「五輪すら止められないのに、戦争を止められるわけがない」 日米開戦も明るく盛り上がり、人々は万歳を叫び提灯行列さえした。作家も例外ではなかった。
「一生に一度」と、炎天下の競技場周辺に密集する。競技場からバスで帰るplayerに手を振るためだけに。いい歳した人が、tvニュースのインタビューに興奮気味に答えている。
一体「一生に一度」とは何か。それ以外の日常は何なのか。「一生に一度」が輝けば輝くほど、残りの日常は彩りの消えた闇と化するのではないか。
日常が暗い。・・・職場でも、家庭でも、地域でも粗末に扱われれば、自分自身が塵芥なみに思えてくる。
そんな虚しさを、「近しい」つもりの他者の「輝かしき」属性で埋める。自らに欠けた、高貴さ、力強さ、希少性、美しさ、古さ・・・何であってもいい。たとえ藁であっても、溺れる者には救いに見える。それは藁だと指摘すれば、逆ギレさえする。
皇太子の結婚行列目撃が、或る人の「一生に一度」なら、孫の笑顔も「一生に一度」の筈だ。何故なら昨日の孫も明日の孫も違う孫だ。毎日成長しているのだから。
授業の出来も、生徒の反応も日一日変化して止まない。それが「一生に一度」の体験ではないか。煌びやかな結婚式が「一生に一度」なら、結婚前の日々もそれぞれ 「一生に一度」の興奮や喜びに満ちている。その後の平凡極まりない日々も、「一生に一度」の貴重な日だ。それが生きることではないか。
粗末な自分も、粗末な日も。粗末な家族もないのではないか。粗末なのは制度ではないか。
我々の日常には、近隣アジア諸国への蔑視と敵意が溢れる。その対極には、日本に原爆を落とした国への尽きない忖度があって分かり易い。しかし忖度しても忖度しても期待する見返りはない。さらなる貢をと脅される始末。当たり前だ、同盟国関係に忖度は在りえない。対等な関係でなければ同盟は在りえない。「トモダチ」強要も同盟ではない。何故なら「トモダチ」に条約は在りえない、あるのは掟。同盟に権利が明示されるが。掟には制裁がある。
忖度にもとづく「トモダチ」関係はヤクザ社会の組織関係に似ている。平等意識のない社会に友情ばあり得ない。例外がある、ヤクザと担当刑事の間には「友情」が生まれる。
アジア分けても中国や韓国への敵意の裏には、「隣人」への「愛」がある。アジア諸国への蔑視や敵意の裏にある筈の「隣人」への愛、その場合の隣人とは一体どこの誰なのか。
隣人の実体は何か。日本が優位に在ると思い込める物や事柄を魅せる何かか。
例えば「学力」「歴史」「技術」「風土」「メダル」への執着。だがいずれも虚しい。賃金は6年も前に韓国に追い越されている。恰も「外国」や「外人」がいまだに日本に憧れているかのような幻想に縋りつく。幻想を無理やり映像化させるために莫大な浪費も犠牲も厭わなくなる。メダルが増えれば、粗末に扱われる日々は消えるか。狭い一部屋に数人が犇めく家族の感染恐怖はなくなるか。「一生に一度」のバカ騒ぎにシラケる若者に期待したい。入学や卒業「式」文化祭や体育祭の「開会式」も部活の大会出場も軽くボイコットして、日々の授業の充実と自由な日常を要求して座り込む生徒の出現が僕の夢だ。