「星」は人々に関心がない

ゲバラの治療は敵味方の別なく行われた、彼は高見の星ではない
 「星は何でも知っている」という流行歌があった。勤評闘争が激しさを増し、三井三池闘争が燃えさかった頃である。 「星は何でも知っている。夕べあの子が泣いたのも・・・」と歌っていたが、星は何にも知らない。我々の存在は見えもしない。そもそも思い至らない、無関心なのだ。対話なんてあろう筈がない。にもかかわらず、人々は星=スターに何かを期待して押し寄せる。俳優、プロスポーツplayer、教祖・・・に大枚をはたいて疲れて帰る。それでも「元気を貰った」と満足する、「元気を貰う」とは、元気な「星=スター」を拝観したにすぎない。大量のCD購入と引き換えに握手するだけで、天にも昇る気になる。
 期待する何かとは、はかない夢であって要求ではない。依存を深めて何かを「貰」える日をひたすら待つだけで、決して自立した行動や革命には至らない。要求は、連帯を生むが、夢はせいぜい聖地巡り。
  「輝く星に心の夢を、祈ればいつか叶うでしょう・・・」と甘くささやいた『星に願いを』は、労働組合嫌いのディズニー作品挿入歌だった。
 
 例えば、もう少し目が大きく二重瞼なら、就職も恋愛もうまくゆくのにと悩む人は少なくない。だが多くは、甘く夢想するだけで、就職や恋愛がうまくゆかないのは、社会構造的な差別に基づくなどとは考えない。目の大きさの問題ではなく、親の職業や一族の出自が問題だったりする。その構造がなくならない限り問題はいつまでも続く。しかし、周りは社会的問題なんて考えることが危険だと言う。だから「祈ればいつか叶うでしょう」とささやく声に、縋り付きたくもなる。
 それ故「スター=星」が強調され、人々がそれに憧れる社会では、格差は放置される。社会改革や革命は限りなく遠い。

 ここに、革命家に医師が多いわけがある。フランス革命におけるマーラーも、キューバ 革命におけるゲバラやアルジェリア独立革命におけるフランツ・ファノン、選挙による社会主義を実現したチリのアジェンデ大統領、ことごとく医師である。医師孫文は辛亥革命を指導し、中国革命に忘れてはならない魯迅も一度は医学を学んでいる。
 なぜだろうか。医師は「星」にならないからである。 医師は、患者一人ひとりに具体的に関わらざるをえない。人間を、一般的に捉えて集団として操作するわけにはゆかない。病気は人によって異なった現れ方をするからだ。常に医師は対象を、固有名詞のかけがえのない存在として見て対話しない訳にはゆかない。医者がすべてそうであるわけでもなく、医者以外に同様の精神を持つものが少なくないいことも事実である。だが職業が人間を作ることも確かだと思う。
 政治を集団の力学として捉えるだけでは政権奪取のみが残り、人々は固有名詞のない数として磨り潰され革命は死んでしまう。革命の政治に課せられるのは、固有名詞持った人間の具体的願いとの対話である。
  例えば、大学教育をすべての国民に保証するとき、職場の立地や学ぶ個人の条件に合わせて手当を支給し、授業のほうが教授や実験道具教材とともに工場にやってくるのである。医療は、どんな地域であれ設備を整えた診療所に医師らが泊まり込み、場合によっては馬に乗った医師が薬や医療道具とともに峰や谷を越えて診察して回る。日本は、学生や病人が困難を強いられる、おかしなことだ。災害時の避難態勢も、一人ひとりの事情が優先され計画されるから、一律に体育館に押し込まれることはない。
 1964年カストロの演説が、長い沈黙でなかなか始まらなかったことがある。堀田善衛が『キューバ紀行』に書いている。この7月26日サンチァゴ・デ・クーバの広場には、全キューバから30万人が押し寄せていた。
 「・・・事実としては、ほんの十秒はどの時間であろうが、なかなかに話し出せないでいるという感じであり、それを察したかのように、群衆のなかから甲高い声で、・・・ 
 「フィディル、いま話したくないのなら、待ってるぞ!」という声がかかる。・・・ フィデル・カストロが話しはじめる。きわめて静かに、むしろ何か後悔をでもしているかのような声調で、「われわれの招きに応じてくれた方々、モンカダ要塞襲撃の際に、また革命の勝利のための戦いに倒れた同志たちの御両親の方々・・・」とフィデルが呼びかけたとき、運動場に満ちていた群衆のなかから、それほどに声高くというのではなかったが、なにか物凄い、腹にこたえる、吠え声とでも言いたいような、むしろ動物的な声″が起った。動物的な声 - 話しかけるフィデルのすぐ下の席、つまり招待者の席の中央が遺族たちのために留保されていたのだが、その両親″たちのなかにはすでにハンカチで眼を蔽っている人が何人もいた。そうして私はそれらの人々を眺めて、それらの両親たちが決していわゆるお爺さんお婆さんなどではなくて、せいぜい50代から60代ほどの年恰好の人々であることを知って、ああなるほど、と思ったものであった。そうして、30万の大衆から上った動物的な呻きのような声ぼ、彼らの若い革命家たちの死をいたむものであることは当然であったが、それはもう一つ、このフィデルの演説が、ただの一方的な演説ではなくて、聴衆からの積極的なうけこたえのある、一種の対話であることを、この演説の当初からしてすでに示していると思われたのである」
  カストロも広場に押し寄せた人民大衆も、対話する革命の精神を共有していることがわかる。だからこそ、熾烈極まる米国の干渉を跳ね返し、長い時を経て逆に米国を孤立させることができたのだ。

 学校もあるいは学校こそ、固有名詞を持った一人ひとりのの違いに応じた対話が必要な筈。 だが、一律に処理したがる。学校も社会も。どうしてそういう職業意識を日本の教師が持つようになったのか。日本の教師は、自立して職務を遂行できないからだ。それを恐れて孤立している。青少年の特性を奪い、固有名詞を剥奪することこそが、教育だと考えているかのようである。
 それ故、「スター」的成功が教科でも「部活」でも強調され、偏差値と大会実績が不当なまでに賞賛されるのである。輝く「スター」が医学部であり、甲子園や全国大会である。これ見よがしに、合格実績や大会出場が、校舎にぶら下げられる。医者やプロスポーツ選手は、もてはやされるべき存在として君臨することになる。その他大勢は、自ら願いを矮小化して、「スター」から「元気を貰」い、たまに「自分にご褒美」して満足しなければならなくなる。その惨めを覆うように蔓延るのが、周辺国家・民族や少数弱者を見下す排外主義である。
 僕は、全国大会と偏差値が嫌いだ、あらゆるメダルや賞も。それが青少年の社会的関心を潰し、日本の政治を停滞させ利権の巣窟にするのを放置しているからである。

教師を写す鏡としての教室・社会経済状況の鏡としての教室

タッシリ・ナジェールの岩絵には、
ここに住んだ人間の魂が疎外されている
 人間の精神現象は、まず自分の内部にある本質的なものを、いったん外へ投げ出し(自己疎外)、そして、それをふたたび自分の内へ取りもどす、そのような過程だとヘーゲルはいう。
 この自己疎外の概念がフォイエルバッハやマルクスによって社会的な過程に翻訳され、それが一般の通念になる。もともとは、人間が自分を意識するための不可避の過程である。即自(直感)から対自(悟性)へ、というその対自がそれであ。それは自己対象化の機能にはかならない。だから、たとえば、人間が自分の内部にあるものになんらかの形を与えてそれを表現しょうとすれば、それはすなわち自己を疎外したということになる。この意味で、言葉というものは人間精神の疎外形態なのであり、絵画にしても同様である。サハラ砂漠タッシリ・ナジェールの岩絵は、かつてここに住んだ人間の魂が疎外されたものなのだ。
 人間は自分の顔を見ることはできない。自分の顔を見るためには、それを鏡という外的なものにうつして、はじめて認知しうる。おなじように自分の意識も、音や形など外的なものに疎外して、知ることができる。表現とは、まさしく自分を外へ押し出す作業にはかならない。画板とは自分の顔をうつす鏡なのである。
 とすれタッシリ・ナジェールの岩は、かつてここに住んだ人びとの鏡であった。彼らは、岩を画板にして自分をうつしたのだ。
 しかし、ヘーゲルにとって肝腎なことは、精神がいったん外へ押し出したものを、ふたたび自分の内へ取りもどすことであった。彼はそれを止揚(即自かつ対自、あるいは理性)と呼んだ。

 生徒たちは授業を自分の中に取り込み、対話しノートや論文に記す。対話・ノート・論文、即ち表現によってはじめて自分の学んだことを認識することが出来る。教師の指示に従って複写するだけでは、自己疎外にさえならない。暗記とはそういうことだ。
 いかにして止揚に至るのか。ある生徒は、ノートは先生と私の作品であると言った。またある生徒は、授業にのめり込んでいると突然書くべきことが生まれる、丁度鶏が卵を産むようにと表している。止揚の経過は一様ではない。

 我々も自ら構成したものを、教室で青少年たちに一旦投げ出す。これが授業であり、教室は画板である。投げ出したものは、批判や不満とともに反応が返ってくる。教室における反応が、我々教師を写す鏡である。反応は苦くもあり、意図したものを超えていたり、挑戦的であったりするが受け入れて吟味する。吟味の過程が悟性=Understandingの働きであり、教師はここを手掛かりに成長して、吟味した結果が授業の構成に生かされることになる。ここまでが授業である。ただし反応は、直近のテストだけに現れるわけではない。長い年月を経てようやく芽を出すことも少なくない。タッシリ・ナジェールの岩絵はそれを教えている。

 短期間に現れる成果は短期間に消滅する。大阪市長は学力テスト成績を人事評価に反映させて、手当を増減させると発表した。
 教育の成果は、こうすればああなると直線的に現れるものではない。思いがけない経路を経る複雑性を持っている。子どものの意欲は、教室の働きかけによってのみ引き出せるものではない。教室に現れる子どもの意欲は、むしろ家族を取り巻く社会経済状況を写す鏡の像として現れている。子どもの成績と最も大きな相関関係が明らかになっているのは、貧困である。「政令市の貧困と学力の相関」を索引にかければ一目瞭然。行政の課題なのだ。行政の浅はかさを棚に上げて、教員に責任をなすりつける現象はいつまで続くのだろうか。
 

虐げられる者たちの連帯・「いじめ」の社会経済的根源

毎日三度薄いおかゆの慈善学校
 人々がとりわけ若者が、差別や民族的拝外主義に走る。特に社会制度的辺境にある若者が。
 その責任の大きな部分を、選別主義学校階位制度を黙認推進してしまった我々は負わねばなるまい。
 それは戦争責任にも相当する。
  「ノアは慈善学校のご厄介になってはいたが、救貧院育ちの親なし子ではなかった。・・・母親は洗濯女をしていたし、父親は呑んだくれのもと兵士で、木の義足と一日当たり二ペンス半プラス・アルファーの恩給を頂いて退役となったのだ。近所の店の小僧どもは、ずっと以前から往来でノアを見かけると、「半ズボン」とか「慈善学校」とかいったような、屈辱的なあだ名を進呈していたものだった。そしてノアは一言もやり返さずに、じっと忍んで来たのだった。ところが、いまや運命が彼の前に、父親もわからぬ孤児を恵んでくれたのである。これに対してならどんな下っ端の人間でも、侮蔑のうしろ指を差すことができるのだから、ノアは利息をつけてお返しをしてやった」              
  チャールズ・ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』(1838年)
  「慈善学校」というと、表むきはひどく美しく立派に聞えるけれども、その実体は子どもを徹底的に卑屈下劣にするだけの効果しか生み出さないことを、ディケンズは鋭く見抜き、それを小説の中で大胆率直に指摘した。
 「(慈善学校)委員会の方々はたいそう賢明かつ学識深い諸公であられたので、・・・次のような規則を確立した。すなわち、すべての貧乏人どもは救貧院に入ることによって、徐々に餓死させられるか、救貧院に入らないですぐに餓死させられるか、どちらかを自由に選択すべきである・・・という規則だ。 
 以上の見地から、毎日三度薄いおかゆ、週に二度たまねぎ、日曜日にはロールパン半分という食事を支給した
            『オリヴァー・トゥイスト』

 王工での会話が、耳にこびり付いている。
 「先生聞いてよ、今朝バスの中でA工生が席を譲らないんだよ、腹が立ってさ」
 「何、言ってるんだ」
 「だってA工生だよ、A工・・・」80年代初めことだ。彼によれば偏差値がA工は王工より一つ低い。だから席を譲るべきだというのだ。互いの制服で学校はわかる。
 「じゃ、目の前に慶応や早稲田が来たら君は立って席を譲るのか」
 「俺のうちのそばにはそんなのいないよ。もしいたら俺は寝たふりする」 もし乗り合わせても早稲田にも慶応にも制服はないから気づかない。
 底辺校の制服はいわば慈善学校の半ズボンである。底辺の迫害を受けた子どもたちほど「お返し」の対象を待ちこがれている。自分より「下」の階層にそれを見出すのだ。

 「臆病者の弱い者いじめ」という言い回しが浮かんだ。虐げられる者たちの連帯は、ラクダが針の穴を通るより難しいのだろうか。
 大きな問題がある。選別の教育体制を黙認加担しておきながら、その結果だけに驚き憤ってみせる我々の存在だ。

 都心のお嬢さん学校に勤務する友人が、東京と世界の貧困状況を概説し、お嬢さん学校はその貧困の上に成り立っていると授業した。彼は、授業が終わるとともに、品のいいお嬢さんたちに取り囲まれて「先生、あんまりです・・・」と泣かれてしまったという。お嬢さん学校保護者たちの経歴を見ればそれは一目瞭然であり、それに工高のそれを重ねればさらに明瞭になる。
 僕は、お嬢さんたちと工高の生徒たちとが学び合う機会を作りたいと思案して、まず学区内高校の合同文化祭を試みた。生徒会役員や教研関係者は面白がったが、普通の生徒たちの日常は少しも変わらなかった。第一、お嬢さん学校や名門校は、合同文化祭に見向きもしなかった。生徒たちは手分けして、案内のビラを学区内すべての生徒会に送ったが、張り切った分寂しかったはずだ。
 体育系「部活」にはこうした寂しさ空しさがない。一見一見、スポーツの世界は公平に見えてしまうのだ。それも問題である。

追記 全国知事会(7月26・27日北海道)で、思いがけないことが起こった。前会一致で、日米地位協定の抜本的改定を求める提言が採択されたのである。提言は次の通り。
(1)米軍の低空飛行訓練ルートや訓練を行う時期の速やかな事前情報提供(2)日米地位を抜本的に見直し、航空法や環境法令などの国内法を原則として適用させること(3)事件・事故時の自治体職員による迅速で円滑な基地立ち入りの保障(4)騒音規制措置の実効性ある運用(5)米軍基地の整理・縮小・返還の促進―を求める。
 対米従属政権下の快挙である。安倍政権は一貫して弱い立場にある自治体をいじめてきた。憲法92条は、自治体と国が対等である旨を「地方自治の本旨」と宣言している。
 しかし全国紙もTVも相変わらず、知事会の提言を無視し「臆病者の弱い者いじめ」を続けている。
 

自分で「スゴイ」「クール」と言わねばならぬ国の惨め 2

アタチュルクは識字教育の教頭を自認した
 例えば、インパウンドだ。なぜ「入国旅行者」で済ませないのだ。意味が掴めないで当惑している人は多い。サステナビリティや トランスペアレントと言う必要があるのか。衣料品や施設の名前はまるで、日本語禁止令が出たかのようだ。行政文書にも、インフォームドコンセント、アジェンダ、コンプライアンス、エビデンス、ポートフォリオ、シャイニング・マンデー・・・きりがない。まるで従属の実態を見せようと努力しているかのようである。米国の理解や覚えさえよければ、国民はどうでもいいらしい。 学校の職員会議でさえ、司会はペンディングと言いたがり、発言者はウィン・ウィンやアクチブラーニングを連発する始末。教育現象を生徒や社会から解明するのではなく、行政文書に見出すからである。

 写真は、近代トルコ建国の父アタチュルク大統領の識字教育光景である。
 これにはケマル・パシャの秘書を務めた、ソヤック氏の証言がある。
 「村役場の前の広場に、病気など特別な事情のある者以外の村人と子供たちが集まっていた。アタチュルクは黒板に新しいアルファベットを書き、その発音を何度も村民にくり返させると、今度は新しい文字を組み合わせて、村民たちになじみ深い言葉、すなわち、『小麦』や『大麦』、『刈り入れ』などを書いて、読み方を教えたのだった。字が読めるということは、村人たちにとって実に大きな驚きであった! 最初は、か細い声で読んでいた男も女も、字が読めるという喜びから、次第に声が大きくなり、しまいには怒鳴るように発音するようになったのである。 
 やがて、ひと通りの授業が終ると、アタチュルクは村人の中から一人の農民を呼びだした。その男は五十歳やらいで、おずおずと黒板の前にやってきて、いったい大統領閣下が自分に何を命じるのだろうかと、まったく不安げな様子だった。『君は何という名前だね?』とアタチュルクが尋ねると、その農民はびくびくしながら、『へえ、カラ・イスマイルという名前で…‥』と小声で答えた。 すると、アタチュルクは黒板にその名前を書き、その下に同じ文字を書くようにうながした。男は不器用な手つきながらも、何とかカラ・イスマイルと読み取れる文字を書いたのである。アタチュルクは黒板消しを使って、同じ作業を何度かくり返してから、今度は手本なしにカラ・イスマイルと書いてみるように命じたのだった。すると、その農民は考え考え、ぎこちない書体ながらも、ちゃんと自分の名前を書いたのである! アタチュルクは彼を抱きしめて祝福した。 カラ・イスマイルは、しばし茫然としていたが、やがて、「わしは字が書ける!」と両手を上げて叫びながら、仲間たちの大拍手に迎えられて戻っていった」 島直政『ケマル・パシャ伝』新潮選書
 中央アジアの遊牧民由来のトルコ民族は、イスラム教を信じアラビア文字を使ったがアラブ民族ではない。トルコ語にはには8つの母音があるのに、アラビア文字には3つしか母音がない。従って、トルコ語をアラビア文字で表記することには無理があり、文盲率は高かった。そこでタチュルク大統領は、トルコ言語協会設置、変形ローマ字による表記の審議を命じたが、結論が出ない。大統領自身が、変形ローマ字を考案して、その普及の先頭に立ったのである。それが冒頭の写真と秘書の証言である。彼の方針は囚人にまで及び、読み書きを覚えた者の刑期は短縮され、刑期を終えても読み書きができるまでは出獄させなかった。おかげで文盲率は急激に低下、おかげで我々もトルコ旅行中、街の看板やバスの行き先表記で困ることが少ない。

 次いでアタチュルクは、トルコ語の中からアラブ系やペルシャ系の言葉を追放するために、本来のトルコ語に戻す作業を言語協会に命じている。オスマン帝国では、アラビア語やペルシャ語が上品と見なされ、当時の単語の8割近くが支配階級のオスマン語に取り込まれ、民衆のトルコ語はいやしいとみなされていた。民衆のトルコ語にさえ、アラブ系ペルシャ系の外来語は入り込んでいたのである。作業は困難を極めたが、短期間に数千語が本来のトルコ語に戻され、適当な言葉が無ければ新しく考案され「純粋トルコ語」がつくられた。義務教育は、ローマ字表記の「純粋トルコ語」で行われたのである。言葉の自立無くして、国民国家は成立しないことをアタチュルクは身にしみてしみて感じていた。

 日本のカタカナ語流行は、「格好良さ」、「上品さ」を求め、「民衆」の言葉との意識的「差異化」に走っているという点で、オスマン語的危うさを呈している。言葉の機能は、正確な伝達である。上から目線で大衆を見下し、幻惑支配することではない。大衆に通じなくとも、自分たちが高尚に見えればいいとでも思っているのか。国会の質問も答弁も、横文字だらけである。格好良さやエリート振りを見せつけているつもりが、かえって軽薄さを際立たせている。
 政権は、追い込まれるたびに「丁寧に」説明と言い逃れてきた。丁寧とは、誰もが知っている言葉で語ることである。少なくとも政府、国会、NHKは横文字なしの言葉を使うべきだと思う。新聞も週に一度はカタカナ語なしの紙面にする努力をすべきである。意味不明なカタカナ語だらけにして、どこが美しい日本だ。まるで言葉のゴミ溜めだ。文化が腐臭を発している。

追記 日本「スゴイ」を言い立てる番組の名称すら「クール・ジャパン」である。日本に嫌気がさしているのは、実は彼ら自身ではないか。「手前味噌・日本」でいい。

自分で「スゴイ」「クール」と言い続けねばならぬ惨め 1

馴れない洋装で乱痴気騒ぎが鹿鳴館の文明開化
 自分の取るに足りない行為や素質を「俺ってスゴクネ?」と自賛し同調を迫る口調が、最近甚だしい。 他方LGBT、障害者、老人や病人を、非生産的と罵る国会議員や閣僚がのさばっている。では、天皇家や皇族・華族はどうなんだ。何を生産していたというのか。新平民を作り差別と貧困を固定維持したと誇り、沖縄を基地として米国に提供して従属化に貢献したとでも言うか。
 
 華族令(明治17年)で、512家が爵位を持った。
 公爵11家--臣籍になった皇族、摂家(公家)、徳川将軍家
 侯爵24家--清華家(摂家に次ぐ公家)、徳川御三家、15万石以上の大名
 伯爵76家--堂上家(大納言、昇殿を許された公家)、徳川御三卿、5万石以上の大名
 子爵327家--堂上家(大納言より下の公家)、5万石以下の大名
 男爵74家--御三家の付け家老や大名・公家の分家・寺社門跡
  
 その後、維新の功労者、日清日露戦争の軍人、財閥当主や学者などがお手盛りで加わり、最終的には913家(1,016人)が華族となり、敗戦を迎えた。四民平等を唄いながらこの様だ。
 ズルもある、三条家は清華で本来は侯爵だが公爵に、岩倉家は子爵のはずが公爵に、官軍側の島津・毛利家も公爵となり、維新の立役者の大久保・木戸家も侯爵、伊藤博文・井上馨・松方正義・山形有朋なども伯爵になった。
 福沢諭吉は、爵位の代わりに5万円(明治33年の教員の初任給11円)を貰い、勲功華族は財閥当主を除き、明治期を通じ、伯爵35,000円、子爵20,000円、男爵10,000円を公債として受け取った。
 彼らの多くは、一等地に広大な屋敷を構えそれぞれ数百人の使用人を抱えていた。その対極に膨大な、被差別貧困を生産固定した。

 天皇家については、渡辺清が『砕かれた神』で「マッカーサー司令部の発表によると、皇室の財産は、所蔵の美術晶、宝石、金銀の塊は別にしても、15億9000万円もあるのだという。これにはおれも心底びっくりした」と書いているが、昭和20年度の国家歳出は、215億円である。この中には、あらゆる国家の王家が海外(その殆どは、スイスである。この国は、預金者の秘密を守ることを絶対的義務としている)に秘匿した資産は含まれていない。

 トルコは、明治維新を手本にした親日国家と伝えられる。日露戦争(1905年)でロシアに辛くも勝利したことが、数度にわたる対ロシア戦争に負け続けた「オスマントルコ帝国」民衆の積もり積もった鬱憤を晴らしたことは事実で、「トーゴー」「ノギ」の名称が通りや商品に子どもにつけられた。
 だが、最も彼らを感激させたのは、それに先立つ1890年の軍艦遭難事件に於ける救助活動である。日本との友好親善の日程を終え、帰国の途にあったオスマントルコ軍艦・エルトゥールル号が台風で沈没。紀伊半島沖で死者587名、生存者69名の大惨事となった。この時、付近の漁民たちが村をあげて、夜を徹しの救出にあたった。遭難した人を人肌であたため、非常用として備蓄していた食料をすべて提供している。また、犠牲者の遺体は引き上げ丁重に葬った。民間義捐金も集まり、政府も生存者を送り届けている。

 だが、近代トルコ建国の父ケマル・パシャが、それに感謝はしたものの、近代化方針や政策で日本に学んだと僕は考えない。
 例えばケマル・パシャ、即ちアタチュルク大統領は、オスマントルコ帝国メフメット6世の帝位を剥奪のうえ国外追放して帝国を解体、民族国家主人公としての国民の地位を明確にしたのである。
 領土を傲慢に拡大し帝国を気取り、爵位を乱発した日本とは目指した方向が根本的に違う。 維新の立役者福沢はこう言っているのだ。
 「・・・我が輩が外国人に対して不平を抱いているのは、いまだに外国人の圧制を受けているからである。我が輩の願いは、この圧制を圧制して、世界中の圧制を独占したいということだけである」『福沢諭吉全集第八巻 p64
 もし日本がトルコに近ければ、英仏伊独に並んでトルコ分割に狂奔したに違いない。         
  
 エルトゥールル号遭難救助が如何にトルコ人を感激させ、永く記憶に留めたかは、約1世紀後の1985年突如示される。 イランイラク戦争の激化する中、3月17日イラク大統領が「今から48時間後、イラン上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす」と表明。当時イランには日本の企業関係者やその家族などがいた。急ぎテヘラン空港に向かったものの、どの飛行機も満席。他国は自国の特別の救援機を出して救出したが、日本は対応が遅れた。同盟関係を言うアメリカにも断られ、日本政府にも自衛隊機にもJALやANAにも見捨てられたのだ。
 もはや日本人の脱出は不可能かと思われた時、二機の飛行機が飛来して日本人215名を救出。危険を冒したのは、トルコ航空機。制限時間75分前であった。トルコ側の言ったのは「エルトゥールル号の借りを返しただけ」と伝えられている。
 トルコは95年前のエルトゥールル号遭難救助の恩を忘れていなかった。だがこの決死の救出を、我々はどれほど記憶に止めているだろうか。我々は救出劇を、そもそも知らないのではないか。

 国家や組織を離れた素手素顔の日本人は、外務官僚や軍部より遙かに有効な外交関係を築き、国家や企業は南京大虐殺や強制連行を引き起し勲章と爵位を手にするのである。
 羽仁五郎は文部省廃止を説いた。外務省廃止を僕は主張する。大使館地下に温水プールやワイン貯蔵庫を作るのは、特権階級の再生である。 つづく

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...