自分に克つって、どういうこと

  部活の好きな言葉「自己との闘い」とは何か。教育業界共通の慣用語である。
 一銭もかからないように見えるから、我慢させられる側のまじないにもなっている。

 元来、自己はその対概念である社会や文化や他者、つまり自己を超えた非自己とのかかわりのなかでしか捉えられない。自己そのものは本質的に不可知なのだ。不可知なものと闘うことは出来ない。枯れススキや古びた鏡に写るおぼろげな虚像を相手に蛮勇を振るうようなものだ。
 従って枯れススキや鏡像を敢えて実態と強弁して、自己と闘うには、実態としての対概念そのものを排除する、つまり邪念をはらうしかない。
 スポーツ選手、受験生、企業戦士、修行者、侵略戦争兵士を統率指導する立場にある者が、対象者を実社会から隔離するトリックである。ひたすら集団の虚妄に集中させる。交友・休息・学習・恋愛や原発、辺野古、貧困・社会問題を一括して、誘惑と言いくるめ眼を逸らすようにし向ける。
 しかる後に、もっと目立ちもっと儲けたいもっと殺したいという集団の虚妄に負けさせる。欲望に負けさせることを自己に「かつ」と言い換えるのである。何かを成し遂げた気分にさせる。そして自分にご褒美と言うのである、欲望に負けている。

 青少年が社会や文化から眼を逸らすことが健全であるかのような錯覚を与える言葉なのだ。若者が視野を広げ文化的に豊かになることが、企業の利益やチームの勝利、国家の侵略行為とは相容れないことを白状している。

 自己と闘うことを疑う、それが青少年の自覚的成長の始まりとなるだろう。自己を管理統制する集団からの自立だからである。
  自己との闘いを生徒や部下に強要する者たちが、体罰という誘惑に負けたがることからも、この言葉のインチキ性は見えるはずなのだ。見えないのは枯れススキに自己を見ているからである。大切なのは欲望に勝ち負けすることではなく、欲望から自由になることである。県毎のオリンピックメダル数にはこだわらないのに、国毎のそれに熱くなるのは我々が何時までも枯れススキを相手にしているからである。

 身近にオリンピック強化合宿に参加した人間がいる。

  「先日、卒業して二十数年ぶりに、私立中学、同高校水泳部の同窓会に出席し、懐かしい写真などを持ち寄り、時を過ごしました。
 私が、本格的に競泳選手として練習を始めたのは、中二になってからですが、中三の頃には全国中学校選手権大会、国民体育大会などと、試合の場は広がっていきました。「休めば体力が低下する」「己に克て」「雑念を持つな」と、常に全力を向けるよう、スポーツ選手特有の指導をされてきました。
 冬は、主に陸上トレーニングと室内プールへ通い、大学のスポーツ生理学教室へ体力測定に行き、より効果的にと秒単位にさまざまに工夫して組み立てられたトレーニングがほとんど休むことなく続けられました。
 夏は、四月下旬から屋外プールで練習が始まり、試合に合わせて一学期の期末テスト前から合宿生活に入り、そのまま二学期の中旬まで強化練習や遠征が続けられました。
 私は、よくプールの入り口にくると腹痛が起こり、歯をくいしぼりながら練習をしたこともありました。
 そんな、すべてが水泳中心の時期を一緒に過ごした者たちが久し振りに集まり、こんな話が出ました。
 「一日八〇〇〇メートルも一万メートルもプールで練習していたのに、海へ遊びに行っても、なんだか怖くて、どうやって泳いでいいのかわからないのよねー」
 「ターンするところもないしね」
 「いまだにプールへ遊びに行っても、隣に人が泳いでいると、つい負けまいとがんばってしまうので楽しくないのよねー」(K)」                           『平凡な自由』大月書店

 Kさんは小学生の頃、肉を食べることができず、同級生から栄養失調とからかわれるほど痩せこけていた。それが、水泳大会のTV中継でインタビューを受けるほど丈夫になったのだ。
 インタビュアーに何が望みかと問われて、思わず「もっと大きくなりたい」と答えてしまったそうだ。だから、いまもからだは小さい。
 文中の「雑念を持つな」とは要するに、「男女交際をするな」ということだが、何の疑いも持たずデートの誘いから逃げまわったというからもったいない話だ。スポーツ選手は頭が弱いと言われるのがイヤで、毎年優等賞をものにして「己に克」った。
 運動部の教師は無茶を言う。「休めば体力は下がる」なんて非科学的なことを。まったく世界の常識からズレている。
 ともあれ、僕などは話だけで息切れしそうな鍛練のおかげで、就職もコネでスイスィ、風邪などひいても働いてその日のうちに治し、トラックにひかれても骨にヒビ一本入らず医者を驚かすという超元気主婦になってしまった。
 あんなに痩せ細っていた少女が、好きな運動で見違えるほどになるのだから、それはそれですばらしいことだ。しかし、Kさんは、記録と成績に呪縛されての精神的圧迫から、何度か心臓マヒを起こしかけたことがあるという。
 健康になるのが目的のスポーツのために、いつの間にか死に至るとはあってはならないことだ。
 だから、彼女はいま順位のある事柄すべてが好きでない。順位を目当てに努力することをつまらないと感じている。日本記録を持っている人間がそう言うのだから迫力がある。
 食事の量や睡眠の長さが一人ひとり違うように、それぞれの健康のためのスポーツの練習量は違うはずだ。それが、記録のため、学校のため、国家のためと個人を離れると、人間はほどほどを知らなくなる。マラソンの円谷のように自殺したり、ジョギングの提唱者のように、心不全でジョギング中に死んでしまっては何にもならない。

 ほどほどにして楽しもう。オックスフォードではレガッタ(ボートの試合)に頭のはげた年配の学生が出てくる。楽しんで息長く活躍すればいい。
 もう一つ、僕が学校の運動系クラブで非常にイヤなことは、馬鹿げた上下関係だ。たった一歳の差でさえ絶対化するなどとむっいうことをしているうちは、この国から天皇制が消えることはあるまい。
 元来サービス精神旺盛でやさしいKさんは、上級生、下級生の区別など気にならなかったから、たとえば、下級生が上級生のマッサージをすることになっていても、必要な人間に手のあいた者がやってやればいい、という精神で下級生でも同級生でも平気でもんでやったという。したがって「変な、おもしろい先輩」と人気絶大だった。
 ただ、四〇代になった彼女たちも、集まると「先輩!」と言い合うらしい。これは困ったことだ。
平和になっても、元軍人が軍歌をやりたがるのに似ている。
 子どもの頃からきちんと、個人名で呼び合うのは、民主主義のためにどうしても必要なことだと思う。
 せっかくのKさんのやさしさが、「変な先輩」じゃかわいそうだ。
 Kさんは、今度生まれたら、断じてフツーの女子高校生になるそうだ。遅刻も欠席もデートもほどほどにこなし、練習も時には怠って。そうすれば、きっとプールや海で泳ぐのも楽しくなる。
 いま、Kさんは目の見えない老人たちの介護をボランティアでやっている。こういうところでこそスポーツで鍛えた心とからだが生きるに違いない。

学問は一種の美学を必要とする

  「ある数学者がペンクラブで話をされたのをたまたま聞く機会があったのですけれども、日本には当分数学の大天才は現れないだろう、とその数学者は言っておられました。何故かというと、数学というのは三つ条件がある。インドの南の方の村の話を例に引かれて話しておられたのですけれども、そのインドの貧しい地域のある村で三人くらい、いわゆるノーベル賞級の数学者が生まれている。不思議に思ってその数学者が村へ行ってみますと、周り中貧しいのだけれども、何百年か前にたいへん優れた坊様がいて、美しい建物をたくさん作った。その村の子どもたちはその美しい建物を出たり入ったりして遊びながら育った。環境が美しくないと数学者は育たない。二つ日には、それと関連があるのですけれども、素晴らしいものを尊敬し、ひざまずくという敬虔な気持ちがないと数学者は育たない。三つ目には精神性というものを何よりも大事にする。この三つの条件が揃わないと数学者は育たないのだと。・・・数学というのは一種の美学がなければ成立しない」    辻井喬『短歌の伝統について』2005年 憲法九条を守る歌人の会発会講演

 この話を確かめてみた。ノーベル物理学賞のラマン、同じく物理学賞のチャンドラセカール、化学賞のラマクリシュナン、ノーベル賞をとったインド人は自然科学ではこの三人。世界的天才数学者ラマヌジャンを加えてて四人の出身地は半径50キロの円内。辻井喬が聞いたのはこの事だと思う。そこは南インド、タミルナードゥ州。幾何学的な美しさで知られるブリハディシュワラ寺院がある。
  一種の美学を必要とするのは、数学だけではない。国立大学行政法人化後、科学者の論文数が減少している。日本だけである、クールジャパンならぬフールジャパンである。中国や欧米などはいずれも急激な論文数増加を示している。日本のノーベル賞受賞者数は、人口当たりにすれば31位程度であり、新聞の単純ランキングでの5位や3位  を大きく下回っていることは知っておいてもいい。オリンピックメダル数やGNPも人口を勘案するとぐっと落ちる。前者で50位程度、後者は18位。
 行政法人化は政府が「素晴らしいものを尊敬し、ひざまずくという敬虔な気持ち」知性に対する憧憬を、短期的成果に置き換えた末の愚行である。「素晴らしいものを尊敬し、ひざまずくという敬虔な気持ち」を表したものが、旧教育基本法であった。
  どんな大学が、どんな高等学校が、どんな小中学校が、如何なる環境の如何なる校舎を持っているのか知るべきである。どんな住宅・環境に人々は住んでいるのか足で見て歩け。この国の建築基準法は壁や柱の規格は定めるが、住まいが人権であり歴史文化であるとの哲学を持っていないのである。

  これはノーベル賞が「精神的な美学」を持っていると仮定しての話である。文学の精神世界や平和の価値判断を迫られる分野まで自らの賞の対象にしてしまったことに、美学からの傲慢な逸脱・撤退があると思う。賞は優れたものを称える他に隠された機能がある、それは優れた業績や個人を特定する権威が自らにあると宣言することである。ノーベル経済学賞はその正式名称「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」からして怪しげである。「精神的な美学」への侮辱である。ノーベル賞飴を嗤ってはならない。ノーベル経済学賞は疑惑の固まり、怖気に満ちている。

頑張らねばならぬのは制度でと行政、個人ではない / 機会の平等の残忍さ

   かつて旋盤実習棟の屋根裏は木造トラス構造が美しく、動力は天井の長い鉄軸と滑車とベルトで中央動力源から伝えられ、工場らしい錯綜する陰影とリズミカルな音が満ちていた。それが機械ごとの小型モーターに切り替わったのは1970年代半ば過ぎ。高校進学率は90%を超え、夜間高校では働く青少年も地方出身者も急減して生徒の活気も消え始めた。みんなが揃うまでの間、教室のダルマストーブ囲んで、それぞれの職場の春闘方針を巡って騒がしくなることもなくなった。

 学生気質の抜けない僕のクラスに、京都からの転校生があったのはその頃である。小柄でひどく痩せた、目の大きな少年であった。どうも元気がないから職場訪問をした。焼き釜を備えた比較的規模の大きな洒落たパン屋で、本人には会わずに店長に会って帰った。
 「せんせー、店まで来てくれたんやてな。こんなん初めてや、嬉しゅうて学校まで駆けてきた。・・・あのな、せんせーに言うときたいことあるんやけど聞いてくれるか」
 彼は、なぜ京都にいられなくなったか話した。
 「内緒やで。今度は頑張るでぇ、せんせー。一度家にも来てや、父ちゃんと母ちゃんにも会うてや。これ俺が焼いてん。店長がな、持たしてくれてん」
  僕の好きなクリームパンだった。
 「旨いね、有り難う。でも頑張らなくてもいいんだよ」と言っておいた。
 夜間高校には給食がある。次の日、彼は僕の向かい側に来て座る。
 「せんせー変わっとるなぁ、頑張らんでもええなんて、店の人たち皆吃驚しとった」 
 「ふうん」と言うと、
 「大人は皆言うで、頑張りぃやーて。何でせんせーだけそない言うねん、知りたいわ」
 「そうか、知りたいか。憲法にもお寺のお経にもそう書いてあるんだ。そのうち僕の授業でやろう」
 「今知りたいんや、待てんわ」・・・

 分かるためには、学ぶ側に主体性が準備されねばならない。レディネスとはこの「今知りたいんや、待てんわ」のことである。こうして突然少年たちの心それぞれに沸き起こる動き、それに我々は常に耳を澄まさなければならない。雑用に忙殺されながら、禅僧のように虚心坦懐になれたら・・・と思う。「今知りたいんや、待てんわ」が、何時、どのようなことで、誰に起きるのか分からない。授業で語ることの百倍も準備する必要があるのはそのためである。一人の生徒に対して百倍であるから、受け持ちの生徒数を考えれば無限と言って良い。かと言って焦って始まらない。
 ともかくも、こうして僕は、少年の言葉に添うて寄り道する準備にかかった。

  いつも体のどこかがが動いている落ち着かない少年だった。僕にはそれが隙あらば脱走しようと構えているようで、おかしかった。
 「逃げたいか」と職員室で聞くと
 「俺ほんまに学校が嫌いやねん、辛抱でけんのや」と寂しく笑った。

 家庭訪問もした。木賃宿風アパートの一角、土間を挟んで障子で仕切られた三畳と四畳半。窓は三畳に一つ、畳はすり切れ、家具は小さな茶箪笥と食卓にテレビだけ。台所もトイレも共同。
 「センセー、八つ橋好きかー。俺大好きや」
 お喋りである。学校で見せる落ち着きのなさは、ここでは消えている。少し年配の夫婦はニコニコしながら、お茶と八つ橋を出してくれた。
 「年取ってから出来た子でしてな、そのぶん可愛いーて堪らんのです」
  「京都に来る人たちは、皆あん入りの生を買うやろ、何でやろな。焼いたんも旨いで、なー父ちゃん」
 
 「学校が嫌いで辛抱でけん」は相当らしく、時々授業の中抜けをした。 

 定時制過程の始業前は、全日制の放課後にあたる。雑務を片付けたり、授業の準備したりにはうってつけの静寂と長さがある。二日酔いの昼下がり、出勤すると事務室から手招きがあった。
 「先生電話。同じ生徒から三度目」
  受付の窓口越しに受話器を受け取る。
 「・・・せんせー、堪忍してや、俺なぁ、またやってしもてん。頑張ったんやで、でも手が出てしもた」
 件の生徒からである。
 「今どこだ」  
 「捜さんといて、父ちゃんももう駄目やここにも居れん、そういうねん。・・・せんせー・・・世話になったな」
 少年はべそをかいていた。一瞬、心中という言葉が過ぎる。
   「馬鹿なこと言うな、今行く」
 目まいがして舌がもつれそうになる。
   「堪忍やで、ほなもう行くでぇ。さいなら」

 一家は学校と同じ妙正寺川沿い、電話はそこからだろう。事務の自転車で川沿いを急ぐ。住まいは、綺麗に片づいて何もない。心中するなら荷物は持ってゆけない。少し安心してのどの渇きをおぼえた。気が付けば土間には打ち水がしてある。まだ遠くには行ってないだろう。夕餉の買い物客で混み始めた駅前を何ヶ所か回った。
 少年は僅かな金を店から盗み、その日のうちに自分で店長に名乗り出て金も返したのだった。 
 「引き止めたんですが・・・健気に頑張っていましたよ」店長も命を案じて悄気ていた。僕のたった四人の学級に彼が在籍したのは、ひと月あまり。しばらくはニュースが気になった。

 小栗康平の『泥の河』を見る度に、「またやってしもてん」「堪忍やで」が聞こえる。俳優たちの表情や言葉づかい、川沿いの寂しい光景、振り向きもせず曳航されながら去る廓舟の一家に重なるのである。
 少年は頑張り足りなかったのだろうか。そんなことはない。彼は自分の執着に気付いた。だから直ちに名乗り出て自ら罰している。十分頑張ったのである。高名な作家や政財界要人までが、若い時代の「やんちゃ」を勲章のように新聞やTVで自慢する。彼らは頑張りもせず地位を得、罰を逃れている、その特権性が勲章、だから吹聴したくなる。
 少年も両親も頑張りすぎた。彼が姿を消さなければ、学校は指導と称して退学を勧告したに違いない。

 彼のための授業は、宝暦治水事件から始めるつもりで下調べにかかっていたが、大学や都立図書館にもめぼしい資料はなく、国会図書館に幾日も通い詰めた。おかげで授業を始める前にかんじんの少年はいなくなってしまった。
 授業を聞けば喜んでくれただろうか。やっぱり変っとるわ、そう言っただろうか。
 確かなのは彼が学ぶことが苦痛であった。「学校が嫌いやねん、辛抱でけん」のではなかったことだ。そうでなければ  「知りたいわ」とは言わない。
 少年を思い出すのが辛くて、やらず終いのこの授業は、ベヴァリッジ報告と囚人組合で終わるつもりだった。頑張らねばならぬのは、社会の仕組みであり国家である。個人ではない。
 
機会だけの均等は残酷である
 貧困や格差との闘いに連戦連敗、後退に次ぐ後退であるのに、学校はオロオロもせず泣きもしない。頑張り続ける文化をこれでもかと煽る。個人が頑張ることで貧困は克服できるという思い込みは、貧困を拡散し見えなくする。だからヘトヘトになるまで頑張った者まで相変わらず貧しいのである。頑張った果実を横取りする構造があるからだ。頑張らせた教員は横取りの事実に少し怒って見せはするものの、相変わらずよく頑張ったもっと頑張ろうと励ます。機会だけの均等は残酷である。

  ナチス強制収容所の門に書かれた "ARBEIT MACHT FREI"がそれを示している。

ある都立高校教師の戦後教育四十年 5 受験体制と自主編成

                                                                                                       承前

                                          (紛争への姿勢と民主化)
 ただ、紛争が起こったか起こらないかということは、大学入試の成績なんかには関係なかったですよ。つまり、一部の生徒からワーツと起こってきて、それにどう対処しようかと教師も真剣になってとりくんだでしょう。その意味ではよかったんです。教師が初めて真剣になった。最初は〝あいつらは自民党に反対してるんだから、生徒の前ではおれも自民党は嫌いだと言ってりゃいいんだ〟と呑気なことを言っている教師が、みんなやられたわけですよ。〝おれたちはそんなことを言ってきるんじゃない、そういう無気力な教師が嫌なんだ″とか〝おまえは受験のことしか言わないじゃないか〟とか〝おまえは体育祭を、ただ子どもを連れて見ているだけじゃないか″とか、バーッとやってきた。
樋渡 教師にとってほ、戦後二十数年続いてきた教室における平和が初めて破られ、やっと現実に目覚めさせられたという側面もあったわけですね。
三戸 そう。生徒のことを考えない管理主義的な教師もやっつけられたし、面倒くさいから生徒にはいい面して、自由放任で過ごした教師もやられたし、みんなやっつけられたわけですよ。そのなかから、そのどっちでもいけないんだということを考える教師が育ってきた。そうしないとどうにもならないわけでしょう。
 なぜ紛争が起こったかということをとらえないで、とにかく押さえなきゃいけないというので管理主義的にパッと能率的に押さえた学校と、警官隊を呼んじゃった学校はなかなかうまくいかないですね。少々手間どったけれども、役所や親たちに、なんであの先生たちはモタモタやってるんだ、あんなことをやるやつは早く押さえりゃいいじゃないかと言われながらも、じっくり教師全体で討議して、その結論を出したうえで生徒とじっくり話し合って、そのうえで暴力などの問題についてはきちんと押さえよう、同時に、どう再建していくきということを生徒と一緒に考えようというふうに、民主的に職場を運営して解決していった学校は、いまはいいんじゃないですか。
 あとあと学校行事もよくなっているし、学校自体が活気をもってきているし、ほんとうの意味で民主化された、明るい、生徒にとっても楽しい学校になっているような気がします。あの紛争の押さえ方が、すごく学校を左右しましたね。
樋渡 ぱくは高校紛争の直前に浪人して、紛争真っ只中の大学に入りました。だから両方とも、気分はわかる。安保闘争のころまで続いた学校の雰囲気が、だんだん閉塞してくる。現実的な問題として、ヴェトナム戦争、日韓問題と政治的な重圧がジワジワッとやってくる。それから、人間が偏差値だけで評価されることに慣らされてはいるけど、他方でその分反発を感じる。能検テストが始まる。自分の生き方にあまり希望がもてない、社会をつくっていくといぅ感じがだんだんなくなってきて、せいぜい、いい成績をとっていいところに〝はまる″という、ただそれだけになりそうな不安が膨れあがる、・・・自分が自分になれないことの苛いら、それらを大人に投げかけていったんだと思うんです。〝なんで生きるのか〟〝こういうことについて先生はどう思うんだ、親はどう思うんだ″と、ぼくたちは教師だけでなく親もつるしあげた。そのとき、親も教師も答えてくれないというイライラもあった。〝とにかく成績がよくなければ大学に入れないじゃないか、いい大学に入れなければいいところに就職できないじゃないか〟というのが、すでに親のにあったし、社会もそっちのほうに曲りつつあったわけです。自治会活動も低迷してきていた、行きどころのない不安、あるいは少しずつ迫ってくる管理社会に敏感に反応して、たまらず自己防衛をしたという側面が、高校紛争のなかにはあったんじゃないかと思います。
 それから、ぼくが大学にいて高校紛争の始末のつけ方は総体的に暴力的だと感じた。これじゃ高校生はすぐ黙っちゃうだろうなぁと、当時からそういう気がしていました。思ったとおり、高校生はアッという問に静かになった。一連の大学管理法案以来、大学もだんだん静かになっていく。そういう嫌な雰囲気を、ぼくは高校から大学までずっと経験した。
                                                 
                                                (受験体制)
樋渡 紛争で、高校の服装の規制がゆるやかになって、制服はなくなる、学帽もなくなる、規制が大幅に取っ払われたんだけれども、小・中学校ではかえって規制を強めたところもあったんですね。
三戸 学園紛争のあと、カリキュラムまでおおかた生徒の意見でつくりあげた学校もある。どっちにしても、教師が生徒のことを考えながら、生徒の要求も聞きながら主体的に自主編成をした学校はいいけど、そこのところがいい加減でズッコケていたところは、より強く規制した場合も、まったく自由にした場合も、全部失敗しているんですね。自由にした場合は言いなりになっているわけで、教員の側に主体制がないんだから。規制したほうも、教員側に主体制があって規制したんじゃなくて、教育長や親や警察からワイワイ言われて規制しちゃった場合には、やはり教師の側に主体性がないわけだ。
 教師の側が教師集団としての民主的な討議と主体性をもっていなかった場合は、紛争はハシカみたいなもので、あ、終わった、というので、その前と後と比べる、と学校はなにもよくなっていない、生徒の無気力状態も全然変わっていない、そういう学校はずいぶんある。
樋渡 無気力は、三無主義が四無主義・五無主義になっちゃった。

(自主編成)
三戸 あれを機会に、教師がみんなで教育問題を考えるという形がつくられていったところは、うまくいっているんじゃないかなぁ。
樋渡 そうすると、五九年に提起された自主編成運動というのは、高校紛争を境に活発化したところもある。
三戸 自主編成運動というのは日教組でやったわけだけど、実際に効果をあげているところはそんなに多くないんです。現実の問題としてむずかしい問題がいろいろ出てきちゃう。どこまで指導要領などと関連させて自分たちがつくったものが生かされるのかという問題もあるし。よほど職場が民主化されていて、職員会議なり職場会なりで絶えず教育問題が議論されているような職場じゃないと、ほんとうの意味の自主編成はできなんですよ。そうじゃないと勝手編成になっちゃう。
 たとえば福岡県の伝習館高校の問題は、ぼくも執行委員のときに調査に行かされたけど、あれは権力にたいする闘争として立派だったと言う人もいるんですが、日教組もそういう評価はしていないわけですよ。あれは誤りだったとしている。ということは、あれはごく一部の教員の勝手編成なんですね。たとえは、地理の授業で毎日安保反対という調子の講義をした、真実を伝えようとしているんだからそれでいいじゃないか、なぜ干渉するんだというふうに、バラバラになっていっちゃうわけですね。地理の授業ではどういう授業がいちばんいいのか、それを少なくとも社会科なら社会科の教員のなかで討議してやっていかなきゃいけないわけでしょう。教科書だけでは子どもはよくならないと思ったら、教科書以外にどういう内容のことを教えたらいいか、地理の授業のなかで毎時間政府を叩く話をするのがいいのか、地理の授業で帝国主義反対を言うことが果たしていいのかどうか。そこのところで、本人がやりたいというのだったらいいじゃないか、言論の自由だ、干渉するなという勝手編成に走った学校もあるわけです。そういう意味では伝習館高校は、非常に大きな間違いを一部の先生がしちゃったんじゃないかと思うんです。

樋渡 1972年、僕は憧れの京都で教員採用試験を受けました。高校政経の合格者は三人、三人で集団討議をさせられた。テーマは杉本判決をどうとらえるか。大胆にしゃべったつもりですが、面接をした人がさらにすごかった。つまり、判決が出ただけではまったく不十分なんだ、杉本判決を現場で現実に生かしていくのは教師になった君たちなんだ、そこのところをしっかり自覚してほしいと、かえってハッパをかけられた。そのことをいま思い出した。
 京都では教育委員会も民主的であって、高校三原則が長い間続いた、。それと東京の教育の変遷を考えてみると、制度をつくり守ることがいかに重要か、日々の授業までまったく変えてしまう重大なことなんだなと思います。
 高校の教員になってから、高校生の集いなどにもときどき関与していて、それがだんだん小さくなって情けない思いをしていたんですが、京都では、憲法記念日に高校生たちが討論集会をやると何千人も集まる、しかもその前に地区あるいは学校ごとに討論会をやって積み上げていくという形が、つい最近まで保たれていたというのを聞来ました。もし戦後教育の理念が続いていれば、かなりいい教育がまだ残っていたんじゃないか。比べてみて唖然とするところがあります。

  もう一つ、七〇年以降の大きい問題として、共通一次が学校を変えるのに拍車をかけたんじゃないかと思うんですが。
                                               
                                              (大学輪切り)
三戸 一般に言われているように、中学生が高等学校を受験するときに偏差値で輪切りにされて受験するというのと同じ現象が、高等学校と大学の間にもできてしまったということが、いちばん問題でしょうね。
 共通一次をやるときには、あまり墳末な問題が出たのでは高校生もたいへんだから、ごく基礎的なことを勉強していればいいんだということで、共通一次というのを考えた。もう一つには、国立大学の格差をなくそうじゃないかというので、国立の二期校だったところから非常に強い要求が出て、一期・二期というのをやめて同時に試験を受けるようにしようというところから出てきたと思うんですが、結果的には、七百何十点ならどこの大学、八百何十点ならどこの大学の何学部へ入れる、医学部へ行くためには九百何十点とってこなきゃいけないということになったものだから、ほんとうは医学部へ行って医者になりたかった子が、七二〇点しかとれなかったから経済学部に入るというふうに、学部志望なんかそっちのけで、共通一次でとった点によって業者のデータを見て大学を決めるということが、共通一次が残したいちばん悪い点でしょうね。現実にそうなってきちゃっている。これが大問題ですね。
       
                                            (期待にこたえる)
三戸 生徒の心のなかには、いいことを学びたいんだというのは非常に強くありますね。・・・教員にたいする期待感、きょうは何を教えてくれるだろうというものは、すごくあるんじゃないか。
 ぼくも、この年になるとつい惰性でいっちゃうからいけないんだけど、教員になりたてのころは、きょうは何を教えてやろうかという願望はすごくあったし、教員にはそれがなきゃいけないわけでしょう。自分はこういう勉強をした、これはどうしても生徒に教えてやらなきゃいけないというのでつい夢中になって、翌日一時間まるまるそのことだけを話すということがあってもいいわけ。そういう教師の情熱があるから、授業にも迫力が出てくる。生徒は必ずそれに吸いつけられていくんですね。教師がその基本を忘れたらたいへんなんじゃないか。だから、たえず教師は勉強すること、勉強したらそれを生徒に伝えてやりたいという情熱をもつということが、すごく大事じゃないか。それがわれわれにいま欠けているんじゃないですか。〝そんな事言ったって、生徒はどうせ大学へ行きたいんだから、受験に合わせなきゃ闇いちゃくれない〟というふうに簡単に諦めちゃう傾向がありますね。それは間違いだ。
 これだけ受験がたいへんで、生徒が大学へ、自分の進路に適う大学へ行きたいとすれば、それを助けてやるのはあたりまえのことだけど、基本的に自分の教科について、豊かな内容で、生徒がクッと食いついてくるものをつくっておかないといけないんじゃないか。それがなくて、これは大学の試験に出るから勉強しなさいと言ったって、しないと思う。
それがしっかりしていれば、学校は当てにならんからと塾や予備校に逃げて行くということはないんじゃないか。その情熱がなくて、内容もなくて、ただ表面だけ受験に合わせたような授業をやっている場合は、よけい予備校や塾に生徒が流れていくと思いますね。一見、直接受験に関係ないようで、非常にいい内容の授業をやってきる先生を、ぼくもよく見ます、それは生徒は一生懸命聞いていて、その教科がおもしろくなって、受験については授業だけじゃ足りないから、自分はその教科がおもしろくなったから、あとは自分でこの参考書を使ってやろうという生徒がたくさんいるわけです。そこがすごく大事なんじゃないかな。
樋渡 高校紛争で教師が目覚め緊張したものの、60年代以来自主編成運動でつくりあげてきたものが、受験競争の激化のなかで崩れ去ろうとしている状況は、ないと言えないわけですね。
 去年国民教育研究所がやった「中・高校生の学習と生活、進路選択に関する基本調査」を見ると、「学校生活の充実のためにもっと力を入れたいこと」という質問にたいして 「友だちとの付き合い」が高校生で四八%、「授業や勉強」 が三二%です。そのほか「とくにない」が九・九%、「学校行事」が二一・八%ですから、学校生活は授業で充実させたいと考えてはいます。
三戸 状況はどうあれ、授業で勝負をすることで高校生は学校生活に希望をもっていく、そういう基礎が高校生にある。

                                              (理性と自由と)
 制度改革というのはすごく大事だけど、これは、絶えず理性的に教育内容を追求して、生徒にたいして情熱をもってぶつかっていく教師がたくさんいて、しかもその人たちが職場で自由に疑問を出し、お互いに討議していける民主的な戦場づくりをやっていかないとでしないですね。
 最近残念なことに、自分の権利はやたら主張するけど生徒の権利は簡単に奪っちゃう教師が、目に見えてふえてきているでしょう。これこそ教育臨調でものすごく攻撃される、われわれのほうの弱点ですね。
 日教組を一方的に悪く言う傾向が最近地域にもずいぶんあるけど、われわれのほうも言われるだけの弱点をもっているんだよ。
そういう人は、これだけ押えられているんだから余計なことはしたくない、学校からも早く帰っちゃおう、世の中を変えなきゃしょうがないんだから、と言う。その類いの人間がふえていったら、世の中は変わるどころか、ますます悪くなっていくだろう。ここのところを教師がきちんと押えていかないといけないんじゃないかという感じがしますね。
 それから、これだけ厳しい情勢になっていると息抜きが必要でしょう。教員が窒息しないように、ときには一緒に酒飲んでうさを晴らすとか、みんなの気分がゆったりするようなことを職場のなかで考えていく人がいないといけないんじゃないかな。みんなが深刻になっちゃうと病人が出るばかりだよ。
樋渡 そうです。発狂します。死人も出るでしょうね。
三戸 そのへんも考えなきゃいけない。教師に明るさがなくなったら、生徒は救われないよ。自殺するんじゃないかというような顔をして教室へ入ってこられたんじゃ、生徒はたまったものじゃない。
樋渡 教師に政治的・市民的自由なくしてなんの生徒の市民的自由だということにもなってくる。勤評以来生徒の自治活動の停滞に拍車がかかったという話が出ました、自分たちの市民的自由を守ることと生徒の教育条件を守るのは、一体のことです。
 お話で気がついたんですが、東京で、高校三原則が完全な形で実施されたことは一度もない、それどころかどんどん歪められてきた。しかも学校規模は一挙に巨大化している。必要なのは、高校三原則という戦後教育の原点へ戻ることです。 
 米軍基地のアメリカン・スクールでは日本政府の費用で、以前はクラス定員三〇名だったのを二五名に減らしている。ところが都立高校では四八名へ増やしている。教師の笑顔が消えるわけです。少人数であれば解決できる問題は多い。 (1985・5・19) 
 
追記
 生徒たちの自治が活発な時期、教師は生徒を放任して自治指導を放棄していたのではないかと三戸先生が発言している。重要な指摘だと思う。だが、当時の教師たちの多くは、戦前戦中の教育を受けている。彼らにとって自治指導は簡単ではないし、実態としては、指導が介入となっている。60年安保の時、生徒たちがデモに参加しようとするのを、署名活動に止めようと考えたりしている。放任は放って任せると書く。何を任せたのか、問うべきだと思う。
 生徒自治会連合に職員会議が圧力を掛け、解体を促したのが「放任」と「指導」の内容ではないか。正しく放任しきっているとはとても言えたものではない。当時教師たちは、マル民という符号で活動的生徒を嫌悪していた。僕は生徒としてその言葉を方々で聞いた。僕が教師となった1970年代初めも、その言葉は職員会議で飛び交っていた。言葉の主は敗戦直後の混乱に乗じて教員になった人たちで、その言葉を強く戒めるのも同じ世代の教師であった。                                  

高校に於ける暴力と自由の偏在

アルジェリア人の犯罪性暴力性は、植民地情況の直接の産物なのだ
  「暴力によって確立された・・・体制は、・・・どこまで続くかは、要するにこの暴力の維持いかんによる、と私は申しましょう。しかしここで問題にする暴力とは、抽象的暴力ではありません。単に頭の中で解明されるような暴力だけでなく、原住民に対する植民者の日常的行動様式が生み出す暴力、つまり南アフリカの人種隔離、アンゴラの強制労働・アルジェリアの人種差別などをも指します。侮蔑、憎悪の政策、こうしたものこそ、非常に具体的で、非常に耐え難い暴力の現われなのであります。しかしながら植民地主義は現在に対するこうした暴力に満足しているわけではない。植民地の民衆とは、その進化が停止し、理性を受け入れず、白身の事柄を処理できず、指導者の永遠的存在を求めている民衆である、とイデオロギー的に提示されています。植民地民衆の歴史は、何の意味もない擾乱に変形され、そのためこれらの民衆にとって人類は、あの勇猛な植民者の渡来と共に始まった、といった印象を与えています」    フランツ・ファノン『なぜ我々は暴力を行使するのか』1960年
  「植民地の民衆とは、その進化が停止し、理性を受け入れず、白身の事柄を処理できず、指導者の永遠的存在を求めている民衆である」これは、困難校の抑圧的指導の説明に使われる言い訳に酷似している。名門校や受験校では「進化が継続し、理性を受け入れ、白身の事柄を処理、指導者の即時撤退が可能」というわけだ。こうした言い回しの中には、常に当の本人は名門受験校出身であるという見苦しい自慢が含まれている。
                                        
 90年代半ば、山手線に近い都立B高校定時制課程が荒れていた。生徒たちは建て替えたばかりの校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火、校庭にもたばこの吸い殻や菓子袋が散らばった。切っ掛けは校舎改築だったと思う。教師達が建物を可愛がった、壁にテープを貼るな、落書きをするな。建物が新しいから少しのゴミでも目立つ。口うるさくなる。生徒と校舎どっちが大事なんだと荒れる。近所からの苦情は絶えず、対策に追われて職員会議は週二回が定例。教員は疲れ果て為す術がない。
 ところが思い掛けない事で事態は一変する。夜間中学を卒業したお年寄り数名が、勉強を続けるために入学したのである。彼女たちは、荒れる高校生に一瞬たじろぐが
「なにしてるの、学校は勉強するところでしょう」と言いながら、教室に入り教科書とノートを広げた。数日の間に花火は姿を消し、静寂が訪れた。ツッパリ達がおとなしく鉛筆を握ったのである。教師達が束になって説得し脅しても駄目だったことが、あっさり解決した。何が違うのだろうか。
 教師は、~するなと言う。命令である。お婆ちゃんたちは、~すると宣言し実行した。荒れるツッパリとその同調者だけで構成された均一の空間に、異質のお年寄りが加わることで突然起きる根底的変化、それが革命である。
 B高校定時制課程には、花火とバイクの日常があったのではない。学校の日常としての学習が無かったのである。式や行事と口やかましい清掃はやたらにあるが、日常としての学習は続かない。テストやオリエンテーションで芸術鑑賞など行事で呆れるほど中断される。退屈しないように、生活にメリハリを付けるとの御託であったが、退屈するほど淡々としているのが日常である。長閑で欠伸が出るのが極楽ではないのか。お釈迦様が欠伸をするほど長閑で退屈だから、蜘蛛の糸を地獄に垂らしてみたのである。それが日常である。それが無ければ、脅しても説得しても甲斐はない、彼らは何をすればいいのか分からない、しかし校舎が生徒より大切という教師たちには我慢がならないのだ。花火やバイクは彼ら自前の行事なのかも知れない。であれば、手本で示すに限る。

 高度成長期、企業は気前よく泊まりがけの社員旅行を奮発した。海外も珍しくない。中でも人気はタイと韓国への買春ツアーであった。日頃国内では世間の目・世間体や社則に縛られ礼儀正しい筈の日本社員達は、飛行機のただ酒で酔い、ホテルロビーに着くや大声で「おんなはどこだ、女」と叫ぶ。彼らは日常を切り離して会社に置いてきた、その程度の世間であり常識であった。安手の日常が無ければ When in Rome do as the Romans do である筈だが、そこはローマでもロンドンでもない。アジアへの上から目線で、ここではカネが全て、日常も常識も要らない無いと決めてかかる。情事の後、ホテルのロビーに寝間着で繰り出し喚き歌い倒れる。一人ではやれない。成田に帰り着いた途端、常識や社則に復帰、「やっぱりみそ汁だね」と一等国意識に浸る。取り外しの出来る消費財としての日常・常識。男達だけではない、遅れて若い女性や主婦達が「男、オトコ」と海外リゾートで嬌声を挙げたのである。
 カントはこれが20世紀も後半の大人のことと知れば仰天するに違いない。中学生までは規律や道徳の規準は仲間集団にある。それが青年・高校生に成長するに伴い、道徳律は個人の内面に移り自立する。「たとえみんなが~しても僕は~しない」と。他者の異質性を容認擁護する覚悟はこうして芽生える。しかし我々の社会では、内なる道徳律は依然として確立困難。藩の掟、村の掟、家の掟、内務班の掟・・・が内なる道徳律の成立を妨げた。今、校則と部の掟そして会社の掟が青年の倫理的道徳的自律を妨げる。日常とは多様な個人が、コモンセンスによって合意する領域である。 違うことが、選別や憎しみの根拠となるのではなく、平等の前提となる。
 偏差値が異なることが選別の理由であり差別の根拠であると見せつけられた高校生が、「底辺」とは造られた体制と感じ、それを理不尽と捉えるのは知的成長の証である。荒れる怒りは、選別の体制仕組みに向けられねばならない。怒りが学校や教師に向けられるのは、選別体制の最前線と見なされたからであり、まさに文科省・教委の教員管理はそのように仕組まれている。善意で熱心であるほど生徒は荒れる。荒れる生徒を根拠に、組織実態の無いに等しい教員組合を攻撃、教員教員の管理を強めるというわけだ。その点でも「底辺校」は選別体制に欠かせないものとなっている。

  B高校定時制に突然現れたおばあちゃん達は、見かけも年齢も価値観も生活歴も全くの異質であった。中には民族や言葉の異なる場合もある。ツッパリから見れば他者。仲間内の掟が闊歩する言葉を要しない均質社会に、コモンセンスが浮かび上がらざるを得ない。冷静に見れば、おばあちゃんの存在は、あんこの中の僅かの塩にも似ている。教師は生徒が毛嫌いする饅頭を、旨いぞ旨いぞと手を変え品をかえ砂糖を増やすばかりであった。飽きるように怒りが込み上げるように工夫を凝らして消耗する。
 思いがけない展開で、B高校定時制は職員会議を減らし、やがて二週間に一度に変えた。こうして高校定時制の生徒も教師も学校の日常を発見したのである。
 
 学校は生徒の中にも教員の中にも、異質な他者を具体的に含む事で、普遍的健全性を実現するのだと思う。困難校の厄介で気の滅入る困難も、異質の他者性を回復することで容易く消える筈である。
 スーパーサイエンスハイスクールを賞賛すれば、その対極にB高校定時制課程同様の学校が必ず出現する。「総合学科」、単位制高校、特色ある学科、公立中高一貫教育校など高等学校の多様化・特色化が一気に進んだのがB高校定時制課程が荒れ始める少し前、90年代である。
 学校の日常は平凡に長閑に学ぶことを核に構成されねばならない。そのためには選別を排して、雑多な社会を教室に職員室に再生する必要がある。スーパーサイエンスハイスクールや底辺校の日常が個別に存在するのではない。それは教育の非日常なのだ。


若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...