増え続ける「多数派・派」がヘイトスピーチや自発的従属を生む

鶴橋大虐殺を叫ぶ女子中学生の動画から
 エドゥアルド・ウヘス・ガレアーノ(1940~2015)はその代表作『収奪された大地 -ラテンアメリカ五百年』(1971年刊)で、ラテンアメリカの富がいかに奪われたかを、丁寧に余さず描いて「われわれラテンアメリカ人が貧しいのは、われわれの踏んでいる大地が豊かだからだ」と証明した。ガレアーノは14歳の時、自らの評論をウルグアイ社会党に売り込んでいる。1973年には、軍部クーデターにより逮捕投獄されアルゼンチンに亡命。アルゼンチンでもクーデターが勃発、死を宣告されスペインへ再亡命した。1985年帰国。

 スペイン人たちのインディアスに於ける虐殺があまりにも凄絶なので、金・銀強奪が目当てなのだということが霞む程だ。植民地における富の略奪の内実を、ガレアーノは無数の例を引いて語る。
 驚くべきは、インディアスからスペイン人が奪った金・銀はスペイン王国を潤すことはなかったという報告。当時のスペインはバブルに浮かれていたが、実際は莫大な負債がヨーロッパ各国にあり、インディアス強奪した金・銀はその返済にまわったのだ。その「三分の一近くはオランダ人とフランドル人の手にあり、四分の一はフランス人が握り、ジェノヴァ人が20%、イギリス人が10%、ドイツ人が10%弱を牛耳っていた」 

  イエズス会とスペイン軍は、祖国にさえ恩恵をもたらしていない。負債を返却するために大量虐殺と窃盗に励んだのだ。金銀の工芸品も跡形を残さず、全て鋳つぶして負債の支払いに充てたのである。
 インディオ虐殺も桁が外れている。インディオのせいでスペイン人一人が死ねば、それは大抵正当防衛であったが、インディオ100名を殺害するとの掟をもうけ、その決まりに従って秩序正しく殺戮を実行した。100万を越える人口が数百人に激減したり絶滅したりは、日常茶飯事の正義となった。インディオの神殿を打ち壊した石材はイエズス会の教会に使われ、インディアスは人命も、労働も、文化も、つまり歴史の全てを抹殺されたのである。そんな修道士や兵士が聖人や英雄と呼ばれ、勲章と爵位の山を築いた。修道士たちの中には、ラス・カサスのように「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を教皇宛てに書き告発した者もあったが、教皇は報告を棚晒しにしてしまう。
  
 「上司から会社のためにはなるが、自分の良心に反する手段で仕事を進めるように指示されました。このときあなたはどのように行動しますか」

 これは日本生産性本部が、毎年新入社員に実施する調査の一項目である。 

                            2018   2017 2016        男    女
1.指示の通り行動する  36.8   39.2 45.2    40.1 29.5
2.指示に従わない    14.4   13.1 10.6    14.5 14.2
3.わからない     48.8   47.7  44.2   45.4 56.3

 2016年度が「自分の良心に反」していても指示の通り行動する新入社員のピークであった。日本の集団では「わからない」は、多数に流されるということだから9割が、「従う」のである。そうでなければ、昇降口で洗髪させるなどと言う常軌を逸した頭髪指導が罷り通る訳がない。非正規労働者に対する冷酷さが放置され続ける訳がない。ヘイトスビーチを繰り返す議員が当選する筈はない、沖縄米軍基地を擁護する政権の無理無体が通る筈がない。
 反対する者を罵り押し黙らせるのは、判断保留の多さなのだ。自身の選択は放棄して、常に多数に付こうとする「わからない」の連中を、僕は「多数派・派」と呼ぶ。戦争に敗北した途端、民主主義者に変身して少年たちの怒りと軽蔑の対象になったのは、この「多数派・派」なのだ。状況が厳しくなると、急激に増える。
 良心に反しても「指示の通り行動する」割合が減少し「指示に従わない」が増えているとしても、「わからない」の多数派・派は増え続けて、自発的従属へとなだれ込む。報道や学者も労組活動家や学生まで卑屈にするは、この
自発的従属である。
 ラス・カサスの時代と異なって現代は宗教による支配からも、軍隊による強制からも自由な筈だが、このざまだ。

鈴木 2013年夏、・・・日本外国特派員協会に呼ばれたんですよ。日本の排外主義のデモについて話しました。外国人の記者がいっぱい来ていたんですが、その中でびっくりしたのが、あるアメリカ人記者の質問です。
 「3・11以降、世界中が日本に同情し、尊敬していた。ところが、今年二月、大阪・鶴橋で行なわれたヘイトスピーチの集まりでの女子中学生の発言が、世界中の日本に対する見方を変えた」と言うんです。「それ以来、日本に批判的になった」と。
 そのときまで僕はその中学生の発言を知らなかったんです。特派員協会での会見のあと映像を見ました。
坂本 僕も見ました。ひどいものですね。

鈴木 女子中学生が拡声器で
   「鶴橋にいる在日の人たちが憎いです。みんな殺したいです。南京大虐殺があったんだから、鶴橋大虐殺をやります。それが嫌だったら、日本から出てってください」ということを言ぅ。普通だったら、誰かが止めるじゃないですか。それを止めないで、周りにいる人たちは「やれやれ」みたいな感じで。僕たちが「日本ではこれは例外的だ」と思っても、世界に流れたら、事実なんです。
    

坂本 龍一/鈴木 邦男対談  『愛国者の憂鬱』金曜日(2014)

  「止めないで、周りにいる人たちは「やれやれ」みたいな感じ」それが、多数派・派の機能である。ラス・カサスやイエズス会修道士たちも、軍隊の狼藉は止めないで「やれやれ」と傍観していた。そればかりではない、軍隊と植民者たちが入り込み支配しやすいように、事前の宣撫工作に励むのが彼らの任務だった。

 だから、僕は生徒会活動や学級活動が「多数決」形成に流れ、政治教育が模擬投票ごっこに溺れるを正視出来ない。教師が
「多数派・派」に逃げ込めば、少年が明晰な決意や行動をする「恐れ」は小さくなる。それが政権の狙いでもある。
  エドゥアルド・ウヘス・ガレアーノもホセ・ムヒカも
「多数派・派」から最も遠い位置にいた。

追記 女子中学生がヘイトスピーチする動画は、youtubeにもある。警官隊が彼女を守っているのも印象的だ。
 

「第一線の研究者」とは何か / 批評は誰が誰にすべきか

斎藤喜博は校長になっても教室に押しかけ授業した
生徒の批評は辛らつであったが、それが喜博の楽しみだった
 「法隆寺には鬼がいる」と言われたことがある。宮大工の西岡常一である。法輪寺三重塔に鉄骨補強をしろという学者にかみついて「そんなことしたら、ヒノキが泣きよります」 (「斑鳩の匠 宮大工三代」 平凡社) と反論したのである。もちろん今、三重の塔にも五重の塔にも鉄筋は施されていない。それが我々の誇りになっている。
  「学者は様式論です。・・・あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。・・・学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする・・・結局は大工の造った後の者を系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下ということです」(「木のこころ・仏のこころ」春秋社)
 自分で鋸や鉋を握って建物を作ったこともない者が、千年の経験を蓄積した棟梁を差し置いてものを言うのに西岡常一は我慢がならなかった。
 青少年を相手にろくな授業をしたことのない学者や、生徒と教室から逃走した者が「研究者」顔して、「大工の弟子以下」の講評をたれるのを「現場の教師」たちはどうして有り難く拝聴するのか。何故、「現場」の鬼になって噛み付かないのか。

  「・・・○×科教育学会に行ってきました。一線の研究者に自分の授業を批判してもらえるのは、よい機会でした・・・」若い教師からの便りにあった。仮に彼をT君と呼ぼう。
  T君によれば、小中高教員言うところの「一線の研究者」すなわち大学教員は、学校で教える教師を「現場の教師」と言うらしい。自分たち大学研究者を「一線」と自認しておいて、それとは異なる「現場」で教える教師があると言うわけだ。
 第一線とは、つまりfrontである。では一体何に対して前線なのか。全ての教育関係者にとって、frontは日常の教室でなければならない。それは国民の教育権の主体が、先ず何を置いても生徒自身であることから自明のことだ。だとしたら、「現場」から離れた研究者こそその論考を、「現場」教師から批評されねばならぬ。しかしそうなら、研究室はなぜ問題が長年にわたって多発する学校にないのだ。なるほど教員養成系の大学は、多くの付属校を擁している。しかしどこに偏差値の底辺に位置する付属校を抱える大学があるか。

 そんなことを試みたのは、林竹二だけだ。だが個人であって、組織ではないから持続性はない。○×△☆科教育学会が、独自に困難高の中に、研究室を置こうとした気配すらない。一線とは、問題を抱えた学校から「遠く離れている」とういことに過ぎないのか。有能な一線の研究者が、自ら望んで底辺高に赴任して戻らないという話もない。それどころか、論文や研究発表好きの「現場」教師たちは、ことあるごとに問題を抱えた学校から離れて「栄転」するのだ。まるで逆転防止装置付きのネジ回しのようだ。
 もし本当の「一線の研究者」が実在するならば、自分の研究に対する「現場教師」に批評を乞い、困難と烙印される現象のただ中に身を置くに違いない。かつて島小の校長斎藤喜博は授業中の教室に入り、求めて「僕ならこうやる」と授業をやって見せたという。生徒たちが「校長先生の方がわかりにくい」と言うことも屡々だったという。それを楽しんでこそ「第一線の研究者」である

 問題を抱えた底辺から「遠く離れ」てネクタイを締め革の鞄を抱えるのが「一線の研究者」ならば、問題に翻弄されて過労気味の「現場教師」は、土人と言うことになる。そんな現場教師は、論文を書く暇も、学会に出る暇もない。日々消耗するのだが、磨きをかければ玉のような輝きに満ちた体験、第一線の研究者が思いもよらないような体験を内に秘めている。秘めていて本人は気付きもしない。そこに「第一線」の研究者は、足繁く通い詰めなければならないのに、そっぽを向いて去って行く。

 選別体制の極まった日本の教育を総体的に捉えるためには、付属学校や教委の指導重点校など粒のきれいにそろった集団を相手にして埒があくわけがない。
 生活にも学力にも問題を抱えた多様な生徒が内部矛盾を引き起こし、それを自ら克服する過程にこそ「アクチブ」な教育のヒントがある。

 もし第一線が「学会」での論文数や発表実績による地位や評価を意味するとすれば、例えば医学のfrontは病床や手術室にはないことになる。なるほど「白い巨頭」で描かれた教授回診が横行すれば、frontは教授会ボスにある。しかし現実の病床や手術室、そこには絶えず生死をかけた問いが渦巻き、定石や権威が通用しない、何が起きるか予測がつかない、緊張がある。町医者がそこに目を向けないで、「一線」の権威の批評を有り難がるとしたら患者は去る。権威の後ろに付いて歩く医者に信頼は置けない。                           
 教員が第一線の研究者の言葉を有難く拝聴するとしたら、それは教師が「第一線の研究者」の後ろに並んでいると言うことだ。研究者の前や横や後ろには、文科省や教委の肝煎りがいるかも知れない。

 教室が怖くて校長室に逃げ込んだ管理職も、定年退職して大学に迎えられれば「現場での経験を買われてその地位に就いた」と紹介されるから厄介である。しかしここでは「現場」と言う言葉は、授業も生徒も怖かった素性を糊塗する隠れ蓑として機能するのである。二重に「現場」を愚弄している。

  T先生、「一線」の研究者に君の教室で授業をさせ、批評してやるといい。何人が手を上げるだろうか。うち何人がT先生の勤務校を聴いても手を上げたままだろうか。返事は聴かずとも分かる。先ずこう言うのだ。「イヤー先生たちの苦労には平素敬意を抱いております」と持ち上げておいて、そして「とても私のような非力な人間に出来る仕事ではありません」と逃げるのである。


 この問題にどうしても欠かせない厄介がある。それは、「教科教育法」という分野の人気のなさである。大学生で「教科教育法」に積極的に興味を持ち大学院で専攻しようとするものがあるだろうか。実に面白さに欠ける、特に社会科教育法には魅力がない。その分野に多くの現職教員や研究者が集まるのは、積極的な探求の対象として「社会科教育法」が注目を集めるのではなく、学校という現場からの逃避の手段になっているからではないか。そうでなければ、この分野の「学会」員たちの、自発的従属性を説明できない。
 
追記
 僕の父は酒癖が悪かったが、戦後の大規模橋梁や鉄道建設の構造計算と設計には大方携わった。始まりは洞海湾をまたぐ若戸大橋だった。新幹線トンネル、駅舎、橋梁の構造計算をするとき、手回し計算機が何十台も事務所でうるさかった。トラス構造各部分にかかる力を計算するのは特に厄介で、数学の得意だった父は数値を求める近似式を作り促されて特許を取った。数学に特許があると聞いてびっくりしたものだ。この種の設計では盛んに使われ、作業を大幅に簡略化した。が、父は特許使用料を取ったことがない、取るのを潔しとしなかった。小学生だった僕は、なんて勿体ないと思ったものだ。そのせいか、父を破格の給与で雇うという巨大コンサルタントが現れ、父の事務所は大荒れに荒れた。父と数人の友人で立ち上げた事務所だ。仕事の殆どは父に来ていた。父が抜ければ事務所は潰れ、数十人が路頭に迷うかもしれない。それから数週間、毎晩事務所の社員が入れ替わり立ち替わりやってきて夜遅くまで、父に嘆願を繰り返した。お陰でうちの所得は上がらなかった。別荘・運転手付きの生活の夢は瞬く間に消えた。僕が中学生になると、父に博士号を取れと勧める人たちが現れた。その頃、父は土木学会の理事も務めて、大きな土木プロジェクトには大抵拘わって論文もたくさん書いていた。父は、それも固辞し続けた。終いには土木学会の重鎮も登場して、論文は今まで発表したものでいい。外国語による抄訳もこちらで準備すると申し出た。それでも父は首を縦に振らなかった。最期のプロジェクトは瀬戸大橋だった。
 何故酒癖の悪い父は、旨い話を断ったのか長く疑問だった。だが、西岡常一の一件でようやく納得出来るようになった。父が巨大プロジェクトで接するのは、父を除けば国鉄や公団の課長たちだった。彼らの肩書きは立派だったが、仕事は父に投げられた。それが国鉄や公団の仕事となって、父の事務所に下請けに出された。実力を伴わない肩書きに怒りを持っていたのだ。父の特許を指定して、父に仕事を頼む会社もあったが、それが目の前のうらぶれた父であることを知るものはなかった。
 西岡常一の生活は貧しかった。宮大工は神社仏閣以外の仕事はしないというしきたりに忠実な頑固者だったからだ。父も頑固だった。鹿児島に帰るたび、叔父や叔母がその頑固さで僕たち家族がいかに窮したかを話してくれたものだ。米を買えないどころか、税務署の差し押さえは二度もあった。電球にまで札が貼られたのを覚えている。夜逃げという言葉を4歳にならぬうちに知った。 頑固者は酒に溺れ貧乏を家族に強いるが、外から見れば世の中を痛快に見せる効用があるのかも知れない。   

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...