何故「民主」ではなく「民主主義」なのか      「主義者」と「特高」

  自由に主義をつけるのは、「新自由主義」の場合ぐらい。平等を平等主義と言うことはない。平和も平和主義とは言わない。

 「民主教育」と言う場合と「民主主義教育」と言う場合、どこが違うのか。民主法律家協会は民主主義法律家協会ではない。

  「主義者」という言葉がある。非「国体」思想撲滅を任務とした特高警察が、マルクス主義や無政府主義など左翼的傾向全般を一括りにしていた。「国体」概念が曖昧な事が味噌、感情的憎しみが込められ虐殺と弾圧の言語的温床となった。対して天皇制支配や植民地獲得を喧伝する者は、どのように振舞っても「主義者」ではなく世間の標準なのであった。

 tvワイドショーで弁護士が「・・・共産党はまだ『暴力的な革命』というものを、党の要綱として廃止してませんから。・・・」と発言するや、自民党の支持率が爆発的に上昇(自民党24.9→43%)し野党の支持率が軒並み激減(立憲民主党28.1→11%、共産党10.0→6% 各党の支持率は前者が信濃毎日、後者が朝日)した現象は、「主義者」呼称と特高的「国体」概念が如何に根強いかを示している。「特高」紛いの言説で政権やマスメディアの人気を狙う輩も後を絶たない。


 日本で「民主」が生き生きしていたのは、敗戦後の僅かな期間だけ。生まれたばかりの「公選制教育委員会」や「公選制公安委員会」が押しつぶされた時、体制は曖昧な「国体」概念で自らを包み込み、「主義者」概念を徐々に復活させることに成功した。

 今教員が何であれ自主的取り組みを目指せば、間髪を要れず「日教組」という「主義者」ラベルが貼られ 世間の眼差しを曇らせる。日教組は組織としては死んだも同然だが、体制が自らを守る道具に使えば世間は判断力を放棄する。お陰で政権は何をしても無色・標準を装うことが出来る。  

 徳冨蘆花が一高で「謀反論」を公演した意義を想う。彼は会場に溢れる若者にこう訴えた。

「・・・社会主義が何が恐い? 世界の何処にでもある。然るに狭量にして神経質な政府は、ひどく気にさえ出して、殊に社会主義者が日露戦争に非戦論を唱うると俄に圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となって、官権と社会主義者は到頭犬猿の間となって了った。諸君、最上の帽子は頭にのっていることを忘るる様な帽子である。・・・我等の政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君等の頭にひどく重く感ぜられて、到頭無政府主義者になって了うた。無政府主義が何が恐い? ・・・幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である・・・」

 2時間に及ぶ演説が終わると数秒の静寂の後、万雷の拍手がわいたという。蘆花は些かも「主義者」ではない。無論この後「不敬罪」騒ぎが起こった。問題はどこにあるか。


 左は無冠の貧しき抗日ゲリラ戦士、右は勲章を誇る富める大量虐殺戦犯。
 我々に必要なのは、あらゆる権威や権力に依存しない自立した判断だ。それを学校は培ってきたか。指導に名を借りて、特高並みの暴力的思想善導に励まなかったと言えるか。この国では、体罰殺人が半ば当局公認で戦前から続いている。

 

「経営の専門家」は何が「専門(得意)」なのか

  「100歳まで生きる」と公言していた稀代の「経営者」ロックフェラーは、98歳の誕生日を目前にして亡くなった。死にゆく彼をフォードが見舞ったときの会話。

 ロックフェラー「さらばだ、天国で会おう」

 フォード「あなたが天国に行けるならね」

 フォードはロックフェラーが天国に行けないことを見抜いていたのか。ならばフォードはマルコによる福音を正しく読んでいたことになる。

  「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。(マルコ10:25)

 それにしても冷酷な男だ。フォードは自分だけは天国に入れると本気で信じていたのか。

 フォード社は1960年代後半、軽量廉価の「ピント」を設計した。日本製小型車との競争のため、短期間開発は至上命令だった。結果、ガソリンタンクは後部車軸とバンパーの間に置かれ差動装置のボルトは露出、衝突の衝撃でガソリンタンクを刺し通す恐れがあった。

 このままではピントが、新基準には合格しないことを技術者たちは知っていた。新たな基準時速20マイル試験では、12回の後部衝突のうち11回が不合格、衝突によりガソリンタンクが破裂し車体は炎上。安全のための改良には、1台あたり11$の追加投資が見込まれた。

 フォード社担当取締役は、「衝突事故がもたらす燃料の漏洩と火災による死亡事故」という文書を作成、命と追加投資を天秤にかけた。

 改良のための追加投資=販売台数1250万台×単位費用11$=約178億円

 社会的損益=死傷者の出る火災180件×(死亡による損失20万$/件+負傷による損失67千$/件)+車両炎上2100台×車両損失700$=約64億円

 この結果をもとに「経営の専門家」フォードは、改良なしのまま販売を続け、人命を軽視する策に踏み切ってしまった。

 1972年、追突されたピントが発火・炎上、運転手が死亡し同乗者が大火傷を負った。この事故をめぐる製造者責任訴訟で、フォード社はガソリンタンク炎上の危険性を知りながら、経済的収支計算結果に基づき販売を続けたという事実が、退職技術者らによって暴露されるに至った。

「ヒトラーの謝辞 と独大鷲十字章」を独大使から受けるフォード

  フォードとヒトラーの関係も、彼が「天国」から遠いことを現している。しかし福音や経典は、何時の時代も「富と力」のために都合よく捻じ曲げられてきた。天国がないことを最もよく知っているのは彼らである。


 コロナ分科会の尾身「専門家」が病気治療の専門家ではなく巨大病院網の経営者でしかないように、原発も宗教も経営が理論や理念を容易く踏みにじる。学校の教頭が副校長になったのも、校長の授業を禁じたのも教育の専門家としての職能を奪い、教委や文科省の尖兵たる経営者としての自覚を促すために他ならない。

 「経営学」修士号やメダルに魅了されるのは、己の価値を損なうだけではない、積極的に他者の価値を棄損することを知るべきである。

 まさしく、持たざる者、貧しき者は幸いなりである、天国や極楽のありなしに関わらず。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...