な者は自由に逃げてもいい。逃げる自由とは、逃げる者を批判せず、仲間という関係を壊さないとだ」と言わずにはおれなかった。進学校と底辺校の間に広がる「秩序」ある広大な闇、その闇に反乱しない生徒と教師をつくっているのが「偏差値」による選別体制なのだ。

 生徒が動かないことが前提の養護学校では、担任も追いつめられることは少ない。追い詰めるのはいつも「ランキング」=勤務評定「計量化されて一目瞭然だから、逆らいにくく批判しにくい。

 ランキングから外れた養護学校。だから一緒に走り回れた。学校の意図に沿う「涙と感動」を拒否する「底辺」の生徒の方が、実は自主的で知的なのだ。それを読めないから、教師が脳梗塞で倒れ、発狂する。情けない話だ。
       
 学級がhome roomと呼ばれるのは何故か。homeとは盗んでも咎めらず、貢献を強制されず居るだけで喜ばれる領域。「戦場」に向けて出撃して獲物を持ち帰る基地ではない。学級=home roomは
そういうものとして構想された、初めは。
 「国家が各個人にしいている支配服従の縦の人間関係倫理にたいして、家はすくなくとも国家よりは各個人の人間性を大切にするという意味で横の人間関係の倫理の芽ばえをもっていたわけだが、これは普遍的な倫理の形にまで一般化されることがなかった。サークルは、家の中でなりたっている相互扶助をひろげて行く過程で、よこの倫理を自覚的につかむことができるようにする」鶴見俊輔

 国家が、教委が、学校が「個人に強いている支配服従の縦の人間関係」であるのに対して、homeとしての学級は何をなし得るのか。学級担任としての職責は何か。
 出世や受験などの成功を懇願する家庭─それはもはやhomeではない。仲間の成立を不可能にする労働
─それは労働ではなく苦役。学校の部活、委員会、アルバイトも少年や青年の友情を絶望的なものにしている。進歩的な親や教師すら、部活は生徒学生の要求だと見なしている。宗教組織さえ、寄付や勧誘が「自主的」ノルマ化するのは何故か。人間は順位が決まらないと落ち着かない犬なのか。噛み付くことが習性の爬虫類なのか。甲殻類になって、いつも外敵に備えねば居ても立っても居られないのか。

生徒は先生より先生ぶりたがる

 都立S高は体育祭が名物で、nhkが番組を組んだこともある。生徒たちの自慢は大掛かりな応援合戦であった。次第に自慢の種はなくなってきていた。それでも推薦入試の面接で、体育祭見て受験を決めましたと見えすいた嘘をつく者も少なくなかった。入学後聞けば、中学生の時にS高の体育祭をわざわざ見に来た者は殆どいない。選択の最大の根拠はいつも偏差値、次いで服装の自由であった。
 それでも巨大なマスコットを竹と紙でくみ上げ、応援合戦を繰り広げる。マスコット作りにも、応援の振り付けにも馬鹿馬鹿しく時間をかけていた。三年生が、一二年生を指導すると言えば体裁がつくが、実際はしごきであった。参加不参加は任意であるにもかかわらず、しごきしごかれる関係に志願する。しごく側の三年生は、バインダーを小脇に抱え竹刀片手にダミ声で威圧するのが常であった。中には白衣を引っかける者もあった。バインダーには練習開始と終了を書いた紙しか挟んでいない。空虚な中身を隠す道具としてのバインダー、白衣、竹刀、ダミ声、全て教師の真似。放課後グランドで部活の生徒を威圧する顧問の戯画であった。
 「生徒は先生より先生ぶりたがる」と言ったのは市民運動家だった。バインダーとダミ声が教師らしさとは、教師の権威も落ちたものである。しかし生徒から見て実態はそうなのだ。

  「講義は聴く者を考えさせるものでなければならない……あたかも瞑想でもするように……ノートがとれなくても問題ではない」
 「私は、自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生が好きです……教師が自分の言っていることを実際に信じているという印象をもっています・・・教師には人をうっとりさせる魅力が必要です・・・そこに触れあいがあるのです

     ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店
 

 こうした学生の期待に応える努力を怠り、教委の恫喝の前にちぢみ上がった教師の姿を生徒たちは見透かしている。応援団幹部の振る舞いは、権威を失い権力だけにすがる教師のカリカチュアに他ならない。正面切って「先生の授業つまらない」「あなたの指導はうんざりだ」と言えない少年たちが、戯画で笑いのめしているのだ。バインダー抱えて脅し脅される馬鹿げた関係は、体育祭終了後に頂点に達する。円陣を組んで、一人ずつ感想を述べているうちに泣き始めるのだ、下級生はしごかれたことに感謝し、三年生はしごいたことを詫び、抱き合って泣くのだ。批判精神希薄な青春の悲しい光景である。

  「・・・軍隊にいる間理由もなくいじめつけたり、殴ったりしたやつのうちを一軒一軒まわり歩いて、あのときのお礼だといって、片っぱしから気のすむほど殴り倒してきたという。西は山口県の岩国から北は青森まで足をのばしたそうだが、その住所は復員するときにちゃんと控えておいて、そのうえ乗車用の復員証明書も余分に何枚か手にいれておいたというから″お礼参り″はかねてからの計画だったらしい。邦夫は煙草に火をつけながら、
「こっちゃよ、懐かしくて訪ねてきたっていうようなこと言ってな、一人一人外へ誘い出してこてんぱんにのしてやったんだ。どいつもこいつも軍隊じゃでっかい面こいていやがったけど、裟婆じゃみんなホトケさんみてえにおとなしくおさまってたぜ。おれたちが鬼ヒゲといっていた百里空の先任班長の野郎は、信州の岡谷だけんど、二週間前式をあげたところだといって新婚ホヤホヤだった。こいつは三度のめしを二度にしても、おれたちを殴るほうが好きだっていうやつでな、訪ねて行ったのは夕方で、ちょうど女と二人だけだったが、こいつは家ン中でのしてやった。いきなり鼻っ柱にメリケンをかっ喰らわしてな、そうしたら女がギャアギャア騒ぎだしやがったから、ついでに女も二つ三つぶん殴ってやった。まあ亭主への恨みだからしようがねえや。中でもザマなかったのは岩空の分隊士だ。こりゃ兵学校出の中尉でな、気狂いみてえな張りきり野郎で、やつに殴られたあと病院に担ぎこまれて四日目に死んじまった同年兵もいるし、おれだって前歯を二本も折られているんだ。こいつはうまいこと阿武隈川の河原におびき出してぶん殴ってやったけど、野郎ときたら河原に手をついてペコペコ頭をさげて泣き言こきやがるんだ。・・・あのときは立場上しょうがなかったんだ、許してくれ、この通りあやまるから許してくれってな・・・こっちゃわざわざ福島くんだりまで、そんな泣き言を聞きにきたんじゃねえやって言って、同年兵の分まで半殺しになるほどぶん殴って血だらけに踏みつぶしてひき蛙のように河原にのばしてやった」
 ・・・「でもあれだな、これでいくらか恨みは晴らせたんだけんど、気持ちはあんまりさっぱりしねえもんだな。なんだかこう、変にうすら淋しいような気がしちゃってよ、復讐なんていうのはもともとこんなもんかなァ・・・」
 ・・・それにしても半月間よくも回ったものだ。その執念には感心した
」  (渡辺清『砕かれた神─ある復員兵の記録』朝日新聞社)
 
 というようなことにはならないのが残念でならない。集団的な涙=カタルシスには一切を流し浄化する悪い効果がある。オリンピックやワールドカップを政治が利用したがるのはこの効果が計り知れなく都合がいいからだ。低賃金や低福祉、過労死の悲惨の根源への溜まりにたまった鬱憤を、集団の涙で排泄し快感に変えるのだ。そう考えれば、何千億や兆単位の負担は安いものだ。しかも実際に支払うのは涙で悲惨を排泄する連中なのだ。

 教育実習生が実習を控えても一向に事前の勉強に関心がゆかず、教材研究に冷淡になったのも「生徒は先生より先生ぶりたがる」からである。「ぶる」のに努力は要らない。
 生徒たちから見て、教師が研究や学習にのめり込んでいる様子は見えなくなってしまった。過労死レベルの雑務に振り回されているのだ。見えないのではなく無くなってしまった。かつて学校の図書室には、教員専用の閲覧室が設けられていた。書店の営業職員は、教師たちが個人的に注文した書籍を届けに頻繁に職員室に出入りしていたものだ。

  「自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生・・・教師には人をうっとりさせる魅力が必要です・・・そこに触れあいがあるのです

    
 教師の手が空くのを待ち構えて、質問を繰り出したり、話をねだったり、ただ側に居たがったり、そういう光景がなくなった建物をもはや学園とは言えまい。だからこそ少年たちは「先生より先生ぶりたがる」ことで行方不明の教師像を求めてさ迷うのである。

低賃金低福祉政策のためにつくられる落伍者

 江戸霊岸島に不良少年矯正塾があったことが、石塚豊芥子の『街談文々集要』に見える。石塚豊芥子は文化文政年間の巷の四方山話を収録した。左は『街談文々集要』の挿絵の一つ。大田南畝や谷文晁ら百人以上が参加した文化12年の酒合戦を紹介している。醤油や酢まで飲んだらしい。

  「文化二乙丑九月霊岸島長崎町忠右衛門店、山下飯之助といふ浪人、世間の放蕩者或ハ悪党なりとも篤実にする事をなす。是ハ右山下飯之助の門弟と成り、何ヶ日の間と定、其間ハ山下方え引移りて、書を読せ或ハ諸禮を習わせ、右日限の間にハ自然と悪念をはらひ、真實の者になしてかへすよし。
 いかなる教へ方あるにや、廣き大江戸の事ゆへ親兄弟の申事を聞入ざる不禮の族をハ連来り、相願候者数多有ト云々。 其家造りハ玄関をかまへ、實事論会学堂ト書し看板を出し、槍鉄砲弓具足櫃(ぐそくびつ)其外武具の類ひをかざり、門弟多く皆袴を着し玄関に相詰居候よしなり


 貸家住まいの浪人山下飯之助が、親の手に負えない若者を門弟として自宅に寄宿させ、書物と礼法で見事に立ち直らせ「山下先生のお陰で、悪心を払い真人間になった」と評判が立った。
 かなりの費用を要したが、親や親類一同が相談して、次々とドラ息子を連れてくる。
 山下飯之助の玄関には、「実事論会学堂」と看板が掲げられ、玄関をはいると槍、弓矢、鉄砲、具足を入れた櫃などの武具が飾られ、袴を着た内弟子がひかえていた。入門と同時に、山下の著述『鏡学経』が渡される。午前は『鏡学経』を学習し、午後は剣術の稽古をしたという。
 二、三日で音を上げ逃げ帰る者もいたが、親元に押しかけ連れ戻し足枷などをはめて二度と逃げられないようにした。
 それでも、あるいはそれ故門人は増える一方。山下は門弟の親に寄付を求め、あらたな拠点作りを模索し始める。だが文化二年(1805)9月、町奉行所は山下を召し捕らえてしまう。町奉行根岸肥前守鎮衛は次のように言い渡している。

 其方儀町方住居浪人の身分にて玄関に槍、長柄等を飾り、具足櫃、弓、其外鉄砲と相見へ候品袋に入飾置、實事論会学堂と申看板を差出し、新規異流の儀を相企、乱心者又ハ放蕩者を教諭ヲ以相直候様奇怪ヲ申触、其上自分取綴候鏡学経と申板本ヲ拵へ弟子共へ為読候のみ申立候へとも、不容易義に候処相認メ、学堂取建候迚弟子共より金子為差出、本湊町にて屋鋪買求、作事場為見廻、町人の弟子共え苗字為名乗、利欲ヲ以蒙昧の者ヲ為迷金子徳用致候始末不届至極に付遠嶋申付候
 

 山下飯之助は遠島、息子や内弟子などが江戸払いなどの処罰を受けた。

 蝦夷奉行が置かれたのは1804年、日本近海が騒がしくなり始めていた。しかし蛮社の獄は1839年。

 幕府にとっては、庶民が身を持ち崩し落伍者として世間の指弾を浴びさせる方が、封建的秩序維持には好都合だった。犯罪や貧困が政策によって救済されることを快く思わない人々は今も昔も少なくない。自己責任、身から出た錆と言いたがる。
 日本経団連会長を務めた奥田碩は「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない」と平然と言う神経を持っている。目に見える格差や落伍者の存在は、低賃金低福祉社会にとって欠かせないのだ。

 
 山下飯之助もだいぶ怪しい。逃げ帰る者に足枷をはめたり、玄関の武具で威圧したり、大金をせしめたり、某yacht schoolや校長室にトロフィを展示したがる中高校と似た匂いがする。
 問題は、「山下先生のお陰」と個々の親子の問題を丸投げしたことにある。
 


椋鳩十が、快惚として聞き入った正木先生の授業

授業も裁判も、正木先生の独壇場
 賑やかに生徒が発言し動く授業が「いい授業」だろうか。それが生徒の自主性を引き出すものなのか。
 昔ユースホステルに泊まると、ペアレントと呼ばれる経営者が、食後に宿泊青年をホールに集めてミーティングをやるのが定番だった。ゲームや歌で交流するという触れ込みだった。僕は少年の頃、こういうことは得意で好きでもあった。だが18歳になろうとする春、『アデンアラビア』に意識を殴られて、ゲームや歌から覚めた。

 ミーティング好きのユースホステルでは、ものを考えられない。ミーティングの主役は、若者ではなくペアレントであり、若者は乗せられた道具に過ぎなかった。
 ユースホステルに泊まるぐらいなら、無人小屋の方が心地よいと思うようになった。一日中尾根を辿って誰とも会わない日もあるが、途中の景色とともに物思いに耽れる。
 今でも、旅館で着飾った女将が挨拶に来るのが嫌で堪らない。まるで客は女将登場の道具立てだ。観光地の列車や船に乗れば、ギターや三味線片手に地域おこしの仕掛け人が現れて、無理矢理盛り上げる。迷惑で鬱陶しい。うっかり旅も楽しめない。静かに景色を眺めることが、まるで犯罪であるかのような雰囲気がある。 

 先生は、ガリバンの英文を解釈するだけでなく、詩の世界の中に、私たちをひきこんでいき、あるいは、哲学的文章では、思考の泉のほとりに私たちを立ちどまらせるのであった。
 正木先生は、驚くほど、雄弁な先生であった。
 正木先生の放課後の講義は、現代の小・中学校で行われているように、子どもたち個々の力をひきだすために、一人一人に発表させたり、個々の意見をひきだすといったものからは、はるかに遠く、正木先生がひとりでしゃべりまくる独壇場とでもいうべきものであった。そして、正木先生のおしゃべりは、実に、魔力をもったものであった。
 私たちは、正木先生の人生論に、鑑賞論に、快惚として聞きいるのであった。
 時には、正木先生の下宿先まで皆で押しかけ、夜を徹して、芸術を語り、人生を語るのであった。
 中学校の二、三年生の芸術論であり、人生論であるから、青くさく、鼻もちならぬものであったにちがいない。しかし、それでも、正木先生は私どもと口角泡をとばして議論したりするのであった。真剣になってやり合うのであった。そして最後には、正木先生に、さんざんやりこめられても、上等のお酒に酔ったように、心の中が、ぼうとあたたかくなり、何か、幸福とでもいうような不思議な気持になるのであった。
 今でもあの当時のことを考えると、青春の日のロマンといったものであろうか。あるいはまた、青春そのものといったものであろうか。心のふつふつと燃えた若き日が、よい匂いのように、心をつつむのである。

                                         椋鳩十 『児童心理』1978年11月号

   正木先生とは、戦前から軍国主義を批判し、戦中には「首なし事件」(1944年)で官憲による拷問を告発した正木ひろし弁護士である。戦後も多くの反権力事件、冤罪事件を手掛けた。
 正木ひろしは、帝大在学中から旧制中学で英語を教え、椋鳩十を教えたのは大正中頃であった。
 深く魔力のある授業に、若者は忽ち引きずり込まれ、時間も空間も忘れてしまう。お喋りも先生への質問も、授業から覚めてようやく始まる。そしてその稔りは、時間をへてノートや行動に現れる。   
   椋鳩十は信州飯田の中学生だったから、正木先生の下宿には歩いて行けた。歩きながら先生の授業と自分の意見と仲間の見解を繰り返し練り上げる。その時間が個性を引き出す。夜を徹して語り合い「さんざんやりこめられても、上等のお酒に酔ったように、心の中が、ぼうとあたたかくなり、何か、幸福」な気持ちになる。この幸福な気持ちが、正木先生と椋鳩十たちの「共同作品」と言うことが出来る。優れた教師と世界を共有出来る喜び、これに勝る教育の意義はそうはあるまい。あらゆる青春の出来事は、こうした共同作品として生まれる。

 講義から夜を徹しての議論までの長い思考とやり取りを、切れ切れのマニュアル化した数時間に納めることはとうてい出来ない。生徒の自主性を引き出すとの触れ込みのどんな取り組みも、所詮は理論=テクニックとそれを信奉する教師の添え物に過ぎない。練り込まれた計画に基づいて指示通りに動く駒に過ぎない。深く長い個人の思考を伴わないからである。
良い教育の条件に「歩いて行ける」は欠かせない。歩いている時間と空間そのものに教育的機能があるのだから。放課後の講義に夕闇が迫れば、一旦中止して「晩めし食ってからうちに来い」と言える街を目指す都市政策、教育行政を持たないこの国の未来は暗い。

 正木ひろしは、旧制高校で理科から文科へ転じている。美術教師も務めたことがある。そのハイブリッドな教養が縦横無尽の講義となり、法廷での見事な弁論を構成している。教師にとって最も肝心なのは、無駄な程に広く深く学ぶことである。それが好きで堪らないことである。教師たちは好きで堪らない学びに時間を割けないない。それが大きな争点にならないこの国の未来は無いに等しい。


追記 僕は横文字の氾濫に腹を立てているから、「ハイブリッド」を使いたくなかった。しかしどうも言い換えがきかない。「雑学」ではない、そこには思想性が欠けている。「ハイブリッド」な教養は、物事をずらして見ることが出来るから、権力批判にたどり着きやすい。渡辺崋山や高野長英が蛮社の獄に連なったのは、その知識の構造がもたらしている。日本の大学が、副専攻を制度化しないのもこのためだ。つまり日本の大学は、構造的に権力迎合的なのだ。

糞の役にも立たない官僚的な教師

糞の役にも立たない官僚、面白くも可笑しくもない
 そもそも私は馬鹿正直で、なにかいたずらをしては、担任の教師に、こんないたずらをしたのは誰だと云われると、正直に手を挙げた。そしてその教師は、私の成績表に操行ゼロと書いた。
 ところが、担任の教師が変ってからも、自分のいたずらに対して、相変らず正直に手を挙げていたら、その教師は正直でよろしいと云って、私の成頒表に操行百点と書いた。
  ・・・
 ある期末の歴史の試験の時のことである。問題は十問ほどあったが、私には殆ど出来ない問題ばかりだった。・・・
 私は全くお手上げだった。私は窮余の一策で、十問目の「三種の神器について、所感を述べよ」という問題だけとり上げて、答案用紙に三枚ほど勝手なことを書いた。その内容は、三種の神器は、話にはいろいろ聞いているが、この目で見たわけではないから、所感を述べよ、と云っても無理だ。八咫鏡にしても、実物は誰も見た者はいないのだから、本当は四角かも知れないし、三角かも知れない。私は、自分の眼でしっかり見たものについてしか語れないし、証明されたものしか信じない、というようなものであった。
 ところが岩松先生は、その歴史の答案に採点して生徒達に返す時、大きな声で云った。
 「ここに一つ、変な答案がある。私の問題の一つについてしか答えていないが、それがなかなか面白い。私は、こんな独創的な答案は初めて見た。こいつを書いた奴は見どころがある。百点だ。黒澤 !」
 と、その答案を私の方へ突き出した。皆、一せいに私を見た。私は、赤くなって暫く動けなかった。
昔の先生には、自由な精神を持った、個性豊かな人物が沢山いたのである。
それに較べると、今の先生は、ただのサラリーマンが多すぎる。いや、サラリーマンというより、官僚的な人物が多すぎる。こんな先生の教育は、糞の役にも立たない。第一、面白くも可笑しくもないだろう。

                                            1984年  黒澤明『蝦蟇の油』岩波書店

 あるとき職員会議で、校長から神社参拝させるという提案が出た。そうしたら金子先生が、何か効果がはっきりしたらやったらいいじゃないですか、神社参拝したらどういう効果があるか、と言っちやったらしい。そうしたら校長がえらい困った。時局下で監視が来ているでしょう。それで開先生が立ち上がって、「多分、きみそれはあれだな、うっかり言ったんだな」と言ってとりなしたという。しかし、結局みんな追われちゃったらしいんです。
                                           1982年 斉藤喜博 『聞く』明治図書

 斉藤喜博が師範学校学生であった頃の出来事である。時局下の監視とは配属将校の臨席である。戦中戦前の学校教育を受けた教育者や文化人の回想を読むと、意外なことに個性的な教師に恵まれた人が多いことに気付く。
 糞の役にも立たない官僚的教師の跋扈はどこから始まったのだろうか。
 学校の官僚化を象徴するのが、入学式や卒業式の式次第だ。卒業生や保護者に向けて、おめでとうございますの挨拶もない。ぶっきらぼうに、開会の辞と閉会の辞に挟まれて、国歌斉唱や校長式辞が並び、教育委員会告示までが挿入されている。これがあるお陰で、教員は卒業とは何か、学校は誰のものなのかを考えない。保護者は式の何処にも登場しないことのおかしさを議論しないで済む。式次第のかげには通達のもたらす形式がある。
 形式は、人間の思考を眠らせ腐らせる。式次第から匂うのは肥大化して硬直化した「官」と、消えかかる「私」。
 普段はお喋りとイタズラにに余念のない反抗的生徒が、卒業式では神妙にしているのも気に入らない。 黒澤明の担任が「正直でよろしい。操行百点」と書く余地もない。一貫性があれば、正直でよろしいと言えるが、場が変われば恐れ入るのはただの調子者に過ぎないからだ。その代表が元都知事であった。教員には君が代を強制しておいて、自身は「オレ歌わないもん」と言ってはばからない。文化的一貫性や自由な精神の見えない底の浅い作家であった。

 戦中戦前の学校教育を受けた教育者や文化人たちが、個性的な教師に恵まれたのは何故だろうか。
 彼らが接した教師たちは、大正デモクラシーの自由な空気の中で育った世代である。自由が生き方や仕草に染みついている。彼らが教壇に立つ頃、軍国主義的世相が押し寄せてきた。若いから反発も強い、一言どうしても出てしまう。

 「何か効果がはっきりしたらやったらいいじゃないですか、神社参拝したらどういう効果があるか」と言っちゃった金子先生は、帝大出であり旧制高校的自由も享受していた。軍国主義教育の軽薄な非合理性は我慢ならなかったに違いない。金子先生とともに飛ばされたのは、帝大出の人たちであった。
 対して 黒澤明が『蝦蟇の油』で「糞の役にも立たない」と腐した教師たちは、総じて団塊の世代以降。高度成長期にマスプロ教育で育ったから、行事も授業も効率と画一化が前面に出る。教室の壁や廊下にも点検表があふれた。定期試験問題の共通化や評定平均の統一までが画策された。「面白くも可笑しくもない」ことを真顔でやった。僅かな遅刻で女子生徒を殺し、ドライヤーを持ってきたと言い生徒を殴り殺したのはこの時代の教師である。


 教師が殴りたがり、点検したがるのが、その教師の生育背景に由来するとしたら、殴られる少年たちの怒りのやり場はない。どんな育ちのいかなる教師に教わったとしても、青少年たちが保証される教育の最低限を規定したのが、旧教育基本法であり子どもの権利条約である。

           





絞りかすみたいな、いい先生

絞りかすみたいな毎日
 自分は多少のユーモアを持っている。しかし、洗いざらいそれは作品の中にぶち込んでしまっている。だから、現実の自分はまったくしぼりかすみたいな毎日をおくっている。わたしの生活はつまらない日々、おそろしく常識的な、平凡な日々に過ぎない。 石坂洋次郎
 

 だからこそ、彼はいい作品を生み続けるいい作家であった。
 いい授業のための研究や教案作りに、精力の全てを注ぎ込み絞りかすみたいになった先生。そんな先生を記憶の底から探った、なかなか思いつかない。一晩寝て、はっとした。絞りかすどころか、廃人になってしまった先生を思い出したからだ。「心を病んだ教師」←クリック 

   彼が非常勤講師だった頃、小説や回想録に登場するような素晴らしい青年国語教師であった、まったく。
 このF先生が石坂洋次郎のように振る舞うことは出来なかっただろうか。F先生と石坂洋次郎を隔てているのは、生活指導である。そして非常勤講師F先生と学級担任のF先生を隔てるのも、生活指導であった。
  「幸福は退屈である」←クリック  でこんな逸話をひいた。

  ・・・興味深いessayを読んだ。30歳前後の高校同級生が久しぶりに酒を飲む。積もる話の末、一人がこう呟く。
 「・・・この頃、古文のA先生の授業を思い出すんだ」
 「お前もか、おれもだよ。高校の頃あんなに退屈な授業はなかった、だがまた聞きたいとしきりに思うよ」
 「だろう、A先生の淡々とした口調に今頃になって引き込まれてね。『古典文学大系』を買って読んでいるよ。脚注を利用すれば、楽しく読めてしまう。知らぬ間に学力はつくものだね」
 他日別の同級生と会った時、この話をするとこの友人も
 「実は僕もね、あの教科書をまた買ったよ。先生の名前も顔も10年以上も忘れていたのに、なぜかね、あの頃はうつらうつらしながら聞いていた、考えれば勿体ないことしたよ」


 正式採用されたF先生は、教材研究する間も惜しんでクラス運営にのめり込み、失敗すればするほどのめり込んでしまった。3年間通して同一学級に全てをかけ、これ以上無い失態を招いた。劇的な失敗にもかかわらず、それを教訓に綿密な指導計画を練り、間をおかず再び3年間連続して受け持ち同じ失態を招いた。彼の精神的弾性は限界をこえてしまった。
 もし彼が、国語授業に全てではなく適量をぶち込めば成功したことは間違いない。学級運営は絞りかすすれすれで臨んでも生徒の信頼は落ちなかった筈。

 それが何故彼には出来なかったのか。担任としての「おそろしく常識的な、平凡な日々」な退屈を怠惰として憎んだか。十年後の酒場でかつての教え子が静かに絶賛したとしても、それは彼の耳には届かない。石坂洋次郎の小説に引き摺られ、始終生徒たちに取り囲まれることが教師の至福に見えたか。だがそれは生きた石坂洋次郎とは隔たりがある。
 極楽は仏様があくびするほど退屈なのだと『蜘蛛の糸』に芥川龍之介は書いた。それは福祉国家になると退屈で若者の自殺が増える類いの、使い古した勤勉哲学に過ぎない。

 生活指導さえ無ければ、素晴らしい先生は一気に増える。そのお陰で少年たちの問題行動は激減する。なぜなら授業で信頼を獲得した教師の指導を生徒は嫌がらない。たとえ枯れ果てていてもそれは風情。過剰な熱心や熱血から生徒は逃れることが出来ない、これほど鬱陶しいものはない。それを3年間も続けられれば暴発は必然であることに、何故この青年教師は思い至らなかったのか。熱血は冷静な認識も判断も妨げる。


 教師は、石坂洋次郎的退屈に生きることに耐えるべきだと思う。耐えて高校生が部活の悪夢から覚めるのを待とう。争いの無い社会は極めつけの退屈満ちていると言いたがる者にはたっぷり言わせておけばいい。極楽は退屈さとともに学問も芸術も生み出すのだから。石坂洋次郎の作品と人柄はそれを証明している。人は一芸に秀でることさえ至難なのだ。

  高校生が荒れる学級を立て直すために取った行動(「和解する教室」)に比べるとF先生のやり方は、思想も哲学も見えない。しかしいかにも教師らしい暴力性に満ちている。
 生徒たちの暴発は、卒業文集に現れた。F先生は「何を書いてもいい、検閲はしない。書いた通りを載せる」と請け合い、全ての生徒から「死ね、死んでください」と書かれてしまう。この時までF先生は、生徒の不満に気付かなかったのだろうか、3年間も。生徒たちは、担任に不満や要求を押さえつけられて何も言えなかったのだろうか、この時まで。卒業文集の原稿を担任が目にしてから卒業式まで、2・3ヶ月はある。同僚たちは何を見ていたのだろうか。
 彼の総括も独善的であった。3年間の方針に質的な誤りはなく、ただ量的に不足・徹底さがなかったというものであった。担任を降りる、休む、独善的指導を止めるという選択はあらかじめ排除されている。日本軍に酷似している。独善性は強化され徹底する。破綻する度に独善性は増した。二度目の担任では、生徒との接触は入学前から始まり、昼休みも一緒に弁当を広げ、学級通信は一日二回になる。
彼の脳裏に去来したのは、未だ足りない、もっと強くだけ。方向転換することが出来ないのである。巨艦巨砲主義から脱却出来なかった海軍と変わらない。
 致命的なのは、生徒側に話し合いがないこと、学級に対する愛着の欠けらもないことである。自己認識から逃げたくなるほど、学校や学級に対して冷めてしまった生徒たち。その集団を規律の強化・徹底で乗り切ろうとする教師。F先生が精神に異常を来しても気付かなかった同僚たち、異常に気付いても狼狽えるだけの管理職。最悪の組み合わせである、この組み合わせがなにゆえこの学校に起きたか。
 

不定期、日程時程なし、総括なし / 予定表からの解放 / 同人誌『山脈』の世界

集会は会議室でなくてもやれる、いつでもどこでも
   日本各地に散らばる教師が、不定期刊行に徹した同人誌『山脈』に集ったことがある。主催したのは白鳥邦夫。旨いものが採れる季節になれば、酒持参しての集会を呼びかけた。

 多様で厄介な生徒たちを相手に、七転八倒しながら授業した記録(どんなに短くてもいい)を、持参することを条件にする研究会をやりたい。研究者編集者の類いが参加を希望すれば、彼らにも
にも七転八倒の実践報告を求める。
 田舎屋敷の一室に車座になり、司会も置かず人が集まれば自然に始まる。時程や日程がなければ不安という脅迫観念から先ず自由になる必要がある。参加者が多くなったら、庭や浜に分散して話を続ける。時間無制限。
 宿の手配も、床を延べるのも、食事の支度も自分でやる。掃除も片付けも。
  議論を滑らかにするために酒はいい、手作りの菓子や茶受けも歓迎する。酔っ払ったら迷惑、自ら退場する。分散会の交流は昼休みや、夕食後に自然に開かれるだろう。討論が終わらないところもあるだろう。近所の農夫や子どもが覗き込むようになればしめたもの。
 まとめや総括の類いはない、終わった途端の総括に碌なものはない。ひとり一人が話し合いの中身を咀嚼し、胸に刻むことが重要なのだ。数ヶ月して自分なりの総括が出来たら、不定期刊行の雑誌に送る。そうすることで、自他の違いが際立つだろう。それが、又あの人たちと語り合いたいという気持ちに繋がる。
 こうした会は、絶対不定期でなければ成立しない。最初の言い出しっぺは必要だが、次からは誰かが言い出すのを待つ。自然消滅も悪くない、継続は力などという呪文に縛られていては、国家の消滅も展望できない。組織は発展継続するだけではない、生成と消滅を繰り返すことも多い。生成と消滅の間には発展も停滞もある。停滞は腐敗さえなければ安定でもある。

 表現企画したいという少年たちの意欲を、一斉の日程に合わせることなどそもそも無理な話ではないか。文化祭や体育祭は、少年たちの表現を組織するのではなく、組織のスケジュール表に少年たちの成長を閉じ込める。

 戦前戦中の体験に懲りて、青少年の成長を組織の都合や利益に合わせるのはいい加減にしたのではなかったか。
 先ず教員自身が、スケジュールから自由に行動する必要がある。その自由を模索する少数の教師が、七転八倒している筈である。それが見えてこない、余程少数なのか。


   であれば、学校の日程や教師の管理から自由になることを青少年が恐れず実行することが先だ。自由は君の目の前にある、それを君が掴めないのは管理が厳しいからではない。君が臆病だからだ。教師は君より臆病なのだ、君たちが彼らを解放するのだ。

教員も宗教者も集団化すれば、堕落する

 「迷悟一如」。迷いと悟りはひとつのことだ、と道元は言った。そして、迷うのも悟りの一つであり、悟るのもまた迷いの一つなのだと。だから,迷いと悟りはまったく同じものなのた、というのである。
 日本宗教界の戦争責任についての声明は、滅法遅かった。大方は50 年以上たってからのことだ。なんという迷いだ。 戦争被害者面して、50年以上も沈黙を守ったのは、もはや迷いとは言えない。悟りの境地か。これを「迷悟一如」と言いたい。
 それでも例えば、道元の曹洞宗は1992年「懺謝文」を出して 「曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人々の痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するような視点で執筆し出版したことを恥と感じる」と言い切って、「悟り」の境地を見せた。
 だが、辺野古に教団は姿を見せない。宗教者個人は来ている。情勢が転じれば、たちまち「迷悟一如」だ。集団化して駄目になるのは、教員も宗教者も同じだ。パルチザンが形成されないわけだ。

 「毅然とした指導」という言葉が呪いのように、学校を駆け巡った時期がある。70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた頃だ。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。あたかも乱世に生きる禅僧のように、悟り切り自信に満ち胸を張って職場を仕切っていた。しかしその中身は、多数決による「管理強化」にすぎなかった。 
 「外見の自由は基本的人権であり、個人に属する。特定の高校に属することを理由に一律に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服として残れば、服装は特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
 直ちに反論された。「今の生徒たちの基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」大学で共に活動した教員仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」をもち出す者まであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
 全国的に高校が荒れ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に赴任してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。「荒れ」現象の凄まじさ惑わされて、実態や本質をつかめない不安が教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷する事態を解決する呪いのように思えたのだ。
 だが実態不明の「基本的生活習慣」が、なぜ服装如きで身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
 「学校が毅然として一致して生徒に迫るためには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことだけが罷り通った。
 ではいつになれば解除するのかと僕は食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
 こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教研に集まる教師の「実践レポート」から授業に関するものが目立って減り始めたのである。
 もうあれから50年弱。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。これは迷いか悟りか。ただの無知蒙昧の結果としての過ちか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制し始めても、抵抗を自粛する有様だ。そして、九条に関心を持ち行動する高校生も大学生も若い労働者も減っている。

 管理強化が生徒と学校のためになるのか、という疑問や不安はどの教師にもあったのだと思う。だから高生研の合宿や指導の手引き書が流行った。「迷い」が教師の学習を促し、「悟り」を注入した。しかし自ら悟る事は少しも出来なかった。「生活の乱れる」生徒への言葉は、冷静さを欠くものになり体罰を伴うようになったからだ。

 教員は起立・礼や前へならへに中毒している。それが無ければ不安で禁断症状も出る。そんなに「前へならへ」が好きなら、食堂や駅で勝手に大声を張り上げて一人でやればいいではないかといつも思う。「気をつけ」「起立・礼」が必要と思うなら、家庭や銭湯で、一人で毅然としてやったら良いだろう。君が代が素晴らしいと考えるなら、自宅でカラオケで原っぱで、思う存分歌え。止めないよ、だが他人に強制するな。迷いを隠すために、人は毅然を装う。

   大雪が降れば雪掻きをする。だが元気な小学生も中学生は出てこない、体力の有り余る高校生や大学生も出てこない。スコップを握るのは、足もとの覚束ない年寄りと長時間労働の疲れが溜まる中年ばかりだ。去年も一昨年もその前もそうだった。評価に結びつかぬことには見向きもしない、強制的ボランティア教育の見事な成果である。震災のようにマスコミが騒げば動く、政府が指図すれば動く、動員されれば動く。自分で判断せずに指図にだけ反応する。なるほど「迷い」はない。
 校庭やグランドで野球やサッカーをやっていた健康な連中は、雪の日に何をしているのだろうか。あちらこちらの雪掻きをして歩かないのか。大会目指してスポーツする若者が、年寄りや親に雪をかかせて、本人は炬燵でゲームに興じる。そして「健全な魂は健全な肉体に・・・」を座右の銘にする。なるほど、迷いがない。校庭や体育館では、立ち止まってお辞儀する。なるほど、悟りの境地か。絶対にデモにはゆかない、絶対迷いはない。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...