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最近、渋沢栄一の妻妾同居のスキャンダルが注目を浴びている。彼は一万円札の肖像に最も相応しくない。嘗て朝鮮が日本の植民地であった時、渋沢栄一こそは植民地主義的収奪と干渉の象徴であった。

    例えば教育行政は、教師の教育に干渉して止むことがない。決して手助けはしない。教材や資料の用い方はおろか、教師の思想や振舞いにまで口を出し、文書の形式提出に拘る。だが世界で群を抜いて長い労働時間に苦悶す教師たちに手助けの「振り」はするが、何年経っても実行はしない。これは教育に限らない。 巨大企業や警察は家族の思想や市民活動にまで介入する。

 戦中のハンセン病療養所沖縄愛楽園に県警本部長一行がやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。戦場で兵士が命を投げ出して皇国に尽くしている時、ハンセン病者も死ぬことがご奉公である、つまり絶滅して経費を節約せよと説いた。

 その時、強制隔離され自由を剥奪された元教師の患者が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者がここにも沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」と大胆極まりない批判をした。忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎになった。

渋沢栄一が朝鮮で発行した紙幣が如何に朝鮮人の怒りをかったことか


 感染の恐れのないハンセン病を渋沢栄一と光田健輔は「ペスト並みの恐い病気」と人々の恐怖を煽り、死ぬまでの絶体隔離体制を作り上げる。実際ハンセン病患者は併発した病気で死ぬことはあっても、「らい」で死ぬことはなかった。

 病院が医者が患者を助けず、一家はおろか一族の生活を壊滅させたのである。その筆頭「戦犯」たる渋沢栄一を近代資本主義の立役者と祭り上げ、一万円札の肖像にするという。確かに渋沢は近代日本の犯罪的体制を象徴する人間ではある。しかし一万円札の肖像として支払いのたびに見せつけられるのは真っ平御免だ。

 野球部の顧問教師は生徒を坊主にしたがる。「大会の開会式で、球児全員が丸刈りで整列したら感動するよなあ」とは以前、大会関係者教師が気持ちよさげに頷いた台詞だ。中学生や高校生を「球児」と呼ぶ神経も気持ち悪いが、そんなに丸坊主に感動するなら、自分たちがそうすればいい。他人の髪型に干渉しておいて、表現を手助けしないで、何の教師か。彼らはgameとしての野球が好きなのではない。統制と干渉が好きなのだ。だから日本の野球やサッカーは、自らを「サムライ ジャパン」と呼びたがる。日本の近代化は部活やスポーツ界に残る封建制の徹底的克服なしには始まりはしない。先ずは、渋沢栄一の一万円札を葬り去ることだ。

 李氏朝鮮時代から渋沢栄一の第一銀行は、関税の取り扱い業務などを代行して朝鮮政府に深く食い込んで日本貨幣を朝鮮半島でも流通させた。だが日清戦争後、ロシアの朝鮮半島進出とともに日本貨幣の流通が激減。そこで第一銀行頭取渋沢は、李氏朝鮮を引き継いだ大韓帝国に無断で「無記名式一覧払い約束手形」を発行。この手形が実質的な紙幣として朝鮮半島で流通、大韓帝国は1905年に正式な紙幣として承認するはめに陥った。その手形=偽紙幣に、渋沢栄一の肖像画がある。渋沢は京城電気(韓国電力の前身)社長や京釜鉄道会長を努めるなど、植民地収奪の象徴だった。その強奪と鍛圧支配の詫びも誤魔化し続けて80年になる。わが恥ずべき政府はこの大犯罪者の肖像を最高額の紙幣の肖像にする。

 この「干渉したがるが、手助けはしない」悍ましい文化が生んだ習慣が「自分へのご褒美」の侘しい光景である。誰も手助けしてくれないのだ。自分でやるしかない。しかし「褒美」は、他者に向けられてこそ価値がある。  

 干渉はしないが、困っていると何処からともなく現れ手助けする人々もある。それが良き文化として定着している国もある。しかし未だに日本政府は、韓国朝鮮へのヘイト言説を放置扇動するのだ。


  参照  以下のblog記事はすべて渋沢栄一と光田健輔の前代未聞の悪事についての論考だ。追って再掲する。

            https://zheibon.blogspot.com/2021/07/blog-post_22.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/06/blog-post_18.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/blog-post_29.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/2.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/blog-post_18.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

怒りを込めて振り返れ  絶滅隔離

   「一般に夫婦は似た顔の人が多い」との分析報告がある。ひとは顔が似ていると親密になりやすく、趣味や考え方が似ていると一緒に生活しやすいのか。

 転校して親しくなると同じ家紋の家だったことを後日知り妙な気がしたものだ。

   僕は生まれ故郷から夜行列車で丸一日の熊本で小学校に入った。不思議な新設校で、一年生ばかりが200人余りの4クラス、だが教室は全学年分完成していたその中の一人がなぜか気になり、休み時間毎に「遊ぼう」と誘わずにおれなかった。彼はいつも寂しげで温和かった。中庭で五寸釘や独楽を使って遊んだがたった10分でお終い。だから放課後はいつまでも遊べると考えていたのだ


が、時鐘
と同時に布製のランドセルを背負い「園のおばさんが、学校の子と遊んじゃいかんって・・・」と呟きながら、数人の仲間と裏門を抜けて帰るのだった。 僕は校門脇の土手に登って、熊本市の真ん中を横切る白川の向こう側の丘の麓に消える彼らを眺めていた。

 彼らは児童養護施設から通っていたのだ。5月連休明けに白川向こうの丘への遠足があり、「遠足は一日中遊べるね」と僕はご機嫌だったが遠足当日は雨。彼らは一人も登校しなかった。先生たちは体育館に僕らを集めてお菓子を配った。親が金を出し合っておやつのために共同購入した品物だった。お菓子と弁当ですっかり元気になったうえ、勉強もなしになった。


 後日、この養護施設が熊本の教育を混乱の激流に巻き込んだ『黒髪小事件』と深い関わりを持っていたことを僕は知った。黒髪小事件は  龍田寮事件とも竜田寮児童通学拒否事件とも呼ばれる。

 癩療養所に絶滅隔離された患者は、感染していない子の処遇に泣いた。療養所には患者でないから入れず、親戚縁者は患者の子どもだからと引き取らない。当時患者の子どもを「未感染児」と呼び患者の家族はいつかは発病するという無知偏見を植え付け、また子どもを荷物扱いし「携帯児」とも呼んだ。様々な経緯から菊池恵楓園では「未感染児」は、癩予防協会付属養護施設の保育所「龍田寮」で扱われることになり、寮は恵楓園から離れた熊本市内の黒髪町に設置された。

 blog「戸籍から消えた祖母がくれた学童帽」  クリック              

   blog「ものを・・・正当にこわがることはなかなかむつかしい」  クリック  

   少し長いが拙著から引用する。 

 1954年の春、時代の歯車が逆転したかと思わせる事件が熊本で起きた。竜田寮児童通学拒否事件である。ハンセン病療養所にはハンセン病患者である子ども、親が患者だが本人はハンセン病ではない子ども、療養所職員の子どもがいて、それぞれ困難を抱えていた。熊本市内の竜田寮では、菊池恵楓園入所者の子どもたちが生活。他の療養所では入所者の子どもの地元小中学校通学がすでに実現、しかも竜田寮の中学生と高校生はとうに地元の学校に通っていたのである。意図して煽られた騒動の気配がある。中心人物は保守の県議会議員でもあった。

 菊池恵楓園に再収容されることになった父親が、子どもを預けるために竜田寮を訪ねたことを書いている。黒髪小事件の3年前のことである。

 「私は意外なことを耳にした。(竜田寮には)小学児童が15名ほどいるが、市内の小学校に通われず、分教場で教わっているということだった。

 「小学校がすぐそこにあるのになぜ通学されないのですか?」

 「それがですね、病人の子だからという理由でPTAが 反対するらしいんです。これまで何回となく市や学校と交渉しましたが、父兄側の鼻いきが荒いのでね」

 親を病人に持つがゆえに、その子は正規の教育を受けることを拒まれ、やむなく分教場で一人の教師が一年から六年までを担当しているというのである。ほんの目と鼻の先で片方は堂々たる鉄筋建の校舎で、正常の教育を授けられているのに、一方では粗末な分校で寺子屋式の貧弱な教えを受けている。私の脳裡を対照的な二つの授業風景がかすめた。教育都市をもって名を知られる熊本市が、これは一体どうしたことだろう。」   下河辺諌「別れ道」『ハンセン病文学全集第四巻 記録・随筆』346ページ

        

 竜田寮の子どもたちを排除しようとする通学反対派は、140日にわたって子どもたち(1600余)を休校させ、お寺や銭湯などで自習させた。この事件に衝撃を受けた佐賀の患者家族が自殺するという悲劇も起きている。

 しかし少数派の通学賛成者は、石を投げられ、脅迫状を送られ、殴り込まれ負傷者まで出しながらも、その275名の子どもたちが竜田寮の4人と通学を続けた。新しい希望であった。反対派指導者の孫が「竜田寮の児童が入った新一年生の学級に掃除に行かせて欲しいと申し出てきたのが嬉しかった」と、『熊本市戦後教育史』は書き残している。            『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊


   竜田寮の中学生たちが通った市立桜山中は、黒髪小学校より竜田寮に近いが、通学拒否はおきていない。それ故事件のの解決に熊本市は悩み、市内の学者たちに知恵を借りた。その結果、何カ所かに分散設置された施設の一つが「気になる温和しい子」がいた園かも知れない。僕の入学した小学校は彼らの受け入れ学校として急遽指定された可能性がある。子どもたちの個人情報は勿論園職員の情報まで悉く秘密にされ、後に破棄されたと聞く。


 この事件の根本は、絶対隔離の必要の無い癩病=ハンセン病を「ペスト並みの恐ろしい病気」と根拠のない偏見を煽りながら全国を遊説した光田健輔と渋沢栄一に帰すべきことを、僕は何度でも書く。

                                                           

 父の母が戸籍から消え癩療養所に生きていた可能性については既に書いたが、このトメ婆さんとほぼ同時に戸籍から消えた父の妹も同じ療養所にいた可能性を否定できない。彼女は僕の叔母にあたるが、彼女に「携帯児」はない。しかし当時の恵楓園では療養所内で患者が堕胎を免れ出産した例がある。

 彼が僕の叔母の子、つまり僕の従兄弟であった可能性も否定出来ない。入学式後の集合写真を見ると、疲れ切った表情の僕の前列にそれと思しき詰め襟姿の少年が写っている。

 僕は墓という風習に何の感慨も持たない。だが菊池恵楓園の納骨堂には頭を垂れるつもりだ。 なぜなら、この黒髪小事件に関する教組や労組の積極的取り組みの形跡がないからだ。癩病の絶滅隔離そのものへの怒りを込めた行動や声明すら発見できない。戦後民主主義とは何であったのか、どこを向いていたのか問わずにおれない。矛盾の結節点への洞察が欠けている。

 

渋沢栄一は皇国的干渉と収奪の象徴。一万円札の顔に相応しくない。/ 干渉はするが、手助けはしない。 

  教育行政は、教師の教育に干渉して止むことがない。しかし決して手助けはしない。

  教材や資料の用い方はおろか、教師の思想や振舞いにまで口を出し、文書の形式提出に拘る。だが世界で群を抜いて長い労働時間に苦悶す教師たちに手助けの「振り」はするが、何年経っても実行はしない。これは教育に限らない。 巨大企業や警察では家族の思想や市民活動にまで介入する。 


 戦中の沖縄愛楽園に県警本部長一行が厳めしくやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。戦場で兵士が命を投げ出して皇国に尽くしている時、ハンセン病者も死ぬことがご奉公である、つまり絶滅して経費を節約せよと説いた。その時、強制隔離された元教師の患者が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者が沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」

 と神をも畏れぬ大胆極まりない批判をした。忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎになった。

 感染の恐れのないハンセン病を渋沢栄一と光田健輔は「ペスト並みの恐い病気」と人々の恐怖を煽り、死ぬまでの絶体隔離体制を作り上げる。実際ハンセン病患者は併発した病気で死ぬことはあっても、「らい」で死ぬことはなかった。

 病院が医者が患者を助けず、一家の生活を壊滅させたのである。その「戦犯」に当たる渋沢栄一を近代資本主義の立役者と大河ドラマで祭り上げ、一万円札の肖像にするという。確かに渋沢は近代日本の犯罪的体制を象徴する人間ではある。しかし一万円札の顔として見せつけられるのは真っ平御免だ。

 野球部の顧問教師は生徒を坊主にしたがる。「大会の開会式で、球児全員が丸刈りで整列したら感動するよなあ」とは15年前の大会関係者教師が気持ちよさげに頷いた台詞だという。中学生や高校生を「球児」と呼ぶ神経も気持ち悪いが、そんなに丸坊主に感動するなら、自分たちがそうすればいい。他人の髪型に干渉しておいて、表現を手助けしないで、何の教師か。

 彼らはgameとしての野球が好きなのではない。統制と干渉が好きなのだ。だから日本の野球やサッカーは、自らを「サムライ ジャパン」と呼びたがる。日本の近代化は部活やスポーツ界に残る封建制の徹底的克服なしには始まりはしない。先ずは、渋沢栄一の一万円札を葬り去ることだ。


       李氏朝鮮時代から渋沢栄一の第一銀行は、関税の取り扱い業務などを代行して朝鮮政府に深く食い込んで日本貨幣を朝鮮半島でも流通させた。だが日清戦争後、ロシアの朝鮮半島進出とともに日本貨幣の流通が激減。そこで第一銀行頭取渋沢は、李氏朝鮮を引き継いだ大韓帝国に無断で「無記名式一覧払い約束手形」を発行。この手形が実質的な紙幣として朝鮮半島で流通、大韓帝国は1905年に正式な紙幣として承認するはめに陥った。その手形=偽紙幣に、渋沢栄一の肖像画がある。渋沢は京城電気(韓国電力の前身)社長や京釜鉄道会長を努めるなど、植民地収奪の象徴だった。

 この「干渉したがるが、手助けはしない」悍ましい文化が生んだ習慣が「自分へのご褒美」の侘しい光景である。誰も手助けしてくれないのだ。自分でやるしかない。しかし褒美は、他者に向けられてこそ価値がある。

 干渉はしないが、困っていると何処からともなく現れ手助けする人々もある。それが良き文化として定着している国もある。


専門家とは何か、業界人は腐敗する

  ハンセン病療養所菊池恵楓園に収容されセファランチンを投与されたため、症状が悪化、眉毛は抜け落ち、目も見えなくなった退所者に関する検証会議聞き取りがおこなわれた。

 セファランチンは結核の薬として戦後使われた。若くて軽症の人に投薬され、それによって症状を悪くし、全盲になったり、手足を悪くしたり、亡くなった人さえいる。この薬については学会に報告されたが、失敗例はすべて捨てられ、少し症状が良くなった例や病状に変化が見られないものだけ残された。そのため、学会論文上、犠牲者報告はない。その後、セファランチンはいつの間にか使われなくなり、薬害が明らかにされていない。 ハンセン病問題に関する事実検証調査事業  第4回ハンセン病検証会議   2002年12月9日和泉眞蔵検証会議委員証言                註   和泉眞蔵  国立ハンセン病療養所や京都大学医学部皮膚病特別研究施設で、ハンセン病の診療や教育・研究に従事。国賠訴訟では青松園医長でありながら原告側証人として証言。又医療過誤事件でも原告患者証人として証言、一貫して患者の立場から医療を担ってきた。

 

 ハンセン病者たちは、セファランチンをナオランチンと呼んでいた。  ハンセン病療養所に長い間カルテが無かった。カルテが要らなかったのではなく、都合の悪いデータとして有っては困るものでもあったという驚天動地の構図がここに見える。病気の研究治療に注がれるべき情熱・時間・費用が、愚かに私的に浪費されたのである


 救癩の父と賞賛され文化勲章を受けた光田健輔の、医学者としての見識の程を示す遣り取りの記録がある。

(光田) 「あなた(小笠原登)は、ライは全治すると言っているが、それは間違いだ。全治は不可能です」 

(小笠原) 「では一体先生のおっしゃる全治とは、いかなる規範であるのか、まずそれを承りたい」 

(光田)「それは、患者の躰の中にライ菌が全くなくなり、かつ再発しないことである」 

(小笠原)「それはおかしい。およそ伝染病にして・・・全治した後の体内に菌が完全になくなることはない。いったんライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。先生のいわれるような意味で全治を考えたのでは、世の中に全治する病気は一つもないことになりましょう。それとも、何か全治するものが、先生のいわゆる全治する病気がありますか」

(光田)「チブスがそうです」 

(小笠原)「チブスは全治しても、なお患者の躰の中にチブス菌のあることは、内外の文献にも明らかですが」 

(光田)「イヤ、私はライの方は専門に研究したけれども、チブスの方は私の専門外なので、あまり研究していないから 詳しいことは知りません         田中文雄 「京都大学ライ治療所創設者小笠原登博士の近況」『多磨』1967年12月号


 原理主義の恐ろしさは、その幼児性の無知にある。「それは間違いだ」と胸を張っておいて、動かぬ証拠を突きつけられると「専門外なので」と居直り、相手を「間違い」と決めつけたことは決して取り消さない。こうした無知に基づく素早い断定を、頼もしさと見誤ることがある。近代科学の専門家を自認する者が好んで陥った隘路である。自分と同類同質の無知を振りかざす者の過ちに気付くのは難しく、親しみと力強ささえ感じてしまう。無知で傲慢な断定ほどカリスマ性を帯びる所以である。理性的な熟考を、無能な優柔不断と見なす傾向と表裏一体となって機能する。医師光田健輔を、専門家として原理主義者に育て上げた責任が渋沢栄一にはある。

 この構図はコロナ禍の現在、マスメディアを通してむしろ拡大している。 

 賢者は、自分がつねに愚者に成り果てる寸前であることを肝に銘じている。・・・これに対して愚者は、自分を疑うことをしない。・・・そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。・・・愚者はけっして休むことがない。オルテガ


追記 光田健輔と論争した小笠原医師の自信の根底には、分厚いカルテがある。当時ハンセン病医はカルテを録っていない。治療への関心の低さを象徴している。京大「特研」(皮膚科特別研究室)医師小笠原博士のカルテは詳細かつ膨大であった。

 療養所以外でのハンセン病「治療」は、表向きには認められなかった。だが小笠原は、早朝から夜中まで毎日50名前後もの患者を素手で診察、その手の温もりが患者を「死んでもいい」とまで感動させている。

 彼の患者は、入院することも仕事を続けながら通院する事もできた。癩予防法が医師に義務付けたハンセン病患者の届出(即ち療養所隔離)を避けるためカルテの病名欄を空白にしたり、診断書が必要なら「多発性神経炎」とだけ記入。人目を避けて早朝夕方に通院する患者のために診療時間を大巾に延長した。患者の負担軽減のために、自らの研究費や給与も流用している。博士の着衣は、学生時代からの黒い詰襟を繕ったものであったという。彼が治療した患者は3000名にのぼる。

 光田と渋沢の救癩事業が慈善に依存する中で、国民皆保険制度の必要性も説いた。南画や漢詩を嗜む浄土真宗の僧侶でもあった。業界人から最も遠い教養豊かな「人」であった。


ハンセン病療養所「園券」の深い闇         ここにも渋沢栄一の影

   戦前戦中ちまたでは、「全生園にいけば2、30万はいつでも融通してもらえる」と公然と言われていた。高木敏子「ガラスのうさぎ」に、太平洋戦争末期「1000円といえば、ちょっとした家が一軒建つお金」という記述がある。2、30万円は大変な額である。現在の価値で2億、3億円に相当する。 

 絶対隔離は火葬場の煙とならなければ外に出られない仕組みだった。どんなに金を患者が持っていても、一旦園が強制的に預かってしまえばどう使ってもなんら咎められない。全く自由な400万円近い資金(4000億円に相当する)が、いろいろな方面から重宝されていた。戦前の市中金利は5%から10%で推移していたし、高利貸しの金利は年利100%を越え

患者たちは有り金残らず巻き上げられ・・・  
  
ていたからである。全国のハンセン病療養所は患者の逃亡を防ぐことを理由に、その所持金を園内だけにしか通用しない粗末な「園券」に強制的に交換した。
  しかし敗戦とともに事情は大きく変化した。1925年男子のみの普通選挙権が認められたが、皇族と公的扶助を受ける者は無かった。1947年補欠選挙が開始されるとともに、共産党遊説隊が園内に入り、草津栗生楽泉園ではその晩のうちに懇談会が開かれ患者の怒りは爆発する。(1947年患者の委任を受けた自由法曹団が、園当局の行為は殺人、同未遂、特別公務員暴行凌虐、不法監禁罪を構成するとして前橋検察庁に告訴告発している。それによれば、 庶務課長は重監房運用責任・物資隠匿横領・患者労働賃金のピンはね横領等、炊事主任は患者救済を騙って買い付け横流し、保母は虐待で保育児を死に至らしめている。)
  共産党や社会党も園内に入り、患者たちがハンセン病療養所の実態を村人や町民に訴え始める。長年の悪事が露呈・園当局の尻にも火が付く。患者が持参した金券=「正金」を当局は「保管金」と呼んだが、保管などしてはいない勝手に「運用」していたのだ。

 昭和27(1952)年4月1日「第一分館に於て保管金払出しの際本日より何の報告もなく正金にて払出しているとの情報を得たので、早速園当局に申入れし、正金切替は計画の下一斉に行うにつき、この処置を差しとめさせた」と全生園患者自治会は記録している。自治会が正式に金券への切替を要請したのが3月15日ごろで、切替希望日は4月なかごろである。
 開園から40余年もの間、入園者の所持金をいくら取り上げていくら園券にしたか明細などない。

 「切替えは予定通り始まり14日・・・15日・・・16日・・・17日・・・と順調に進んだが、保管金額に誤りがある疑いが出てきて、切替委員が立ち合って調査したところ、銀行預金の38万円余が見落とされていて、日本銀行券保有高とだいぶ差があることが判明した。・・・自治会では、調査委員会を設けることを決め、翌日には、施設側に現金出納簿の提出を要求してこれを調べたが、出納簿はこの切替えに当たって、都合よく書き換えられたものであったので、原簿の提出を要求。
 ・・・明らかに現金出納簿を改ざんしている等の事実を厳しく指摘し、全くいいかげんな取りあっかいについての釈明を迫った・・・ そして22日・・・園長は自治会に対し、73万5000円余が不足していることを正式に認めた。この不足分を認めたことは、患者の保管金と金券発行額だけ、現金の裏付けが無いということで、そこには明らかになんらかの不正が介在することを認めたわけである。
 ・・・「園券に関する不正責任糾明委員会」が発足したのはその夜。・・・激しい怒りが「園券に関する不正糾明患者大会」に結集された。この日の礼拝堂には、入園者600余人が会場と堂外にあふれ、出席している施設首脳者に怒りの声がしきりに飛んだ。大会決議では「73万余円不足の事実は、過去30有余年の永きに亘り我々患者の血と涙の結晶たる零細なる所持金が、何らの会計検査もなく、無能にして絞滑なる担当者にょり、如何に曖昧模糊たる処理に委ねられ来ったかを自ら暴露せるものであり、我々現存者のみならず不幸なる時代の中に病没した過去の病友の霊と共に断じて許さざる処」と述べ、施設の責任者園長の意志表示、永井と菱川の即時辞任とらい園たらい回し勤務の拒絶、不足金の個人負担、不足の真相調査と公表等を要求した。
 これに対する24日の園長回答は「皆様の所持金縁管に関して慎重を欠き不始末を生じ御心配をおかけしたことは責任者とし注意が足りなかったと痛感すると述べたが、内容はそれとはうらはらでそっけないものだったため、委員会はこれを拒絶して、再回答を要求、26日の再回答では責任を痛感し、永井、菱川両人をやめさせる、両人は辞職を隣い出、他のらい園には勤めない、不足金は個人が支弁し、原因調査は公正を期して本省と地方局に依頼、4月30日に公表するとしたのを、糾明委員会は了承した。
しかし新聞各紙は「患者の金を職員が横領?」 「らい園は伏魔殿」などと興味本位に取りあげ、事件の解決にはほど遠かった。
 4月30日加藤事務官らの本省調査団は糾明委員会に対し、調査の中間報告をしたが、・・・その調査の粗雑さについて糾明委員会からきびしい指摘をうけて、ついには施設、糾明委員会との三者で合同調査をすることになり、その結果は5月6日つぎのように発表された。
○入園者所持金
 有効園券         二三四万〇四五〇円五四銭
 保管金           一〇九万四三六七円五四銭
 互恵会             三八万四四八九円〇九銭
 慰安会               三万〇一四六円四〇銭
 その他                   一八七六円
  合計            三八五万二二二九円五七銭
○園が示した資金
 課長出納簿       二九七万八五二二円七一銭
 菱川保管金           四万八三六四円七五銭
 同立替金             八万一三〇〇円
 振替貯金                 三四〇五円二六銭
  合計           三一一万一五八三円七二銭
○差引不足額         七三万九七四五円八五銭

 そして永井は7月、菱川は8月に結核の施設に転勤となった。
 調査団発表は不足金の確認だけで不足した原因には触れない。施設ではその後も調査を続けているが、林メモによると(6月30日)42万4000円余の所在は、菱川の帳簿もれと解明されているが31万5000円余は不明金としている。前記したごとく裏付け金出納簿は改ざん(または問題ない部分だけはチェック)したものを自治会に提示し、改ざんを追及されてもついに原簿は出さなかった。」
全生園患者自治会編『俱会一処』一光社刊
 国立ハンセン病療養所は国内だけでも13箇所あった。不正横領は全生園だけではない。不正に運用された膨大な「利益」は何処に消えたのか。これも光田健輔と渋沢栄一画策による「絶対隔離」政策が無ければ出現するはずのない深い闇であった。この一事だけで、渋沢栄一が一万円に相応しくないことは明白。
 この後患者たちは長く困難な「ライ予防法」闘争に精魂を傾け敗北する。光田健輔は1951年、文化勲章を胸にした。

 敗戦は憲法改革を伴う「革命」であるべきだった。革命の過程では旧体制で弾圧迫害され投獄された人々が、新しい体制の理想を実現するために政権中枢で汗を流す。それが民主主義的政変である。眼光鋭く旧体制の闇を告発検証して、責任の在りどころを逃さない。そうでなければ新しい体制は実現しない。

 にもかかわらず光田健輔と渋沢栄一の絶対隔離体制は続いた。誰一人処罰されなかった。殺戮も横領も拷問も何も問われなかった。犯人たちは逮捕もされず裁判にも掛けられなかった。旧体制は、より権威主義的に整えられたのである。

「日本資本主義の父」渋沢栄一と「救癩の父」光田健輔のいかがわしさ


 ハンセン病療養所の死因統計を見ると、昭和 30 年代までは結核死が 3 分の 1 から半数近くに達している。劣悪で過密な居住環境の中で結核が蔓延、死亡者が続出したからだ。園に収容されなければ結核感染から免れた患者も少なくない。肉親から切り離され悲痛な最後を遂げた強制収容者はおよそ2万3800人、違法な堕胎嬰児殺害3000人。膨大な数が、「隔離」政策故に殺されたのである。 

 光田は何のために死ぬまでの隔離、絶対隔離に拘ったのか。

 12 畳半の大部屋に 8 人の患者が昼も夜も雑居する事が如何に過酷か。しかも過酷な「作業」を負わされて。彼らは如何なる意味でも罪人ではない。反抗も不服従も処罰の対象になった。

    国立療養所患者懲戒検束規定 昭和6年1月30日認可

第1条 国立癩療養所ノ 入所患者ニ対スル懲戒又検束ハ左ノ各号ニ依ル

        1 .譴責 叱責ヲ加誠意改悛ヲ誓ワシム

        2. 謹慎 30日以内指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交流ヲ禁ズ

        3. 減食 7日以内主食及副食物ニ付常食料ニ分ノ一マデヲ減給ス

        4. 監禁 30日以内監禁室ニ拘置ス

        5. 謹慎及減食 第2号及第3号ヲ併科ス

        6. 監禁及減食 第4号及第3号ヲ併科ス

 監禁は前項第4号ノ規定ニ拘ラズ特ニ必要トミトムルトキハ其ノ期間ヲ2ヶ月迄延長スルコトヲ得


  アンパン一つが三銭の時代。重い炭俵を担いで氷雪凍てつく断崖を血の跡を残しながら登るのも、大きな石を運び道普請するのも患者作業だった。神経が麻痺した患者は、例えば釘を踏み抜いても気付かない。肉体の限度を越えても自覚がなく労働に精を出す。こうして過酷な強制労働は、患者の命を縮めた。

 「不自由舎の付添は一室七人の病人を住込みで一人で面倒を見た。昼も夜もなく、週休も有休も祭日もなく、一年を通して働いたのである」(松本馨『多磨』一九六八年一一月号)

 一九六〇年、不自由舎(身体の自由がきかない患者の病舎)での患者付添が職員看護に切り替わる。あまりの激務に過労とノイローゼで倒れる看護婦が続出し、週刊誌沙汰になった。 

 これを賛美する医師があった。

 療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。

 療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が要る。

 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。

 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園とした…。

 全治者を退院せしめよの声は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。…

 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである。    林文雄『醫海時報』1930年                                           

 「重症者に日夜侍して大小便の世話」をするのが如何に過酷か。患者による無償の患者付添の過労は美しき愛の働き、職員看護のそれは過酷な賃労働。ここに横たわる倒錯した人間観・世界観を『牢獄か楽園か』というタイトルが捉えている。林文雄は家族に見守れる中「コンナコーフクナモノハナシ」と書いて最期を迎えた。彼は 北大医学部を出て、将来の教授と期待されたが、全生病院に勤務、光田健輔の全幅の信頼を得る。研究者としての業績もあり、診療、文化、生活でも患者との日常的接触に努力。昭和初期は、林のような青年クリスチャン職員たちが増え、患者との間に隔てを置かぬ生き方は、患者の心をのびやかに明るくするものであったと『倶会一処』は書いているが、彼らの動きは数年で幻のように消えた。何故優秀な専門家が揃いもそろって「絶対隔離」や殺戮の鬼になるのか。 

 冒頭の画像は、国立としては最初のハンセン病療所「愛生園」園長官舎である。患者の地獄に「愛生」と名づける神経を僕は疑う。初代園長は光田健輔。大河ドラマ『天を衝け』で日本資本主義の父と持ち上げられ、飛ぶ鳥落とす勢いの渋沢栄一と共にハンセン病を「ペスト並みのおそろしい病気」と遊説して回った光田健輔の住居である。

 渋沢が日本資本主義の父なら光田は救癩の父。 

 各地の療養所=絶対隔離収容所にも豪勢な官舎が建てられた。大工仕事は患者作業によったから、材料費だけで済む。それでも、療養所建設に要した費用の一割をつぎ込んでいる。シーツの洗濯からアイロンがけ、窓磨きから庭木の剪定も、ある仕事は患者作業、ある仕事は患者作業で負担が軽くなった職員がになう。

 後に林文雄が園長となった星塚敬愛園には、「安村事件」(1936年)という醜聞がある。同意のない断種に公然と反対した54歳の患者の両義足を外して、山中の河原に置き去り追放した事件である。この時、林文男は、「本人はすでに無菌であり、善良な入園者を煽動して園の秩序を乱すので本人に言い含めて出てもらった」と説明している。未必の殺意と言うべきである。

  「天国」とは主を自称する者と彼を賞賛する者だけから構成される。自由な批判ある空間で、賞賛する者だけが集うわけがない。反抗する者や批判する者を先ず排除、次いで懐疑する者や自立する者まして生まれた「天国」である。

 主を自称する者は賞賛者に囲まれるうちに幼稚なカリスマ性を獲得、自らの世界のための安寧のために「罰」を生み出す。

 光田健輔が虚構の絶対隔離の絶対安寧のために希求したのが、反抗者を死に至らしめる「重監房」=特別病室であった。全国から所長や職員の意に沿わない患者が送りこまれた草津の栗生楽泉園「特別病室」は、冬には零下18度暖房設備はあろうはずもなく、食事は握りめし一日2個と、湯のみ2杯の水。長期間の監禁により1947年(昭和22年)に廃止までの9年間で、延べ93名の患者が収監うち23名が死亡している。 

 このあからさまな殺人を新憲法下の警察は、捜査すらしていない。誰一人罰を受けていない。それどころか 光田は1951年には文化勲章を受けている。このほかにも重大な犯罪行為がある。

 間違いは、極めて感染しにくいハンセン病を「ペスト並みの恐い病気」と偽ったことに始まっている。 光田健輔と渋沢栄一である。

 渋沢栄一は一万円札の肖像としては全く相応しくない、

光田健輔と渋沢栄一は絶対隔離=segrigationの犠牲者に、詫び償ったか。

  ふるさとのこの街に われも母となり 君らと共に生きたかりしに                                       歌人浅井あい 1920年~2005年


 彼女のハンセン病が健康診断で見つかったのは、師範学校在学中の1934年だった。学校は強制退学を言い渡す。 

「わたしが家を出ると、母はわたしのものを全部焼いてしまいました。父と相談して、わたしを死んだことにして、家族がわたしの名前を言うのも一切禁じました」 浅井あい 八重樫信之『写真集 絆』人間と歴史社 p10       

 彼女は、国立ハンセン病療養所草津楽泉園に収容された。特効薬プロミンはあったが使用できないでいるうちに失明。学ぶ夢も母になることも禁じられた。

収監93名中22名を獄死させた
重監房は、光田の念願であった。

 後年、年老いた彼女のために師範学校の級友たちは卒業証書授与式を行った。冒頭の歌はその時に読まれた。痛切である。 君らとは、共に教師を目指して学び教壇に立った学友、浅井あいの講義受けた筈の若者・子どもたちでもある。


  光田健輔と渋沢栄一が扇動画策した絶対隔離=segrigationではなく、当時既に世界的潮流てなっていた相対的隔離=isolation(東大皮膚科や京大皮膚科では、実施されていたが光田ら権力筋の妨害は長く続いた)が受け入れられていれば、浅井あいは通院治療を受けつつ学べたのである。isolation =相対隔離では患者の社会関係は維持され、治癒すれば退院出来る。トメ婆さんも二度死ぬ不条理に曝されることはなかった。

何故ハンセン病者は死に至る苦難に曝され続けたのか。渋沢栄一は一万円札に値するか。2

 承前

 渋沢栄一と深いつながりのある鹿島組(現鹿島建設)に小冊子「朝鮮人労務者の管理について」がある。冊子は朝鮮人の「短所」として、知能程度が低くて向上心を欠く・国家観念に乏しい・利害に敏感・無抵抗主義の風潮あり・・・などを26項目にわたって挙げている。しかも結びで、「親しんで馴れるな、しかして愛のムチに涙の折檻を忘るる勿れ」と付け加えている。

 渋沢栄一は京仁鉄道社長でもあり、朝鮮初の鉄道工事ほとんどは鹿島組に特命発注している。その際作られた冊子と思われる。朝鮮人蔑視思想は日本帝国主義支配層によって意図的に形成され、関東大震災で組織されたものだ。権力による人災=震災後の流言飛語と無差別殺戮を準備したこの冊子には渋沢栄一の世界観が反映している。 

 そんな人物が一万円札になる。そんな人物の生涯を、日本資本主義の父として「大河ドラマ」に仕立てる風潮を軽薄だと思う。

 しかも渋沢栄一は「ハンセン病」に関して次のように遊説して全国を回っている。

 「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れないものがある」 

 彼に隔離の必要性を進言したのは、若い野心溢れる養育院勤務の医師光田健輔。養育院は渋沢が設立した「福祉施設」。野心家はある種の使命感に駆られてこう説いている。

 「ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差(ない)」

   光田と渋沢の執拗な煽動は、ハンセン病におどろおどろしい印象を与えて患者を好奇の目に曝し「ペスト並みの怖い病気」という嘘は、巷に行き渡る。

 渋沢は一時の判断ミスで、光田と行動を共にしたのではない。愛生園園長となった光田は、 1931(昭和6)年記録映像を携え渋沢を訪問している。

 「長島愛生園は子爵のご事業の結晶です。ぜひ一度お訪ねいただきたいのですが、とりあえず活動写真だけでもお目にかけたいと思いまして・・・」と愛生園の様子を映写した。

 渋沢栄一は感歎の声を発し「光田君、よくここまでやってくれた。今後とも頼むよ・・・」と言ったと伝えられている。


  「明治5年東京府知事は「違式註違(いしきかいい)条例」を発令。刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、街角の肥桶などから、肩脱ぎ、股をあらわにすること、塀から顔を出して笑うこと等76箇条を「文明国」に有るまじと決めつけ、軽犯罪としている。

  ・・・裏声で攘夷を絶叫していた薩長が長英・薩英戦争で敗北、その英国の後押しで政権にありつくや、一転して英国人にとっての「不快」な存在そのものを禁止・排除・抹殺して迎合しご機嫌伺いするのをくい止められはしなかった。敗北してなお保つ小国らしい矜持はここにはない。 植民地的従属性に彩られた全体主義的絶滅思想の腐臭がある。

 こうして叩かれた一つが、ハンセン病浮浪患者だった。彼らの実態は貧困にある。急激な膨張で悪化する「帝都」の衛生状態を放置し、チフス・コレラ・赤痢など伝染病死者が万を越える。それでもお上は貧民・患者救済には目もくれず、慣れない洋装で鹿鳴館通いの乱痴気騒ぎに興じて、御殿造営、軍備増強、爵位・勲章の乱発には抜かりなく、それを文明開化と呼ばせた。

 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊

  

 養育院の「文明開化」に於ける役割は、「臭いものに蓋」をして欧米人の眼に触れぬよう、巷に横溢する生活困窮者を狩込み加賀藩邸跡に収容することであった。


  「ハンセン病患者を外来患者として・・・受け入れ」ていたのは、他ならぬ東大医学部お雇い外国人医師ベルツであった。彼は皇室始め政財界要人たちの信頼も厚かった。

  彼はこう書き残している。

  「 東京大学の病院の大部屋で、私は20年以上にもわたって常にハンセン氏病患者を、他の患者達の間に寝かせてきた。しかし、患者も医療従事者も誰ひとりハンセン氏病に感染しなかった。潜伏期間が長いために感染の事実が立証できないだけだというよくある反論も、20年を超える時間の長さを前にしては無効である。」

  政府はベルツの帰国を待つように「明治40年(1907)法律第十一号・癩予防に関する件」成立させる。全生病院等5カ所の療養所が開設されるのは1909年。1916年患者懲戒検束権を所長に付与、1925年には衛生局長通達で浮浪癩患者以外も収容。光田健輔念願の全患者隔離は、「癩予防法」「国立癩療養所患者懲戒検束規定」として1931年実現する。

 ベルツだけではない。日本人学者・医師にも絶対隔離を間違いとするものは少なくなかった。東大皮膚科教授大田正雄(木下杢太郎)はこう書いている。

 「なぜ(ハンセン病の)病人はほかの病気をわずらう人のように、自分の家で、親兄弟や妻子の看護を受けて養生することができないのだろうか、それは強力な権威がこれを不可能だと判断するからである。人人は此病気は治療出来ないものとあきらめている。・・・

 然し今までは、此病を医療によって治療せしむべき十分の努力が尽くされたとは謂えないのである。殊に我が国に於ては、殆ど其方向に考慮が費されて居らなかったとい謂って可い。」 


何故ハンセン病者は死に至る苦難に曝され続けたのか。渋沢栄一は一万円札に値するか。1

 どうしても合点の行かぬ事がある。わが民族は津波などによる理不尽な物故者を、何時までも忘れまいと涙ぐましい努力をする。遠い外国で行方不明になれば、捜索の邪魔になると制止されても現地に駆け付ける。身内も世間もそれが美徳と煽りたてる。葬式も疲れ果てた親族に過酷で大仰な形式にしなければ、世間が承知しない。


 悲嘆に暮れる身内をそっと見守れないのか、英国のように。現場に駆け付けたり、葬式の段取りで疲れ果てたりさせはしたくない。理不尽さ残忍さを早く忘れる。理不尽を忘れる事と個人の思い出を忘却することを混同してはならない。

 その根幹には、悲しみを社会全体が共有する仕組みがある、と僕は思う。それがビバレッジ報告の思想を支えている。身内も財産も失った者が、何一つ無くとも平穏のうちに暮らせる福祉制度がある。例えばこの国の病院には支払い窓口はない。病院を利用した者が交通費を受け取る窓口はある。

 以前英国の老人ホームについて書いたことがある。https://zheibon.blogspot.com/2019/09/blog-post_26.html


   英国の老人ホームは重厚である。領主や貴族の館を敷地ごと居心地の良いNursing homeに利用している。ベッドや椅子など家具も館の雰囲気を壊さない上質なもの。日本ならこんな老人ホームに入るには、億を超す一時金と月々数十万円の費用が掛かる、並みの国民が到底準備出来る額ではない。


[bristol nursing home]を画像検索すればいくらでも出てくる。任意の英国の町名でやっても出てくる。

 この国では誰であろうと国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」は、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。

 だから英国の労働者は、140万円の貯蓄でも悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中学生や高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活で体罰や虐めに耐える必要も無い。

 英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。

 安心とはこういうことだ。


  ところがハンセン病者に対して、我々はどう振舞ってきたのか。病気が見つかっただけで、社会から徹底的に排除しなかったか。死んだことにして戸籍から抹消さえした。 伝染の可能性が殆ど無いのに、大げさに消毒したり家ごと焼き払った。療養所で生きているのに見舞いもしない。遺骨になっても引き取らない、たとえ引き取っても列車の網棚に放置した。

 津波や火山爆発や地震の犠牲者は、いつまでも「忘れない」と官民ともに泣き悲しみ続けるのに。

 どうしてハンセン病者は、こんなに早く忘れられたのか。母親に「海に入って死のうか」と懇願されたり、保健所職員から「殺しなさい」と脅迫された子どもも少なくない。身内に殺されたり一家心中した例も数えきれない。新憲法下でも同じ構図が繰り返されてきた。

 一旦収容されれば、死に至る虐待や違法行為が放置され、その犯人=職員が処罰されたことは一度も無い。

 どうして彼ら患者=犠牲者を供養する地蔵や記念塔は、療養所の内にしかないのか。

 江戸時代にこんなにまで残酷な扱いをした病気の記述はない。他の病気同様に苦難を強いられた。明治初期には「らい」専門病院も街中に複数開設され、治癒するという前提で取り組んでいた。この漢方医たちの取り組みは、後の公立・国立療養所に比べても妥当なものであった。


 ここに日本ハンセン病学会(日本らい学会)の自己批判がある。世界の趨勢からあまりに遅れていた様子が良く書かれており、引用する。

                           日本らい学会の自己批判 

 ・・・らい患者(ハンセン病患者)、・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」(癩予防法・1931年)も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・    

 ハンセン病治療は、当初から外来治療が可能であり、ときには対応が困難とされたらい性結節性紅斑やらい性神経炎も、現在では十分管理できるようになった。・・・

 また、ハンセン病医学の現状をみると、・・・特別の感染症として扱うべき根拠はまったく存在しない。・・・

 「現行法(らい予防法)」はその立法根拠をまったく失っているから、医学的には当然廃止されなくてはならない。・・・

 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない。1995.4.22     

                             

 「日本らい学会」予防法検討委員会委員長としてこの「自己批判」起草に関わった成田稔医師は、更に断言している。                                    

 はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・・

・・・はっきりいえば、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・。 


 日本のハンセン病政策は、その始まりから間違っていた事が分かる。

 1897年というのは、第一回国際らい会議がベルリンで開かれた年である。会議ではハンセン病が伝染病であることを確認し「恐ろしい病気」との認識は無く、資力のない貧しい患者には町中の病院に相対隔離=isolation を推奨している。相対隔離とは絶対隔離=segrigation とは異なり患者の社会関係は維持され、治癒すれば退院出来た。第二回会議(1909年)では絶対隔離の必要性は認められず、第三回会議(1923年)強制隔離の非人間性を指摘、第七回東京会議(1958年)では強制隔離政策の破棄を勧告している。

  国内外に絶対隔離批判的見解が台頭しても、日本のハンセン病の権威と行政は聞く耳をもたず、人道・人権・開放・早期発見早期治療の世界的潮流から頑迷に孤立し続けたのである。 


 世界から孤立してまで、頑迷に犯罪的絶対隔離政策を推進し、数万に及ぶハンセン病者を地獄の底に送ったのは誰なのか。

 一人は「救らいの父」と持ち上げられ、文化勲章に輝く光田健輔医師、もう一人は大河ドラマの主人公・新一万円札の顔、正二位勲一等子爵渋沢栄一である。

  続く

光田健輔と渋沢栄一 / 絶滅隔離と資本の原始的蓄積

  ハンセン病療養所の絶滅隔離と、渋沢栄一に於ける資本の原始的蓄積過程は分かち難く表裏一体である。光田と渋沢がともに行動したのは、偶然ではない。

  勝者が全てを取り、敗者は勝者が得たものに接近する資格もない。 資本主義の構造は非対称性において成り立った。だが市民革命は身分の高い者と低い者の平等=「対称性」を求めて始まっている。

 だから西欧ではブルジョアジーが政治的主導権を握った後も、社会構造に対称性を忍ばせている。                                                    



 「明治維新」では労働者階級が出現する前に政治権力を握ったのは、身分制社会の心地よさから抜け出せない「士族」であった。明治を形成した士族たちは、自らに爵位を与えて貴族化した。そのもとで、資本主義化の「本源的蓄積」が進んだ。だから
日本の近代化は「非対称性」から逃げられない。

 これを資本論が実にわかりやすく説明している。


  「この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、原罪が神学で演ずる役割とだいたい同じようなものである。アダムがりんごをかじって、そこで人類の上に罪が落ちた。この罪の起源は、それが過去の物語として説明される。ずっと昔のあるときに、一万には勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方にはなまけもので、あらゆる持ち物を、またそれ以上を使い果たしてしまうくずどもがあった。とにかく、神学上の原罪の伝説は、われわれに、どうして人間が額に汗して食うように定められたかを語ってくれるのであるが、経済学上の原罪の物語は、どうして少しもそんなことをする必要のない人々がいるのかをあきらかにしてくれるのである。それはとにかくとして、前の話にもどれば、一方の人々は富を蓄積し、あとのほうの人々は結局自分自身の皮のほかにはなにも売れるものをもっていないということになったのである。そして、このような原罪が犯されてからは、どんなに労働してもあいかわらず自分自身よりはかにはなにも売れるものをもっていない大衆の貧窮と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大していくのである」(『資本論』「第二四章 いわゆる本源的蓄積」大月書店)


  侵略戦争で貴族=華族はすさまじく膨張。←クリック 

  「一方の人々は富を蓄積し、あとのほうの人々は結局自分自身の皮のほかにはなにも売れるものをもっていないということになったのである。そして、このような原罪が犯されてからは、どんなに労働してもあいかわらず自分自身よりはかにはなにも売れるものをもっていない大衆の貧窮と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大していく」構造は、キリスト教国にあっては疑う余地のない「原罪」=真理として語られている。対して日本では、有難い皇恩として膨れ上がったのである。


 それゆえ日本のブルジョア化は、極めつけの「非対称性」に彩られた。富を悉く手中にして「道徳」面をするには、人として生きる術のすべてを奪われた世界を形成する必要があった。

 伝染性の極めて弱いハンセン病をペスト並みの怖い病気と言いながら、光田健輔と渋沢栄一が二人して日本中を遊説して回ったのは必然のなせる技であった。患者絶滅を夢想した光田健輔と日本資本主義の本源的蓄積を強行した渋沢栄一は、まさしく「非対称性」日本の両極を象徴する双子と言うに相応しい。

 一万円札にしてはならない男である。教科書で礼賛してはならない輩である。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...