スマホやSNSは、信頼や連帯を育てない

  携帯抜きの日常を形成できなくなった高校生と、携帯に依存しない高校生への実験による京大霊長研が、興味深い分析結果を公表したのは2003年だった。


 実験の報酬として五千円を渡された実験参加高校生たちは、互いに面識のない者同士に分けられ、投資をする。五千円すべてを使って相手に儲けさせるかどうかを決める。選択肢は五千円すべてを使って投資するか、全く使わないかの二つしかない。投資をすると投資した側には見返りがないが、投資された側すなわち五千円を受け取った側にはさらに一万円が与えられる。最初に五千円を投資するかどうかを決断した後でもう一人はどうするかを決断する。従って最初に決断する側は、相手がどう振る舞うかを全く知らない。

  非ケイタイ族は、自分自身が最初に決断する側になった場合、約八割が五千円を投資し相手に渡す。対してケイタイ族で同じ決断をするのは二割。

 相手から投資を受けた場合どう振る舞うかでは、非ケイタイ族の95%が相手にも投資するのに対して、ケイタイ族の場合は投資を受けても相手に投資するのは四割弱。相手が投資しなかった場合、非ケイタイ族の半数弱が投資するが、ケイタイ族では僅か5%にすぎない。


  この実験からわかるのは、非ケイタイ族が利他的に行動したこと。そしてケイタイ族はの振舞いは利己的で、相手が利己的判断した場合には応酬的で裏切り的であった。

 自分自身が投資を受けなかった場合でも相手に投資し所持金が零になったとしても、ふたりの合計は増える。結局どちらが得するかを計算すると、平均でケイタイ族が当初の報酬額程度しか得ていないのに対し、非ケイタイ族は約倍の額を得ている。非ケイタイ族が未知の相手に対し冒険的に相手を信頼するのに対し、ケイタイ族は自己の利益に囚われ利己的に振る舞ったにもかかわらず、非ケイタイ派が二倍近い利益を確保しているのである。


 ケイタイに対する依存が、事柄の関連性を破壊断片化するだけでなく、人間的な連帯や関連性さらには社会全体の豊かさまでも砕いてしまう可能性があることをこの調査は示唆している。こうした信頼をもとに形成されるのが「公」の概念であり、その中に自然に生まれる態度が「連帯」である。


 クラスやクラブで利他的かつ自律的に行動する生徒たちが、ケイタイの使用を全くしないか強く抑制している者であることは経験的に断言できる。同じことは答案の質についても言える。


 非携帯派の生徒たちは利他的に振舞うことが出来、結果的には自他ともに利益を得ることができる。

 企業を経営する場合、社員に労組活動や市民活動を保証することは株主や経営者の利益を損なうと考えてしまう。そんなことより政権と癒着することに投資して、竹中平蔵の如く「首を切れない社員なんて雇えないですよ!普通」をパソナで実践し、住民票を米国移動して住民税逃れをすれば、自身は海外資産数千億円を噂される迄になる。しかし彼の提言を受け入れ実践してきた日本の競争力は惨憺たるものとなった。

 

  物事を計画的に実施したり、結果を予想するには、たっぷり時間をとらねばならない。これがなければ、傲慢に振舞う幼稚性から脱却できず、人間らしい理性的判断ができなくなる。

 通信だけでなく、地図による案内、買い物の決済、電車の乗り換え案内など便利な機能が満載のスマホ。授業の板書にも、分からない言葉即座に調べる便利な学習道具でもあり、ゲームの機能まで組み込まれ一時も退屈させない。しかし人間が成長するには「暇」は欠かせない。静かで永い時間が無ければ、ヒトはものを考えられない。「我慢」も時間をかけて考える行為の一つである。だから未来を予想する緊張ある主体的行動となる。


 「お喋り」や「よそ見」を恐れるのではなく、スマホや携帯で断片化される思考を恐れねばならない。

 思考が成立するには長い連続した時間が必要であることを、KH高(当時学区最底辺校と見られていた)で偶然経験したことがある。カリキュラム編成の移行過程で「現代社会」が2単位から3単位に増えた年があった。かつて社会科(政治・経済・社会、時事問題、世界史、日本史、東洋史)すべてが5単位であった。それが今や「公共」と道徳紛いの教科に名まで変え、わずか2単位。すべてが断片化する中で、思考までが断片化されては批判精神の育ちようがない。何故なら批判精神は、それ自身長い歴史の産物なのであるから。


  全盛を極めるケイタイ的世界に学校までが依存している中で、連続的に思考することは困難なことに違いないが、高校生になってそれがどうなっているのか見る。


 僅かな単位数の違いに、生徒たち自身の社会あるいは報道に対するものの見方がどのように変化してきたのかについて述べているものが答案にあった。いくつか抜き書きする。  


◎ 中学生の時なら、私はこの記事を読んでも、日本人が殺されたという事実にしか目を向けなかった。

 彼女は二人の日本人外交官の死を悲しむと同時に、不条理な戦争で殺されている一万人に及ばんとするイラク市民の死について考察を進めている。そして始まる前にこの戦争を止められなかった自分たちについても。


◎  隠しカメラについて。中学生の頃なら私は、国の決めたことだし仕方ないと考えたと思います。今の私はそれはよくないと考えます。街に防犯カメラがあると言うことは、常に国から監視されている事だからです。常に見られているということは、自分自身の自由を損なう事だと思います。・・・常に気を張って、見られていると意識しなくてはならないと言うことは、人間としての自由が無い。

◎  中学時代の私ではこんな事は考えなかったと思います。おそらく犯罪が起こっているのであれば使わなければよいとか、問題のサイトを消してしまえばよいとか考えていたでしょう。

 情報化する犯罪の増加と進化を、社会的弱者にとってのITの有効性とのバランスにおいて考え始めている。


◎  少し前の私だったら、もし家族の誰かがガンになったらどうしようとしか考えなかったと思う。しかし今は自分の将来や患者について様々に考える。 

◎   私は今まで人と話し合うということでは、自分の意見をあまり言わず、人の意見に左右されてきた事が多い。このままでいい、これからもと思ってしまっていた。しかしこれからは少しずつ意見を言おうと思う。意見を言うことで、人とのぶつかり合いもあるかもしれない。その時は自分の考えを曲げることなく、人の意見も取り入れていきたい。相手に自分のことが少しでも解ってもらえればいいし、自分も相手のことが解り一石二鳥。口で言うとこんなに簡単な事が実際はなかなかできない。身近な問題ならともかく、世界や日本のことという大きなテーマでは簡単にいかない。でも、立ち止まって考えることが大切だ。

 この生徒は、家族の問題から世界の問題までが暴力的に処理されつつあることに驚き、報道が伝えない平和的な解決について、もう流されないで考えようとしている。

 『自分の考えを曲げることなく、人の意見も取り入れていきたい』という表現の中に、この生徒の自己形成の悲しみが見えている。人の意見との対話の中で自分の意見も相手もともに成長する経験をしていない。だから人の意見を取り入れることはすべて自分をまげることでしかなかった。


   社会全体が思考を断片化し短いメッセージしか受け入れない時代に、それでもと言いながら抵抗し考え疑い続けるのが青年ではないか。

 メッセージが断片化し、遠い仲間との会話を優先するのは、猿の会話の特性でもあるという。目の前にいる相手の表情を読みながら対話することを避け、ケイタイによって離れたところにいる表情の見えない仲間と絶えずつながっていなければ不安であることは、現代人の知性の終焉を警告しているのかもしれない。

 1970年元旦の朝日新聞が、有識者にアンケート調査したなかに「コンピュータをにくむ人がふえるか?」の項があった。「ふえる」と答えた人が32人。多くの知識人が最先端技術による利便性の陰に危険を予測していたにもかかわらず、我々の社会は有効な対策をもてないでいる。

  なぜものを考えるには永い静かな時間が必要なのか。ゲームなどの依存性の「誘惑」には即座に反応するのに、「考える」ためには、どうも一定のウオーミングアップが必要らしい。それをゲームや通信がいとも簡単に断ち切ってしまう。


ものを・・・正当にこわがることはなかなかむつかしい

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  『ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい』

と言ったのは、寺田寅彦である。それゆえ、彼は人々が無暗に恐れる現象に根拠がないことも見抜くのである。


  「大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。

 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。

 そうして、「おとうちやん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした」 寺田寅彦(大正十二年三月)


 科学者には、人々の認識を迷信や魔術から解き放つ社会的任務がある。実態を見抜き本質を追及してこそ科学者である。自由は科学者の属性、僕の父も在野の数学者でもあった。    

 父と祖母の姿も、寺田寅彦の描いた親子のようであった筈。しかし僕は祖母の顔を想像出来ない。表情が浮かばない。顔に症状が現れた祖母に向かって、「ばぁちゃん」と抱き着いただろうか。就学前の僕は無類の泣き虫で、父や母を困らせていた


 父方の叔母は「直兄さんな、勉強はよく出来やった。ばってん、でひな母ちゃん子でな。妹のあたいから見てん甘えん坊じゃった」そう言いながら古いアルバムを見せてくれた。「でひな」とは、たいそうという鹿児島弁である。写真には坊ちゃん顔をした旧制中学生が、上等そうな小倉の夏服に高下駄姿で庭の石垣に腰かけている。


 祖母の名「トメ」には、子だくさんに悩んだ曾祖父の願いが込められている。

 「松原トメ」の名を、「菊池野」(恵楓園自治会機関紙)に見出した時、眠ったまま面会したのは祖母かも知れないと考え始めた。祖母が父を産み育てた土地の通称が松原であったからだ。

 当時ハンセン病者は、療養所への「収容」と同時にそれまでの衣服も名も捨てさせられた。名を改めたのは手紙で感染の事実が知られ家族に迷惑が及ぶのを恐れたためである。迷惑を恐れて自死する者、親族による射殺や一家心中事件も後を断たなかった。それは偏見が人々にもともとあったからではない。

 全生園ハンセン病図書館にガリ版刷りの古い「無癩県運動」一覧表があった。自宅で療養する患者を療養所に囲い込めば、ハンセン病が消えるがごとき動きを行政と専門家が先頭に立ってやったことが「無癩県」という名称に現われている。治療の観点ではなく絶滅隔離の視線が伝染力の極めて弱い病気に投げ掛けられたのである。偏見や差別が先にあったのではない、意図的に作られた結果なのだ。(収容患者の範囲が浮浪患者から全患者に拡大され始めたのは、1925年衛生局長通達からである。狙いは窮乏患者を救うためではなかった。重症患者等の園内重労働の担い手を確保する狙いであった。1931年癩予防法から本格化する。

 現在の鹿児島県webサイトには、「昭和4年頃からは,各県において,ハンセン病患者を見つけ出し強制的に入所させるという「無らい県運動」がおこり」と、行政の作為を恰も自然現象のように記述している。事実は、県が「無らい県運動」を組織したのである。おかしな話である。療養所に送り込めば、なぜ「無らい県」なのか。

 療養所は厄介者の捨て場としての「外地」なのか。作家島 比呂志は、療養所を『奇妙な国』と呼んだ。その国境内は「日本」ではなかった。この国では滅亡が国家唯一の大理想であり、子孫を作らないために男性の精管を切り取ったのである。子どもも義務教育から除外。やがて死に絶える子どもには未来はないと断定した。

 

 1905年の帝国議会では、ハンセン病をペスト並みと決めつけ隔離を要求する議員に、内務省衛生局長は、

「(伝染病予防法は)急劇ナル伝染病ニ対スル処置デアリマスカラ、或ハ隔離ト云ヒ、交通遮断ノ如キ、其他此多クノ処置ハ、癩病ニ対シテ、直チニ適用ハ出来難イ」と隔離を退けていた。

 ところが初代全生病院長になる医師光田健輔は、渋沢栄一とともに「ペスト並みの怖い病気」という誤った印象形成に精力を傾け全国を遊説したのである。


   これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れない。    渋沢栄一  

   ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差ない。  光田健輔 

  

 猛毒性のペストを引き合いにした「恐るべき伝染病」という極端な誇張は、資金集めと偏見助長の格好の標語となった。だが言葉の偽造は、我々を真実の発見から遠ざけ、実態や本質を隠蔽する。(コロナ対策行政が、繰り出す「ウイズ コロナ」や「新しい生活様式」などの標語も、コロナの実態と対策から国民の視線を遠ざけている)それを街の煽動屋ではなく専門医と渋沢がやったことに恐ろしさがある。僕が渋沢を新しい日銀券にふさわしくないと主張するのはこのためである。

   1953年からの2年、熊本市黒髪町の龍田寮児童(ハンセン病療養所菊池恵楓園入所者の子弟)通学をめぐる全国的事件があった。龍田寮事件とも黒髪校問題とも言う。この事件の最中僕は、堀に入って遊んだことになる。

 文部大臣や大学が混乱の調停にあたったが、同盟休校にまで発展、 1955年秋から子供たちは、親戚や熊本県内10か所の児童養護施設に極秘に引き取られた。

 この年に開校したての詫間原小学校に入学。この学校と黒髪校は、熊本市中央を流れる白川を挟んで、歩ける距離である。

 そこで、施設から通う三人組の一人と同学級になった。陰あるその子に妙に惹かれて遊びに誘った。しかし放課後になると、「施設のおばさんに遊んじゃいかんと言われとるけん」と三人で逃げるように帰った。校門の上から三人が白川にかかる橋を渡り、丘の麓に見えなくなるまで見ことがある。彼らの一人がひょっとすると「松原」君ではなかったか。父のすぐ下の妹も祖母と同じ時期に戸籍から消えている。ハンセン病療養所の夫婦は断種を強制され子どもを持てなかったが、恵楓園では患者が出産したケースがある。

記 画像は寺田寅彦、後方に写っている女性が母のアルバムにあった父方の祖母に似ていて気になる。       続く

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...