ある都立高校のgooglemaphttps://www.google.co.jp/maps/ 口コミ欄にこんな感想が寄せられている。
「毎週末、グラウンドでの部活動がチンピラまがいの騒がしさです。野球部とサッカー部もかな。わざわざ、校舎側でなく民家側に寄って無駄な大声を出し放題。ペアガラスなんて意味なく、音楽も聴けません。
例えば試合で、誰かが良いパフォーマンスした時などに盛り上がる位は全く構わないのですよ。楽しんで欲しい。ですが、練習などでワンアクションする度に無駄な掛け声など必要か?大声出せばパフォーマンス上がるのか?上がらねえよ。子供達が悪いのではなく、指導者が問題。大声出させたいなら校舎側でやって。」
この学校も嘗てはnhk tvの番組で度々取り上げられる程の所謂「名門」だった。敷地の民家寄りには古い学校らしく大きな桜並木があり、絶好の日陰を造る、そこに複数の部活数百名が集まり騒ぐから喧しい。
「名門」なら何でも許されると言わんばかりに部活顧問教師は無神経に大声を煽る。近隣住民の堪忍袋も切れる。
大きな声が必要なのは「住民」の方ではないか、「うるさいぞ、迷惑だ」と注意を喚起する為に。しかし彼らは窓を閉め切って怯える。
権力は飾り立てたがる |
関東大震災の時も大きな声を挙げ威圧したのは武装した自警団。朝鮮人や中国人・社会主義者たちは為す術無く惨殺された。「武装した自警団」とは言わば公権力の規制から逸脱した「自由主義」者=「新保守主義即ちネオコン」に他ならない。近代民主主義社会が成立すれば、公権力は「自由主義」とは相容れない。
公権力は声がやたらに大きく勲章や地位の好きな「お上」とは本質的に違う。特に学校では自覚する必要がある。教委も学校管理職も安易に自らを「お上」に擬えたがるからだ。勘違いも甚だしい。彼らは公僕であり、公権力=市民による議会に忠実でなければならない。それは多数決とは次元が違う。常に小さな声に敏感でなければ、平和と教育は直ちに崩壊する。