世界が聞こえるということ  教室を聴く

耳は世界を聴く
  数年前、耳が突然聞こえなくなり始めた。突発性難聴ではない。目の前の人の喋る内容がわからないのである。まるでチャーリーブラウンのアニメに登場する大人の声のように、音はするが不明瞭なのだ。焦った。インターネットで世界中の耳鼻科論文を検索して、「耳の機能に関するリハビリテーション」を探した。 地元の耳鼻科に行けば、補聴器を進められるだけであることは分かり切っていたからである。
 火事場の馬鹿力というが、肉体的力だけではなく、こんな時には苦手な英語さえ読んでしまうのには驚いた。その結果、英国の学者たちの最新の報告が目に飛び込んだ。聴力を突然失ったり低下させた患者たちに、「好きな音楽、出来ればクラシック音楽を、一日8時間以上ヘッドホーンで聞かせ続ける」というもので、かなりの効果を示していた。ただ、音楽を聴くだけではなく、ステロイド剤を投与しなければ効果はない。僕は持病の関係でステロイド剤は使いたくなかった。同じ治療を取り入れている病院を日本の病院を探したが見つからない。
 幸い手元に高性能のヘッドホンがあり、パソコンに好きな音源を蓄えていたので早速試すことにした。僕はベートーベンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」に強い思い入れがあって、毎日聞いても飽きない。早速試したが、これが「皇帝」かと思うほど不快な雑音の塊である。驚いた、しかし中にそれとわかる箇所がありそれを手掛かりに聴くと、特定の楽器の特定の音階が聞こえていなかったり、割れて響いていることがわかった。ああここはこういう音だった筈と、記憶の中から音を補うのである。しかし、ヘンデルのラルゴなど優しいメロデイは全く何の曲かもわからない、音が出ていないかと疑うものもあった。妻に聞き、音響機器で音が出ているのを確かめるだけである場合は、不安が覆い被さってきた。それでも一日の終わりに、再び「皇帝」を聴けば僅かに聞こえがよくなったように思えた。これを十日程続けて、だいぶ改善してきたことがわかるようになった。ドボルザーク「我が母の教えたまいし歌」も殆ど聞こえなかったのだが、大部分が聞こえたときには、思わずその美しい調べに涙が出た。外出の際には、妻が僕の耳元に口を近づけて話せば事足りるようになった。こうして約一月、僕の聴力はほぼ回復した。
 おかげで、たった一つの楽器の特定の音域が欠けただけで音楽の価値は大きく損なわれることを知った。以下はその長い退屈極まりない耳リハビリをしながら考えていたことである。

 世界が聞こえるということ

 生徒・学生集団の動きや想いを、交響曲として捉えてみる。
 ある狭い音域、ある小さな短い音、楽器、ある年齢層の声が認識できない。まさしくここ何年かの僕の耳だ。ある音符が示す音が僅かにずれた一の音として聞こえたり、別の演奏できけば正常に聞こえたりもする。ごく僅かのことだと想われる。カントの言う「小さな違いが大きな違い」。断片的には聞こえているかも知れないのだが、纏まった音として認識する能力を失っている。バイオリンやソプラノの音声の、細く明瞭に光りながら夜空に吸い込まれるような美しい響き。それが途切れて張りのない不安定なたるんだ不快な音してしか認識できない、ある狭い周波帯の音、ある音量の音で構成される僅かな音域が聞こえない聞き取りにくくなるだけで、例えば人のバリトンの肉声やピッコロの音が他の不快な音として認識されてしまうらしい。全体を構成する部分にはそれぞれ役割がある。交響楽団の大音響の中で一本のフルートなどは聞き取るのも困難なほどだが、聞こえ無くなってみると、全体の豊かさを大きく損なってしまう。
 耳の機能が故障している。部分的に破損している。それが一つだけの狭い音域で短かく小さい場合、聞く側が補うことがあるかも知れない。ともあれ、微かな短い音が欠けるだけで音楽の豊かな味わいは一気に損なわれる。耳の故障障害が困じて複数の領域で音の認識が出来なくなる。とそれが何の曲なのか全く分からなくなる。更にすすめば美しさを構成していた音の断片は、不快な音の固まりになる。音を通して世界を総体として理解することが困難になる。少しずつ音が断片化剥離して、僕は世界を認識するすべを劣化させてゆく。少しずつ音全体が小さくなりやがて何も聞こえなくなるのではない。僕が僕自身であることを認識してきた音の世界をとらえる手段を失う。世界から聴覚的に疎外される。
  
 クラスの一人ひとり楽器と見なしてみる。教師の耳が破損して、生徒たちの音色を聞き損なえば、美しい音色が聞こえない。ハーモニーを不快に捉えてしまう、いくつかの楽器で構成する和音が、和音ではなく不協和音・騒音にしか聞こえない。打楽器もある音域が不調であったり聞こえなかったりすれば、リズムとして認識できないだろう。折角の交響曲が、数十分の不快な雑音、音の拷問にさえなる。この場合の「聞こえない」「聞き損なう」とはどういうことだろう。 生徒同士の場合もある。教師と生徒集団の場合もある。  

   高一は中学生らしさが抜けない。みんなと同じであることに喜びを感じる。だが次第に、みんなと同じでない自分に気付く。昨日まで持ち物が一緒というだけで喜んでいたことが疎ましくなるのに、登校すれば笑いながら同調してしまう。同調してしまう自分自身を嫌悪する。だから遅刻する、遅刻すれば、無理矢理の同調はしないで済む。だが、昨日までの仲間の視線が冷たく感じられる。それが思春期である。春は美しく輝くばかりではない、猛毒の虫や花も姿を現す危険な季節でもあってトラブルも増える。音や音楽の好みも、中学生のそれから大人のそれに近くなる。アニメ主題歌ばかりを共通の好みにしていたのが、多様に分かれてゆく。こんな時期に無理矢理和音を強制するのは、酷である。

   だが二年生になれば、多くの生徒は危機を乗り越え、同じでない級友と同調ではなく対話を通して理解を深めてゆく。この作業に馴染めなくて、疎外感を抱くものが出てくる。こんな時事態を改善するのは、意外な者であることが多い。喧嘩相手や嫌悪感を持つ者が、何かの拍子に見せる表情や言葉が、突然「こいつは分かってくれていたのか」と思わせるのである。そしてクラス全体が急に開放的に感じられてくる。共同作業も、互いの違いがかえって世界を広げる。こんな時には、いい和音がリズムが自然に生まれてくる。強制はかえって美しい和音の幅を狭めてしまう。驚くべきエネルギーと創造性が自然に湧き出すのだ。

知識人にとって第一の義務は、同道の仲間を批判することである

行動を決断するのは道徳的選択である
  「知識人にとって第一の義務は、同道の仲間を批判することである。 
 知識人が沈黙を選択することもあるわけだが、それは、自分と一体だとみなす人びとがたまたま過ちを犯したとしても、結局は万人のために善かれと思ってしたことだと考えることにして、かれらを裏切ることを恐れるからだ。 
 こうした悲劇的な選択が生んだ物語はいくらでもある。そのために、信じてもいない闘いに死をもとめ、命を落とすひともいる。それは忠誠を真実と取り換えることができると考えたせいだ。けれど忠誠は倫理的カテゴリーであり、真実は理論的カテゴリーなのだ。もちろん知識人の役割が道徳と無縁なわけではない。行動を決断するのは道徳的選択である」ウンベルト・エーコ 『永遠のファシズム』 
 戦争のような重大な決定についてだけ、このような問題があるわけではない。例えば生徒の茶髪に関する職員会議決定。これも「たまたま過ちを犯したとしても、結局は万人のために善かれと思ってしたことだと考えることにして、かれらを裏切ることを恐れる」問題なのだ。こうした問題にさえ拘れない者が、戦争に反対することが出来るだろうか。個人的に反対と呟き、反戦デモ程度には加わるだろう。
 だが、「結局は・・・かれらを裏切ることを恐れ」て、「茶髪の問題」で見過ごした選択がもたらすものを考えねばならない。「確かに授業で表現の自由は教えた。表現の自由は個人の人権であり、たとえ国家であっても奪えないと」しかし同じ口が、「職員間の和に比べれば他愛のない問題ではないか」と社会に向かって言ってしまうのだ。「信じてもいない闘い」つまり校門に立って頭髪検査に加担してしまう。「教室で話した真実」の代わりに、「職員室の忠誠」がなると考えるのだ。
 教員仲間の「脱法」行為を肯定して、生徒と生徒に教えたことをともに裏切ったものが、「さあ今こそ戦争に反対して、表現の自由を行使しよう」呼びかければ、生徒たちは冷ややか反応するだろう。その裏切り方が鮮やかであればあるほど、青少年の反発は大きい。裏切りの教師が平和を叫べは叫ぶほど、青少年は国家への忠誠に走る。
 そして、平和の価値を忠誠に置き換える生徒を、教師は驚きの目で見てみせるのだ。まるで他人事と言わんばかりに。

  維新の会などの反動的政策に、若者や弱者が易々と取り込まれるのはこの点なのだ。彼らは、教師の裏切りに我慢がならないのだ。例えば見かけ通りの酷い奴が悪事を働いても、その酷い個人を憎めば済む。しかし、善良正直が看板の教師が悪事を働らけば、憎しみは個人を超えて教師一般に広がる。保守政党が汚職しても批判は軽い、しかし革新政党が同じことをすれば、致命的な傷を自分自身だけではなく仲間にも与えてしまうのと同じ構図である。
 教師一般への憎しみを若者が共有すれば、安部が飛ばす「日教組」という野次は、共感を持って迎えられるのだ。そして攻撃は「日教組」の枠を超えて激化する。
  
 橋下や安部の政策・思想を批判するとき、我々は我個人でなく職業集団としての教師の振るまいへの自己批判から始めねばならないのだ。単に彼らの誤りをいくら指摘しても、効き目はない。彼らの結束を固め、同調層を広げるばかり。厄介なのだ。

 「知識人にとって第一の義務は、同道の仲間を批判することである」。教師は、仲間を批判して孤立することなしに、言葉の真実性を証明することはできない。常にそうではないが、たいていはそうである。
 フランスの教師たちのように、学生生徒の自由と権利を求める街頭行動に、教師が集団として関わるようになれば、話は別だ。フランスでリセの教師を教授と呼ぶのは、こうした行動ゆえなのだ。教師が従わねばならぬのは、「真実は理論的カテゴリー」という判断である。

ゴリラには勝ち負けの概念がない、弱いものに合わせて遊ぶ優しさがある

ゴリラは少年と目を合わせながら、優しく手を握っている
 「1861年に、アメリカの探検家ポール・デュ・シャーユによって書かれた『赤道アフリカの探検と冒険』は、当時の欧米人が人間をどのようにみなそうとしていたかを教えてくれる。そこには文明と未開、そして獣性を秘めた半人半獣の類人猿が登場する。
 「未開という言葉は、欧米以外の文化を否定し、ほかの文化に生きる人々を教化する目的で植民地支配を正当づけるためにつくられた用語である。 
 いくら野蛮な文化でも、人間は教育によって変えることができる。だが、人間ではない類人猿の凶暴で邪悪な性質は生まれつきのもので、けっして変えることはできない。19世紀の欧米の知識人はそう考えていた。デュ・シャーユは、アフリカで遭遇したゴリラの印象を「まるで悪夢のなかに出てくる生きもの」として描写し、その凶暴さと好戦性を誇張した。あろうことか、現地の人々の話として、ゴリラが人間の女を好んでさらうという性癖をもつことまでつけ加えたのである。これはそのまま人々の心に残り続け、1930年代に封切られた「キングコング」の典型的なイメージとなった。 
 ポール・デュ・シャーユのゴリラは、一九世紀の欧米人が考えていた人間らしさのネガの部分に相当する。産業革命以降、近代工業都市に変貌をとげた欧米各地で、人々は生産至上主義の嵐に翻弄されつつあった。大家族が解体して経済の単位は核家族となり、労働者階級が形成されて資本家による搾取が生まれ、アジア、アフリカ、新大陸の植民地化をめざして各国が先陣争いを演じていた。人間がほかの人間を支配すること、それを暴力によって強制することについて、だれもが疑いをもち、納得できる理由をみつけたがっていた時代だった。 
 人々は、ゴリラを暴力的で非人間的なものとみなすかわりに、人間が行う暴力は、豊かな人間社会の発展のため寄与するためのひとつの手段と位置づけた」  山際寿一『ゴリラ』東京大学出版会

 米国の動物園のゴリラ舎の溝に三歳の子どもが落ちたことがある。シルバーバックのゴリラは水の中に横たわる少年を優しく抱き起こし、10分間一緒に遊んだ。冒頭の写真はその時のものである、ゴリラは力を加減して優しく少年の手を取り、互いに目を見つめている。
 このとき、愚かにも人間の大人が特に母親がパニックに陥ってしまった。大きな叫び声を上げて、ゴリラに恐怖感を与えてしまった。そればかりか、銃で射殺してしまったのである。多くの市民が射殺に抗議したのはもちろんのことだ、取り返しのつかない悲しみが残った。
 未開で野蛮なのはどちらか。植民地支配で欧・米・日が見せた野蛮を、彷彿させる光景である。


蝶をじっと見つめている。好奇心が旺盛なのだ
 ゴリラは遊び好きである。力や能力の勝るものが、力を制御して弱いものに合わせなければ遊びは成立しない。この相手に合わせる能力が、「共感」という能力になったのである。 左の写真、ゴリラが蝶を見つめている。花を見つめたり、小鳥と遊んだりもする。ゴリラ同士でもよく遊び、笑う。胸を手のひらでたたくドラミングは脅しではない、近づかないでという願いである。互いの了解ができれば空気のように近づき、うなり声で挨拶を交わすようになる。たとえヒトであっても。
 ケンカが起きても決着をつけることはない。もめても最後は必ず、見つめ合って和解する。ゴリラは平和的で、勝ち負けの概念を持っていないだからじっと目を見つめるのだ。
 ゴリラ社会にボスはいない、リーダーはいる。序列がないからである。ボスは序列を維持し支配するが、ゴリラ社会では調整が期待される。調整・仲直りにおいては、力は役立たない。力を背景にした仲直りは、力あるものの「顔」を立てる強制があって、両者に不満が残る。力のないものの仲裁なら、「仕方ない」と自発的和解に至る。ボスがメスを独占することもない、メスが、独りオスを選ぶからである。
 日本猿の社会には、厳しい序列があり喧嘩が絶えない、餌もメスもボスが独占する。私有財産制度の萌芽があると、僕は思う。
  
 帝国主義国家の振る舞いは、ボス支配のサル社会に近い、日本は米国とともに今なおそうである。北欧は、ゴリラ社会に近い。他の国家も、文化のどこかしらにゴリラ的部分がある。日本と米国は、ボス支配を好み、序列を好み徹底的にニホンザル社会的である。ゴリラ的文化が入り込みにくい。日米の違いは、序列のどこに位置するかである。

 この国では、遊びのすべてを序列化するだけでなく、小さな子どもに残された遊びの部分まで競技化、全国大会や全国テストに組織する。そして娯楽化し企業化してしまうから、「生産性のない」者が軽んじられる。
 ゴリラ個体が持っている優しさを、我々は失いつつある。少なくとも少年の間は、序列のない遊びを生活の中心にしたい。
 子どもにメダルや優勝盾好きに仕立てたくない。勲章まみれの殺し合いと背中合わせである。好奇心と独占欲は違う。オリンビックをごり押しする勢力と、戦争法を推進した連中は独占欲にまみれている。

 南米最大のサル、ムリキは、高さ30mの樹上で群れを作って生活するが、序列がない。食べ物や繁殖相手を巡って争うこともなく「平和なサル」といわれる。群れが移動する時には、自らの体で橋を作り、仲間を助ける行動を見せる。  美味しい実のなっている木を発見した時も独占せず、必ず仲間を呼び集めて一緒に食べる。ムリキには自分さえよければということがない。

 万物の霊長ヒトが、絶えざる争いと略奪と殺戮に明け暮れ、地球そのものを滅亡の縁に追い込んでいる。我々はやはり退化していると考え込むのだ。赤トンボの羽を毟って「赤トンボ、羽を取ったら唐辛子」と歌うヒトの子。蝶が停まるのを辛抱強く待つゴリラの子。

追記 ゴリラの棲息域はチンパンジーと重なる場合があり、食べ物も共通するものが多い。特に果実はゴリラが摂る約100種類のうち7割以上は、チンパンジーも餌にしている。森の中に果物が少なくなってチンパンジーとの競合が増すと、ゴリラは葉っぱや茎を食べるようになる。諍いは避けられる。

メキシコ選挙で左派勢力が勝利

 僕は、サパタと共にメキシコ革命を指導し戦った天才的農民軍指導者パンチョ・ビリャが、蘇ったような気がした。
 保守政権下で、長い間新自由主義政策に苦しんできたメキシコの選挙(7月1日)で、左派連合のロペス=オブラドール候補の選挙連合、「共に歴史を作ろう」が、すべての選挙で地滑り的な勝利を収めた。この選挙戦の混乱を日本のマスコミは伝えたが、左派が勝利するや沈黙している。
 すべての選挙とは、大統領選挙、連邦議会上院、下院議員、8州と首都メキシコ市の知事選挙など史上最大の大選挙戦である。 

 アメリカとの貿易協定NAFTA体制下の新自由主義政策で、メキシコ社会の経済は停滞し、中小農業・企業は破壊され、食料生産は米国に依存、離職者は移民となるか都市スラムに流れ着き露天商となるしかなかった。貧困層は増え所得格差は拡大、麻薬組織が跋扈し殺人事件が日常茶飯事となった。このため昨年度の世論調査では、メキシコ国民の政党政治への信頼は中南米 18 カ国中、最下位となっていた。

 大統領選挙では左派のロペス=オブラドール候補(国家再生運動党 MORENA)の選挙連合、「共に歴史を作ろう」が、圧勝した。しかしすべてが、選挙公約を理解して投票したのではないと言われている。余りにひどい従来の支配政党にあきれたのである。 つまり、 新自由主義と NAFTA こそ、 今回の歴史的な選挙の生みの親と言え、安部政権の行く末を示すものだ。 
 地方選挙では、「共に歴史を」連合は、首都メキシコ市(初女性市長)をはじめ、 8 州の知事選挙では4州で勝利を収めた。
 またメキシコでは、今世紀に入り男女協同参画社会をめざしており、今回の選挙では国会上院議員、下院議員とも史上女性議員数が男性議員数を上回った。また新政府閣僚は、男女比 9対7 となった。
 大統領選の勝利集会の演説でロペス=オブラドールは、「独立革命(1810年)、メキシコ革命(1910年)、カルデナス改革(1934年)に次ぐ、第四の社会変革を平和で、暴力なしで行う。 これは真の変革で徹底したものとなる。汚職は社会的、経済的不平等、暴力の主要な原因であるので、汚職を一掃するのが第一の課題である」 と誓った。
 
 また、選挙公約に基づいて、
①汚職、石油の横領、選挙違反は重罪とする、 
水道の民営化を無効とする、 
③すべての公立学校を無料とする、 
④参加民主主義の観点から各種のリコール制度を設定する、 
⑤「倹約政府」 とするため各種の経費を削減する(大統領特別機の売却と商業航空の利用、高級官僚の特権廃止及び引退大統領の年金の廃止、大統領(半額)を含め高級官僚の給料の削減、米国からの 13億 1,400万ドルにのぼる戦闘用ヘリコプターの購入の解約)、 
⑥行政構造を縮小改革する、
⑦検察庁を大統領から独立させ厳格に汚職捜査を行う、
⑧地方自治を拡大し、全国にわたり均衡のとれた発展をめざす、などの政策を発表している。

 前途は多難は多くが予想している。だが、ブラジル、アルゼンチン、エクアドルの左派が政権を失ったり、革新性を失うラテンアメリカにおいて、左派勢力に変革への希望を蘇らせるものである。
 メキシコは、人口1億2900万人、GDP世界11位、石油生産は、 2017 1 900万トン、世界第 11 位、 埋蔵量は 72 億バレル、世界第 20 位。さらに、銀の埋蔵量が世界第2 位であり、銅の埋蔵量が世界第 3 位、鉛と亜鉛は第 6 位、モリブデンは第 8 位、金が第 11位である。
 だから米国が支配したがるとも言えるし、力強く自立する可能性もある。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...