校長の適否は授業を受けた生徒が最終判断すべし

 校長に「何故授業しないの?」と詰め寄った女子高生がいた。真っ当な詰問。
   OECDが国際教員調査「TALIS 2018」で、授業をする校長の割合を国別に調べている。日本の数値は突出して0.0%。東欧諸国は90%台、チェコでは校長全員が授業している。フランス13.2%、フィンランド60.7%、0.0%なんて国は他にない。異常なのだ。ある大学教師もそれを分かりやすく表にまとめている。 http://tmaita77.blogspot.com/2020/08/blog-post_28.html

 女生徒の慧眼は、OECDや大学に先んじていたわけだ。ただ大学の先生は、校長の職務規定に「必要に応じ児童の教育をつかさどる」の文言を加えたらどうかと提言している。

 「校長の適否は授業を受けた生徒が最終判断すべし」でなければならぬと思う。主権者教育とはそういうことだ。そんな学校で思う存分「生意気」を尽くした若者であってこそ、企業で政府で社会で筋金入りの批判的市民となり得るのだ。「公(おおやけ)」はそうした動きがなければ、絵に描いた餅に過ぎない。公は常に更新されねばならぬ。既に存在して「参加」するだけの入れ物ではない。

   校長の職務は、「校務をつかさどり,所属職員を監督すること」(学校教育法37条)で、教員の「児童生徒の教育をつかさどる」という文言がない。それを根拠に法令上授業出来ないと居直る事を恥とも不満とも思わない神経を、涵養しているのが日本の教育行政である。
 
 政権topは世襲の繰り返しで加速度的に劣化。劣化すればするほど
政権topは、短期的成果を求めて現場への独善的介入を繰り返す。思い付きの軽薄な介入が、支持率操作の常套手法となった。批判精神を捨てた愚者を、無分別な行政が選抜し引き上げる構図が定着。学校に限らずあらゆる組織の「長」に、忖度と恫喝以外の能力は要らなくなった。
 冒頭の校長は女生徒を恐れて、校長室に鍵をかけて籠もってしまった。

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