資源涸渇は人類最善のチャンス

 「科学は私たちに内燃機関を与えました。私たちが恐ろしいばかりの骨折りによってそれを消化し、社会機構に同化させる暇もないうちに、原子力の工業化を実現して、生まれそうに見えていた新しい秩序を全滅させてしまいました。 
 人類が絶えず環境を変えているのでは、どうして環境と調和することができましょうか。この方面における人類の未来は、私たちがとても認められないほど不快なものであって、人類の最善のチャンスは無気力、無創造、無感覚にある、と私が考えることも時どきあります。 
 あちこちの宗教団体で現在熱心に提唱されている「心の改革」を促進するのは、全世界の資源涸渇かもしれません。全世界の資源涸渇は確かに未曾有の新体験ですからね。人類はいまだかつてこれを体験したことがありませんがそれでもまだ自信満々で、それが間もなくやって来て、結果として衰亡から新しい芽生えをもたらすかもしれぬなんぞとは認めたがらないのです」    フォスター 『芸術のための芸術』


  内燃機関による自動車事故の死者は、地球上で年間100万人。国内で事故死が減ったことばかりを報道するが、毎年100万の死者について知ろうとはしない。何故ならその1/10はトヨタによるものだからである。世界の車の一割をトヨタが占めている。その程度の被害は、便利さや利益と引き換えで受忍すべきという暴論さえある。
 原爆と水爆による直接の死者でさえ耐えがたいのに、核発電事故の後始末の見通しさえ立てられないばかりか、そのゴミさえ処理できないでいる。


 彼がニューヨークで『芸術のための芸術』を講演したのは、1949年である。 もしフォスターが、1990年代まで生きたなら、この一節の趣は、徹底時に変わっていただろうと、半分思うのである。


  1990年代初頭のキューバは、ソビエト崩壊でエネルギー、肥料の輸入は停止。アメリカの経済封鎖も加わり、「餓死者が出るのではないか」と言われる程の危機を迎えた。輸入は以前の21%、つまり五分の一。閣僚も自転車通勤。発電の40%は生物由来の廃棄物を利用したバイオマス発電化。農業は化学肥料に頼らない「小規模有機農業」に転換。その結果農業自給率は飛躍的に上がり、今や有機農業先進国でもある。
 この精神は、災害対策や老齢化対策にも生かされ、2005年のハリケーン・カトリーナは、アメリカ南部諸州に空前の打撃を与え、死者1,836人行方不明者705人を出したが。キューバでは10年間で16回もの大型ハリケーンが襲来したにもかかわらず、死者はわずか30人。
今、キューバにはアフリカに医科大学を建設する計画がある
  そればかりではない。 1963年以来、キューバは、第三世界へ医師団や教員・技術者を派遣していた。経済危機以前には、キューバ一国で国連機関全体をあわせたよりも多くの支援団を送りこみ、「最大の平和部隊」と評された。とりわけ医師団は、中米やアフリカを中心に99年までに述べ2万人を送り出してきた。完全なボランティアである。98年にハリケーンがカリブ諸国を襲った際にも、300名を越す医師団を送り最後まで現地に踏みとどまり高い評価を受けた。
 その後、キューバ内では「現地に医師団を送って支援するだけでは不十分で、それぞれの国が自前の医師団を確保し、自力で治療活動を行えるようにしなければ」という見解に達した。その結果、99年には海軍基地を潰し「ラテン・アメリカ医科大学」を設立。貧しい国々からの留学生を毎年500人以上受け入れている。学費、生活費等はキューバ持ち、学生達は厚生施設を備えた学舎の中で生活する。卒業生は、出身集落で恵まれない人々の治療活動に献身する使命を持つことが求められる。更に今、キューバにはアフリカに医科大学を建設する計画がある。
  
  半分と言ったのは、米国のの帝国主義的膨張が始まったからである。資源の枯渇をキューバのように冷徹にとらえる賢明さを、世界の大部分が持ったとしても、帝国主義的アメリカは与しないだろう。地球温暖化対策にも、自国民の利益を掲げて明確に反対した。他のすべての国が滅亡の際にあっても、世界の資源独占を画策しかねない。キリスト教原理主義の充満する国らしい不遜な選択である。
 そうフォスターは、冷徹に読むだろう。そのアメリカに最後まで追随する日本を、彼はかつて『反ナチス放送講演三篇』でドイツを罵った以上に、日本を罵倒することは確かだと思う。
 何故なら、 敗戦日本には復員兵だけでも500万人が、狭く荒廃した国土に還流、一人当りの配給量を1500キロカロリーに制限しても1200万人の餓死を覚悟しなければならなかった。鉱工業生産力は戦前の12.9%にまで低下、わけても鉄鋼は1.4%に激減している。これは、ロシア十月革命時をのぞけば、史上類例がない。
 その資源の事実上の涸渇を、絶好の機会として生かすことがと出来なかったのである。自立した経済政策も外交方針もない、従属国家となり、再び隣国で起きた戦争で潤ってしまったからである。千載一遇の逆境を、冷徹にとらえる賢明さが属国にあろうはずがない。


追記   ラテン・アメリカ・医科大学の3年生から6年生を訓練する医学専門課程をサルバドル・アジェンデ医科大学と名付けている。人口当たりの医者の数ではキューバは世界第2位(永く第一位であったが、石油産出国カタールが現在第一位、ただし自前の医学部はない、米大学の分校である)。日本の医師数はは55位、医師の過労死が報道を賑わす水準である。


高給を貪る方便としての飽食



タイの女工さんたちは毎日昼飯にデザートを食う
高畠通敏 ・・・例えば私がタイで学生たちと一緒に毎日屋台の飯を食いながら議論し見て歩く。タイの女工さんたちは毎日昼飯にデザートを食うということを発見する。そのデザートは屋台でラーメンやチャーハン食って、帰りに屋台で日本流に言えば十五円ぐらい払って、砂糖キビやパパイヤ、マンゴーの切ったやつとか、いろんな果物を新聞紙でつくったものに入れて、食べながら帰ってくる。そういう意味で日本の学生などよりはずっと裕福な暮らしをしているという体験談を、飛行機で隣り合わせに坐った日本人に話したら、彼は怒りだした。 それは商社の人だったんだが、彼の説は、あなたたち学者は無責任だからそういう暮らしをタイの人と一緒にできるという。だけど、私たちがそういうことをやったら最後、東南アジアで商社を経営していく根拠が失われるというんだ。日本人が昼飯を食うというのは、ホテルや日本レストランで一回食うのに何千円もかかる。そういう暮らしのスタイルを見せつけておかなければ、現地人を低賃金でつかいわれわれが高給を取るという説明ができない、と。

鶴見俊輔 なるほど。それを証明するために食っているわけだ。それで早死に、胃ガンになったりして(笑)。

高畠 ところが東南アジアにくる日本人ときたら、現地で雇うタイ人より一般的にいえば無能なんだ。現地で雇う社員というのは、日本流に言えばタイの東大や慶応を出たトップエリートが外資系企業にあこがれてやってくる。女の子でも名門の出で、自家用車に運動手つきでやってくるのがいっぱいいる。英語はベラベラだし、事務能力もある。労働者を掌握しているのも彼らだ。ところが大衆化された大学を出て、欧米ではなくアジアの現地に配属された日本人社員は、英語はできない、事務能力もないで、たちまち軽蔑されてしまう。だから、かつてのイギリス人やフランス人の紘民地支配のように、能力においても支配者たることを証明できない。その意味で、日本人がアジア人としてもともとタイ人と同じように暮らしができるんだということを見せつけられたら困るというんだ。人種の違いや質的な優越という観念の上に居坐っていた欧米人はアジアのカルチャーに興味を示す余裕があったのかもしれないが、生活様式の差別の上で辛うじて支配を維持している今日の日本の外交官、ジャーナリスト、商社員たちが東南アジアの国のカルチャーに共感を持って深入りするということは普通にはありえないんですよ。    『日本人の世界地図』岩波書店p136

  成程、アジアの優秀な若者が、日本に留学しないわけである。アーネスト・サトウやハーバート・ノーマン、サー・ジョージ・ベイリー・サンソムなどは外交官として日本に赴任、日本語にも熟達して日本を研究、学者として大きな功績を残している。
 対するに、東南アジアに赴任する日本外交官は欧米に赴任した同僚を羨むばかり。仲間と商社員内の付き合いに終始して、現地の文化に興味を寄せて調査研究に励むことはない。その横柄軽薄な生活が、現地の若者からどう見られているのかという視座がない。外交官や商社員として最も大切な任務を自ら放棄している。だから大使館地下に温水プールやワイン貯蔵庫をつくる。ただ単に、身分において優位に立てば尊敬されていると思い込んでいる。高級レストランでの高額飲食に意義を見出す始末。
 この構図は日本社会に構造的に普遍化している。労働者を低賃金・低労働条件でこき使い、経営層と株主が高収入を取るという説明のために使われるのは、プロスポーツ選手や芸能人の年収の高さである。
 電車の中でも焼き鳥屋でも、薄汚れた作業着姿の男たちが「○○の年俸十億円は安いよ」などと批評して得意になる。「結果出しているからね」と相槌を打つのである。大企業の経営層も、リストラと政権との癒着で株価と言う「結果」を出しているから、格差は当然という雰囲気づくりに大きな貢献をするのである。オリンピックが、福祉や医療関係予算を大幅に抑えて強行されるわけである。
  そのために、スポーツ選手と芸能人だらけのバカ騒ぎの番組が、電通の肝いりでつくられ、貧乏人はそれを有難く拝見する仕組みになっている。
  格差好きは、平等や福祉は有能な者のやる気を削ぐという。そんな者たちを有能というのは間違っている、欲張り・守銭奴・金の亡者いくらでも相応しい言葉がある。ぜひやる気を失い、退場して欲しいものだ。格差がないから、やる気の出る有能もあるのだ。

追記 フィリピンに、「日本軍よりあとにきたアメリカ軍はなおさら悪かった。マッカーサーは自分の体面や私利に働かされている。偉大なる動機などというものを何も信じない。 それにもかかわらず、フィリピン人が日本軍から離れてアメリカ軍に協力したのはなぜか。それは日本軍の個人個人に比べて、アメリカ軍の個人個人のほうが相対的にいって、文化の質が良かったからだ、という。指導者とか理念とかいうものは信じない。しかし人間個人のシビリティ、文明というものは信じるという視点ですね」                            『日本人の世界地図』岩波書店p201

考える主体

  自分で考えろと言われて当惑することはある。調べることも批判することもせず「考え」たつもりになって意地を張ることもある。
 「地球温暖化対策なんて簡単じゃないか、クーラーを世界中に付ければいいじゃないか」と言い張る生徒がいた。級友達が、あきれ果てて反論しても「これが俺の意見、意見は自由だろう」と討議には応じない。言いっ放しで平然としている。
  僕は官房長官の記者会見を聞くたびに、彼を思い出すのである。何を突き付けられても「問題ない」と討議を遮る、打ち切る。この言葉はデーター偽造した業界トップの口癖にまでなっている。
 ・・「品質に、強度に問題はない」・・・。 それをリーダー性や自信の表れと勘違いして、カッコいいと賛美する者もいる。無知も極まった。彼らは、考えて自らの過ちが露呈することを恐れている。

 考えるには、先ず本人が主体として自立しなければならない。従属した者に批判的思考は望めない。ただのお喋りに過ぎない。考え伝える技術としての論理、考えるべき対象への認識も欠かせない。
 実は教師だって「自分」で考える者は少ない、彼等は立場という偏見に従属している。それゆえ「他己」がない。相手の立場に立つのは容易いことではない。相手への理解と柔軟かつ大胆な想像力を要するからである。
 想像力に於いて、教員は大きく高校生に劣っている。自分さえやれないことを生徒に求める。その根底にあるのは、奇妙な怠惰である。
 「五体投地とマニ車」は一見奇妙な矛盾。一体彼等は熱心なのか怠け者なのか、と僕は中学生の頃考えた。数年を費やして五体投地しながら、カイラスを目指す。しかし他方マニ車を回して、或いはお経を印刷した布をはためかせてお経を読んだことにするタルチョ。
 生徒も教員も朝から晩まで日曜も正月もクラブと分掌の雑務に心血を注ぐ。しかし、授業は古いノートや指導書で済ませる。生徒はそれを居眠りと暗記とカンニングでやり過ごす。考えない、よく言えば無我の境地、ということでは五体投地やタルチョと同質である。だが、カイラスを目指して黙々と五体投地する姿も、人里を遠く離れた峠に烈風を受けてはためくタルチョも、我々の饒舌を封じるものがある。しかし黄色くなった講義ノートと居眠りを、風格とは言えない。

 「恋人や家族を守る・国体に殉ずる」と絶叫して出陣。現地では強姦・略奪・虐殺・・・に明け暮れ、ついには大本営にさえ見捨てられ餓死した日本軍兵士。同じ構造は企業にも官僚組織にも大学にもある。宗教団体や政党さえその例外ではない。我々は、現象に陶酔し感動はする。だが、その実態や本質に迫ることをしない。無暗に考えることは「危険」な行為と刷り込まれている。

 人間は、日常の「閑」においてのみ思考出来る。 フィンランドの高校の午後、教師達は談話室に集う。会議の為ではない、ただお茶を飲むために。ハーバードやケンブリッジでも午後は研究者達がお茶に集まり、専攻を超えての会話の中から世界的発見や論考が芽生えるそうだ。生徒たちは構内のあちこちに散って、弦楽四重奏など室内楽を楽しむ。だからいざという時、デモが出来るのである。僕が教師に成り立ての1970年代はじめの職員室には、その雰囲気はかろうじて残っていた。自由なお喋り、目的のない会話が「寛容」の精神を揺籃するのである。

民主主義と階級意識に「万歳二唱半」

 「イギリスからは、・・・預言者が輩出してはいないのである。それどころか、一人のジャンヌ・ダルク、一人のサヴォナローラさえ出てはいない。聖人も同様である。ドイツの宗教改革の引き金になったのは、ルターの情熱的信仰だった。イギリスでのそれは宮廷内の陰謀だった。イギリス人には一定の水準の信仰心、自らの知性によって道徳的な人生を送ろうという決意はあるものの、せいぜいそこまでなのである。 まあ、それでもないよりはいい。おかげで、非精神的な国民だとは言われずにすむのだから。精神的な東洋対物質的な西洋という浅薄な対比は、誇張になりかねない。西洋もまた精神的なのである。 ただ、信仰を断食とか幻想、預言者的陶酔などによって表現はせず、日常生活、つまり平凡な仕事によって表現するのである。不完全な表現ではあるかもしれない。われわれもそう思う。だが、このとりとめのない覚え書きの前提は、イギリス人は不完全な人間だということである。冷たい人間だとか非精神的な人間だとか言っているのではない。ただ未発達の、不完全な人間なのである」   フォスター『イギリス国民性覚え書き』


英国産別労組連合組織研究機関の
「ベヴァリッジ報告」分析
  思うに、だから英国民はベヴァリッジ報告を完成させ「ゆりかごから墓場まで」を実現できた。第二次大戦の英雄チャーチルと彼の率いる保守党を、政権の座から引きずりおろし、しかし保守党の始めたベヴァリッジ報告は引き継いだのである。保守党が圧勝するとの世論調査を打ち破ったのは、長い大戦を耐える階級意識である。戦時の資本家階級の遣り口に我慢に我慢を重ねる労働者階級は、「日常生活、つまり平凡な仕事によって表現する」政治を要求した。チャーチルは対ナチス戦争の指導者ではあっても、日常生活は任せられないいう判断である。
 勝利したとはいうものの、戦後の困難の中にあって「ゆりかごから墓場まで」を実現したのは「断食とか幻想、預言者的陶酔などに」幻惑されない冷徹な、イギリス国民性である。
 まさに、「民主主義に万歳二唱」そして、民主主義と階級意識に万歳二唱半と言いたい。

  翻って現今の日本である。期待値に過ぎない水脹れメダル数とcool japan的手前みそに過剰陶酔して、判断力は麻痺痙攣している。何十年経っても解消できない通勤ラッシュは、益々遠距離化する。にもかかわらず日常生活では乗りもしない「夢の新幹線」や夢のリニア新幹線に陶酔する。日本の労働者階級だけが賃金を下げられても株価に浮かれ、原発事故の処理は何一つできず汚染は拡大する。にも拘わらず数百億円・数千億円の役立つ筈のない武器を他国の数倍の値段で売りつけられて喜ぶ神経の政権。長生きすれば閣僚が「何時まで生きるんだ」と恫喝しても主権者は彼を追放できずに、階級意識は衰弱するばかり。

  フォスターは1940年9月26日の『反ナチス放送講演三篇』で警告を発している。
「・・・読み、聴き、見る自由が必要です。芸術家が発信するものを、大衆が受け取ることを禁じられたら、芸術家同様大衆も抑圧されます。もっとも大衆の場合、芸術家とは違った悪影響を受けます。つまり、未成熟のままに留まるのです。未成熟こそが、ナチス・ドイツの一般大衆の顕著な特徴です。敵の写真を眺めると皆さんは、有能で、勇敢で、恐ろしく、英雄的ですらある、という印象を受けるかもしれません。しかし、大人の印象を受けますまい。彼らは聴き、読み、見ることを許された経験を持たないのです。自由を実行することを許された経験を持つ者だけが、その日の中に大人の色を持つことができるのです」

 この演説の「芸術家」をマスコミや教師に置き換えて読まねばなるまい。
 若者も国民も、「未成熟のままに留」められ、そして、なんでも日本が一番の番組に煽られてのぼせ上った幼稚な顔をしている。「聴き、読み、見ることを許され」た限りの報道後進国日本の有様を知ろうともしない「自由を実行することを許された経験を持」たないことに怒りも不満も持てない。
 「未成熟こそが、ナチス・ドイツの一般大衆の顕著な特徴」であったことに、僕らは僕らの現在を重ねて、警句とする必要がある。 カッコいい幼稚さに彩られた部活や行事、硬い幼稚さに封じ込められ批判精神を禁じられた主権者教育。それらが目指すのは、操作しやすい大衆である。目指しているのではなく、おおよそ実現しているというべきか。
 幻想や「陶酔などによって」ではなく「平凡な仕事によって表現する」生き方を獲得したいものだ。『平凡な自由』というタイトルの含意はそこにある。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...