ある都立高校教師の戦後教育四十年 4 紛争と学校群

                                承前

                                      (おこるペくしておこった ″紛争″)
 それをなんとかしなきゃいけないと思って一部の教師は熱心にいろいろテコ入れしたし、それに応じてくる生徒も一部分いたんだけど、結局は学校側も受験のほうに流れちゃって、生活指導の面でほんとうにとりくんでいく教師は非常に少なかったから、これがやがて紛争のときに爆発してくるんですよ。高校生の場合は、政治問題については大学生から焚きつけられたということはあっても、彼ら自身のなかで何かモヤモヤしたものがある、大学生の兄ちゃんたちが騒いでいる、じゃおれたちもやれ、体制的なものは全部反対すればいいんだという傾向も出てきて、六九年ごろから騒ぎになったんですね。三学区のある高等学校では、六九年の三月に卒業式が紛砕された。
 だから、むしろ七〇年の前年ですね。東大闘争の年にあちこちの高等学校で紛争が起こった。自治会活動が非常に不活発になったということも紛争が広がっていく大きな原因になった、これは押さえておかなきゃいけないんじゃないかと思いますね。
樋渡 そう。生徒の要求実現の場である生徒自治会が崩壊した時期に、高度成長や能力主義や偏差値、いろいろな問題が高校生のうえにふりかかってきて、まさしく起こるべくして高校紛争が起こった。ある意味では正常な拒否反応とも言えるかもしれない。高校生のところへ直接やってきた最初の管理的な傾向だったわけですから。
 戻りますが、勤評闘争以降、学校の分掌がだんだん細かくなってくると思うんですけど、それまで、たとえば生徒会指導というのは分掌としてやっていたんですか。

                                              (分掌の細分化)
三戸 戦後初期の段階は、ぼくが教員になってしばらくの間もそうだけど、分掌というのはそんなに分かれてなかった。分掌をたくさん分けるというのは、役所の側のひとつの管理なんです。ぼくの記憶では、教員の属する部は教務部と生活指導部の二つしかなかったです。進路指導なんてなかった。図書は確か、教務部のなかに入っていた。清掃などは生活指導部のなかで扱う。教務はいま教務がやっている仕事、時間割とか卒業式をどうやるかとか、そういうものが主ですね。生活指導は、体育祭とか文化祭などの学校行事、日ごろの生徒の自治活動の指導、夏休みの校外合宿、そういうことをやっていました。みんなが教務か生活指導かいずれかに入るというわけでもない。教務が七、八人、生活指導が七、八人でやっていたのかな。あとは部なんか属していないわけですよ。
樋渡 暇な先生がおおぜいいたということ? 
三戸 そうそう。担任をやるのも、何もやっていないのもいるという状況。六〇年代、管理体制が強まってくると、いろいろな専門の部を設けないと学校が能率的に運営できないということになってきたわけですよ。アメリカ式能率主義の管理方式だと言われていて、組合も、それは警戒しろ、たくさん部をつくったりするなという指示を出したんです。だけどどんどんつくられていっちゃって、気がついたときには六つも七つも存在していた。そして、教務部長をやると次は教頭、校長というコースが出てきた。
 戦後しばらくの間、校長にもかなり貫禄のある人が多かった。それは、教頭に相当する人を職場で選んでいたことが大きい。民主化の度合いによって多少違いますけど、だれにしたらいいかと校長がいろいろ聞くところもあったし、選挙で決めたところもあったし。その教頭があとで校長試験を受けるわけでしょう。だから、校長試験がいい加減なものであってもそんなにひどい人は校長に出てこない。へんな言い方だけど、そのこ、ろほだれがなっても床の間に置物にはなったんですよ。
樋渡 たとえば生徒部に属して生徒会指導をやる人は、ほとんど自分たちで発想して、やりたいようにやっていたわけですね。いまみたいにマニュアルができていて、一覧表を見れば四月から三月までやる仕事が全部書いてあるという状況じゃなく。
三戸 そうじゃなかった。二、三人の教師が対応してやっていましたね。大きな問題になると、その二、三人の教師が職員会議に提案してくる。場合によっては、生徒会長が直接校長室へ行って談判するということもずいぶんありましたよ。学校の売店のパンが高い、値段のわりには中のアンコやジャムが少ない、どういうわけだ、ピソハネしているんじゃないかとか、そういうことを言ってきたりする。校長もなかなか大もので、じゃ、練馬中のパンをみんな買ってこいと用務員さんに買ってこさせて、その日だけ、いつもとっているパン屋に中身を多くさせておいて、生徒の前で「どうだ」とやる。(笑い)

                                               
                                          (学校群制度で荒れる)
樋渡 六八年から学校群制度が始まったわけですが、何がどう変化しましたか。
三戸 ひとつには学校差をなくすという目的で群制度をつくったんだけど、群制度になってから余計ひどくなった。群にょる輪切りというやつで。群以前はまだ、あの高等学校はクラブが盛んだとか、ブラスバンドが盛んだとか、近いとか、そういぅことを狙って行く子どもがかなりいたでしょぅ。群制度になったらどこへ飛ばされるかわからないし、成績によって何群に行けということになっちゃったから、輪切りはいっそう・・・。
樋渡 選択の基準が点数だけになった、超薄切り体制になってきたということですね。
三戸 そうそう。一つの群に合格した生徒が順番で回ってくるわけだから、クジみたいなものでしょう。いままでよりは学力のある生徒が来るようになった学校もあるわけ。大学入試の成績もそれなりに上がったし、そういう学校はちょっと喜んだわけね。
 しかし生徒にしてみれば、群のなかでどこへ回されるかわからない。自分の行きたいと思っていた高等学校に行けなくて、行きたいないところへ回された子どもが、多いんですよ。最初から学校そのものを信頼していないわけだから。入るときも中学の教師から「「おまえの点数ならこの群しかない。この群を受けろ」と言われてくるわけだ。しかもその群のなかでも行きたくない学校へ行かされるということだと、最初からおもしろくないわけ。合格発表のとしに、たとえばわれわれの群だと大泉は「大」、石神井は「石」井草は「井」と、合格者の下に書いてあるわけね。そこへ行きなさいということでしょう。自分が行きたかった学校じゃない場合は、受付で合格証をもらったとたんに「チェッ、くそっ」とやる。そうするとわれわれもアタマへきて、「文句があるなら来るな」(笑い)。そういぅ意味では、三分の一ぐらいの生徒は最初さら教師との人間関係がうまくいかないわけですよ。
樋渡 そういえば、学校群制度最初の生徒が学園紛争を起こした生徒たちでしょ。
三戸 うん、そうね。学校群第一号が三年生のときに紛争を起こしたわけ。
 石神井高校では、大泉高校がいちばん大学に多く入る学校だから大泉に行きたかった、それなのに石神井に回されたという生徒が、ずいぶん紛争に参加した。最初からおもしろくねぇと思っているわけだから。
                                   つづく

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