主権者の自由で公正な判断の為に普通教育はある

 『たかが甲子園で泣くな 野球はgame=あそびに過ぎない』←クリック でこう書いた。
 「1945年の夏、学徒動員の中学生が、敗戦の知らせに声を上げて一斉に泣いた。ある文学少年が「何が悲しいんだ、泣くのを止めろ」と叫んだ。皆一瞬はっとして、誰も泣かなくなった。そしてしばらく経ってみると、どうしても泣けない。死にたいと言って泣いていたのに、泣けなくなっていた。いとも簡単に(共同の迷蒙)が消えたのである。
 自決用に配られた青酸カリをただ一人捨てるように、先ず自分自身の迷蒙を断ち切れ。例えば、雪の日に一人決意して雪かきをする、一人決意して部活を週三日に制限する、堂々と有給休暇を取り子どもと遊ぶ・・・のは、(共同の迷蒙)を断ち切る練習である。」

  今年はコロナ禍で様々な大会や行事が相次いで中止、お陰で又も中学生や高校生が恥も外聞も無く口を開けて泣く。

   「・・・全国大会を目標に練習に励んできました。・・・コロナ感染拡大をうけ、全国大会は中止されました。仲間と目指していたものがなくなった現実を受け止めきれず、涙が止まりませんでした。・・・役に立てなかったことがとても悔しいです」東京新聞2019.6.5
 中学生の投書である。敗戦の夏の光景と変わらない。TVも新聞も少年たちの涙を賛美している。そのことに僕の背筋は凍り付く。「役に立てなかったことがとても悔しい」に、お国のために死ねなかったのが悔しい・・・が二重写しになる。学校の為teamの為と、滅私奉公精神を中学生に煽るのが美しいか。恐ろしく怖いことではないか。

 教育は特定の能力を若者に付与する過程である。しかし、首尾良く実現するのは簡単ではない。ある能力を獲得する過程は、別の能力を犠牲にする過程でもあるからだ。身につけるには努力を要する、だが犠牲にするのは容易い。

両親が息子をプロplayerに育てようと入学前から夢中になって金も時間も注ぎ込んでも、一流になり稼げるのはほんの僅かだ。もしこの子に絶対音感が有っても、球を相手にしている間に誰一人気付かぬ間に消えてしまう。そもそも当の少年が成長したとき、球技playerが少年憧れの職業でなくなっている可能性もおおいにある。いまや少年の憧れが、球技playerから医療関係者に写りつつあることをバンクシーも 描いている。
「君たちは、アメリカにこんな酷い目にあっても怒らないのか」
 少年のあいだに、自分が何に向いているのか、何は駄目なのかを知ることは出来ない。それ故、前面発達の可能性を分けても青少年には保証しなければならない。それが「普通教育」である。普通とは普遍に通ずるということであり、専門を持たない幅広い学芸=教養を意味する。大戦で英国が孤立の中でナチと闘う判断を出来たのは、この専門をよしとしない教養による。高校の学科の多様化は、断じて肯定できない。 
 物理も東洋史も芸術も幾何も学ぶことは、公正で他者に依存しない判断の根源なのだ、それ故権利であって義務ではない。
 たった一つのことに中学生の時から打ち込ませるのは「普通教育」の理念に反している。「一つのことに夜も昼も打ち込む日本の部活」は「共同の迷蒙」にすぎない。まさしく「いとも簡単に消えてしま」う虚妄の青春である。
社会的に公正な判断の基礎を蔑ろにする軽薄な「専門家」を育て、「愚民」を量産している。
 
  昔、侍はよく泣いた。坂本龍馬も西郷隆盛もよく泣いたらしい。新撰組も吉田松陰も泣いた。学生運動セクトもよく泣いていた。泣くことで論理は置き忘れられ、情緒が幅をきかすのである。いやそうではない、論理がないから泣くのである。
 革命家は、泣かない。泣くのを止め、静かに怒るところから革命は始まる。泣きながら武器を振り回わすのは危険極まりない。

善なる人々は他人の声を黙らせようとは欲せず、すべての人に対して自由を許容せんと欲する。 パール パック

   『民衆が自由で独立酌で自治的である国はいかなる国でも、つねに善なる人々と悪なる人との間に闘争の行われる国であえる。もしこの闘争が存在しないならば、それは暴君が支配し善き人々が力を失っていることを意味する』

 パール パックが『日本の人々に』と題して論評を毎日新聞に寄せたのは、敗戦間もない1948年10月である。
   僅か二ヶ月前までの日本では、他者は認識されなかった。家庭でも如何なる組織でも。自立した人格は、抹殺されるか「転向」するしかなかった。同じようにアジア諸国を自立した「他」国と見なすことは出来なかった。敗戦は、それを根底から覆す筈だった。
 そればかりか敗戦から80年を過ぎてなお、この国は嘗ての敵国核超大国に従属して、自立した国家関係を世界の国々と結ぶことを知らない。
 この国には自由な国としての義務、「悪なる」超大国との闘争が存在しないからである。

 『人々が自からの創造力、発明カ、表現力を発展させてゆけるのは、ただ自治の下においてのみである。但し邪悪に封する永遠の闘争をつづけてゆく善良なる人々にとって自由は常に責任を伴ってくるものだ。日本はもちろんのこと、その他世界のいずれの国の善なる人々にとっても、現在はなお何らの休息、何らの平和は存在し得ない。彼らは自からの眼を覚まして活動せねばならぬ。どこの国民にしても、全体の中にはどこかに善なる者がいるのであるから、国民すべてを一概にとがめることはできない。咎め得るもの、咎めなければならぬものは、いずれの国にあっても、悪に封して善がこれを監視せず、これと闘争しないということである。』

 従属関係にあって、自らの諸力を発展させることは出来ない。エネルギー政策であれ、食糧政策であれ、自治の下において永遠の闘争を続けることによってのみ、自由な創造力、発明カ、表現力に基づく政策は発展する。
 日本の働く者や若者が、外国に従属した政府の下で諸能力(芸術であれスポーツであれ科学であれ技術であれ)を発揮するためには、従属を強いる者との闘争に目を覚まさなければならない。パールバックは、そう敗戦直後の日本人に語りかけずにはおれなかった

 自らの能力を開花させる闘いに、若い世代ほど意識が離れている。何故なのか。 それは開国以来、日本の近代化を阻んできた封建主義と全体主義が、敗戦後も依然としてこの国を覆っているからである。そして、若者の目を覚ますべき学校が、自由主義と個人主義を未だに敵視し封建的で全体主義的な雰囲気と闘争することに臆病だからだ。

 『永遠監視の眼は、言論の自由という問題に封して終始間断なく注がれていなければならない。…善なる人々は他人の声を黙らせようとは欲せず、すべての人に対して自由を許容せんと欲する。彼らは完全な真理を把握しているのは自分たちだというほど慢心してはいない。すべてのものが自由に物をいうことを許されている以上、悪なる人々もまた発言するであろう。しかし善なる人々の声は悪なる人々の撃よりも数多いはずであり、一段と明瞭なはずである。このことを善なる人々は自からの責務として認めなければならぬ。何故なら自由というものは真の自由でなければならず、自由が或る一部の人によって行使されて、他のものによっては行使され得ぬということは、あり得べきことではないからである。』
 自らの発言を正しいと信じる者を、ここでは善なる人と呼んでいる。対する悪なる者にも、自らの発言を正しいと表現する自由を与えねばならない。
 自分たちだけが永遠の真理を担っていると言う閉鎖的な使命感からの解放こそ、封建的全体主義への親和性を打ち破る。「起立・礼」や「掃除」や「部活」を世界に希に見るcoolな美風とみる限り、近代的かつ合理的な判断の主体としての若者は育たない。
 教師や労働者・国民と連帯して、高校大学入試廃止を目指す主体として闘う若者は、未だ主流たるには遠い存在だが、世界では平凡な生き方となっている。 しかし、それには決断が欠かせない。その役割を担う者がインテリゲンチァである。嘗て教師は草の根インテリゲンチァと呼ばれた。

 『日本やドイツの善なる人々にして万一にも自由を享受し得てしかも責任を伴わずに生活のできるような園を夢想しているとすれば、彼らはその空中楼閣的な夢から呼び覚まされなければならぬ。 ・・・日本の善なる人々よ、あなた方は安閑として身体を横たえて眠ることはできない。あなた方は一時間の休息さえとることはできない。何故なら善なる人々はいたるところあなた方のカ、あなた方の周到な要心、あなた方の決断が彼らのそれに加えられることを必要としているからだ。』

  大坂なおみのアメリカ種差別抗議デモをめぐる発言は時宜を得て見事。(I hate when people say athletes shouldn’t get involved with politics and just entertain. Firstly, this is a human rights issue. Secondly, what gives you more right to speak than me? By that logic if you work at IKEA you are only allowed to talk about the “GRÖNLID”)
 



若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...