私がビリでもいいでしょう

 二年生「現代社会」の自習課題に「欲しいものを一つ書きなさい」と出した。
 悦ちゃんのこたえ
 「トビキリ美人のお姉ちゃんが欲しい。私にはお兄ちゃんがいるけど、威張って命令ばかりしている。だからお兄ちゃんはいらない。お下がりをくれたりする優しいお姉ちゃんが欲しい。でも私には弟がいる、よく考えれば弟から見れば私はお姉ちゃんだ。トビキリ美人というのは無理だけど、それ以外で優等お姉ちゃんになれるように頑張ろう」
 
悦ちゃんは成績会議の常連だった。
 「誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私がビリになってもいいでしょう」と屈託なく笑うさまは爽やかだった。頑張るという言葉が、彼女の前ではあっさりズレた響きを持つのだ。クラスの誰もが、彼女を悦ちゃんと呼んでしまうのも不思議だった。
 このこたえを、すべてのクラスで読んで一時間話した。仏教用語としての「我張る」や、無駄な動きの多いこどものナマケモノが、いかに修練して立派なナマケモノに成長するのか。お陰でナマケモノの体には、苔が生え多くの昆虫が住み着いている。一日にたった一枚の葉っぱで、生きられる。もしナマケモノが一斉に頑張り始めたら、熱帯雨林は忽ちバランスを崩してしまう・・・と。

 僕は美人とは彼女のことだと思う。素樸で何一つ付け加える必要がないが、妙な癖があった。緊張するとしゃっくりが始まるのだ。
 

小国主義 2 従属して友達はつくれない


承前
 1900年には治安警察法が成立、集会には「弁士中止!」の権限を有する警官がサーベルと目を光らせ始める。1910年には日韓併合強行、11年には朝鮮土地収用令・朝鮮教育令が出されている。日清・日露の戦争に勝った日本が、内村のことばで言う「戦争に勝って亡びる国」である事が見え始めた頃『デンマルク国の話』の講演は行われている。
 
   日清戦争に際し、愛国者を自認する内村鑑三が「日清戦争の義」など日本の立場を正当化する論を張った事は良く知られている。鑑三は、日本が世界への使命をおびている事を疑わなかった。彼は言う、
世界の日本は、その天職を認む、日本は世界の小部分なりと雖も、世界は日本なくして、その発育開明の域に達する能はず、日本は世界に対し重大な責任を負ひ、世界は将に日本に負ふ所甚だ多からんとす
 この内村鑑三の認識には現実の日本、帝国主義的欲望に理性を失った日本の姿はない。だが、戦勝に酔う日本の現実を知るうちに彼の理想は失望へと変わり、「軍人が戦勝に誇るを憤りて詠める」と題して、夫を戦争で失った寡婦の悲しみをうたった反戦詩をつくっている。 
 内村鑑三はこの時を振り返り、
明治・大正の物質的文明は日本にとり一時的現象であった。恰も人の一生に生意気時代があるが如くに、明治・大正は日本の生意気時代であった
として、日本の天職を思想に求めるようになる。
 日露戦争に際しては、社会主義者と共に孤立し、友を失ってまで非戦の立場を守ったのである。
 それゆえ、1911(明治44)年10月22日の「デンマルクの話」は、軍国主義的膨張へ向う日本へのアンチテーゼであり、小日本主義に違いない。敗戦日本に重ねあわせて高校生に話した。

 敗戦日本には復員兵だけでも500万人が狭く荒廃した国土に還流、一人当りの配給料を1500キロカロリーに制限しても1200万人の餓死を政府は覚悟していた。鉱工業生産力は戦前の12.9%にまで低下、わけても鉄鋼は1.4%に激戦している。これは、ロシア十月革命をのぞけば、史上類例がない。
 文部省の数少ない名著「あたらしい憲法のはなし」(1947年8月発行)、「戦争の放棄」の項に添えられた絵を黒板に書きながら、その説明を読んだ。
 「放棄とはすてしまうということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国より先に行ったのです。世の中に正しいことほど強いものはありません。・・・よその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです
 惜しむらくは文部省「あたらしい憲法のはなし」の図には、豊かな田園や自然、そして教育・福祉・医療がないことである。下に添えた版画は「A3BC: 反戦・反核・版画コレクティブ」にある。平和で穏やかな自然と暮らしが描かれている。
木版画「新しい戦争放棄」 A3BC
 経済原理の前に人権など無視し続けた企業と再軍備・軍拡を企て続けた政府の存在にもかかわらず、日本が、46年間も海外派兵をせず殺人を行わなかったのは、智き愚者としての九条があればこそであった。
 「ダルガスのごとき「智き愚者」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて、その国はその時たちまちにして亡びてしまうのであります。・・・デンマークとダルガスとに関する事柄は大いに軽挑浮薄の経世家を警しむべきであります

 智き愚者とは憲法九条である。つくる平和をスローガンに政策に掲げる連中が、軽挑浮薄の経世家である。

 「デンマルク国の話」がキリスト者によるものとすれば、自由主義者・石橋濯山によるものが「満州放棄論」、「小日本主義なる哉」は社会主義者幸徳秋水によるものである。さらに、井上ひさしの「吉里吉里人」、老子の小国寡民の思想がある。具体的小国として研究したいのは、都市国家ハーゼルである。

 経済大国と自認する日本が、飢えと貧困に悩む国々を救う事に疑いを挟むのは難儀である。自衛隊を出さないのなら、いかなる貢献をすべきなのかと、土俵が設定される。
 胡散臭い。第一日本は経済大国ではない。投下された労働量当たりの生産性を求めると、ノルウェーの僅か2.5分の1以下でブラジルより低い。(詳しくは、blog「データーエッセイ」http://tmaita77.blogspot.com.br/2017/10/blog-post_25.html) 一人当たりでも、香港に抜かれ韓国に追われている。その焦りが、嫌韓・嫌中の言説として浮き出ている。
 内村鑑三は現実の日本を忘れ、彼の理念中の日本の役割を論じて「義戦論」という間違いをおかした。同じように今の貢献論も現実から遊離している。
 体罰教師が生徒の勉強しないのをなげき、善意と称して校内模試や課題宿題を乱発援助しても、それに従わない者への体罰を追加するに似ている。彼は援助などする必要はない、ただ体罰を止め、生徒をリラックスさせれるのが良い。

 僕の母は複数の難病を抱えた指定患者である。ある公立病院に入院したのだが、医者は新しい療法、高額の薬や注射を次から次へと試みた。中には保険適用外の一本数万円する注射も含まれていた。病状は急速に悪化、骨と皮の容貌となり、ついに余命の短さを告げられた。切端詰まって、医学部で教える友人に相談。友人は必死に調べ、ある病院のある医師を紹介してくれた。転院に際し、僕は使用薬品等を記載した書類を要求したが不当にも拒まれ、喧嘩した。幸い母は使った薬品名を記憶していた。新しい病院に移り、時間をかけて診察検査した結果判ったのは、前の病院での薬と日常の化学製品が病状を悪化させていた事である。母は薬を徹底的に減らし食品や化粧品を見直し、食欲も顔色も急速に回復して快方に向い、30年以上を生きて旅行もした。

 病気を医者や病院がつくることがあるように、政府と企業が一体となって貧困をつくる。そんな悍ましいことは辞めよう。
 今、日本が第三世界に対してやるべきは、手を引く事である。第三世界で日本に「援助を止めよ」と訴える人々が絶えない。例えば、日本による世界最大級の政府開発援助「アサハン・プロジェクト」である。アルミ缶を生産輸出するための総合開発だが、インドネシア副大統領からさえ「まったくの損害だった」と非難されている。アマゾン川流域には世界最大級のトゥクルイ・ダムを建設、発電・アルミ精錬して日本へ輸出。6千世帯の先住民が立ち退きを強いられ難民化、抗議行動が起きた。何れも、日本では成功例として賞賛されることがある。報道がなさすぎる。
 援助の名の下に伝統的生産を破壊し搾取し尽くす、具体的悪をなす日本経済である。ただ飢えや貧しさに苦しむ人がいるのではない。日本の経済侵略に生活の糧を奪われて、苦しむ人々がいて、権力とつるむ極少数が巨万の不労所得を得るのである。
 やってはならない事をまず止めねばならぬ。やってしまった事は誠実に認め自己批判し、詫び、補償しなければならない。任侠を気取って暴力団が貢献を口にすれば、人は疑い嫌うのである。
 日本の公的年金積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人は、世界の軍事企業上位百社中三十四社の株式を保有支援している。国民が支払う年金保険料のうち約1兆3374億円が、世界の大量殺人兵器製造を支えている。恥ずべき行為である。

追記 文部省が自信に満ちて言い切った「よその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、・・・さかえてゆけるのです」、この方針は、サンフランシスコ講和条約(1951年9月)によって裏切られる。戦争をしたすべての国と講和交渉して、平和条約を結び「世界中の国が、よい友だちになってくれる」全面講和の機会を自ら捨てて、属国となる選択をしたのである。北朝鮮問題は、少なくともここまで遡らねばならない。
 「世界中の国が、よい友だちに」も「貴きものは国民の精神であります」も、幾多の国際的経済的苦難に直面して自力で乗り越えた小国キューバが実現している。コスタリカもキューバに学んで、軍備を棄て教育予算に組かえたのである。これらの国と日本との違いは、「独立」である。戦前戦中我国は、アジア諸国の独立を弄び蹂躙したが、戦後は自らの独立を棄てている。

小国主義 1 内村鑑三『デンマルク国の話』抄


 「デンマークは欧州北部の一小邦、九州の一島に当らない国であります。人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。 しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。ある人のいいまするに、デンマーク人は世界のなかでもっとも富んだる民であるだろうとのことであります。実に驚くべきことではありませんか。

外に失いしものを内においてとり返すを得べし
 しからばデンマーク人はどうしてこの富を得たかと問いまするに、それは彼らが国外に多くの領地をもっているからではありません、けっして富饒の地と称すべきではないのであります。国に一鉱山あるでなく、大港湾の万国の船舶を惹くものがあるのではありません。デンマークの富は主としてその土地にあるのであります、その牧場とその家畜と、その樅と白樺との森林と、その沿海の漁業とにおいてあるのであります。ことにその誇りとするところはその乳産であります、そのバターとチーズとであります。デンマークは実に牛乳をもって立つ国であるということができます。
 しかるに今を去る四十年前のデンマークはもっとも憐れなる国でありました。一八六四年にドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、敗れてふたたび起つ能わざるにいたりました。敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二国に南部最良の二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。デンマークはこれがために窮困の極に達しました。国民の精力はかかるときに試めさるるのであります。戦いは敗れ、国は削られ、国民の意気鎖沈しなにごとにも手のつかざるときに、かかるときに国民の真の価値は判明するのであります。戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます、国威宣揚にともなう事業の発展はどんなつまらない実業家にもできます、難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退のときにおける事業の発展であります。戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります、
 デンマーク人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。ここに彼らのなかに一人の工兵士官がありました。ダルガス、齢は今三十六歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を架し、道路を築き、溝を掘るの際、彼は細かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランド(Jutland)の荒漠を化してこれを沃饒の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼の同僚はいいました。「まことにしかり」とダルガスは答えました。「しかしながらわれらは外に失いしところのものを内において取り返すを得べし、君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇の花咲くところとなすを得べし」と彼は続いて答えました。 
 他人の失望するときに彼は失望しませんでした。彼は彼の国人が剣をもって失ったものを鋤をもって取り返さんとしました。今や敵国に対して復讐戦を計画するにあらず、鋤と鍬とをもって残る領土の曠漠と闘い、これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました。まことにクリスチャンらしき計画ではありませんか。真正の平和主義者はかかる計画に出でなければなりません。  今より八百年前の昔にはそこに繁茂せる良き林がありました。しかして降って今より二百年前まではところどころに樫の林を見ることができました。しかるに文明の進むと同時に人の欲心はますます増進し、彼らは土地より取るに急にしてこれに酬ゆるに緩でありましたゆえに、地は時を追うてますます瘠せ衰え、ついに四十年前の憐むべき状態に立ちいたったのであります。 緑は希望の色であります。ダルガスの希望、デンマークの希望、その民二百五十万の希望は実際に現われました。  彼の長男をフレデリック・ダルガスといいました。彼は父の質を受けて善き植物学者でありました。   しかし植林の効果は単に木材の収穫に止まりません。その善き感化を蒙りたるものはユトランドの気候であります。
 ユトランドの全州は一変しました。廃りし市邑はふたたび起りました。新たに町村は設けられました。地価は非常に騰貴しました、あるところにおいては四十年前の百五十倍に達しました。道路と鉄道とは縦横に築かれました。わが四国全島にさらに一千方マイルを加えたるユトランドは復活しました、戦争によって失いしシュレスウィヒとホルスタインとは今日すでに償われてなお余りあるとのことであります。 しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります。
 今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、私どもに何を教えますか。 第一に戦敗かならずしも不幸にあらざることを教えます。国は戦争に負けても亡びません。実に戦争に勝って亡びた国は歴史上けっして尠くないのであります。国の興亡は戦争の勝敗によりません、 国にもしかかる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。 私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスとにかんする事柄は大いに軽佻浮薄の経世家を警むべきであります」


  内村鑑三の『デンマルク国の話』の信仰に関する記述を取り去ってみた。かえってダルガス親子の精神が前面に出て、深く共感できる。
 内村はこの講演で、一言たりとも日本についてふれていない。この講演は1911年、すでに治安警察法が成立、会場には警官が臨席していた。政府を批判することは、とうに出来なかったのである。デンマークに言寄せて、日本について語らねばならなかった。
 彼にはかつて「日清戦争の義」を書いた苦い経験があり、それがこの講演をなさしめている。 つづく

『すばらしい新世界』

この小学校校門脇の看板には、
「希望の登校 満足の下校」とある
 朗らかで従順な反人間的地獄の独裁体制が、いかにして可能か。オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932年)はそれを描いている。
 「新世界人」は社会的役割に応じて、予めアルファからイブシロンまでの階級に分けられ、それに相応しい体と頭脳を持つよう保育ビンの中で育てられる。
 「アルファの子供たちは、鼠色の服を着ている。彼らはひどく利口なので、猛烈に勉強する。自分はベータに生まれてとてもよかった。だってそれほど勉強せずにすむのだから、・・・ガンマは馬鹿だ。彼らは緑の服を着ている。そしてデルタの子供たちはカーキ色の服を着ている。ああ、いやだ、デルタの子供たちとなんかは遊びたくない。それにイブシロンときたらもっとひどい・・・

そう考えるように、睡眠学習が繰り返される。

 こうして、如何なる労働・境遇にも満足し、不安も疑問も持たない痴者の秩序整然たる世界が形成維持される。
 選別・支配される側が、選別・差別の論理を自らの内面に取り込んでしまう支配者の桃源郷。いかに狂暴な体制もそれをなし得ぬがゆえに破綻してきた。

 かつては高校三原則を支持し、選別の現状に怒り机を蹴飛ばしていた高校生は、選別による差別・格差を「気楽・安心・・・」「ばかだから仕方ない」と肯定しはじめた。十数年前のことだ(これを書いたのが1998年だから、つまり1980年代終わり頃)。教員までが「ここが俺には丁度いい。難しい指導はもう無理だし、・・・」などと言い出す始末。憤慨に耐えないのは、古い進学校では生徒の自主性・自由をよしとしていた教員が、〝困難校″に転ずるやスタンスを変え、「こいつらに自由は無理」と口走り、管理取締りに邁進する姿だ。アルファはアルファなりに、デルタはデルタなりに・・・というわけだ。
 「素晴らしい新世界」では、人々が状況に疑問や怒りを感じる前に、薬や娯楽によって心は常に満足感に包まれるよう仕組まれている。愚民化はソフトに親切づらして系統的に押し寄せる。
 今、静かに大胆に、新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)による総動員体制が根を張り始めている。                          1998夏
                                             
追記 ハックスリーの警句が、取り越し苦労だったと一笑に付されるのではなく、現実が物語を先回りする悪夢。政府の福祉や教育に対する目標は、いつも努力目標という怠惰で片づいてしまう。賃金や労働時間改善が期待を上回って達成され、追加されることなど想像も出来ない。Sports Sex Screenの3Sは、国民の愚民化には大いに成功したのである。ここで言うsportsはするものではなく、観るものとしてのsportsである。だから日本のsports playerは差別や不正に抗議する主体として現れることがない。常に、消費の対象だからである。                             
  99年6月、新ガイドラインを実行するため、周辺事態安全確保法等三法を強行採決。戦後はじめての本格的な海外派兵法である。専守防衛の軍隊だった自衛隊が、自衛と関係のない「周辺事態」に「後方支援」することになった。「周辺」とは地理的な概念ではないと強弁、論理的な限定はない。武力の行使はしないと言いながら、武器の使用を認めたのである。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...