「細菌」=嫌われ者の意外な機能と「不良少年」の社会的役割

   細菌は汚く危険、速やかに消毒すべきとの強い先入観がある。顔面には、数十億個もアクネ桿菌が確認されニキビ患部からも検出されるため、長い間ニキビの原因と考えられてきた。お陰で若者たちは高価な洗顔剤を求め、日に何度も神経質にアクネ桿菌を洗い流してしまい、ニキビ面に悩み続けた。アクネ桿菌は健康な人の毛穴に常在、肌を守る働きをしていることが広く知れ渡ったのは、そのあと。

 皮膚は人体最大の臓器。その面積は畳一畳分、重量は体重のおよそ 16%。皮膚常在の細菌は 1000 種で腸に次いで多い皮膚は外部環境に接しているため、外部の刺激や感染から人体を保護する重要な機能を果たしている。顔から汗を流し、細菌叢を維持すべきなのだ。除去し尽してはならない。

 過度の潔癖は健康を破壊する。雑草を完全に排除した芝は瞬く間に枯れる。「完璧な校則」は若者の健康な批判精神を根こそぎにする。

 厄介なのは「完璧な校則」が保護者はおろか生徒たちに支持されてしまう事だ。一見楽で見栄えもいい、管理もソフト。しかし健康な批判精神は、「楽」な筈はない。絶えず責任を伴う判断を求められる。それは予期出来ない。

 ある私立高校の校長が教員による選挙で交代。リベラルな人物で、先ず屋上を即日解放した。狼狽える教師が、タバコやサボりを心配して反対した。校長は「たかがタバコ」と一笑に付し、断行。大いに生徒たちから歓迎された。この人物がまさか選ばれるとは、投票した教員すら予測出来なかったと言う。革命とはそういうことだ。この大胆な路線は20年以上続いていると聞く。校長選定は教師の選挙に限る。


 僕は四谷二中の「不良」たちが、学校の管理体質を打ち破るのに果たした役割を思い出す。

『四谷二中 4 非教育的環境ゆえに理想の教育的緊張 』      https://zheibon.blogspot.com/2017/05/4.html   

 1961年5月生徒会役員選挙がおわり、早速学級委員会=中央委員会が開かれた。小学校出たばかりの僕には、驚天動地の幕開けだった。決まり切った新生徒会長の挨拶の後、やや沈黙があって、三年生が

 「お前、バカか」と一番後ろの席から言う。新生徒会長があっけにとられていると、

 「分かんないのか。お前、自由に発言して下さいって言っただろう。お前の隣にいるのは誰だ」

 「係の先生です」

 「何のためにいるんだよ」 

 新生徒会長は先生に何かを聞いた。

 「僕たちを指導するためです、相談にのって貰います」

 「それが困るんだよ、何でも自由に言えば、その中には先生に聞かれたら困ることも、言いにくいこともあるんだよ」

  「どんなことですか、何を言っても構わないと思います」隣の先生と必死に打ち合わせをしている。

 「バカ野郎、そんなこと言える訳ないだろう。先ずお前の隣の先生に出ていって貰え」

 生徒会長は救いを求めるように、更に意見を求める。他の三年生が

 「僕も出ていって貰うのに賛成。さっき生徒会は生徒のものだって言ったでしょう、君は。生徒の話し合いの最中に先生は要らない」

 「×○先生の授業つまんないんだけどさ、そんな話もしたいよ。先生がいたら出来ない」

  ・・・

 係の教師は、僕の担任だった。議論を聞いて、何か呟くとニャッと笑いながら出ていった。それからどんな話になったのか、あまり覚えていない。  

 入学式でいきなり現れたヤクザの子どもたちに仰天して、それから一ヶ月も経たないうちに、また仰天してしまった。僕はすっかり小学生の尻尾を切り落として、一つ高い場所に上がったんだと思った。大人ではない、しかし明らかに子どもではない。それを「中ども」という叔母があったが、言い得て妙である。

 臆することなく教師に文句を言う。こういう校風が二中の授業を引き締めたことは十分に想像できる。雑多な生徒・父母、その中にヤクザの舎弟も弁護士も芸者もいることがどんなに大切か分かる。もし歌舞伎町の連中がいなければ、学級委員会は優等生ばかりになっていた。学級委員も、堂々と教師に楯突くことを、歌舞伎町の生徒の生き方から学ぶことは無かっただろう。状況の胡散臭さを敏感に肌で捉える者と、それを言語化して表現する者が揃わなければ学校も、企業も社会も面白くない。

 越境生が犇めく授業環境、それは歓楽街の非教育的環境にも拘わらず維持されたのではない。非教育的環境を排除しないが故に成立したのである。


 管理する教師にとって厄介な 「不良」こそが、学校に於ける「公」と民主主義の最良の肥やしとなっていた事実を、無いものだらけの50年代新制中学校育史から読み取らねば歴史を記述する意味はない。ここには「ごっこ」ではない本物の民主制が芽生えていたからだ。

 

若者は何故投票を嫌がるのか。

  アフォーダンスと言う言葉がある。主体的意図を持つ有機体としての我々と、我々を取り巻く環境の相互作用を指す言葉。語源はafford=提供するとの意。

 暗闇の洞穴に生きる魚が目を退化させるのは、遺伝子を通しての進化。相互作用しない。

 しかし例えば、貧困・汚染・偏見・「偏差値」・トラウマは人々の行動や精神に影響する。遺伝はしないが、その便宜が社会の隙間に定着、人々に特定の意識や行動を提供(afford)する。ツッパリの生徒たちにとって眉剃りやうんこ座りや茶髪は「管理」への抵抗として定着している。ある意味で心地良い。多摩の或る高校に妙な「不良」がいた。放課後の夕暮れ時、わざわざ登校して部室で煙草を吸い酒を飲むのだった。何度捕まっても登校停止解除とともに、忍び込んでいた。教員たちは首を捻った。特定の部室が彼らに居心地の良さを提供(afford)していたのだと考えられる。彼らは卒業後も忍び込んだ。ある女子生徒たちは校内一家をなし、下校前の一時を屋上出入り口で過ごす習慣を維持していた。生指の見回りに発見される危険性を楽しんでいるように見える。

紳士俱楽部(画像は英国学士院)も橋の下も居心地のいいたまり場

   




 無論逆もある。金も地位も名誉が豊富なことも、その人間の意識と行動に作用する。言葉遣いや目つき、服装や持ち物、たまり場(例えば、マイクロフト・ホームズのディオゲネス倶楽部のような紳士クラブ)・・・ある種の家系や群れには恰も遺伝形質のように伝わる。

 こうして格差は収入に留まらず、人々にそれぞれの居場所を提供(afford)している。

 若者が選挙に興味を示さずhate言説やfake情報に魅入られるのは、それらがなくてはならぬ居場所を構成しているから他ならない。

 たった一票に甘んじるより、世間を騒がせ「上に出て勝つ」方が彼らには心地よいのだ。平等な権利は、平凡な価値観の形成抜きには実現できない。大会だらけの部活や偏差値から逃れられない競争原理の中に居場所を指定される日本の高校生が、「一票の価値」に目覚めるには時間がかかる。

 ツッパリや選挙を忌避する若者に「君たちは間違っている」と説教するのは、カルトに信者に「帰ってこい」と言うに等しい。。

 政権党の選挙スローガンが「野党の政策に抱き着く」ことを覚えて、模擬投票ゴッコは不透明になった。口先と見栄えだけならどんな詐欺も出来る。選挙の詰まらなさを事前学習することになる。

   追記 だが待て! アフォーダンスは「遺伝」ではない。いくら親や爺さんが偏差値に雁字搦めになったからと言っても、やめられる。人間は主体的に決意することが出来る。永い間社会的習慣になっていたことをやめる。それが革命である。

 バリがヒトラーのドイツに占領されたとき、ロンドンに亡命したドゴール政権を支持したのは、僅か3%。圧倒的多数がナチとの「平和」を選んだ。始めから多数派の革命は有る筈がない。しかし少数派は無数にある。多様な少数派の統一戦線のみが新しい多数派を形成しうる。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...