生まれ変わったら鉛管工になりたい |
あるとき年上の従兄弟に、中学校を出ると高校がありその先には大学があると聞いた。そしてその中で一番は東大だと。みんな喜ぶと思い、うちに帰るやいなや「ばあちゃん、僕東大に行くよ」と言った。だが誰も全く喜ばなかった。このとき祖父は既に亡く、父は東京に、母は療養所にいて、うちの中には祖母と戦争で家族すべてを失った祖母の姉と妹がいた。つまり三人の婆さんがいた。
三人とも声をそろえるように、「そんなこたせんでんよか」と慌てた。そして「今のままが一番よか」と言うのだった。
「今のままがよか」の意味が分かったのはだいぶ後のことだ。
薩摩は大藩だった。島津領内各地に出城を配し、士は藩の都合で藩内各地或いは江戸や大坂に、場合よっては琉球に転勤を命じられた。一族はバラバラにされる。転勤ばかりではない。子どもが利発であれば、江戸表や鹿児島に召される。娘が美人ならば御殿奉公を命じられる。形の上では誉れであっても、もはや生きて会うことは諦めねばならない。これが堪らなく嫌なことだった、その記憶を僕の祖母たちも引き継いでいた。戦争で身内の殆どを失った婆さんたちにとって、いかなる形にせよ別れは容赦出来なかった。
祖母たちは、明治生まれであったが、戦争を経て富国強兵のイデオロギーから自由になっていた。
それだけでは無い、うちには他のうちにはある物、天皇の写真と勲章や軍帽軍刀などが無かった。祖父が僕に残したのはバイオリンと手回し蓄音機とLPの「第九」だった。
祖父が上海から娘たちに宛てた水墨画の葉書がとってあった。路上の饅頭売りや苦力の働く様子を色付きで描いたもので、「美味しそうだが、軍医に厳しく止められいるので我慢しています」と湯気の立ち上るようすが描かれていた。兵隊や軍艦を描いたものは無かった。残念なことに火事で焼けてしまった。
祖父は貧しい芋侍の末っ子だったから、年齢に達するとすぐに水兵に志願した。空腹に悩まされながらたたき上げて士官になり、選ばれて弾道学を兵学校で教えた。だから計算尺の操作は見事で、根っから数学が得意だった。それは江戸時代から築堤や石橋の設計・施工・管理で代々培ったものであった。
町役場で町史を編纂していた叔父が妙なことを耳打ちした事がある。僕が中学生になり夏休みに帰省した時の事だ。 「おまえの祖父さんは、どうも大変な事をしたようだよ。海軍を辞めるとき一悶着あったらしい」
このことを思い出すようになったのは、叔父が他界してからだ。聞きたいときにはその人がいないものなのだ。
伝え聞いた佐世保での海軍士官としての祖父たちの生活は優雅に思えた。当番兵が付き毎朝車が官舎迎えに来る。
その頃の家族写真を見ると、どこかの奥様とお嬢様のようである、僕の一族が最も豊かに暮らしていた頃かもしれない。祖父はバイオリンを英国皇太子の即位記念式典に参加する航海で手に入れている。祖父はバイオリンと三味線を、祖母は三味線と踊りを習っていた。絵や書にも時間を割いた。釣りや畑仕事も達者だった。定期的に階級が上がるれば収入は倍になった。将校になればこんな極楽があった。
だが突然辞めている。祖父は砲兵士官だから陸戦には加わってはいない。いわば傍観者でもある、それ故「日本人僧侶襲撃事件」の真相を知っていたのかもしれない。(托鉢修行中の僧と信徒数人が襲撃された事件。上海市長が謝罪謝罪したが、当時の上海公使館附陸軍武官が「自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた」と1956年になって証言している。列国の注意をそらすために板垣征四郎大佐に依頼されたものであった)少し離れて冷静になれば真相がよく見える。
祖父は退役後故郷の旧制中学で教えたが、軍国主義的怒声が横行する中にあって決して殴らない穏やかな教師であったと教えを受けた人たちは口を揃えた。
(祖父がどこにいても、殴らずひたすら話を聞いたのには訳がある。祖父の二代前まで、代々薩摩藩下僚として、石組みの堤や橋などの設計・計算から施工までを職務としていた。中で神経を使ったのは、工事人夫たちの掌握である。荒くれ者たちには度々揉め事が起きる。その仲裁をしなければならない、うまく行かねば工期はのび工費は嵩む。仲裁で肝要なのは裁きをつける事ではない。いかに双方の顔を立て、工事を円滑に進めるかである。ひたすら双方の気が収まるまで話を聞く。時間も酒や料理も欠かせなかった筈だ。幕藩体制が崩壊した後は権限も手当もなくなった。それでも彼らには様々な揉め事が持ち込まれるから、話を聞く気質は受け継がれた。軍人になっても教師になってもそれは変わりようがない。
大叔母にも、親子間など身近な揉め事が持ち込まれるのを小学生の僕は何度か見た。説教されに来たと近所の人たちは言っていた。僕は説教されたのに笑顔になってお礼を言っ帰るのが不思議であった。)
うちでは誰も軍歌を歌わなかったのそのためだし、パチンコ屋などで軍艦マーチが流れると、祖母たちは耳を押さえて「好かんがー」と走り抜けるのであった。海軍時代の部下がやって来る事も滅多に無かった。
兵学校生、兵学校出の将校、更に海軍大学出の将軍たちの傲慢な愚かさに、祖父は呆れ国の危険を感じたのだと思う。大叔母の口癖「馬鹿の考え休むに似たり」は祖父の哲学でもあったに違いない。
だから軍人らしさのない祖父であった。晴れれば天秤棒に大きな笊を二つ下げ、前には鍬や小さな火鉢を、後ろには孫を乗せ、シラス段丘の絶壁を登った。祖母は右手にヤカンを左手で笊の紐を握った。作業が一段落すれば、畦の茶葉を煮出したお茶で昼ご飯だった。雨が降れば、僕や妹の遊具を造った。祖母は野菜を加工して毎日お菓子作りに精をを出し。祖父母にとってあるべき幸福はそういうものであったのだと思う。父が仕事で成功を収める事は、喜びと言うより気懸かりな事であった。
戦争の廃棄で漸く可能になった世界である。成功や出世は歓迎すべき事ではなかった。祖父は僕がバイオリンを顎に挟めるようになれば、畑で弾き方を教えるのを楽しみにしていたが死んでしまった。
なまじの成績に釣られて欲に負ければ、そこには親族や近隣関係を解体する予想の出来ない力が加わる。アインシュタインが「生れ変わったら鉛管工になりたい」と言ったのは、ひとは誰であれ名をなせばなしただけ政治的な圧力から自由ではあり得ないからである。