23から13の歳のものは、絶対に日本は勝つ・・・という固い信念を持っているねとK君は言った

 「一体どうなるのかねと(満州春秋文芸社の)香西君は言った。誰も返事ができなかった。誰にもわからない。何にも知らされていないからだ。しかし、みんな不安で、新聞記事ではないが、大号令を待っている。けれど、それも出ない。だからなんとなく、一日一日を送っている。 
 22、3から13、4の年のものは、絶対に日本は勝つ、勝たさぬばならないという固い信念を持っているねと香西君は言った。 
 清水に立退命令が出たという。・・・ 茨城辺の百姓は、敵が入ってくるのでは植付けをしてもしょうがないと迷っているという」 高見順『敗戦日記』
 3月8日、高見順はこの日、内務省ビルの文学報国会に顔を出している。この月の26日には沖縄戦が始まる。
 「みんな不安で、大号令を待っている」気持ちは、志賀直哉の覚悟とは全く違って、逆を向いている。
 志賀直哉は、特高に盗聴されていることが分かって、「終戦工作」を止めようと言う仲間にこう言ったのだ。
 「われわれの息子たちが自分の責任でもない戦争に引き出されて命を犠牲にしているのに、われわれのような年寄りが、身の危険を案じてこんな会合さえやめようと言うのか。それでは余りにも不甲斐がなさすぎるじゃないか」
 高見順は、負けることは分かっていていても、竹槍で闘うつもりになっていた。彼は、一度は日本プロレタリア作家同盟に加わっている。思想が案外に脆く、芸術がことのほか粘り強い。

 「22、3から13、4の年のものは、絶対に日本は勝つ、勝たさぬばならないという固い信念を持っているね」で思い出したことがある。
   facebookにこんな投稿があったそうだ。
 「久しぶりに会った弟が安倍信者になっていた。 
「公文書改ざんは、安倍政権打倒をたくらむ財務省の陰謀だ」
「政権交代して民主党時代の不景気になったら困る」 
「自民党改憲案は読んだことないけど、憲法改正はやった方がいい」 
「これ以上話すと、論破されそうだから話はやめよう」
 納得していないのではないか?という質問に 
「自分が信じている安倍政権の価値観を、自分の知らない事実によって壊されたくない」というような感じでした。要するに、都合の悪い真実を受け入れられないのです。
「官僚の公文書改竄で内閣総辞職しなければならないのであれば、気に入らない政権を潰すために、官僚がワザと公文書改竄をやらかす」
 
「メディアがモリカケ問題で騒ぎ出したのは、憲法を改正させないためだ」」 木村敬子さんのfacebook

  ここで指摘されている若者の傾向は、今に始まったことではない。少なくとも10年以上前からこうした傾向を生む芽はあったと考えなければ、現在の若者を中心にした安部人気を説明できない。
  その芽が何で、どんな環境で爆発するように増えたのか、探らねばなるまい。
 思いつくままに挙げてみる。一つは度重なる指導要領の改訂で社会科は一貫して時間減を余儀なくされ、歴史や経済の基礎を軽視したこと。二つめ、「論理」を扱う教科の不在。三つ目、討論やディベートが短時間の遣り取りによる勝敗に終始して「真実の発見」を軽んじたこと。四つ目、「クラブ必修」迷走を通して生徒も教師も時間を奪われたこと。入試廃止の困難を回避して、推薦入試の乱発に走ったこと。
 それらが相乗して、じっくり「考える」ことを嫌い、短く刺激的語句が歓迎される風潮を産んだ。新聞や雑誌までも「読みやすさ」を口実に活字を大きくして、内容は軽薄化してもページ数は維持して誤魔化す策略に走った。同じことはTVでもおきていた。

 高校でも大学でも、長い論理展開について行けなかったり退屈して、短兵急に結論だけを求めるようになったと思う。それと歩調を揃えるように、穴埋め式のプリントや試験も増えて、記述も1行か2行の短いものになった。
  それが、論理を欠いた短く刺激的言葉を乱発するタレント政治家を、一気に浮かび上がらせたのである。この事は改めて問題にしたい。

 「若者が右傾化」には強い異論もある。だが太平洋戦争土壇場、一面の焼け野原になった東京では、「絶対に日本は勝つ、勝たさぬばならないという固い信念」を22、3から13、4の年の若者が持っていた。他方、アベノミクスで日本が大きく後退して世界からの孤立を深めているときに安部政権を信じて疑わない若者たちの頑なな姿勢。これには共通点がある。客観的事実への無知と無視、そして「大号令を待っている」ことである。 
                  つづく

 

「部活」への反逆と高校生の自治

 丸山眞男が「諸関係」をめぐるズレ、葛藤、矛盾がもたらすダイナミズムを、自我の問題として、「自我の属する上級者・集団・制度などにたいする自我のふるまい方」の問題として、歴史的に論じたのが『忠誠と反逆』(1960年)である。
 「およそ個人の社会的行為のなかで忠誠と反逆というパターンを占める比重は、生活関係の継続性と安定性に逆比例する。伝統的生活関係の動揺と激変にょって、自我がこれまで同一化していた集団ないし価値への帰属感が失われるとき、そこには当然痛切な疎外意識が発生する。この疎外意識がきっかけとなって、反逆が、または既成の忠誠対象の転移が行われる」
という名高きテーゼのもと、丸山は、かかる自我確立の日本における弱さを、封建時代における中間集団の弱さに求める。

 すでに徳川幕藩体制において、本来の封建的特質 - 武士階級だけではなく、寺院、商人、ギルド、邑村の郷紳等の多元的中間集団の広汎な分散と独立性 - がかなり弱体化していたことが、「身分」や「団体」の抵抗の伝統を底の浅いものとし、それだけ 明治政府の一君万民的平均化が比較的容易に行われる基盤があった。

 今日少年が「忠誠と反逆」の問題に初めて直面するのは、部活である。本来、クラブは中間団体にすぎない。正義の基準を「仲間」に置く彼らには、校則や憲法すら超えた「掟」の領域である。例えば、当blog 「辞めることも、続けることも許さない理不尽」←クリック
 自身に熱があっても、身内が入院しても、スケジュールを優先して休めない。デートしたいという欲求さえ抑え込んでしまう。上級生と下級生の関係は、軍隊内務班の古年兵-新兵関係と変わらない。自我が「部活」に埋没している。

   しかし発達段階からすれば高校生は、内面の劇的成長を経験する時期。体も意識も個体差が目立ち始め、生活の規範が仲間内の「掟」から、個人の「内なる道徳律」へ移行する、筈である。だが、日本の高校は、生徒が自ら選択して入学したという建前の上に成り立っていることを利用して、中学以上の規制を課すのである。それが嫌なら何時でも自由に止めればと言うのだ。高校の「掟」=校則は、学校を選んだ以上は従うべき「ルール」として、一人ひとりの特性や事情を抑圧する。
 だから「たとえ皆が~しても僕はしない」という個人の「内なる道徳律」は、押さえ込まれる。この論理は、大学に進学しても就職しても基本的に受け継がれる。職場ぐるみの不正・犯罪行為が、職場の規律や発展を建前に横行するのである。
 だが少数であるが、「たとえ皆が~しても僕はしない」と反逆を決意する者がある。「自我確立」の衝動は、一人ひとり個別的に始まるから、孤立しやすい。それを支えるのが「中間集団」である。例えば江戸中期の狂歌の集まりは、体制批判を江戸庶民にもたらしている。志賀直哉の「心」グループ(←クリック)は、憲兵・特高に抗して自由主義者たちの終戦工作を可能にした。
  
 高校生の孤独な「自我確立」への衝動を支えるのは、自治組織としてのクラスや、自立した家族・友人の存在であるである。その例を挙げよう。
 
 MH高二年生H君の剣道部への反逆はこうだった。H君は中学時代から剣道有段者であった。先ず、顧問の体育教師と対立して辞める、辞めさせないとながく揉めていると言う噂が、僕にも聞こえてきた。
 「僕にやれることはないかい」、そう聞くと、彼はに穏やかに
 「これは、僕個人の問題です。一人でやってみます」と言う。これは剣道が好き嫌いの問題ではない。「命令と服従」の主従関係から、「自由な連帯」の市民的世界に少年が向かっていたのだと思う。そう考えると、彼のクラスでの日頃の発言も理解出来た。例えばある朝、ある女子生徒に
 「どうしたの、顔が笑って心が泣いてるよ」と話しかけたのだ。彼女はこの一言で、ながく悩んだ心の鬱屈が一気に晴れてゆくのである。「ここには、私を理解してくれる仲間がいる」、そう思うと昨日までのクラスの光景が違って見え始めたと話してくれた。市民的「私」として自分を解放することは、他者を理解することでもあるのだ。それは社会や世界への尽きない好奇心となって答案にも見えていた。
 むろん、長年続いた命令と服従の生活から突然自由になれば、煙草や酒とバイクの誘惑からは逃れられない。たが逸脱を通して培われる友情もある。やがてH君と仲間たちは、劇の脚本作りと上演に力を注ぎ始めた。←クリック
  
  S君の場合はどう現れたか。
 学校の中で「寺院、商人、ギルド、邑村の郷紳等の多元的中間集団の」役割を果たし、広汎な分散と独立性を辛うじて保ち得たのはどこだろうか。かつてのNHK「中学生時代」の担任を美術や技術教師としたのは番組ディレクターの卓見である、彼等は準備室にいて独立した空間を持つからである、そうした空間なしには生徒の言論結社の自由は育たない(かつては顧問のいない自由な新聞部、社研、演劇部などの部室もその役割を果たした)。皮肉なことに都教委はここから学んでいる。学校改築設計で、設備備品のための理科室や体育「教官室」など以外の教科準備室の設置を認めたがらなかった。特に強く彼等が嫌がったのは社会科準備室である。教室に担任が放課後も長くいて話し込む場合も自立した空間であり得た。しかし「クラブ必修」を切っ掛けに、教室が放課後の部活待合室と化し、担任がことごとく部活顧問として準備室や教室を離れ、生徒と教員が輪を作る光景はなくなった。校庭や体育館で指示を出し怒鳴り叱る光景が当たり前になった。同時に、生徒が持っていた顧問指名の習慣が消え始める。公平な負担が名目であった。これから顧問の負担は、最も熱心な教員のそれに標準化されるようになった。
  S君のクラスで、放課後のホームルームがなかなか終わらなかった。議論が熱くなってきて、止められない。こうして自治は始まるのだ。だが、クラブ大切のラグビー部顧問でもある担任は焦れて
 「いい加減にしろよ。クラブが始まるじゃないか」と言ってしまった。
 「何だよ、自分のクラスよりクラブが大事なのか」と生徒は反発した。文句を言ったのはラグビー部の生徒である。  彼は二年に進級してクラブを辞め、H君共々クラス活動に精を出した。
                                      
  クラブへの反逆は、表現すべき自己の自立宣言といえようか。彼らの劇脚本はそれをドラマ化した見事なもので、たちまち噂は拡がり、劇会場は廊下まで観客で埋め尽くされ、担任の僕はその劇を見ていない。だがその自立した好奇心はそのまま授業の調査研究発表へと繋がっている。

  今、我々は少年から大人まで、一介の市民であることに言い知れぬ不安を感じているのではないか。
 実績ある「部活」の一員であること、偏差値の高い学校に属していいること、人気企業のバッジを付けていることなどを排他的に誇る。虚構にすがりたがる。
 それでも不安は消えず、周辺諸国を睥睨してヘイトデモに自らを駆り立てる。
 社会や国家が、その構成員たる国民を平等に扱わない傾向がますます激しくなる環境にあって、一歩でも二歩でも抜きん出ていなければ不安なのである。しかしそれは過労死にいたる『忠誠』を求められ「命令と服従」の封建世界に回帰することでしかない。封建制が崩壊した時代に、封建的関係に回帰することほど悲惨で滑稽なことはない。

タレントの宣伝で判断する怠惰の行き着く先

  「自前の土地や資金がなくてもシェアハウスのオーナーになれる」との謳い文句に踊った投資者たちが1億円を超える借金を背負い、ついには自殺者を出す騒ぎになった。僕が気になるのは、何重にも錯綜した騙しの手口の悪辣さや巧妙さではない。この怪しい投資話を、当初は理性的に疑っていたのである。その多くが、タレントを使った宣伝で会社を信用したというくだりである。何故自分で、会社や投資話そのものを判断しないのだ。CMタレントは、自分たちの社会的役割にどこまで無関心なのだ。

  人気タレントが「食べて応援」キャンペーンを福島で展開していた。「食べて応援」は、農林水産省が国民の意識を内部被曝からそらす狙いがある。その一人が女子高生に対する強制わいせつ行為で書類送検されるに及んで、残念だの、裏切られただのの反応がある。

 何故、安全性を自分で判断しないのだ。ポピュリズムが政界を席捲し始めた頃、ある女性たちの「投票の決め手は、ネクタイの色よ」という言葉が流布されたことがある。何故自分で判断しないのか、政治家を選ぶなら基準は政治的見識だろう。

  放射能汚染地帯の農家も言っているのだ。
 「いや だって風評被害じゃねえよ 実害だよ。風評被害っていうのは根も葉もないうわさが広まって売れませんっていうのが風評なの。 俺らは実際 放射能があって検出されてんだよ。 それ 風評じゃねえっし、現実だっぺ」と。その言葉に耳を傾けず、金で買われたタレントに判断を委ねるのだ。
  福島県だけではない、首都圏でも子どもたちの身体に異常が起きている。加害者=戦犯ははっきりしている。それをかつての「一億総懺悔」的にうやむやにするのが、「食べて応援」キャンペーンである。「一億総懺悔」的無知と無責任に国民を引きずり込んでいる。

 日本が無謀な戦争に向かっていたとき、同じことがあったのではないか。
 人間同士の戦争であるのに、何故「神」を持ち出して判断したのか。「神」が命じた戦争なら、負けるはずがない、しかし負け始める。最初の脆い虚構を守る為に、勝っていると嘘を重ね続け、破綻するのは見えている。破綻を見通す智者を登用するのではなく反対に投獄して、声の大きな暴力的嘘つきを出世させたのである。勝つ筈なら、米英を占領したときのため英米の文化や言葉の学習訓練は必須だったのではないか。反対に禁じてしまった。つまり勝つつもりは毛頭なかったのだ。だから後々のことは何も考えていない。

  『敗戦日記』11月19日に高見順はこう書いている。
 「・・・四階の進駐軍司令部民間教育情報部へ行く。磯部氏の紹介と通訳で、ファー少佐に会う。翻訳ものの許可を得るかたがた、鎌倉文庫の性格を伝える。・・・ファー少佐の態度はすこぶるいんぎんを極めていた。前を通るとき、いちいち「エクスキューズ・ミー」と言い、自分から私たちのために椅子を運んでくれる。 ビルマの日本軍の報道部の傲慢不遜な空気を思い出した。同じ日本人の私が、たまらなく不愉快だったのだから、まして現地人にとってどんなだったろう」  
 放射能汚染対策を徹底するつもりがないから、闇雲に根拠のない「食べて応援」キャンペーンを貼るのである。

  投資話も、放射能キャンペーンも会社や政府に有利な土俵が初めにある。判断に迷ってインターネットに頼れば、騙す側の会社や政府を擁護するサイトも並んでいる。簡単に正解に辿り着こうとすれば、新たな詐欺が待ち構えている。
  そうならないためには、じっくり学習を積み重ねるのが、遠回りだが有効な手段である。もう一つある。それは政府が、怪しい商行為に断固としてた規制をかけることである。

辻井喬が面白いことを言っている。
「消費者が購入する商品について言えば、一回はだまされる。しかし二度はだまされないというのが消費者だろうと思う。テレビに出るタレント学者は、何回も見るうちに、だまされるというか、テレビ局がだまされるのでしょうね」

 タレントや宣伝のない国に住みたい。看板やのぼり旗のない街に生きたい。
 「芸能人」がたまに反政権的な言説を公にして、世間の喝采を浴びることがある。少し眉に唾を付けたい、国民が芸能人を通して事柄を判断する習慣を維持するための、保険に過ぎない気がする。プロダクションや広告代理店は抜かりがないのだ。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...