高校に入ったらぐれちゃおうと思った

   中学校で生徒会の生活委員長だった生徒が、僕のクラスにいた。快活な女生徒だが、受験票の写真はまるでOLに見える。実際、よく間違われたそうだ。校則に、耳を出せ、髪を垂らすなとあったのを生活委員長らしく守った。おでこを出し側面の髪を後ろに回していたから、本当に20才を越しているように見える。
 「だからね先生、高校に入ったらぐれちゃおうと思ったの」と笑いながら言う。
 「でもさぁ、うちは家庭円満なんだ、全くちょっと離婚ぐらいしたらなんて言うんだけど・・・」と屈託がない。
 「そうか、グレられないのか、君は。楽しそうだね。今の方がよっぽど子どもっぽいよ、中学生の時の写真より」
 「そう、中学じゃ真面目に集会があるときは、いつも壇に登って有名だったからね・・・つまんなかったな」

 成績は良く悪くもないが、数学がだいぶ苦手。しかし、「現社」では長い文章をよく書いた。新聞記事を毎日読んで、感想ではなく意見を書くように求め、僕はコメントを書き込んで返却していた。彼女のものは、長いだけではなく、意見をこえて明晰な論文でもあった。閃きをもたらすパトスを「論文」に感じて、中学指導要録の写しを見た。僕はこの手の書類を開けない事にしていたが、どうしても気になったのである。備考欄に知能検査の結果があって、知能偏差値が記入してあった。70をだいぶ上まわっていた。
   当blog「 learn and unlearn  /  think and unthink 」で触れたのはこの生徒の事である。←クリック
 知能偏差値70をこえる生徒の可能性が、生活委員長らしさの為に歪められたのだと思う。彼女もunlearnする必要があった。
 残念だが、今我々の日常は、unlearnするには相応しくない。僕はunlearnするには、静かで深い時間に守られた自由な環境が必要だと思う。一度編み込まれ、何度も洗われた編み物を解くのは、楽ではない。解いた糸を失敗を重ねながら再び編み上げるのは、乾いた砂に水が染み渡るように速い。「ぐれられない」は、unlearnが始められない不安を表していたのかも知れない。

 unlearnの過程を少なくとも見守る学校や担任でありたい、出来ればunlearnを手助けしながら新たなlearnの過程に向かう教室。だが現実は、粗雑にlearnにlearnを重ねている。ただの暗記ならそれで済んでしまうのだが、世界に働き掛ける創造性を持つためには直感が働くような概念の連なりが求められる。
  「ひねくれたい」と訴えた生徒もunlearnすべき課題を抱えていたのだと思う。

追記 生活指導と称して生徒を利用する。一見素直に奉仕して成長しているように見えても、深い自己嫌悪に陥る生徒は少なくない。これもパワハラである。
 生徒の生活委員長が、教師に代わって「服装が乱れている」などと注意する光景がドイツやフランスであり得るだろうか。

原爆投下や大空襲を、高級官僚や陸海軍幹部だけが生き延びている

 大戦中の中国や東南アジアなどで戦った兵士の回想録や文学は、多く出版もされている。だが広島・長崎の被爆兵士の記録を捜すのは困難である。何故だろうか。

 広島は昭和20年8月、西日本を統轄する第二総軍司令部が置かれ「軍都」と呼ばれた。その他中国軍管区司令部、陸軍幼年学校などもあって、8万~約4万3000人の将兵が広島にいた勘定になる。 
 8月6日広島残存人口は28万人と報告されていた(約35万人の市民や軍人がいたとする統計もある。これには、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを含んでいる)
 そこに午前8時15分、史上初の原子爆弾が炸裂、わずか4カ月半(つまり昭和20年中)に、14万人が死亡。その後の爆死者併せて21万人、広島の人口の75%が爆死したことになる。軍人が4万3000人だったとしても、その75%は3万3000人を越す。
 将兵の死亡について日本の記録は、「軍事機密の壁に阻まれ明らかではない」としたり、「数万の将兵が広島で死んだ」と投げやりである。
 事実は、広島の陸軍幼年学校は、府中町に移転して誰もいなかった。第二総軍も司令官はじめ幹部は生き残っている。上級司令部の司令官と参謀は生き延び、高級将校のほとんども生き残ったのである。高級軍人と未来の将校は助かり、死んだのは兵卒と市民ばかりの印象が残る。
 東京大空襲でも政府と高級官僚、陸海軍の主要人物は生命の被害を受けず、無事に終戦を迎えている。空襲のあった65都市でも、現地の司令官や官僚、地元有力者たちは生き延びた例が多い。
 戦争を仕掛け煽り、利権と権力を手にした張本人たちが無事であったのはなぜか。高級軍人は、市民や兵卒を犠牲にして安全な場所にいたのではないか。

 原爆投下後、中国軍管区司令部では3、40名の当番女学生が爆死。ところが、司令部に参謀は2名しか出ていない。中部軍管区司令部(大阪)は参謀16名、四国軍管区司令部(善通寺)も11名、西部軍管区司令部(福岡)に至っては、参謀部は20名。不自然である。

 戦後のアメリカ戦略爆撃調査団の調査では、広島で爆死した将兵は3243人と報告されている。『米軍資料 原爆投下の経緯-ウエンドーヴァーから広島・長崎まで』(東方出版1996年)は、アメリカの公文書館で機密解除になった報告書を集めたものだが、そこには、(広島にいた9.000人の兵上のうち4,000人が死亡し.3.000人が傷つき、2,000人がのがれた)とある。これは戦後のGHQの調査である。
 広島の軍隊は、実は9000名、あとはどこにいたのか。生き残ったのだから安全なところに避難していたのである。
 蜂谷道彦の『ヒロシマ日記』には「逃足の早かった軍隊」とある。広島市街で爆死したのは、戦力にならない人々。小銃さえない玉砕予定部隊の老兵、竹槍の女子挺身隊員、女学生や中学一、二年生、国民義勇戦闘隊に編制された戦闘力のない市民にすぎない。
 「逃足の早」いのは、日本軍幹部のお家芸だろう。満州でも、碌な装備もなしにソ連国境地帯に開拓団や民間の男たちを動員して、そのすきに家族ぐるみ飛行機や特別列車で逃げている。ソ連参戦前、敗戦前にである。
 
 「・・・8月9日には、長崎に原子爆弾がおとされたのです。 新京駅では早くもその日、関東軍首脳の家族の、家財を入れたピカピカのトランクとか、ぎっしりつめた柳こうりが、所狭しと駅構内に並べられ、その上には毛布を敷いて女、子供が腰をおろしていました。列車は何便も準備されて朝鮮をさしたのです。奉天などもそうでした。軍司令部が新京在住の幹部家族を逃すと、次に駅へおしかけたのは、高官や政府要人の家族らでありました」  山田盟子著『ウサギたちが渡った断魂橋』新日本出版社刊

 広島市街で爆死したのは戦力にもならない人々ばかりである。小銃もない玉砕予定部隊の老兵、竹槍の女子挺身隊員、女子学生や中学一、二年生、国民義勇戦闘隊に編制された戦闘力のない市民にすぎない。
 
 7月末から8月5日まで広島市内には、爆撃予告のビラが米軍機から蒔かれたり、連合国側の対日宣伝放送で「大空襲」や「壊滅的攻撃」の噂が渦巻いていた。
 軍首脳はじめ、警察や市役所、県庁の幹部の耳にも入っていた。大本営からも「警戒命令」が出ている。にもかかわらず軍は、中学生以上の市民を爆心地周辺に動員して、被害を拡大させている。何のためか。


 「学校関係者は、口を揃えて、(動員された生徒が)危険な作業に出ることを極力反対しました。しかし、軍関係者は、承知せず、防災計画上、一日を争う急務だからと強く出動を要望しました。会議は長時間にわたり平行線をたどったのであります。出席の軍責任者の○○中将は、いらだち、左手の軍刀で床をたたき、作戦遂行上、学徒の出動は必要であると強調し、議長に決断を迫りました。議長は沈思黙考、双方の一致点を見出そうと苦慮され、やむなく出動することに決定、空襲の際は早く避難できるようにと引率教師を増し、少数の集団として終了時間は一般より二時間位早くすることでようやく妥結しました」原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』(新日本出版社 2006年)


 こうして学徒動員実施要項にある中学校一、二年生への配慮も無視して、大本営が警戒を発した八月三日から連日、義勇隊約3万人、女学生と中学生の学徒隊1万5000人が市内に動員された。

 こんな無茶は狂気の沙汰であり、当時の広島市長の粟屋仙吉には放置できない事だった。 彼は大正デモクラシーを生きた人で、知事や農水局長を務め一旦退官していた。ゴーストップ事件以来、軍の目の敵だったが請われて広島市長を引き受けたのである。
 8月5日夜 
「広島では、・・・畑元帥部下の新任参謀長の歓迎宴に出席するため、招かれた・・・民間人の客は県知事と上級の役人たちと粟屋仙吉市長とであった。その民間人の客と50名ばかりの幕僚たちとが畑元帥と新任参謀長と同室に集まっていた」G・トマスとM・モーガン共著『エノラ・ゲイードキュメント・原爆投下』 (TBSブリタニカ 1980年)


 この夜、粟屋市長は畑元帥に直談判するつもりだったが、畑は「2・3日のうちに」と逃げまわったのである。市長には翌日の情報は伝えられなかったのか、彼は市長公邸で原爆焼死した。

  長崎の場合も奇妙なことがある。長崎市の中心に捕虜収容所があり三菱の兵器工場で働かせるために1000名が収容されていた。だが僅か8名が死んだだけで、しかも米兵は誰も死んでいない。
 それだけではない、三菱は日本人労働者を、警戒警報が鳴り響いているのに防空壕に避難させず働かせつづけたのである。
  もし、日本軍部が原爆の威力を知るために、意図して義勇隊約3万人、学徒隊1万5000人を市内に動員したのなら、広島の一発で恐ろしいまでに知ったはずである。だが長崎の原爆が広島のウランではなくプルトニウムである事を、軍部が予め知っていたとするなら辻褄は、見事に合う。 こうなると、東京大空襲や原爆投下の責任者Curtis Emerson LeMayに勲一等旭日章が贈られたわけも、より鮮明になる。

追記 常備軍は、必ず腐敗して自らの権益と威信のために国民を統制支配する。ごく少数の例外があるとしても、決して国民を守らない。

処置とは殺すことか

「重営倉で瀕死の状態となった兵を連隊長から、処置せよ」といわれて、リンゲル液を持って川島中尉は手当てしようとする。ところが怒気を含んだ声を浴びせられたのだ。 
「何をするんだ貴様。処置せよ、と命令したんだ!」 
「ですから死なないように処置して、助けるのです」 
「貴様!上官の命令に反抗するのか!処置せよ」 
「ですから点滴で栄養補給の処置をしますっ! それとも『殺せ』の意味ですか?」 
 この二言で連隊長は沈黙した。明らかに「処置」とは 「殺せ」を意味する。高級将校の保身のために言質とならないように、「殺せ」とはいわず、「処置」の用語が用いられたのである」
   (古川愛哲著『原爆投下は予告されていた』講談社刊)川島中尉は、茨城県古賀市の川島恂二博士。元軍医。連隊長が沈黙したのは、国際法を知っていたからである。
   もう一つ『日本軍兵士』(吉田裕著 中公新書)から例を引こう。
  「処置」命令に抵抗する衛生兵もいた。第三〇師団第四野戦病院に所属していた衛生伍長の平岡久は、1945年6月、フィリピンのミンダナオ島で、部隊の撤収に際し、患者収容隊に「戦闘にたえざる者は適宜処置すべし」という師団長命令を大隊長から伝えられた。そのときの状況を平岡は、次のように記している。
 ・・・赤十字の腕章を持っている私は精一杯の抵抗をしました。
 「『処置すべし』 とは如何なる事でありますか」
 「この大馬鹿者奴、帝国軍人として戦友に葬られる事こそ最高の喜びじゃ!やれ!と大喝され、刀のツカをたたいて怒鳴りつけられると 
「判りました」 と答えてしまいました。(『戦争と飢えと兵士』)

 「処置」 に抵抗する傷病兵もいた。ルソン島で兵站病院・・・撤退時の病院内の混乱について、衛生兵の回想がある。1945年1月、兵砧病院の撤退に際して「処置」命令が下った。命令を受けた衛生兵たちは躊躇しながらも、熱が下がり元気になる薬だと称して、傷病兵に薬物を次々に注射してまわった。そのとき、ある傷病兵は、「おい衛生兵!きさまたちは熱が下るなんぞ、いい加減なことをぬかして、こりゃ虐殺じゃないかッ」と抗議し、これに同調し何人かの傷病兵が怒号をあげたという。

   これらの例は、味方の重傷者を巡って交わされたものである。捕虜に対してはどうだったのか。結果としての数字が、ある。大戦中の米兵捕虜死亡率は、独軍収容所:1・2%、日軍収容所:37・7%、露軍収容所:10%。  日本軍に捕まった場合の死亡率が圧倒的に高い。

  「俘虜の非常時に関する処置」という名の文書が台湾の捕虜収容所跡から発見されている。1枚目画像はここ←クリック  2枚目はここ ←クリック
  中に次の記述を読むことが出来る。

  処断ノ時機方法左ノ如シ
一、時機
   上司ノ命令ニ依リ実施スルヲ本旨トスルモ左ノ場合ニアリテハ独断処置ス
  イ、多数暴動シ兵器ヲ使用スルニ非ザレバ鎮圧シ能ハザル場合
  ロ、所内ヲ脱逸シ敵戦力トナル場合
ニ、方法
  イ、各個撃破ニヨルカ集団式ニヨルカ何レカニセヨ大兵爆破、毒煙、毒物、溺殺、斬首等当時の状況ニ依リ処断ス
  ロ、何レノ場合ニアリテモ一兵モ脱逸セシメズ殲滅シ痕跡ヲ留メザルヲ本旨トス

 己らの保身に都合の悪い文書を敗戦時に徹底的に焼却した日本軍であったが、膨大な文書の始末には漏れもある。日付は昭和19年8月1日付、台湾の参謀長からの問い合わせに陸軍次官が答えたものである。
 この文書が捕虜皆殺し命令といえるかどうか議論されてきた。将校は責任を逃れるためにここでも「処置」と表現するのが常套手段であった。例えばフィリピン・パラワン島では、150名のアメリカ兵捕虜が洞窟に閉じ込められて「処置」されている。ガソリンで焼殺したのである。日本軍支配地域ではこのような事が何処でもおきた。BC戦犯法廷では、「処置」「処断」で捕虜虐待や殺害を命じた上官が免罪され、曖昧な命令を「忖度」した下級兵士が死刑になったのである。

  「殺す」を「処置」や「処断」に言い換えれば、言語道断な無茶が通ってしまうのは、昔の軍隊に限らない。
 例えば、「処分退学」を「自主退学」に言い換える手口は、日本の高校では厄介な生徒追放の常套手段として重宝されてきた。「処分退学」が学校教育法に基づく懲戒として強制力を伴うのに対して、「自主退学」は本人や家族の都合にも基づく。「処分退学」は強制力を持つが、適法性が求められ手続きは簡単ではないし学校の評判も落とす事になる。特に校長の経歴の汚点となるからどうしても躊躇しがちになる。「処分退学」を「自主退学勧告」と言い換え、当該の生徒や親には「転学や就職の際に、処分退学は不利」と言い含め、親切を演じる。
 かつて僕の勤務校で暴力事件があり、クラスの生徒が重症を負った。早速会議がもたれ、自主退学勧告する事になった。僕は訓戒以上は望まないが、生活指導部は自信満々であった。病院や被害生徒の自宅を駆け巡って、疲れ果てて帰宅した僕に、加害生徒から電話があった。彼は助けを、求めてきた。どうしても退学したくない、どうすればいいか、何でもすると言う。彼は『兵隊ヤクザ』の主人公大宮を高校生にしたような生徒だった。「現社」の授業で僕は、困ったときに役立つのが「社会科」だと啖呵を切っていた、彼はそれを覚えていたのだ。
 「何があっても、自主退学に応じるな。勉強を続けて卒業したいと言い続けろ」と指示した。彼の親にも説明をした。案の定、生活指導部はカンカンになり、指導と称して無理難題を彼に連発した。無理難題をこなせなければ、「指導拒否」で、退学の口実を積み重ねる手筈だった。勉強の苦手な彼に、拷問としか思えない量の課題を連発したのだ。しかし彼は死に物狂いで頑張った。それは一ヶ月以上続いたが、彼は乗り切り、卒業した。
 僕は、あまり喜べなかった。それほどの価値が、あの学校の授業や教師たちにあるとは思えなかったからである。

追記 自民党は改憲して9条第二項に「必要な自衛の処置」をとる実力組織として「自衛隊」を入れる腹らしい。議会も学校も、言葉を磨き鮮明にしなければその役目の果たせない場所である。そこで言葉が、限りなく曖昧に錆び付いてゆく。行方不明にもなる。

志賀直哉と天皇制廃止 / 政治はたまにやるのがいい

たまにやるからいい
 「要するに政治というのはたまにやるのがいいのだ」と言った丸山眞男は、生活が全面的に政治化すれば、スターリニズムやナチズムの世界になると考えていた。普段は、先ず個人それぞれの日常がある。仕事をしたり勉強したり家庭生活をする。それを脅かす危険が迫るときには、様々に政治化して闘う。守るべき私的な領域があってこそ、折々の政治参加が意味を帯び、政治的行動の必要性が一人ひとりの中から湧き上がってくる。

 志賀直哉は、小林多喜二
 「北欧の文学がヨーロッパ文学を席捲したように、いまに北海道の文学が内地の文学を席捲してしまうのだ」
と励ましている。実感だったのだと思う。だから、虐殺の報を受けた日の日記にも
 小林多喜二、二月二十日(世の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持ちになる
と書き、多喜二の母にも、
 「御令息死去の赴き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考へアンタンたる気持になりました」
と書き送っている。
 それほど文学的には評価していたが、「小説が主人持ちである点好みません」と、政治や思想が混じると芸術が弱くなる旨批判の書簡も送っている。志賀直哉にとって小説は、思想を伝えるものではない、増して政治の手段ではない。思想の表現は別の効果のある方法によるべきであると考え、左翼思想も右翼思想も、思想という括りで斥けるところがあった。にもかかわらず、戦争末期、彼は特高の監視を笑い飛ばしながら「終戦工作」=政治活動に決然と乗り出したのである。←クリック
 敗戦後も随想で、第二の東条英機にが現れるような事は絶対に防がなければならないと考えていた。戦犯としての東条の惨めな姿を大きな銅像にして残し、「その台座の浮彫りには空襲、焼跡、餓死者、追剥、強盗、それに進駐軍、その他いろいろ現わすべきものがあろう。そして柵には竹槍。かくして日本国民は永久に東条英機の真実の姿を記憶すべきである」(「銅像」1946年『改造』復刊第一号)と述べている。
 志賀直哉は天皇個人に責任があるとは思えないが、「天皇制には責任があると思う」と述べ、古い関係を捨て去ってしまうことは淋しいが、世界各国の君主制が次々に廃止されるの見ていると、「天皇制というものがいまはそういう頽齢に達したのだというようにも感ぜられる」とまで書いた。天皇制の責任と廃止を求めたのである。

  新日本文学会の賛助会員になったのも、新しい民主主義的文学運動に対する期待を込めてのこと。しかし中野重治の「安倍さんの『さん』」という評論に抗議して退会。安倍能成は同心会の盟友である。戦後の困難な時代に敢えて文部大臣を引き受けた安倍能成の思いに迫ろうとせず、ひたすら政治的に罵る。天皇制について論じる限り同意出来ても、皇后が太っていることで、揶揄し、批判するやり方に不愉快を感じたのだった。これら点では、中野重治は妻の原泉からも「詩人らしさがない」と批判されている。志賀は、それを文学的でないと怒ったのである。教育基本法の成立に安倍能成は大きな役割を果たしているのである。

 志賀直哉がわざわざ中野重治に手紙を書いて、新日本文学会を退会したのは大きな痛手でなかった筈がない。
  僕は、『五勺の酒』は志賀直哉への中野重治自身の釈明が反映していると思う。思いが苦く綴られている。だから酔って書いたのである。日本の戦後文学を背負った上に党の中央委員でもあり国会議員でもあった頃、民主文学運動は「たまにやる」ものではなく、「生活が全面的にイデオロギー化」していた。文学運動自体までもが政治化していた。
 中野重治にとって、志賀直哉を巡る思いでは慚愧に堪えぬ恥ずかしいことの限りであった。だから酔って書いたという体裁にしたのだ。しかしこの時、既に志賀直哉は他界していた。

 国会議員としての中野重治は、用意周到な調査を背景に鋭い質問を繰り出し討論して、反対派さえも楽しみしたほどである。志賀直哉が学習院時代、内村鑑三に傾倒し鉱毒事件にも強い関心を抱いて谷中村に赴こうと父とはげしく対立したことや、日露戦争勃発当時の日記には、戦争批判の言葉がしきりに書かれていることを知らぬ筈はない。

  小さな教育現場の「活動家」でさえ「生活が全面的に政治化」、日常から乖離して「スターリニスト」化する者は少なくない。職員会議や職場会での発言だけではなく、クラスやクラブ活動指導までが、ある方針で均質に固められてしまう。職場で多数を占めるためにそれがなされるから、どうしても目に見える点数主義に傾く。やがて授業が破綻する。クラスも平衡感を失う。それを糊塗する為に、生徒にも同僚にも強圧的になるのである。
 芸術でもスポーツでも陶芸でも山登りでも、それに没頭して本業や日常生活が見えなくなり「全面化」すれば、「スターリニズムやナチズムの世界になる」ことは避けられない。
  「要するに政治というのはたまにやるのがいいのだ」けれども、「たまには」やらなければ他の活動が全面化してその世界のスターリニスト・独裁者になる危険を常に孕んでいる。 「全面的発達」はかなりの難物なのである。飽きる癖も大事にしたい。
 辻井喬は政治に対して、常に「たまに」しかし「ラジカル」に関わった、関わらざるを得なかった詩人・実業家であった。いずれに対しても、全面的に関わる事がなかった。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...