栄誉から遠く離れて道楽する藤原成通と狩野亨吉  

蹴鞠にはいかなる賞賛も栄達も伴わなかった
 平安時代の公家藤原成通は、二千日間一日も休まず鞠を蹴り続けた。病気をしても寝ながら蹴り、大雨の日は大極殿で蹴るほどの鞠好きであった。父親のお供で清水寺に籠もったときは、清水の舞台の欄干を、鞠を蹴りながら渡ったと伝えられている。普段でも人の三倍は高く蹴あげた。ある日、鞠はつむじ風で吹き上げたように高く舞上がって、それっきり落ちて来なかったという。
 成通はまた、よほど身が軽く、忍者のように塀や垣根の側面を走ったり、屋根の上に寝て転げ落ちても、地面にすっくと立つという技もみせたらしい。鳥羽院から「おまえの早技はなんの役にも立つまい」とたしなめられると、「ええ、さして役に立つことではございませんが、急ぎ宮中に参内するときなど、ぱっと車に飛び乗れて便利です」と、悪びれもせず答えたという。
 この話を伝える『成通卿口伝日記』は 平安後期の僧聖賢の著。『続群書類従』に納められている。

 終いには大納言になったが、栄達が蹴鞠とは関係ないことは後鳥羽院の言葉でもわかる。一銭の得にも出世にもならぬことに、夢中になるのが「遊び」である。蜘蛛合戦からビー玉まで「遊び」は多様である。日が暮れるのも腹が減るのも、忘れて遊ぶ。山登りや探検も金と時間を浪費するだけの遊びであり、謂わば暇人の道楽であった。それがいつの間にか「飲む、打つ、買う」に収束してゆく。ただ好きで夢中になるだけでは、満足できなくなる。金銭や賞賛に結びつかないことは、淘汰されてしまう。

 慶応元年生まれの狩野亨吉は、相当に
本を読んだ。専攻は数学や物理そして哲学と歴史であった。蔵書はいつの間にか10万冊に達したが、自分では書かない。
 誘われて五高教頭を務めた後、僅か34歳で一高校長となり、続いて懇願され京都帝大文科大学の初代学長になるが、神経衰弱を口実に僅か一年で退官。いずれの場合も、短期間の間に後々まで伝えられる学風を残している。僅か15年の学校勤め以後、定職にはつかなかった。1923年東京大塚坂下町の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、古典と春画の収集研究に打ち込む。一貫して眼前の栄達を、ことごとく退けた。
 それでも知人たちは、狩野を東北帝大総長に押したが固辞。皇太子の教育掛に推されても、「自分は危険思想をもっているので、王者の師傅に適しない」と断る始末。それもそのはず、一高在任中の1899年安藤昌益の『自然真営道』を神田の古本やで見出し、安藤昌益をアナーキーな社会思想家ととらえていた。惜しいことに焼けて残っていない。 
 正木ひろしは「狩野先生こそ本当の国宝的人物だ」と評した。そう、ディオゲネスと並べていい人物である。国家から意識的に離れて自由に、金銭にも賞賛にも結びつかないことに打ち込んだのである。
 僕は狩野亨吉と、蝶を優しく見つめるゴリラは似ていると思う。餌に釣られず、一銭にもならぬことに執着して風格がある。「
王者の師傅に適しない」と 教育掛を辞したが、狩野亨吉の生き方そのものが、既に王者の風格を持っている。
  
 半世紀前まで、昼休みの校庭は遊ぶ子どもでごった返して衝突する程だった。みんなが遊びの王者であった。教師の監視から自由な遊びの王者たちの存在が、いじめを抑制していた。だいぶ前から、昼休みの校庭は閑散としている。小学生までが、様々な全国大会優勝を目指して鎬を削り、遊びを忘れているからだ。

 全日本学童軟式野球が始まり、松坂大輔が「優勝を目指して最後まであきらめずに頑張ってください」と言ったと新聞は伝えている。残忍だと思う。「優勝」などに釣られず、自他に手加減する優しさが、少なくとも小中学生や高校生には必要だと思う。
 全ての野球少年が甲子園を経てプロになれる筈はない。自在に興味を転じて適性を動的に保つ必要もある。音楽や文芸や科学に才能を持つことに目覚める子もある。諦めて頑張らない経験が必要なのだ。新聞社や指導者は、みんなが頑張れば、儲かるし手柄になるだろう。体を壊し足り過労死するほどの頑張り方を、回避する習慣を知らねばならない。高校生だってそうだ。このことと、絶えることのないヘイトスピーチは、直に関係している。自分も相手も自在に変化する快感を経験すれば、取るに足りない優越性に浸ることはない。

 ローマ帝国の
剣闘士は、大観衆の歓声の中で殺し合いで勝たなければ生き延びられなかった。平安時代の蹴鞠は、大観衆の歓声も栄誉もなかったが、お陰で平安時代の日本に、死刑はなかった。
 

愛はすべて不器用である。器用な愛などある筈がない

中曽根康弘がTVにでると、スリッパでひっぱたいている
 愛はすべて不器用である。器用な愛などある筈がない。
 子供を愛しても、親を愛しても、どんな人を愛しても、地球を愛しても、そこから素晴らしい結果が生まれることはあり得ない。
 夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない。
 その夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる。それを承知で人を愛し物を愛するのは愚かである。
 悧巧に生きていたければ、自分に厳しく愛することを禁じなければならない。
それでもなお、夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らずに愛する。ひたすら不器用に」串田孫一『 不器用な愛 』
 串田孫一は、若い頃から山を愛し思索した。1965年から1994年までFMラジオ番組「音楽の絵本」←クリック で自作の随想や詩を読んだ。ビバルディ協奏曲第4番「冬」の第二楽章の暖かな調べに乗せた穏やかな語りを、僕は高校生の頃から30年間聴いてきた。どんなに刺々しい怒りを溜めた日も、彼の語りを聴けば心穏やかになった。だから彼が、「中曽根康弘がテレビにでると、スリッパで顔をひっぱたいている」と語った時には、驚きもしたが力づけられ妙にホッとした。串田孫一は串田万蔵(三菱銀行会長)の子でもあるからだ。

  ある年の5月5日にはこう語っている。

    端午の節句の人形どもは / どれもこれも勇ましい連中だから / そこに鍾馗が髭ぼうぼうの顔で並んでいても別段不似合いではない / しかしその剣は外した方がいい /  疫病神を追い払うのにそれはいらない / 君は優しい筈である
  「中曽根康弘がテレビにでると、スリッパで顔をひっぱたいている」と語ることと、「愛はすべて不器用である」と語ることは、「その剣は外した方がいい /  疫病神を追い払うのにそれはいらない / 君は優しい筈である」を媒介にして、見事に調和している。

  目連の母親青提女の逸話【目連は釈迦の弟子、神通第一と言われた。ある日、亡くなった実母である青提女が天上界に生まれ変わっているかを確認したところ、青提女は餓鬼界に堕し地獄のような責め苦に遭っていた。驚いて供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽きた。目連は釈迦に相談する。釈迦は亡者救済の秘法を目連に伝授し、目連は教えに従って法を施すとたちまちのうちに母親は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天したとことになっている。青提女は、多くが飢えている中、幼い目連だけに食事を与えた、それが業となった、その報いにより餓鬼道に落ちたわけである。こういう話もある。青提女は目連のため、一心不乱に働き、量目をごまかす悪徳商法や阿漕な貸金業に手を染めていたと】は、いずれも、後に中国仏教で加えられたものだが、一途で不器用な愛が何をもたらすかを示唆している。

 愛は計画出来ない。恋愛を、出会い頭の事故に例えたり、天使のいたずらのせいにするのも、それがなぜ起こったか合理的な説明が出来ないからである。好きになったばかりに、賞や成功の機会を逃してしまうことはざらにある。祖父母や子どもの病状が急変して、慌てて駆けつけ大儲け出来なくなったり全財産を失ったり、資格がフイになったりもする。好きになったばかりに、相手を殺す羽目に陥ったりもする。一途に思い詰め、周りも相手も自分自身さえ見えなくなるからだ。都合のいい時だけに、愛を設定することはできない。
  「五族協和」や「八紘一宇」も、当時の日本なりの思い上がった東洋支配への「愛」であった。いや明治維新の「四民平等」さえ傲慢な差別社会への「愛」でしかなかった。植民地主義のお先棒を担いだ教会も「愛」を掲げずにはおれなかった。まさに「夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」

 愛は計画できないと同時に、計画出来るものは愛ではなく夢想に過ぎない。だから「夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる」。
「五族協和」や「八紘一宇」が、現実の政治過程に転化するや否や「愛」は支配や搾取の暴力性をむき出しにする。満州開拓の「理想」は中国農民の土地略奪であり、抵抗する者への弾圧殺戮であった。それでも「五族協和」や「八紘一宇」を信じる者は、ただの愚か者である。「夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らず」一億総玉砕を叫んで死んだ。

 明治150年を迎えて、「あれは、見事に計画された器用な、東洋に対する愛であり、夢想ではなかったのだ」とTVも新聞も言い始めている。耳を眼を覆いたくなる。
  串田孫一は「断想集」で

人類は結局愚かであった。もう結論は出てしまった。人類は悧巧ぶることは出来たが、そのために悧巧になれなかった」と書いている。

    2020年五輪と戦争出来る国家体制目指して、「夢想」は「どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」よう計画され、都合の悪い事実は次々に隠蔽されている。

   学校もこの計画に、優等生として組み込まれて身動きもならない学校はもともと「愛」や「器用」な計画性に染まりやすい世界である。夢想が横柄に育ってしまうのである。学校や若者を救うのは、「愛」や「器用」な計画性からの逸脱である。不良精神を忘れるな。

先駆者の孤立と苦難、団結・連帯とは何か

水浸しの作業場での洗濯も患者作業であった。死者も出た。

  野間宏は、ハンセン病療養所を日本の最も暗い闇」と呼んだ。その闇を、楽園と呼び賞賛した医者が林 文雄である。
 「療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。
 療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が要る。
 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。註 そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。
 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園とした・・・。
 全治者を退院せしめよの声は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。・・・
 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである」 1930年 林文雄 『醫海時報』
                                             
 アンパン一つが3銭の時代である。重い炭俵を担いで氷雪に凍てつく断崖を血の跡を残しながら登るのも、大きな石を運び道普請するのも患者作業だった。神経が麻痺した患者は、例えば釘を踏み抜いても疲労が限度を越えても気付くことなく労働に精を出した。こうして過酷な強制労働は、患者の命を縮めた。
 それがいかに過酷な労働であったかを語る挿話がある。


 1960年、不自由舎(不自由な患者の病舎)での患者付添(不自由舎付添は、一室7人の病人を住込み一人で面倒を見た。昼も夜もなく、週休も有休も祭日もなく、一年を通して働いたのである)が、患者労働から職員看護に切り替わる。
 だが、労働の担い手が病人から健康な職員になったにも拘わらず、あまりの激務に過労とノイローゼで倒れる看護婦が続出し、週刊誌沙汰になった。「重症者に日夜侍して大小便の世話」をするのが如何に過酷か、この時職員は初めて知るのである。患者による患者付添の過労は美しき愛の働き、職員看護のそれは過酷。ここに横たわる人間観・世界観を、吉川四郎の『牢獄か楽園か』という題名が捉えている。林は肉親に囲まれて「コンナコーフクナモノハナシ」と書いて最期を迎えている。光田や林が、強制的に隔離して肉親から切り離された患者たちの淋しくやるせない最期を、彼らはどう考えていたのだろうか。
   患者労働を楽園のように描いた林論文は、患者の隔離に反対し「治療解放」を主張する青木大勇 長崎皮膚科病院長の論文への反論として掲載されている。論争の背景には、療養所の役割が「隔離・監禁」から「治療・研究」へ変化する国際的潮流に目を背け、絶対隔離に拘る日本癩学会の姿勢がある。

   林文雄は北大を出て、将来の教授を嘱望されたが、全生病院に勤務、光田健輔の全幅の信頼を得る。研究者としての業績もあり、診療、文化、生活でも患者との日常的接触に努力。昭和初期は、林のような青年クリスチャン職員たちが増え、患者との間に隔てを置かぬヒューマニスト的生き方は、患者の心をのびやかに明るくするものであったと『倶会一処』は書いているが、彼らの動きは数年で幻のように消えた。

  全患協(ハンセン病者の全国組織)が、予防法廃止と隔離政策による損失補償等を要求する運動方針を採択したのは1963年。方針に基づいて「らい予防法改正要望書」を提出、予防課長は協力を約束したが、事態は捗るどころか療養所の統合再編等の構想が出るなどまさしく逆向きであって、入所者の厚生官僚に対する不信は募るばかりであった。

  1985年全生園介護職員5名が「危険手当」(患者との接触度(感染の危険率)による職員給与の調整給  様々な困難に手当があるのは当然であって、それが虚偽の(感染の危険率)に基づいていることが差別であり不当なのである)への異議を申し立て、法務局に手当額を供託している。24%もの特権的手当を不当として、職員の側から予防法に問題提起した英断の歴史的意義は大きい。だが支援も広がらず5人は退職に追い込まれたと聞く。1982年全生園自治会は東村山市に対患者危険手当撤廃要求を出している。5人の提起はこれを受けてのことであったのか、先覚者の孤立・苦難である。

   僕は、高校生がこういう人々を尊敬する社会を作りたいと考えてを授業を組み立てていた。「地の塩」に気づくのは難しいとつくづく思う。

 隔離政策に決定的突破口が開かれるのは、それから10年後の1994年。らい予防法廃止の意向を元医務局長が公表、「大谷見解」と呼ばれる。入所者の処遇を維持・継続しながら、予防法は全面廃止し関係機関の反省を求めるという至極常識的なものである。しかしこれを画期的と言わざるを得ない歴史的無念がある。
 大谷藤郎は療養所課長在任中、課長室に患者を招き入れ一緒にお茶を飲み、予防法遵守の不必要性を示唆した行動的人権感覚の持ち主であった。それでも予防法廃止には踏み切れないでいた。入所者の処遇改善予算要求には、予防法の隔離条項を強調するのが便利だった。強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理である。官僚側にも、入所者の側にもそれはあった。  しかし、表裏一体論は、官庁内交渉技術でしかない。内輪の手法を、主権者の人権よりも優先させて恥じない風潮は官庁街を闊歩して止むことを知らない。「大谷見解」は、彼の退職後である。退職後の私的見解という点に、この「業界」のおぞましさがある。

   翌1996年、国会は予防法を廃止。「癩予防に関する件」制定からは89年もの歳月を浪費したのである。だが、断種・新生児・胎児殺し・・・いずれも自然現象ではない、れっきとした犯罪である。誰一人起訴さえされていない。医師免許を返上していない。そればかりではない。 予防法が廃止されてなお、危険手当は支給され、行政の責任も明記されず、癩業界は自らの恩恵は死守した。
                                                   
 あろうことか、自己批判を口にしたその舌の根も乾かぬうちに、ハンセン病学会(らい学会改め)会長高屋豪瑩弘前大学教授は「「らい予防法」の廃止は間違いである」「患者の人間性とか社会生活なんて関係ない」との見解を『東奥日報』(1996年8月31日夕刊)に投書。追求する毎日新聞記者に「もしあなたがハンセン病患者なら、私はすぐ逃げるよ」と発言、学会会長職だけを辞した。この時、彼は「偏見の解消は学会ではなく患者が努力すべき問題だ」とも言って恥じなかった。


追記 1941年洗濯場事件。穴の開いた長靴で作業していた相撲取りのような青年が、敗血症で死んだ。主任の山井道太は、穴の開いていない長靴を要求したが、全生園当局は拒否。洗濯場は、抗議のサボタージュに入る。園当局は山井と妻を草津の「重檻房」に送り、殺してしまった。全国の反抗的患者を懲らしめるために、光田健輔が作らせたのが「重檻房」である。冬は零下20度にもなる過酷な環境と劣悪な待遇のため、収監された93名中22名が死亡した。

救癩とは、患者を多く殺すこだ。・・・ぼく(沖縄愛楽園早田園長)は任期中に百何名か殺した、だから金鵄勲章もんだ

治療はなくても解剖は行われた、瓦礫の中での「報国」
  「救癩」の父にして絶滅隔離の発案者、光田健輔は自らの仕事を戦時体制にも関係付けている。
 「軍人は国のために屍を満州の野に晒すを潔しとし、進んで戦場に赴いた。同じく癩患者も村の浄化のために、・・・進んで療養所に行かなくてはならない」 藤楓協会編 『光田健輔と日本のらい予防事業』

 進んでハンセン病療養所に入って何をするのか。
   沖縄戦下のハンセン病療養所沖縄愛楽園では。三百名弱が死亡した。

 「早田園長が、ぼくは救ライに大きな功績を残した、・・・救ライということはライを撲滅させることだから、患者を1人でも多く殺すことは救ライにつながっているんだと。・・・ぼくは任期中に百何名か殺したと。だからこれが戦後、金鵄勲章もんだといってですね、いばるんですよ」 『沖縄県史10巻沖縄戦記録 2』 p965
 「冗談だったのかも知れないが、きつく響いた」と証言者は、続けている。 しかし早田は那覇大空襲では 
敵の爆弾で負傷し、日本の薬で治療するとは何事だ。利敵行為ではないか
と発言しているのだ、これが医者の冗談と言えるか。
 
生産力・兵力として力を発揮することだけが価値あることで、健康に欠ける者は社会に負担を強い、害を及ぼすものとされたのである。
 従って療養所医師の役目は治療を施すのではなく、「患者を1人でも多く殺すこと」であった。患者からみれば、一日も早く死ぬことが、「報国」であったのだ。
 「(1939年)5月・・・少年寮に入れられました。少女寮や学園もありました。国の定めた学校ではありませんが、生徒は男女40人ぐらいいて、教室は三つ。どの教室も複式学級で、3人の先生も皆同じ病気(ハンセン病)の人でした。子供たちにもいろいろイヤなことがありました。特に私がイヤだったのは、「文化人」や僧侶たちの講演でした。講演会があると、子供たちは会場の最前列に坐らされ、逃げ出すこともできません。話はきまって「お前たち患者は戦争の役に立たないどころか、じゃまな人間だ。非国民だ。日の丸の汚点なんだ」というのでした。私は子供心にも、ずいぶん悔しく思いました。
 翌年春、私も内緒で迎えにきた姉の手引きで全生園を脱出しました。「あそこは人間の住む所じゃねえ」と言う父のいいつけでした」谺雄二 
谺さんは、1999年原告として東京地裁に「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟」を提訴した詩人である。
 たかが療養所職員の異動や昇進昇格の祝いにまで、子どもを並ばせ欠席は許さかった。座った子供の目の高さに、壇上のエライ人や職員のスリッバが見えたという。常に一段低い場所に置かれたのである。
 エライ人は、「お前達は役立たない」と言うたびに、自分が美しき皇国の股肱である気分に浸れた。根拠のない優越感に浸るために他を見下げ毀損する。これは、人間関係から国家関係に至るまで対等平等の視点を持てない近現代日本のアジアに対する一貫した姿勢でもある。  

  「映画会の時など、礼拝堂の一段高い席にいた職員の子どもたちから、落花生のカラや、キャラメルの空き箱を投げ付けられたり「かったいは、汚い、臭い」と蔑まれたこともあります。一段高い職員席には、分厚い木の欄干があって、患者は立ち入り禁止だったので、私も他の子どもも一言も言い返せず、くやし涙をこぼしました」 冬敏之(作家)
             
 戦時下、子どもたちは、少年少女団に組織された。下着にも不自由するというのに、国防色のお仕着せ・靴下・靴だけは救癩団体が支給。引換に皇族や名士が来る度に並び、頭を下げ、万歳する。木枯らしでも炎天下でも同じ団服の下は、ボロボロの下着。神経を傷めて立つのも大変な足で、長時間整列。皇居遥拝は敗戦まで毎月、その上病人で子どもだというのに教練が月に二度あった。沖縄戦下の愛楽園の子どもたちは愛楽突撃隊に組織され、日本精神徹底と戦意高揚の掛け声で、防空壕堀と修理、開拓や草刈りなど重労働に狩りだされた。
 院長や職員は、団服に身を整えた、規律正しい少年少女団員たちを、よく管理され平和な全生病院のシンボルとして、ショーウインドウの人形として外来者に誇らしげに見せつけたが、それらの少年少女たちが「病気を持つ子供」だということを本当に考えたことがあっただろうか。                    
 行事から逃げる知恵や術のない従順な少年たちは、体を痛めて青年になる前に死んだという。おまけに、式や行事の「主催」だけは少年団というイカサマもあった。「主催」とは、お国のため療養所のため自らすすんで叱られ蔑まれ、病気を悪化させ、一刻も早く死んで国土浄化のお役に立つことに他ならない。
 療養所では、子どもの親権者は園長であった。その園長の官舎一棟建設に、療養所全体の家屋建築予算の一割もが使われた。親権者である園長は、「聖者」と讃えられ豪勢な住宅の温かく柔らかな布団に包まれた。「日の丸の汚点」と罵られ病状悪化に苦しむ子どもは重く湿った煎餅布団で寂しく死を迎える。この非対称的現実こそ、若き林医師賞賛の「楽園」の構図であった。
 

   僕は「アスリート ファースト」を聴くたびに、胸くそが悪くなる。ここには、人間には役立つ者と役立たない者があり、役立たない者の価値は認めないという思想がある。
 ハンセン病者を差別し続けた100年を思い出す。なぜ、人間優先と言えないのだ。メダルを量産する競技選手を優先して、「生産性」のない国民を揶揄する言葉が堂々と新聞やTVで流されている。戦時下と同じ雰囲気が満ちている。あろうことか国会議員や閣僚が「生産性」のない社会的弱者や少数者に向かって「いつ死ぬのか」「早く死んでいただきたい」などと言う。重大な憲法違反である。
 憲法99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務」を負う知らないとでも言うか。
 オリンピック招致は、一体どこで決めたのだ。都民も国民も知らぬ間に、「招致委員会」が勝手に招致したのである。
誰が招致委員会を選んだのだ。勝手に出かけて、勝手に招致しておいて、「おもてなし」と浮かれながら他人の財布に手を突っ込むのは掏摸である。犯罪である。招致委員の個人財産でオリンピックはやれ。福祉予算や医療費に手を付けるな。弱者を苦しめて何がスポーツの祭典だ。何が子どもたちの「夢」だ。招致関係者は、子どもを山車にしていつの間にか自分たちの夢=事務所の建て替えまでやっている。


追記 冒頭の写真は、爆撃後の沖縄愛楽園での解剖。真ん中で執刀しているのが早田。患者は死んで初めて「報国」出来たことになる。しかし解剖がどれだけ行われても、治療には生かされていない。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...