ある都立高校教師の戦後教育四十年 4 紛争と学校群

                                承前

                                      (おこるペくしておこった ″紛争″)
 それをなんとかしなきゃいけないと思って一部の教師は熱心にいろいろテコ入れしたし、それに応じてくる生徒も一部分いたんだけど、結局は学校側も受験のほうに流れちゃって、生活指導の面でほんとうにとりくんでいく教師は非常に少なかったから、これがやがて紛争のときに爆発してくるんですよ。高校生の場合は、政治問題については大学生から焚きつけられたということはあっても、彼ら自身のなかで何かモヤモヤしたものがある、大学生の兄ちゃんたちが騒いでいる、じゃおれたちもやれ、体制的なものは全部反対すればいいんだという傾向も出てきて、六九年ごろから騒ぎになったんですね。三学区のある高等学校では、六九年の三月に卒業式が紛砕された。
 だから、むしろ七〇年の前年ですね。東大闘争の年にあちこちの高等学校で紛争が起こった。自治会活動が非常に不活発になったということも紛争が広がっていく大きな原因になった、これは押さえておかなきゃいけないんじゃないかと思いますね。
樋渡 そう。生徒の要求実現の場である生徒自治会が崩壊した時期に、高度成長や能力主義や偏差値、いろいろな問題が高校生のうえにふりかかってきて、まさしく起こるべくして高校紛争が起こった。ある意味では正常な拒否反応とも言えるかもしれない。高校生のところへ直接やってきた最初の管理的な傾向だったわけですから。
 戻りますが、勤評闘争以降、学校の分掌がだんだん細かくなってくると思うんですけど、それまで、たとえば生徒会指導というのは分掌としてやっていたんですか。

                                              (分掌の細分化)
三戸 戦後初期の段階は、ぼくが教員になってしばらくの間もそうだけど、分掌というのはそんなに分かれてなかった。分掌をたくさん分けるというのは、役所の側のひとつの管理なんです。ぼくの記憶では、教員の属する部は教務部と生活指導部の二つしかなかったです。進路指導なんてなかった。図書は確か、教務部のなかに入っていた。清掃などは生活指導部のなかで扱う。教務はいま教務がやっている仕事、時間割とか卒業式をどうやるかとか、そういうものが主ですね。生活指導は、体育祭とか文化祭などの学校行事、日ごろの生徒の自治活動の指導、夏休みの校外合宿、そういうことをやっていました。みんなが教務か生活指導かいずれかに入るというわけでもない。教務が七、八人、生活指導が七、八人でやっていたのかな。あとは部なんか属していないわけですよ。
樋渡 暇な先生がおおぜいいたということ? 
三戸 そうそう。担任をやるのも、何もやっていないのもいるという状況。六〇年代、管理体制が強まってくると、いろいろな専門の部を設けないと学校が能率的に運営できないということになってきたわけですよ。アメリカ式能率主義の管理方式だと言われていて、組合も、それは警戒しろ、たくさん部をつくったりするなという指示を出したんです。だけどどんどんつくられていっちゃって、気がついたときには六つも七つも存在していた。そして、教務部長をやると次は教頭、校長というコースが出てきた。
 戦後しばらくの間、校長にもかなり貫禄のある人が多かった。それは、教頭に相当する人を職場で選んでいたことが大きい。民主化の度合いによって多少違いますけど、だれにしたらいいかと校長がいろいろ聞くところもあったし、選挙で決めたところもあったし。その教頭があとで校長試験を受けるわけでしょう。だから、校長試験がいい加減なものであってもそんなにひどい人は校長に出てこない。へんな言い方だけど、そのこ、ろほだれがなっても床の間に置物にはなったんですよ。
樋渡 たとえば生徒部に属して生徒会指導をやる人は、ほとんど自分たちで発想して、やりたいようにやっていたわけですね。いまみたいにマニュアルができていて、一覧表を見れば四月から三月までやる仕事が全部書いてあるという状況じゃなく。
三戸 そうじゃなかった。二、三人の教師が対応してやっていましたね。大きな問題になると、その二、三人の教師が職員会議に提案してくる。場合によっては、生徒会長が直接校長室へ行って談判するということもずいぶんありましたよ。学校の売店のパンが高い、値段のわりには中のアンコやジャムが少ない、どういうわけだ、ピソハネしているんじゃないかとか、そういうことを言ってきたりする。校長もなかなか大もので、じゃ、練馬中のパンをみんな買ってこいと用務員さんに買ってこさせて、その日だけ、いつもとっているパン屋に中身を多くさせておいて、生徒の前で「どうだ」とやる。(笑い)

                                               
                                          (学校群制度で荒れる)
樋渡 六八年から学校群制度が始まったわけですが、何がどう変化しましたか。
三戸 ひとつには学校差をなくすという目的で群制度をつくったんだけど、群制度になってから余計ひどくなった。群にょる輪切りというやつで。群以前はまだ、あの高等学校はクラブが盛んだとか、ブラスバンドが盛んだとか、近いとか、そういぅことを狙って行く子どもがかなりいたでしょぅ。群制度になったらどこへ飛ばされるかわからないし、成績によって何群に行けということになっちゃったから、輪切りはいっそう・・・。
樋渡 選択の基準が点数だけになった、超薄切り体制になってきたということですね。
三戸 そうそう。一つの群に合格した生徒が順番で回ってくるわけだから、クジみたいなものでしょう。いままでよりは学力のある生徒が来るようになった学校もあるわけ。大学入試の成績もそれなりに上がったし、そういう学校はちょっと喜んだわけね。
 しかし生徒にしてみれば、群のなかでどこへ回されるかわからない。自分の行きたいと思っていた高等学校に行けなくて、行きたいないところへ回された子どもが、多いんですよ。最初から学校そのものを信頼していないわけだから。入るときも中学の教師から「「おまえの点数ならこの群しかない。この群を受けろ」と言われてくるわけだ。しかもその群のなかでも行きたくない学校へ行かされるということだと、最初からおもしろくないわけ。合格発表のとしに、たとえばわれわれの群だと大泉は「大」、石神井は「石」井草は「井」と、合格者の下に書いてあるわけね。そこへ行きなさいということでしょう。自分が行きたかった学校じゃない場合は、受付で合格証をもらったとたんに「チェッ、くそっ」とやる。そうするとわれわれもアタマへきて、「文句があるなら来るな」(笑い)。そういぅ意味では、三分の一ぐらいの生徒は最初さら教師との人間関係がうまくいかないわけですよ。
樋渡 そういえば、学校群制度最初の生徒が学園紛争を起こした生徒たちでしょ。
三戸 うん、そうね。学校群第一号が三年生のときに紛争を起こしたわけ。
 石神井高校では、大泉高校がいちばん大学に多く入る学校だから大泉に行きたかった、それなのに石神井に回されたという生徒が、ずいぶん紛争に参加した。最初からおもしろくねぇと思っているわけだから。
                                   つづく

盗人晩・私有することの罪 「法教育」のいかがわしさ

   盗人晩(ぬすっとばん)。1896年生まれの小山勝清が子供の頃までは、人吉盆地山沿いの村に残っていた習わし。
この土地を開き、立派にしてくれた沢山な人様の魂にお返しし申すのでござり申す。
『・・・わしは、とうとう考え出し申した。五十年も昔、わしがまだ若い者の時分、村の爺さん達が聞かして呉れ申した言葉が、仏さまのお告げのように、わしの耳に聞えて来申したのじゃ。お前さんも気づいていなさるじゃろうが、此村の地所でござい申すなあ、今では、一人一人境をうって、わがもののように威張って居り申すが、その始めは、一体、誰の物で、ござんしたろうか、みんなは、親ゆずりの物とばかり思うてい申そうが、そうじゃござらぬ。 
・・・ 『土地と言えば、百姓の命で、御ざり申す、その命が、人手から人手に渡って行き申す。さぞ、其処を新地した人、血の汗たらして、立派な畑にした人達あ、くやしく思うていることで御座んそう。なるほど、仏になれば、田畑を欲しいとは思い申すめえ、でも畑は、土ではござんさぬ、人の血と膏の塊でござり申す』 
・・ 『でな、お前さん。あの盗人晩だって、人の物を盗めと云うのではない、わし達百姓は、九月の十七日の晩だけ、みんな地所を元の地主、この土地を開き、立派にしてくれた沢山な人様の魂にお返しし申すのでござり申す。すると、其の仏さま達は、まだ何にも持たぬ無邪気な子供達にくれてやるんでござり申す。これでも子供達を助けて貰えますめえか・・・


 小山勝清はその転末を「盗人記」という一章に書き、「佐七老人の心の底には、物を私有することの罪と悲しみが、かすかにも、かくされていたのである。そして、年に一回だけは、総ての物の私有を否定する観念が、自から現れ出でたのである。  
 従って又、盗人晩と云う不穏な夜も、そうした良心のあらわれであることも判明する」と言い、「佐七老人は死んだ。盗人晩も今は無くなった。同時に、斯うした伝統の観念も滅びた。しかし、願くは今の人達よ、物の所有の正義と共に、独専、専有の悲しみを知れ」と結んでいる。 
 かつては盗人晩の一夜、私有以前の古い時間が、子供たちのなかに流れていたのだ。近代化はその水沢を細らせ、遂には滑れさせる過程であったが、ほんとうに滴れ果てたかどうか。あるいは深い見えない水脈が、子供たちの奥底に流れているかも知れない。ひとりひとりの子供のなかに流れているというよりも、子供たちという、子供自身も気づかない大きな集団のなかに」             高田宏『子供誌』新潮社 p29


  一体盗人はどっちなのか。佐七老人は江戸時代以前の記憶を体に持っていた。明治の法体系に容易く言いくるめられたりはしない、賢明である。
 「法教育」はこれを正しく扱えない。現在の契約を絶対視する英米法の概念を世界共通の概念と見なせば、盗人晩が犯罪。しかしそれは、タリバンを爆撃する米英を正当化することにもなる。タリバンとは生徒或いは弟子という意味。その生徒が学ぶお堂は村の集会所でもありイスラム教徒の心の拠り所でもある。そこをタリバンの根拠地として爆撃する。近代的校舎と教材を援助してお堂を破壊する。その合理化に使われたのが、ノーベル平和賞少女マララである。ノーベル平和賞はどこまでもいかがわしい。

  子どもや少年の、契約や消費の概念以前の古く永い記憶に繋がる感性を、中里介山やタゴールは捉えている。人々が排他的私有や侵略に囚われる以前の感性を。
 学校の時間、分けても日本のクラブ活動が持つ時間は、少年の時間感覚を衰弱させ、大人の商品的時間と同一化させる役割を持っている。日本の若者が歴史意識と経済学的感覚を持てないわけである。
 ホセ・マルティやボリバルの弟子であることをカストロに自認させた精神的基礎としての歴史意識を、日本の青年は確立できない。自立した歴史意識無しに社会構造の分析は出来ない。ファノン ルムンバ ムヒカ ・・・彼らを繋ぐのは、生活が商品化される遙か以前からの歴史的記憶である。
 盗人晩は怪しからん風習どころか、見事な歴史教育である。例えばかつてのベルギー国王レオポルド二世が、コンゴを国王の個人的私有地とし、資源とコンゴ人を欲しいままに
収奪・殺害(1000万人とも3000万人とも言われている)した事実とともに忘れてはならない。世代を超え大陸を超えた歴史教育上の遺産としなければならない。

追記   民俗学者の宮本常一が、子どもの頃の記憶を語っている。彼は1907年生まれである。
 「・・・私の郷里には、一年に三回ぐらい畑のものを漁民がとっていい日があった。一月の六日の晩は、どこの畑へ行って大根を抜こうが里芋をとろうがよかったんです。それが七草雑炊の材料になる。お盆の13日にも畑へ行って何をとってもよかった。とられちゃ困るものは、そこの家の人がみんな先にとっとくんです(笑い)。けれども、そういういじましいことをする人は、ほとんどなかった。 それから、もう一回は月見の晩です。これはいまでも多少各地に習俗的に残っておりますが、畑のものをとっていいんです」 1977年4.29『朝日ジャーナル』

ある都立高校教師の戦後教育四十年 3 勤評と能力主義

                                   承前

                                              (六〇年安保)
 六〇年、新安保条約を締結するときに例の国会闘争が起こって、岸内閣が倒れて池田内閣になった。あの安保闘争は非常に高まりましたから、生徒もすごく関心をもったんです。都高教は勤評闘争でスト指令は出したけど、ストはとてもできないだろぅというので執行部がスト中止指令を出した。都教組はやったけど。スト指令を引っ込めたのがよかったかどうかは別問題として、それを契機に都高校の組合運動はすごく停滞したんです。いままでやったことのない一日ストを四月二三日にやるんだというので、徹夜して職場会を開いた学校もあって、ぼくの学校でも徹夜して、校長と大喧嘩しながら職場会をやったわけ。やっと全員参加することになったところへスト中止指令がおりたでしょう。組合執行部は信頼できないと、執行部が不信任になったり、大騒ぎになった。都教組もたいへんだったんですよ。四・二三で突っ込んじゃって大弾圧をくらって、次つぎに逮補される、組合を脱退する人がふえたりして、組合運動が停滞したんですね。それが、六〇年安保で共闘組織ができあがってワーツと盛りあがってきた。放課後、みんなデモに行く。フランス・デモなんかやるとほんとうに闘っている感じがして、教師もよみがえってきた。
 生徒のなかにも、われわれも国会に行こぅというのが出てきた。職員会議で討議して、高校生が行ったら危険だから、国会へみんなで行くのほやめさせよう、署名運動ぐらいにさせようということになったんだけど、なかなか言うことをきかない。教師は、大事なことは安保についてみんなで勉強することだ、その是非について討論してみろ、と言う。それをやるわけね。ホームルーム討議が連日続くわけですよ。六〇年安保のときにはそれができたというのは、だいたいこの時期までは高校性の自治活動がかなり健全な形で続いていた、高等学校自体が活気があったということですね。そういうことが、この時期までは言えるんじゃないかと思います。

樋渡 私は六四年に高校に入りましたが、H・Rに担任を入れなかった経験があります。まわりの同年代の教師にもそんな人が多いようです。原水禁、ベトナム戦争、日韓条約、能研テストなどを、社研が訴えて議論し、高校の旗を立ててデモに参加、試験のボイコットをしていました。ホームルームは?
三戸 ホームルームは、あのころは水曜日の六時間目にあったんです。そのあと職員会議。生徒のほうで判断して、かなりやっていましたね。安保の問題が起こったときは臨時に毎日やるとか。そうでなくても何か議題を提供する生徒が何人かいて、それが、きょうはこういうことをやると担任のところに言いにきて、教師が行く場合もあるし、先生はこないはうがいいと言う場合もあるし。
 教師としてほ、そこに反省すべき点があるんですね。いまと違って生徒にかなり主体性があったものだから、放ったらかしにしておいた。それがだんだん崩れてくる徴侯があったわけでしょう。政策的には逆コースがどんどん進んでくるし、受験体制も徐々に強まりつつあった時期だから。
 そういう過渡期にホームルームをいい方向に発展させ、生徒会を民主的に発展させていくためには、そこで教師が何か手を打たなければならない時期だったと思うんです。なかには立派にやった人もいるんだけど、状況が比較的よかったものだから、教師集団としてはそれほど情勢の変化を自覚していなかったんでしょう、〝なんとかやってるワ″ということで終わらせちゃったきらいはある。生徒は、何か議題をみつけてはやっていましたよ。

                                              (自治の低迷)
樋渡 どんな議題だったですか。
三戸 それがだんだん幼稚になっていくんだ、そのころから。どうして掃除しねぇんだよ、というような。
 その前は、掃除の問題についてホームルームでやるということは、あまりなかったね。たとえば、二七年にはメーデー事件が起きて、宮城前で大騒ぎになった。教師もずいぶん参加していましたから、学校へ帰って、ホームルームなどでその話をするわけですよ。そうすると生徒のなかから討論が起こるわけ。「どうしてアメリカのMPはあんなひどいことをやったんだ」とか「使っちゃいけないことになっているのに宮城前に突っ込んだやつが悪い」とか。
 ところが六〇年ごろから、学校の中の小さなできごと、というと語弊があるけど、当時としてほコップのなかの嵐みたいなことがホームルームの話題になっていった。それでもやったんだから、いまから見れば立派なものだけど。
 あの時期、みんながホームルーム討議をきちんとやって、ホームルームを充実させることが大事だったんじゃないかという気がする。一部熱心な先生はいたけど、教員側が後手後手に回っていたというきらいはありますね。
樋渡 高校生のホームルーム討議の内容がそういうふうに幼稚になったのは、なんででしょう。
三戸 小・中学校からずっと教科書も変わってきたし、世間の風潮が変わったから親の教育観も変わってきたし、社会の問題にあまり目を向けないような方向の教育がどんどん進んでいたし、〝余計なことを考えないで勉強して、現役で大学へ入りなさい〟という雰囲気が、大人の問にどんどんつくられてきていた、それも大きいと思いますね。それから、安保が通っちゃうと安保体制ができあがって、そろそろ高度成長の段階に入っていくでしょう。教員自身にもずいぶん変化が出てきたと思いますよ、あのころ。

樋渡 ぼくが高校生になったのは六〇年安保が終わって四年目、安保闘争をきっかけにつくられた高校生徒会の横の組織がまだ残っていましたし、能検テストでは、生徒会の呼びかけで一斉にホームルーム討論が行なわれて、中庭でボイコット集会をしたり、担任がどうしてもホームルームへ出ようとすると、出入口のところで学級委員と担任がもみ合って教師を追い帰すという場面がしょっちゅうありました。それでも、教師から圧力をかけられて生徒会の横のつながりから抜けていく学校が多かったように思います。ぼくは、一気に民主的組織がなくなっていく不安を感ました。
 世の中では逆コースが始まっても、学校のなかでは自由と民主主義の精神が比較的貫かれていた。でも、五七年の勤評闘争から少しずつ学校の中の体制も変わって来たんじゃないかと。

                                            (勤評と能力主義)
三戸 そうですね。勤評問題というのは日教組の戦後いちばん大きな闘いだったでしょう。あのときは、地域の親たちと手を握って教育闘争をやっていくという成果も、あちこちで出ましたね。郡高教だってストライキはしなかったにしても、四月二三日に一斉休暇闘争をやろうということを夜通し職場会で討議する、そのぐらいの高まりが当時はあったわけです。だけど、結局勤評は通っちゃう。
 組合としてほ、それを骨抜きにする努力をずいぶんしたわけですよ。たとえは勤評昇給を事実上骨抜きにして、いまやっているような特別昇給という方向へもっていったりはしたけれども、全体として勤評が通ったあと、学校のなかの管理体制はどんどん強化されていきますね。校長にたいする管理職手当七%とか。一方政府は財界と一緒になって、能力主義・多様化路線をどんどん進めてくる。そして、教育現場に偏差値というやつが霹骨にもち込まれてくるわけです。高等学校のなかでも、とれぐらいの点をとっていれば○○大学に入れるというデータをどんどん整えていく。整えること自体悪くはないけれども、生徒がそれにふり回され、教員もそれにふり回される。よその学校に負けないように、夏休みに二〇日ぐらい補習をやっていい大学へ入れようとか。
 それから、六〇年前後に能力別学級編成が行なわれて、とくに英語・数学については、できる子・中ぐらいの子・できない子と三段階ぐらいに分けてクラスをつくったんです。これは結果的によくなかったものだから、自然につぶれていく学校が多かったけど、能力別学級編成をやるという動きがかなりあったんです。
 そういう受験体制のなかでも生徒自身の自治活動が、一部ではかなり続いていたところもあるけど、一般的に停滞してきましたね。教師のなかにはそれを心配して、なんとか生徒会活動をもう一べん活発にしよう、ホームルームも自主的にやれるようにしようと努力した人もいるんだけど、それはよほど教師に熱意があって、しかも指導力をもっていないとできないんですね。勉強にたいする主体的などりくみもどんどん失せてきて、受験に役立つと言われたことだけをやるようになるし、大学の志望についても現在に近い状況がそろそろ出てきたわけ。自分が希望する大学というよりも、何点とればどこに入れるという形が。
 体育祭などにも危機的状況が出てきたな。体育祭のとき、女の子がダンスをやるでしょう。七、八人の輪に分かれてやるんだけど、あちこち歯抜けになって四、五人ぐらいしかいないんだ。「どうしたんだ?」「駿台予備校に行ってます」(笑い)
 本人たちがやろうという意欲をもっていないから全然揃ってもいないし、見ていてもきれいじゃない。おもしろくないわけよ。文化祭のときは出席をとったら帰っちゃう。文化部自体が不活発になってきたから、文化祭の展示なんて字を書くだけで、見る人もあまりなくなる、そういう傾向が出てきていたわけ。
                                  つづく

子どもの権利条約は大人が読め

         「未来をひらく教育」99号論考に加筆
子どもの黄金時代は瞬く間に過ぎ去ってしまった。

 「いったいわが国の教育者の役割とはどんなことなのか。 壁と家具の番兵、家屋の静けさや把手や床の番兵である。大人の仕事やのんびりとした休息の邪魔をせぬよう追い立てる牧人………である。大人の特権を守る番兵であり、大人の道楽好きの気まぐれなふるまいの怠惰な行商者である。恐怖と警戒の屋台、道徳的ガラクタでつまった行商木箱、店から持ち出しの変性アルコールのように、もう香りもなにもしない、混乱させ、ただ眠らせるだけの知識を販売している。覚醒させ、蘇生させ、喜びを与えるかわりにである。陳腐な道徳の代理人。我々は、子どもたちには尊敬と従順を強制し、大人達には彼らが心から同情したりしばらくの間ここちよく興奮するのに手をかさねばならないというわけだ。ほんのわずかな金で強固な未来をつくりだす、欺き、隠しながら」

 これは、ヤヌシュ・コルチャックが世界大恐慌の年書いた「子どもの権利の尊重」の一部である。教員を「教室の暴君」であると批判した彼は、教育制度・学校・教員に対する不信・怒りを繰り返し書いている。65年前のポーランドの事とは少しも思えない。それゆえ、コルチャックの「子どもの権利の尊重」の精神を生かした「子どもの権利条約草案」はポーランドによって提出されたものである。
 去年、.二年生の「現代社会」(2単位)で「子どもの権利条約」について授業をした事を思い出しながら、コルチャックに叱られよう。

                                            こんな権利があれば
 去年は一学期に″民主主義とは何か″を、二学期は〝子どもの権利条約を、三学期には、自由なテーマと方法で発表や討論をした。
 二学期の中頃、高校生としてこんな権利があったらいいと思うものを一つだけ書いてもらった。

1、疲れたときは学校を休みたい、子どもにも有給休暇が必要。
2、私は私、他の子は他の子、同じじゃない。
3、子どもも選挙したい。子どもの党が必要だ。
4、先生達に文句を言う会みたいなものがあったらいいな。
5、すじが通っていれば、先生に口答えができる権利。
6、先生を裁きたい。バカに人格はないと言った先生がいる。
7、先生を生徒の力でやめさせる会議をつくりたい。
8、先生を選びたい。
9、自分たちで時間割や科目をつくりたい。
10、生徒の提案した授業をする。
11、学校行事は生徒が決めて、生徒が運営。
12、偏差値で評価されたくない。
13、中学では、進路は先生が決めた。自由に進路を選びたい。 
14、先生は生徒をひっぱたいていいの、まったく先生はジョーダンがきかない。
15、ストライキ権があったらと思う。
16、生徒も職員会議に出たい。
17、式に出ないですませたい。日の丸と君が代を好きになれない。
18、自由に外出する権利。
19、気が向かない時に堂々と授業を怠る権利。
20、いねむりをしても叱られない権利。
21、クラブを自由にやめる権利。
・・・

 二学期の前半で、世界の子ども、日本の子ども、学校の諸問題、子どもとは何か、について学んだ。
 僕は生徒達がうけた教育、うけている教育を教材化する事はとても大事だと思っている。なぜなら、学びは、経験の言語化を通してしか行われないからである。少年達が社会から隔離されつつあり、社会的経験に類するものは学校を通して、あるいは学校に関連しておこなわれるようになる時、唯一の残された社会的経験は学校経験となりかねない。勿論すべての少年がそうなっているのではないが。
 後半では、生徒達が欲している権利には根拠があるのか、実現の可能性はあるのか、「子どもの権利条約」 にそって考えた。

 3、「子どもも選挙したい。子どもの党が必要だ」をとりあげて授業をはじめた。

 いかなる権利が宣言されたとしても、行使の主体が形成されねばならない。永い間自称「民主」的教師たちの中にも、子どもを権利の客体とは見なしてはいたが、主体として認めることに大きな躇らいがあった。それは 指導 という概念と入り交じっでいた。
 僕の出身高校のある同級生は女生徒に大モテで、女日照りの僕らを羨ましがらせた。しかし彼には、深刻な悩みがあった、人を好きになれないのだ。恋愛に飢える僕らを羨ましがる始末だった。傍目にどんなつまらない恋愛であっても、たとえ片思いであっても、それが主体的なものであれば、百人の大金持ちのマリリン・モンローに愛されるだけの客体的なものよりはるかに素晴らしいのである。
 たとえば権利条約第28条が、教育への権利となっているのは、教育権の主体が子どもである事をはっきりさせるためである。従来は教育をうける権利としか書かれなかったのだ。しかし条約は子どもを権利の主体として認めてはいても、それを意見表明権という形にくるんでいる。18才以上であれば政治的主権者として参政権を持ち、自己決定権を行使し自らの基本的人権を守ることができるのだが、子どもの判断力を未熟と見て、意見表明権とした。しかしそうであっても、これは子どもの権利である。大人は表明された意見を尊重する義務を背負わされている。意見は年齢・成長に応じて正当に評価されることを12条で約束している。18才以上には自己決定権があるのだから、高校生の意見表明権は限りなく自己決定権に近いものとして尊重される。高校生の制服自由化を職員会議の多数決で生徒に〝許す″ことが妥当かどうか考えてみる必要がある。・・・という具合に。

 この意見表明権がどんなことについて及ぶのか、生徒たちの願いは明確にしている。
 たとえば、1について。寺山修司なら
「なぜ君は、休めないという現実をうけ入れるのか、君は十日間怠り続けることだって、学校をやめることだってできる。君は本当は自由なんだ」
と言うに違いない。しかし問題は、それをしても罰を受けないという事だ、自由に行動する権利とはそういうことである。
 あらゆるペナルティをひきうけ(それが責任ということだが)〝僕は自由だ〝誰も僕を止めることはできない″と、ルビコンを渡ることが青年には必要だが、ここではやはり、それが権利として保障されることを考えねばならない。
 そもそも、思春期の少年少女が、心と体、個と集団の厄介な諸問題に折合いつける為に、一時的に落ち込み籠ったりするのは、遊ぶこととともに、発達の上で不可欠のことではないのか。そして、こうした事柄は、信頼できる担任にだって親友にだって秘密にしておきたいのだ。雨が降ろうが槍が降ろうが、成績や出世の為、人に後指さされぬ為、あるいは他にする事がない故に登校、出社し続け、過労死する練習をすることはない。条約第三十一条は、子どもの休息、余暇に対する権利を認めている。
 2について、こんな事がよくある。自分の担任が信頼できず、調査書を三年生が内緒で見ると、案の定絶望したくなるような事が書いてある。そんな生徒が社会科準備室にやってきて 「先生、僕の調査書を寧いて下さい。このままじゃ、どこにもゆけないよ」そう言ってしょげる。フランスの規定では通知書の類に、本人の不利になることを載せてはならないし、本人には開示を求める権利がある。
 親や学校は、青少年の画一化や均一化を企てる力から一人ひとりを守らねばならぬ。にもかかわらず、その〝力″の代理人となりて、〝カ″が欲する以上の画一・均一化を、荒々しく、時にはやさしくやりとげる。ちょうど、ビシー政府がナチスが要求もしていないのに、子どものユダヤ人を逮捕し収容所に送っておきなかがら、「命令だったんだ、それ以外に道はなかったのだ」と言うように。こうした状況では、生徒達も過剰に適応し、集団の価値の中に自己を投入することでしか自由を見出せなくなる。他と異なることが彼ら自身によって排除される。信頼される教員や親が、自ら〝適う″存在として少年・少女の前に立ち現れるのは必要なことだと思う。〝秘密のない何でも言えるクラスづくり〟ではなく、〝秘密が尊重されるクラスづくり″がなされなければならない。そのため行事が全員参加でおこえないなどという事は取るに足りないことなのだ。子ゼもは決して全体の手段ではないのだ。
 条約第十八条は、子どものプライバシー、名誉の保護を約束している。プライバシー権は、私的な事を放っといてもらうだけではなく、自己に関する情報をコントロールする権利を含んでいる。推薦書・調査書に不利なことを書かれているのではないかと生徒を怯えさせるのは、制度的にやめさせなければならない。生徒達が要求している権利を条約がどう保障し、日本では外国ではどう生かされているのかを、ゆっくり説明した。特にフランス・イタリアの高校生の一九九〇年のデモとその成果については詳しく。

 あるクラスの一団が社会科準備室にやって来てこう言った。
 「先生が授業で言っていた事をやりたいので、それをやるためのサークルをつくる事になりました。先生、顧問になって下さいね」
 話合いは真剣だったらしく、そのクラスの大部分がそのサークルのメンバーになった。サークルの目的は彼・彼女らの貼り出しポスターのスローガンに集約されていた。〝学校は先生のもの? 生徒のもの? 学校を変えてみませんか″ 彼・彼女らが何をし、僕がどう〝指導″し〝指導″せず、どのように失敗したかについては、機会があったら報告したい。

 「子どもの権利条約について」の気持を期末テストの時に書いてもらった。
「今の日本の手どもたちは、ちょっと大きくなると〝弁護士になりたい〟〝医者になりたい″と言って、親を喜ばせる。うちの親は〝好きなことをやりなさい〟と言うくせに、クラブ活動をやめて好きなことをすると〝続けなさい″と言う。よくわからない。 フレネ学校の子どもたちには、つまらない人間になって欲しくない。 私の年齢になると、あきらめることばかり覚えて、コルチャックの子どもの人権宣言を読んで悲しくなった」 

 教育への権利の〝への〟部分の授業で、サマーヒル校や、フレネ学校の話をした。
 フレネ学校の生活に生徒達は大きく溜息をつき、深い関心を示した。しかし、たった17才で自由を知ると同時にそれを諦めようとしている自分に気づく堪らなさ。コルチャックの思想は、子どもの権利条約の思想的基礎の一つと言ってよい。そこには、たとえば〝子どもの数少ないうそやごまかしや盗みを認めよ″ 〝子どもには失敗する権利がある〟など大胆、かつラジカルな提起があり、生徒達の直感に訴えかける。


 「子どもの権利条約(批准)が廃案になった。父と話し合ったら〝子どもが選挙権をもつなんてあぶない″と言った。何があぶないのだろうか。大人は、子どもがいいかげんなものだと考ぇているのだろうか。でも、いいかげん・無責任にしているのは大人たちで、子どもたちが自分の意見をもって、大人にはむかうのを恐れているのだろうと思う。大人は子どもの強さを十分知っている。だから、それが大人に不利になると思っている」


 彼女は、子どもの権利条約の子どもの定義から、少なくとも18才以上、高三には選挙権が保障されるべきであることを踏まえて、父親と話し合った。
 大人は、あぶない未熟だと言い、責任をとらせず、従って自由も奪ってしまう。久野収が言ったよぅに、自由の対概念が束縛だけなら、誰もが自由をとる。しかし、保護も又自由の対概念でありうるし、大人や組織が責任を代行し保護して、その分だけ自由を捨てさせる。
 僕は樋口陽一教授の次の問題提起が気に入っている。
・・・校則を定めて、その仕切り線から外に出ないようにする教育とは逆に何をやっても叱られない、先生も咎めないという教育の仕方があるのではないですか。・・・不良になる自由、落ちこぼれる自由さえ認められて、生徒の側は大きく突き放される怖さの中で踏みとどまるかどうか・・・それが自由とか人権の問題に深く関わってくるのです

 教員が高校生を「子どもたち」と呼ぶのが気にいらない。若い教員までが〝あぶない〟〝まだ子ども〟を連発する。生徒達は〝保護″と、代行される〝責任″体制の中で、青年への大人への成長を拒まれ、いわば精神的纏足状態にある。生徒達は、「こんな現実を僕は受け入れない」とは言ったりはしないが、それを全面的に受け入れたくもない。だから父親と言い争い、あきらめることばかり覚えた自分を悲しんだりしている。
 「子どもの権利条約を、大人にもっと読ませるべきだ。そうすれば子どもだけでなく、大人の世界もよくなる」

 これを書いたのは、物騒な雰囲気に満ちた男子だった。子どもの権利条約が国連で議論されている時から、生徒達のこの条約への気持で変わらない点がある。すばらしい条約だが、日本政府はそれを批准しない。批准しても守らないだろう、大人はいつもそうだと。
 子どもの権利条約を知っていると答えるのは、小学生が最も多く、次いで高校生、そして中学生が最も少ない。彼等の学校の日常を反映している。
 コルチャックが批判した状況は変わったのだろうか、変わるのだろうか。長野の高教組は組織をあげて条約の問題として制服の廃止に取り組んで成功しっつある。変わりそうな気もする。変わらなければ困る。
 やはり、大人に、教員に読んでもらおう。労働者のサークルで読んで話し合ってもらったのだが、子ども観が変わるだけではない。子どもの権利の擁護者としての親であることの思想的自覚によって、先ず学校との対応が明確になる。次いで子どもの否定面の中に成長への肯定的要素を見出し、突んがっていた目や肩をおだやかにする事ができる。
 変わった親を見れば、子どもも変わるきっかけをつかめるのである。本気で子どもの権利条約を日本社会に生かそうとすれば、日本の政治社会構造を根底的に変えねばならない。

追記 子どもの権利条約は世間の記憶から消えたのか。18歳選挙権投票ごっこ騒ぎも、子どもの権利条約を知らんぷり。18歳選挙権では権利条約12条・意見表明権、13条・表現情報の自由、14条・思想良心宗教の自由、15条・結社集会の自由、など避けては通れない。曾て多くの大学で実施されていた学長信任投票制度すら思い出されなかった。
 戦中の1942年、内閣情報部「写真週報」は翼賛選挙実習をした小学校を「時局に応じて・・・翼賛級長選挙を行って大きな効果を上げています」と賞賛している。模擬投票ごっこを、軍国主義政府が奨励していたことを吟味する必要がある。

ある都立高校教師の戦後教育四十年 2 逆コースと抵抗

                                 承前
 ところが、政治のほうはもう逆コースに入っているわけですよ。二七年にはメーデー事件が起きてすごい弾圧がきているし、二八年には池田・ロバートソソ会談が行なわれて、愛国心を植えつけなきゃいかんと小うことを言い出している。一九五四年(昭和4二九年) には旭丘中学事件が起こっていますね。旭丘中学の教師が教育方針として掲げたことは、よく見ると立派なことばかりなんです。平和と民主主義の問題がずっと貫かれている。それにたいして、旭丘中学の先生がソ連を賛美したとか 『アカハタ』を材料にしたとか、いろいろ細かいことを突っついてほ弾圧を加えてきたわけです。
 五六年には教育委員の任命制が施行されるし、教科書調査官が設置されて教科書の検定が強化される。五七、五八年(昭和三二、三三年) ごろが勤評闘争で、ぼくはそのころ、二八歳で都高教の執行委員になって、職場を出て組合活動をやったわけだけど。
一連の逆コースのなかでも、まだ高等学校の内部は崩れていなかったですね。教員はもう動揺していました。というのは、年配の教員は戦前の教育をずっとやってきて、天皇陛下のために立派に死ねる人間になりなさいと教えてきたわけでしょう。それが急転直下戦争に負けて、GHQが出てきて、マッカーサーの指令で、民主主義と平和の教育をしなければいけない、日本史の教科書は使ってはいけないとなってきた。そういうなかで、親分が替わったんだ、今度はアメリカに逆らっちゃいけないんだ、というふうな人たちも少なくなかったから。校長も教育長もアメリカにたいして恐れをなしているわけですから。

                                            (逆コースと抵抗)
 政治が逆コースになれば当然役所にも校長にもその指示が流れてきますから、生徒の運動が社会主義的な方向に走った場合は早目に抑えなければいけないとか、もうそろそろ「君が代」を歌わせ、日の丸を揚げさせたほうが教育長や文部省の覚えがいいという動きが、校長や、それにおべっかを使う教員の間からは当然出てきた。だから当然圧力はかかってきた。
 だけど、ばくらみたいに戦後教員になった連中は、二度と昔のような軍国主義にしちゃいけない、言論の自由は守らなければいけないということは痛切に感じているし、大学でも徹底的に叩き込まれているから、そういう若手の教師が抵抗するわけです。だから職員会議が猛烈長引くわけ。毎週のように夜一〇時ぐらいまで、教育の根本的な問題を論争する。たとえば体育祭のときに日の丸を揚げるか、「君が代」を歌わせるかで大論争になって、社会科の教師なんか興奮しちゃって、「そんなにわからないなら、フランス革命の精神を教えてやる」なんて絶叫するのも出てくる(笑い)。
 夜一〇時ぐらいまで論争したあと飲んで、どこかへ泊まって、翌日そこから学校へ行くということもしょっちゅうあったわけです。その論争が楽しくてしょうがないという教師もいた。
 生徒のほうも、そういう圧力がかかってきたときに結構しっかりしているんですよ。たとえば、アメリカの占領軍が日本人を車ではね飛ばして、救おうとしない、その写真を社会部の生徒が貼るでしょう。そうすると、「その写真はちょっと偏っている、はずせ」とやられる。教師は間に入って、貼らせてやりたいけど校長は絶対にはがせと言うし、PTAの役員からもうるさいことを言ってきている、どうしようかと動揺するんですね。生徒は、わかりましたと言ってその写真を裏返しにて、裏に校長から貼るなと言われました」と書いて貼っておくわけ。お客さんはみんな、どうして押さえられたんだろうと、おもしろがって全部見ていく(笑い)。効果満点なわけです。そういう気のきいた生徒が多かったですね。自覚していたんでしょう。
 「君が代」についても、職員の半分ぐらいは反対しているんだけど、わずか一票か二票差で、体育祭で「君が代」を歌おうという結論が出たんです。こういう点ではいまよりもかえってやられちゃう場合があるのね。いまは昔と比べると反動化しているとはいえ、行事で 「君が代」を歌うかどうか、どこの学校でもそう簡単には職員会議で決まらないでしょう。ところが当時は、さっき言ったように半分ぐらいの先生は平和とか民主主義についてはんとうの自覚はなくて、〝戦争が終わって、気がついたら主が変わっていた″というのだから、校長が歌わせろと言えば、あ、そうですか、となっちゃう。半分ぐらいの教員がそれに抵抗したんだけど、一票差ぐらいで「君が代」を歌うことになっちゃった。
 ところが生徒は毎夜六時ぐらいまで生徒総会をやって、賛成派・反対派、次つぎと壇に立って討論する。こちらも途中で校長が中に入ったりして、わずかの差で歌うことが決まるわけ。いざ体育祭で音楽の先生がオルガンで「君が代」の伴奏を始めると、三分の二ぐらいの生徒が黙って立ってきるんです。沈黙して抵抗している。歌わないんですよ。校長も唖然として、翌年から歌わせないというふうになっていく。この時代には、生徒のなかにそういう自主性・主体性がかなり生きてましたね。その動きが、六〇年安保までは続いたんじゃないかと思ぅんです。学校によって相当違いがあるかもしれないけど。
                                    つづく

ある都立高校教師の戦後教育四十年 1

  この回顧のもとになったのは、全国民主主義教育研究会機関誌『未来をひらく教育』誌上で1985年におこなった座談会「戦後教育の四十年」。
 今、30年余りが過ぎ「戦後教育七十年余」が企画されねばならない時期を迎えている。  異なる世代の都立高校教師四人で議論したが、ここでは石神井高校の三戸先生の発言を抽出して紹介する。          話し手 三戸孝 / 聞き手 樋渡直哉


                                      (教師も生徒も目的をもっていた)
 ぼくは将校になるつもりで、終戦の年に陸軍士官学校へ入ったんです。八月に戦争が終わって、一〇月に、士官学校や兵学校へ行っていた連中は大学の編入試験を受けてもいいという通達が出た。戦争犯罪人になりかけていた連中にとっては、すごくありがたい通達だった。一〇月に大学に入って、卒業したのが朝鮮戦争の翌年の昭和二六年です。旧制大学というのは予科三年・学部三年の六年間で、予科の三年間は旧制高等学校と同じような生活なんです。語学と哲学と文学だけやっていればいい。あとは何もやらないで、高下駄をはいてマントを着て歌をうたってりやいい。食うものはほとんどない。だから空腹なんだけど、ものすごい自由があるし、希望があった。大学教授と学生が対立して争うなんていうことはおよそ考えられなかった。教授もみんな、平和になったんだ、これからは民主主義なんだ、昔みたいに軍隊に威張られることはないんだ、どんな勉強をしてもいいんだ、何を言ってもいいんだ、右から左まで何をやったってかまわないんだという雰囲気のなかで、毎日が希望に満ちていた。ほんとぅに自由を満喫した時代が、この六年間だった。

                              (平和と民主主義を言わないと教師になれなかった)
 二六年にぼくは都立高校の教員になったんだけど、採用試験がいまと全然達う。八潮高校で面接があった、指導主事がたった一人で面接するわけです。「どういう本をお読みになりましたか」と、作家・哲学者の名前をズラッと並べる。「カントは読みましたか」と、向こうが切り出してくる。あのころは、そういう本はだいたい読んでいた。そのあと、「なんで教師になろうと思ったんですか」という質問があった。「二度と戦争は起こしたくないから、平和ということを若い人たちに教えたいんだ」と、これが当時、優等生の答なんです。平和と民主主義ということを言わなかったら教員にしてもらえない。作文が「革新と伝統」だったかな、原稿用紙に二枚ぐらい書く。そこでも平和とか民主主義といぅことが貫かれないとダメなわけ。とくにぼくは士官学校に行っていたから、まだ軍国主義が抜けてないんじゃないかと、指導主事はちょっと警戒したらしい。
 そういう状況のなか、ぼくは教員になった。その年、講和条約(安保条約)が結ばれたわけです。生徒はすごく活気があったね。生徒会長の選挙には四人も五人も立候補して、各部屋を演説して回るわけですよ。職烈な争いになる。演説の内容もなかなか高級で、教員になったばかりのぼくなんかよりはるかに気がきいているし、字もうまいし、優秀な生徒がたくさんいた。そういう生徒会活動をやったやつが、国立大学一期校などにどんどん入って行った。クラブ活動も、運動部も文化部も非常に活発だった。

                                      (松川事件もゾラも、安保も、授業も)
 この時期は文化部がすごく活発だったですね。社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。文化祭にかぎらず、音楽部主催でオペラなんかどんどんやるんだから。文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる。檀一雄さんは家が近かったし、親戚の子もきていたし、よくきてくれましたよ。読書会もやっていて、これは教師も自由に参加できるし、ぼくは若かったからあちこち呼ばれたけど、ゾラとかツルゲーネフとか、ヨーロッパの翻訳ものが多かったわ。ロマン主義のもあったけど、自然主義文学を当時の生徒はよくやりました。ゾラの『居酒屋』 とか 『ナナ』 とか、ああいう類いのものを。みんなすごく読んでくるから、こっちも読んでいさないと教師のほうがやられちゃうんだ。
 文化祭の前は二、三日徹夜して展示をやる。ぼくが顧問をしていた社会部では、当時の生徒は政治意識も発達してきたから、安保条約の内容はけしからん、なぜ単独講和をしたんだと、それをどんどん発表するわけですね。
 その背景には、教科内容が伴っていたわけ。当時社会科では一年で 「一般社会」というのがあって、全員が週五時間やるんです。憲法、民主主義の制度、資本主義と社会主義の問題、農村問題、労働問題……。
いまと違うのは、労働問題などにすごくページ数をさいているものだから、大学時代の知識だけではやれないんだ。相当勉強しないと全部こなせない。いまの倫社部分はほとんどなかったですね。ほとんど政治・経済だった。それを五時間、全員がやる。
 二年生になると世界史・日本史・地理に入っていく。とりわけ世界史が充実してきたかな。生徒も、近・現代史にいちばん興味をもちましたね。フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ。たとえば 「ここで平等と言っているのは機会均等なんだ、経済的にも何も全部平等ということじゃないんだ」というようなことを言うと、少し社会主義の勉強をしたような生徒がパッと立って「おかしいじゃないか、そんな平等があるか、平等というのは経済的にも平等じゃなきゃだめなんだ」と。それにたいして教員も反論する。
だから、授業のなかで自然に教師と生徒の討論になるということもずいぶんありましたよ。
「君が代」・日の丸問題でも、「君が代」を歌うか歌わないかということが生徒のなかで論争になるわけね。
 ぼくは大泉高校で教えていたんですが、当時の都立高校には、一般的にそういう雰囲気があった。ぼくが大学のときに味わってきた自由な雰囲気と似たものが、都立高校にあった。しかも都立高校の水準もかなり高かった。
                                                                                                    つづく


あきらめるな 「自由は不自由の間にあり」

                                                                1988秋『未来をひらく教育』掲載に加筆

 エジプトを征服したカエサルは、古代最大にして最高のアレキサンドリア図書館所蔵の70万巻を焼いた。その後、イスラムの第二代正統派カリフ、オマールはアレキサンドリア制圧とともに同図書館に残された文献すべてを焼却した。
 オマールはこう言い放ったという。
 「図書館にある書物はコーランと一致する内容のものであるか、さもなくば一致しないものかのどちらかである。前者ならコーラン一冊あれば事足りる。又後者なら偽りを記した有害な書である。従ってどちらの場合も燃やしてしまうのが適当である
こうして文献は六ケ月の長きにわたり風呂で焚かれ続けた。妙な説得力がある。しかも力強い。

 高校生が教師に向ってこう言ったそうだ。
  「先生の授業、さっぱりわからない、改善して下さい」
  「いいだろう、しかし君達がさぼってわからないのではない事を証明して欲しい。努力すれば点が取れるという事を」そう教師はこたえ、高校生達は授業ではなく教科書をあてに勉強し、見事点数を上げ、再び教師にせまった。教師は悠然とこうこたえた。
  「やれば出来るじゃないか、これで私の授業に欠点があるのではなく、君達の側に努力不足があった事がわかったわけだ」オマールと大して違わない。

 ある女子高で生徒達は服装のささやかな自由化を要求した。担当教師はこう言った。「よくわかった。だがこれは規則だ、変えねばならない。変えるには、変えた規則を君達が守ることを約束してほしい。口ではなく態度でね。今の服装規定を全員一週間守ってみよう」教師のことばに励まされて生徒は頑張った。期待しながら女子高生は教師の言葉を待った。
 「よくやった、立派だ。今の規則がこれだけ守れるという事は、今更それを変える必要はないという事だ。この話はこれで終り」担当教師は己の説得力に自ら相槌をうち、生徒は言葉の虚しさに唇をかんだに違いない。

 誰だってやる気失うだろう。「教師には生徒に最善のものを与える義務がある」と言いながら、行事などでアンケートをとっておいて、無視することも珍しくない。どんな意向が表明されようと、結論は既に出ているのだ。
 処分退学には追い込めず、しかし管理上不都合な生徒に自主退学を迫る時には「まわりの迷惑もさる事ながら、本人の為にもならない」から退学させるべきだ、だが本人の不利にならないよう自主退学にと言う。処分退学には、面倒な書類を提出しなければならないし外聞も良くない。いずれにせよ、追放するとの結論は揺らがない。何が最善か、為になる事か、それを決めるのは本人ではないのか、たとえ失敗したとしても。それが自由であり、成長の原資である。
 「生徒はまだまだ未熟だ、決定するには、知識も判断力もない」、これも耳にタコが住み着いたかと思う程よく聞く。そんな生徒もいるだろう、ならば彼は自らの判断でアドバイスを求めることが出来る。それを迫るのが毅然たる指導というものだ。当の教師本人が高校生の頃いくら幼稚だったからと言って、今だに乳臭いからといって、目の前の生徒を十把ひとからげに未熟にしては無礼である。「生徒の中に俺より優れた者は幾人もいるはずだ」と少しぐらいは不安と畏れを抱くべきではないか。実際そうなのだから。

 「先生、今日お話していいですか」土曜の午後、生徒がやって来た。彼女は自立と自由を重んじる私立中学から入学した変わり種。中学では教師抜きの修学旅行を計画した事もある。旅行社との交渉も。
 「もう疲れちゃった。何やっても、何言っても、全然変わらない。授業も、行事も、生徒会も」
 詰まらない授業や下らない試験をする教師に面と向かって、一人で堂々と職員室で批判を展開する彼女の話を同僚から聞いて、僕は女闘士をイメージした。だが二年になって授業に出ると、小さくて可愛らしい、勉強ずきな好奇心あふれる生徒だ。
 「もう、だめね」、そう言って彼女は、進路について希望をこめて語った。そうだ望みを捨てるにしてもこの学校と教員に限定してくれよな。彼女がわざわざ自由な私立をやめて都立高校に来たのは、普通の生活の中で自由と不自由を確認したいからであった。
 「僕は君がたった一人いるおかげで君のクラスは変わったと思ってるよ。皆自由に発言するだろう、いいなァあの雰囲気、あれは君がつくったんだ。ありがとう」
 「そうかしら、私が役に立っているのかなァ、そんな風に考えた事なかった」 あきらめさせないぞ。

追記 彼女は、新潟大学で行動科学を専攻して大学院に進み、スイスに留学したがその後を知らない。話してみたいとおもう。福沢諭吉は「人の自由は不自由の間にあり」と言った。彼女はこの言葉を知っていたのではないかと思う。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...