「アジア解放のための戦争」という「お守り」言葉

昭和恐慌の11月、青森の一小寒村だけで六人もの身売りがあった。
身売りの前夜、この少女たちの家族はどんな会話を交わしただろうか
 「言葉のお守り的使用法」とは、「人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせらり、自分のする仕事の上にかぶせたりすること」  鶴見俊輔

  「八紘一宇」「国体」こうした言葉を使えば、その行為があからさまな侵略や虐殺であっても正統化され、非難されない。敢えて「非難」したり異議を唱える者は、「国賊」として獄や死を覚悟しなければならなかった。これが「言葉のお守り的使用法」だ。人々の思考を封じて人民の記憶を禁じた。

  「It is the responsibility of the(state or government)to take care of very poor people who can't take care of themselves.」
 「政府は自分で生活できない人を救うべきか」という貧困と社会の関係を問う質問をしたところ「救うべきだと思わない」と答えた人の割合がイギリスやドイツ、イタリア、中国などはおおむね7~9%、米国は28%、日本は38%。

 自力で生きていけない人たちを、国や政府は助けるべきだとは思わないと言う人の割合。

日本   38%
アメリカ 28%
イギリス 8%
フランス 8%
ドイツ  7%
中国   9%
インド  8% 

ワシントンにあるPew Research Center の報告、95page←クリック   
 

  GDPにしめる生活保護費の比率
OECD加盟国平均2.4%
アメリカ    3.7%
イギリス    4.1%
ドイツ     2.0%
フランス    2.0%
日本      0.3%


 自国の身近な同胞にさえ冷酷無関心な日本人が、遠く「貧しく遅れた」アジア解放のために命を賭けて闘ったなどということがあるだろうか。

 戦争は濡れ手に粟で儲けられるから、他人である貧乏人の命を賭けたのである。費用と損失は勤労大衆に、儲けと栄誉は支配層に。敗戦して戦犯天皇一家には戦死者も怪我人もいなかった、身売りした身内もいない。彼らが、一瞬でも身売りしたりされたりした者に思いを馳せたことがあっただろうか。貧乏人は、天皇家が三井・三菱・住友・安田を凌ぐ大財閥となっていた事実を知る由もなく死んだ。当時労働者階級を、世間は「貧乏人」と一括りにした。これも「お守り」言葉として、人々の批判的思考や行動を不能化した。

 僕の大叔母は、将校の夫と二人の息子すべてを海戦で失った。にもかかわらず「大東亜解放」や「八紘一宇」などという「お守り言葉に釣られて国防婦人会役員を務め、ふるさとの浜辺で竹槍訓練の先頭に勇ましく立った。戦後独り身になった大叔母の口癖は、「馬鹿の考え休むに似たり」だった。
 
  
現政権以来、加計グループに流された公金は770億円。使い物にならないイージス・アショア2基に6000億。
 北海道地震の支援金には5億4000万円。北海道民は540万人だから1人あたり100円。
 増え続ける現体制「お守り」言葉のなせる技である。曰く「日米同盟」「頑張った者が報われる社会」「自助努力」「自己責任」・・・
 
 教員の日常にも「お守り」言葉が氾濫するようになって、我々の批判的思考を凍結する。「アクチブラーニング」「全員一致」「指導の一環」「熱血」「毅然」・・・。これらの言葉は、ILO条約や憲法の規定さえ不能化する。



「人民の記憶」としての、卒業式答辞

予定が破綻すれば式も長く記憶に残る。都立武蔵丘高
 だいぶ前、生徒を「生従」と誤記する高校生の話を聞いたことがある。大学生にもいたという。字の形が似ている故の間違いではなさそうだった。僕は、これはアバンギャルドではないかと思った。avant-gardeは、直訳して軍隊の「前衛」。奇抜ということではない。前衛は、未来を先取りしてみせる。前衛が壊滅すれば、本体に勝ち目はないのだ。
 少年少女が、子どもの権利条約に定義された子どもとしてではなく、学校などの組織に「従」属して身動きならない存在として現れるのではないか。そういう未来を警告しているのではないか。

 元々生徒の「徒」は、徒党」や「学徒」など、仲間と言う意味とともに、むだ・むなしい・役に立たない・労役といった意味がある。
   「言葉には、それぞれ、それが本当の言葉となるための不可欠の条件がある。それを充すものは、その条件に対応する経験である」と、森有正が言ったことがある。少年少女が学校で出会う経験、それが「生徒」という言葉の中身を形作ってきた。指示されたことを従順に守ることを徳として、反抗すれば叱られ殴られる者として「生徒」の概念は形成されてきた。

   僕が、「学徒」で思い浮かべるのは、学徒動員の暗く陰湿な光景である。学窓で日の暮れるのを惜しんで読書に耽り、黒板を囲んで代数や幾何や物理の世界に一心不乱になるいう光景ではない。そのためには別の言葉を見付けなければならない。student=学生である。
 我々が日常使う言葉は未来を先取りしたり、過去に現実を引きずり込む。

 中学生や高校生までもétudiant=学生と言い、国立行政学院や高等師範学校など国家エリート養成高等教育機関で学ぶ者を「生徒」と呼ぶフランスには、人民の記憶としての「革命」が深く根付いている。行政機関の官僚を、公僕=public servantと位置づける革命の記憶である。勘違いしてはいけない、公「僕」とは国家の従僕という意味ではない。民衆・人民の奉仕者=「僕」のことである。我々には「言葉が本当の言葉となるための経験」が徹底して欠けている。
 だから体育教員室を教
室といつまでも呼び、企業の面接担当者を面接官」と言ってしまうのである。大学教師やマスコミまでが学生を生徒と呼び、大学生自身が自らを生徒言ってしまうから、若者はデモ一つできないと言ってもよい。言葉がそれに相応しい身体と精神を形成するのだ。
 生徒とは、語源としては弟子から生まれた言葉である。弟子は親方の指示によってのみ動くのであり、何一つ決意出来ない。逆らえば、すなわち破門である。だから中高生の、校則には「指導拒否」による罰則が書かれている。
 森有正の指摘が裏返って、経験が言葉を本当の言葉にするのではなく、逆に言葉が現実を束縛している。天皇の存在や行動に対する過剰な「敬語」は、我々の日常を硬直させ、憲法的平等の意識をいつまでも確立できない。人間に、生まれながら尊い者とそうでない者があると言葉が強制している。それを拒否する経験を、学校の「式」は叩き潰すのである。
 
 戦争における「人民の記憶」は、戦中の経験が総括され戦争の終結とともに現れる。だが日本の戦中は、経験そのものが禁じられた。命じられた行動は犬や馬でもやれる、だから犬や馬に記憶はない。経験を禁じられた人々は、国家の記憶を国民の記憶に置き換えるしかない。

 学校に於ける少年の記憶=「人民の記憶」も日常の経験の総括の積み重ねによって形成され、卒業を契機に表現される。在学中に命じられる行動は少ない、にもかかわらず卒業生の答辞として現れる「人民の記憶」=少年の記憶は、命じられたかのように、型に填まっている。
  例を挙げよう。ある中学校の最近のものである。


  「春の暖かな日差しが体全体に感じられ、校庭の木々の芽もふくらむ季節となりました。本日このよき日、私たち××名は自らの手で夢をつかむため、この○○校を卒業します。私の心の中には数え切れない思い出が昨日のことのようによみがえってきます。
 3年前の春、真新しい制服に少し大人になれたような気がした入学式。不安な中で見たクラス分け発表では知らない人の名前がたくさんありましたが、3年後の今、こんなにもたくさんの人と友達になれたなんてとても幸せです。・・・  初めて友達と一緒に泊まったふれあい学習。多くの友達と交流しながらも、時間を守ることの大切さを教わりました。何もかもが始めてだった1年生の私たちを引っ張っていってくれた先輩。思い返せばとても大きな存在でした。・・・
 そして、今まで私たちを時には厳しく、そして優しくご指導くださいました先生方、本当にお世話になりました。今日までにかけていただいた数々の言葉は私たちの心の支えになりました。本当にありがとうございました。
 お父さん、お母さん。いつもは照れくさくて言えないのですが、この場を借りていいたいと思います。いつも困らせたり心配をかけたりしてごめんなさい。今日まで育ててくれて本当にありがとうございました。これからもまだまだお世話になると思いますが、よろしくお願いいたします」

 虚構で彩られた行事で頑張ったことと、消費行為としての旅行の思い出づくりと、でっち上げの友情が並列されれば、軽い涙と感動が出来上がる。青春の主体性はない。

 計画可能なことは、それが成功するほどに経験からは遠くなる。体罰やいじめや差別が「少年の記憶」として総括され、下級生に受け継がれることはない。すべては卒業生総代たる学校公認のよい子によって水に流され、少年の記憶は生徒の記憶に、次いで生徒の記憶は学校の記憶にすり替わるのである。流された部分が経験であり人民の記憶である。それを欠いた記憶は忘れられ、一年もたたぬ間に忘れられてしまう。卒業生総代が、どちらを向いていたかさえ覚えていない。ほとんどは日の丸と校長に向かって読んでいるのである。記憶の改竄・すり替えの儀式である。

日清戦争に96万円投資して2000万円を得た天皇財閥

人民の記憶それが問題なんだよ
    終戦の詔勅に「敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所」という箇所がある。これを日本軍が占領支配していた地域の人民がどのように聞いたか。それを考えながら、詔勅を聞いた日本人はどれほどいたか、皆無かと僕は想像した。
 だが、鶴見俊輔は「残虐なる爆弾とは、よく言えたものだ」と怒りを隠していない。南京虐殺や重慶爆撃を、天皇が知らなかった訳がない。敵の行為の残虐性は言い募るが、自分の残虐性にはてんで気がつかない。そんな神経だから、「沖縄メッセージ」を占領軍に献上できるのだ。

 フランスやドイツでは、大戦中ナチスに協力した者たちへの強い怒りが、街頭であからさまに示された。それがニュールンベルグ裁判を支えたのだ。戦争に対する人民の記憶が燃えさかったのである。日本における戦争に対する人民の記憶は、日清日露の昔から常に勝利した国民の記憶、国家の記憶に覆い尽くされてきた。それが、八紘一宇や国体の概念を産み出しアジアの数千万人を、天皇の銃や爆撃機や生物兵器で「残虐」に殺戮したにもかかわらず、国民による戦犯法廷を開くことができなかった。

 日本最初の侵略戦争・日清戦争前後のあからさまな証言が、西園寺公望の日記にある。
 軍備増強には増税は不可欠。山県内閣は、国会に増税案を何度も上程した、がそのたびに否決。山県は、増税反対派議員の買収を考えた。議員歳費を五倍に引き上げ、更に有力議員には直接買収資金与えて、増税案を成立さた。驚くべきは、その買収資金が天皇から出たことだ。当時の額で98万円。当時1000円で都心に一軒家が買えた。今の額で100億円以上に相当する。

 この経緯が西園寺公望の日記に残されている。西園寺は「山県は、国会議員買収のため天皇から受け取った資金を、どうも一部自分の懐にいれているようだ」と書いている。

 増税で軍備増強したお陰で日清戦争に勝ち、清国からせしめた賠償金の特別会計は、1902年度末で総額3億6,451万円。うち二千万円を天皇が受け取った。98万円投資して、あっという間に20倍強に増やしている、開戦前(1893年)の国家予算が、8,458万円である。こんなに旨い投資噺はない。あらゆる戦争の原因はここにある。戦争で巨利を食む連中が権力を握ればこうなる。

 日清戦争の原因が分かりにくいと言うが、なるべく分からないように、朝鮮内部の農民戦争を口実に日清両国が介入したという筋書きを拵えたと言うべきである。

 賠償金特別会計支出の内訳は、日清戦争の戦費が7,896万円21.9%、軍拡費が2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)、その他が15.5%(製鉄所創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、台湾経営費補足1,200万円3.3%、帝室御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)であった。

 僕が中学で学んだ時の教科書には、賠償金で八幡製鉄所が作られたことだけが誇らしげに強調されていた。だがそれは賠償金の僅か58万円0.2%に過ぎない。軍拡に使った2億2,606万円は、軍を通して死の商人たる財閥へ流れたのである。

  台湾を植民地にし、その最大産業製糖業は三井が独占し台湾製糖を設立、天皇はその台湾製糖第二位の株主になる。台湾製糖の株の配当は10年後に12%、20年後には100%である。侵略戦争・植民地獲得がいかに儲かを如実に示している。これが日本における、戦争の記憶である。
 三井も軍部との関係は深い。台湾製糖の設立には陸軍の児玉源太郎が関わっている。日露戦争後は満州を獲得、満州は世界的な大豆の産地であった。そのほとんどを三井物産が独占、欧州向けにマーガリンを製造輸出、油粕は肥料として国内で販売し巨利を得る。しかし1920年代になると、三井の大豆取扱高は伸び悩む。「張作霖が大豆の買い付けに手を出し始めたので困った」との発言が三井物産支店長会議議事録が残っている。張作霖爆殺事件翌年、三井物産の大豆の取引高は跳ね上がった。 

 財閥は、第一次世界大戦でも膨大な利益をあげた。日本の武器輸出総額は、2億9000万円。銃が93660梃。野砲弾丸410万発。駆逐艦12隻。戦艦2隻。まさに死の商人になった。 大戦中の対ヨーロッパ投資総額、約7億7000万円に膨らむ。
  第一次大戦開始時の三井物産資本金は3.96万円、大戦終結時には36.46万円。こんなに旨い噺はない。ほかの財閥も座視したはずはない。


 「三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている」渡辺清「敗戦日記」1945.11.10

 戦艦武蔵も大和も三菱製だし、零戦の開発も三菱である。 「軍財抱き合い」と言う言葉があった。財界と軍部の協力体制を示す、傑作な言葉である。 
 こうして天皇家は、三井・三菱・住友・安田を凌ぐ大財閥となった。
  天皇家の銀行関係株
 日本銀行(20万8000株)
 横浜正金銀行(20万9318株)
発行株数の22%第二位の株主は2万2000株。皇室がなぜこの銀行の圧倒的筆頭株主となったのか。想像はたやすい。 
 日本興業銀行(4万5450株)
 台湾銀行(3万264株)
 東洋拓殖会社(5万株)
 帝国銀行(2万9110株)

その他諸会社株
 王子製紙会社(6万608株)
 関東電業会社(3万4749株)
 南満州鉄道会社(8万43175株)
 台湾製糖会社(3万9600株)

皇室所有の土地
 森林(318万3287エーカー)
 宮城および御所(2256エーカー)
 農地(9万7637エーカー)
 建物敷地(559エーカー)
 その他(3万502エーカー)


 戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。いずれも海外に分散された資産は考慮されていない。
 
 ここには、人民の記憶がない。資本の記録と国家の記憶があるだけ。英国にはナチスとの戦いの強烈な記憶があった。国家と国民の記憶ではない。人民の記憶である。米英資本家がナチスドイツと組み、工場や商人たちが軍高官とと結託して物資の横流しで儲けたことを、記憶し続けた。それが、ビバレッジ報告を産み労働党内閣に受け継がれ「揺りかごから墓場まで」の福祉社会を短期間で実現させたのである。

  我が国では、戦争に対する人民の記憶が掘り起こされ定着する前に、朝鮮戦争が始まり「儲かる」戦争は資本と国家の記憶として、またも人民の記憶を覆い尽くしている。

 沖縄だけが、人民の記憶を保ち続けている。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...