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国家テロに、覇権国家が依存するわけ

   白起は紀元前257年生まれ、中国戦国時代末期の秦の武将。司馬遷は『史記』で「料敵合変、出奇無窮、声震天下)」と評した。長平の戦いでは降伏した40万の趙兵を尽く生き埋めにしたと伝えられるが、主君の昭襄王は自害を命じる。

    2024年2月植民国家イスラエルは、ガザ全域の市街を破壊しパレスチナの存在を消そうとしている。ジェノサイドが止まらない。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によれば゛昨年10月以来ガザ地区でイスラエル軍が殺害した子どもたちの数1万2300人は、2019年から2022年までの4年間に世界中の紛争で殺された子どもの合計よりも多い。


    ジョナサン・パーカーの著書『テロリズム その論理と実態』は 、一八世紀から一九世紀にかけてアジア、アフリカで展開されたイギリスによる「虐殺」の数々を、「国家テロ」として挙げている。一部を引用する。

  大英帝国支配下のベンガル(印度東部からバングラデシュに跨がる地域)総督の副官であったジョージ・フィッツクラレンス大佐は、ビンダーリー族について 「盗賊として有名だった彼ら戦う権利を持つ敵として彼らを支配するのではなく、彼らを根絶することが目的だった」と語っている。

 「いったいどうやってマオリ族を文明化できるというのか」と、1834年にニュージーランド北沖で船が難破した・・・英帝国軍人船長は問いかけた。「確実にやつらを射殺すること。一人残らずニュージーランド人にマスケット弾丸を打ち込むより他に、あの国を文明化する方法などない。」

  オーストラリアの裕福な牧場主でもあったウィリアム・コックス将軍は、1825年に開かれたボーフォートでの公開集会で演説した。「我々がなしうる最善のことは、すべての黒人を射殺してその死体を土地の肥やしにすることだ。・・・黒人を根絶するために、女と子どもは特に確実に殺さなければならない。」


 これら「大英帝国」植民地支配を担う軍人の歪んだ世界観は枚挙に暇がない。アムリットサル事件はその頂点の一つ。

  非武装の集会の参加大衆に対してレジナルド・ダイヤー准将率いるイギリス領インド帝国軍一個小隊は発砲、さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。

  今尚イスラエルがパレスチナでやっていることは、

 フランスがアルジェリアやアフリカ各地で、イギリスがインドが世界各地で、ベルギー人がコンゴやアフリカ各地で、アメリカ人がベトナムや世界各地で、スペイン人が南米で、イタリア人がアフリカで、ドイツ人がナミビア等のアフリカ各地で、日本が朝鮮や東アジアでやった国家犯罪=国家テロの一部にすぎない。

  これら嘗ての植民地帝国諸国が、挙ってイスラエルのジェノサイドを「国家の権利としての防衛」と見做すのは嘗ての国家犯罪=国家ロを合理化するからであり、反省や謝罪の意識は何処にもない。

パレスチナ・ガザ沿岸に「病院船」を派遣するイタリア

 CNNによれば、 イタリアは2023.11月8日病院の機能を持つ海軍の船舶をパレスチナ自治区ガザ地区へ派遣する。現地の犠牲者を治療するためという。クロセット国防相は記者会見で、この病院船は8日にもイタリアを出発すると述べた。船の乗員は170人で、このうち30人が救急医療の訓練を受けているという。報道によれば、パレスチナ側との合意に基づいて、野戦病院を直接ガザに搬送する。彼は「我々はあの地域で人道的活動を行う最初の国であり、他の国々も我々に続くことを望む」と述べたという。


  かつて僕は、米軍にの戦争参加要請に抗してベトナムに病院船を派遣したドイツについて書いた。

   「 病院船・コロナ病床jet機による国際主義という決断 」     https://zheibon.blogspot.com/2020/08/jet.html

 再掲する。

病院船・コロナ病床jet機による国際主義という決断

Helgoland号甲板の乗り組み看護婦と治療後のベトナム幼児
 ベトナム戦争中米国は、同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは武器と兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約を遵守、米国の民族皆殺し政策に加担して殺すのではなく、北ベトナム、南ベトナム双方の民間人を治療したのである。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んしだ。

 これは、沖縄の基地をベトナム爆撃に使わせていた日本が率先してやるべきことだった。憲法九条を持つ自称「海洋国家」の何たる失策。世界に反戦運動が盛り上がる1969年、進水した原子力船「むつ」は失敗を重ね、膨大な費用を文字通りドブに捨てた。為にならないことには精を出し、害が明らかになっても中止する判断さえ出来ない。希望がない。
 


独は、伊からのコロナ患者輸送のために、エアバスA310 を改造
 そして今度は、コロナ患者のための世界最高のMedEvacである。高度な施設での治療が必要な患者を、治療を行いながら迅速かつ効率的に医療機関に搬送するICU専用jet 機。ドイツは、イタリアからドイツの病院にコロナ患者を運ぶために、エアバスA310 を改造。この飛行機には44床のベッドがあり、そのうち16床は高集中治療患者向けのもので、最大25人の医療スタッフが搭乗していると。

 病院船も ICU専用jet 機も、日本にこそ必要なものではないか。全国に散らばる離島のコロナ患者や医療破綻自治体の為に、複数のICU専用jet 機と病院船、そして病院列車が、大勢の医療stuffとともに必要だ。
 中国封じ込めのために、阿倍が世界中に専用機でばらまいた資金援助だけで 30 兆円。
 せめて首相専用機をICU専用jet機にしても罰は当たらない。何ら有効活用していない豪華専用機だ。
 莫大なコロナ対策費が、又もドブに投じられ却ってコロナ禍を広げ深刻化させている。
 集団的自衛権行使を容認して積極的平和主と嘯く日本は、いつまでも経っても、失敗を認めない、惨劇を中止出来ない国だ。
 日米欧6カ国首相のコロナ対応策調査「ケクストcnc」が7月中旬各国1000人対象に行った。プラス評価はドイツのメルケル首相(42%)のみ 、最低は日本阿倍首相のマイナス34%。


  関連記事

https://zheibon.blogspot.com/2018/10/blog-post.html


 

   


 

「勝つことだけ」に執着する「プロ」の悲劇 Ⅰ

 

   引退する頃にボンヤリ分かっていたことが、三年ほ

 元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 
ど前になってハッキリ分かったんだよ。俺が女も家庭も全て捨ててやって来たボクシングが、実は金持ちが貧乏人を殴り合わせて見物する非道いことで、しかも金は結局見物していた連中が、、いろんなテクニックで巻きあげてしまうのさ、・・・ファイト・マネーの上前ははねる。その上、やれ一緒にビシネスをやろうとか、出資しろ、土地を買って朝鮮キャロットを植えれば、ボクシングをやめてもピンクのキャデラックに乗り続けられるなんて、それはいろんなことを言って来るんだ。リングに登る直前の控室から、一文無しになったこの頃まで、男も女もひっきりなしに俺の金を狙い続けるんだ。ボクサーは、強ければ強いほど他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。   サンディ・サドラー   元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 


   集団の中にどんなに優れた人がいても、集団の判断は知能の低い者に向かって平均化される。   マクドゥーガル   

 戦争や災害など密室化した空間で、我々は理性的判断を如何に保てるのか。社会が特に報道が、批判を怖れないことは不可欠。しかし今この国は戦争でも無いのに、新聞もTVも挙げて理性的・合理的判断を放棄、「勝つことに執着」している。 Japan as Number Oneと持ち上げられ慢心し続けたこの国は、あらゆる指標で落ちぶれ内に籠もっている。容易く稼げる「一位」を探し、やっぱり優れていたとの判断に縋ってしまうのだ

 

 勝敗に関係なく相手を理解することは、自己認識の前提である。負けることや互いに楽しみを分かち合うこと以上の悲しみはない。

   幸いに通算103KO勝ちのチャンピオンサンディ・サドラーは、強ければ強いほど・・・他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。」ことに気付くことが出来た。

 プロ野球、プロサッカー、プロゴルフ、・・・プロパチンコ、プロ麻雀・・・今や栄光のオリンピック各種競技もアマチュアでは無い。放映権で荒稼ぎする業界お抱えのプロだ。囲碁将棋も少年時からプロを目指したくなる。だが強くなればなるほど他のことは知らなくなる。これを成長と呼ぶことは出来ない。

 人間は全面的な発達を目指すべく宿命づけられている。

何時「才能」が発現するか、開花しないかも知れない。子ども時代からプロを目指すのは、才能の芽を早期発見することではなく、可能性を摘み取ることにしかならない。どんな時期に如何なる環境で誰とともに才能が伸びそして消えるのか。たとえ死ぬまで才能の発現が無いとしても、彼も又天才かも知れない。。比べ競うことは犯罪的賭けなのだ。失敗して路頭に迷う確率は、成功するより遙かに高い。

 手当たり次第にtopを目指す性癖は天皇制fasismの逃れられない宿命である。

 第1次南極調査隊の副隊長兼越冬隊長の西堀栄三郎や初期マナスル登山隊の今西綿司らは登山家としてはアマチュアであった。それ故「強くなればなるほど他のことは知らなくなる」ことからは自由であり、優れた科学者として成果を挙げ続けることができた。

 コロナ対策の「専門家」会議の医者や学者たちは、病院経営の専門家=「プロ」として莫大な利権を手中に収めた。利権を手中にすればするほど医師や学者としては恥多き失敗をかさねている。

 アマチュアであり続けることだけが人間らしい成長や発達の不可欠の条件なのだ。鶴見俊介も小田実も決してプロ評論家やプロ作家では無かった。

北朝鮮とロシアの接近で思い出したことがある。

   当blog『「突っ張るのって疲れるのよ」 何もしないという作為』   を再再引用する。

     あれは確か1992年の二学期だった。二人組が準備室にやってきた。

 「ねえ、褒めてやってよ」と僕の横に来ていきなり言う。

 「今日の○○、かわいいでしょ」 

 「いつもかわいいじゃないか」と言うと○○さんが照れている。

 「そういえばいつもと違ってる」

 「でしょ、スカートも短くなったし、化粧もしてないでしょ」

 「うーん、美人になったし賢く見える。どうしたんだ」

 「・・・一年生の時は私たち別々のクラスで浮いてた。友達は出来ない、つまんないことで担任にガミガミ叱られてばっかり。でも負けたくないから突っ張るしかないじゃない」

 「二年になって同じクラスになって、似たもの同士ですぐ友だちになった」

 「それで、このクラス何となく居心地がいいのよ、先生もぼーっとしてるし、気が付いたら突っ張る必要がない、突っ張るって疲れるのよ、だからやめちゃった。そしたら親も急に優しくなるし、・・・」

 「だからさ、褒めてやってよ、えらいでしょ」 

 「えらいよ、二人とも。突っ張るのは疲れると気付いたのも、その友だちの変化に気付いて「えらい」と言ったのも」

 「私も突っ張るのやめるよ、ほんとだよ」

   

 事柄は何かをなして遂げられるよりは、なさないことによって思いがけない形で実現することがある。青少年は猫に似て、追えば逃げ、ほっておけば寄ってくることがあって難しい。僕はつくづくそう思う。

 でもね、「何もしないこと」は「何もしないこと」によって維持されるのではない。「何もしないこと」をすることによってしか起きない。人間は他人の目を意識して、知らず知らずのうちになにかをしてしまう惰性・癖がある。例えば小舟が、海流中にあって何もしなければ、流され翻弄される。どちらにも流されないためには、エンジンをかけ、船首を海流に向け、海流と同じ速度で進まなければならない。海流の方向も早さも刻々変わる、一刻たりとも注意は怠れない。しかし他人からは「ぼーっとして」何もしていないように見えなければならない。でなければ猫は警戒する。

 数日後、○○さんのお母さんが、挨拶にみえた。控えめで品のいい人だった。

  ○○さんを連れてきた少女は、数学に於いては天才的能力を持っていた。数学の授業は熟睡していても試験は満点。 試しに最も難度の高い大学入試問題を与えると、暫く考えて易々と解く。しかも模範解答より美しく短い。字の配列もバランスがとれて美しい。明晰という言葉が浮かんだ。だが数学の教員は、やれば出来るのに寝てばかりいるとおかんむりで、いい成績はつかなかった。僕はその分野に進学させなければならない、と考えいろいろ試みたが、彼女はすっかり臍が曲がってしまっていた。

 学校は、生徒の才能を探り当て伸ばすことはなかなか出来ないが、漸く芽生え大きく成長し始めた才能を打ち砕くことだけは確実にやり遂げるのである。これがプラス・マイナスゼロならまだ救いはある、どう見ても大きな欠損である。


  北朝鮮を「突っ張るしかない」状況に追い込んだのは、米日韓。ソ連中国に接近した地域に混乱を巻き起こしたのは日米結託の「単独講和」であった。民族を一方的に分断し、片方だけに賠償したのだ。あたかも地球上に存在しないかのような扱いだった。「突っ張らなければ」完全に無視される。

    「・・・一年生の時は私たち別々のクラスで浮いてた。友達は出来ない、つまんないことで担任にガミガミ叱られてばっかり。でも負けたくないから突っ張るしかないじゃない」

 「二年になって同じクラスになって、似たもの同士ですぐ友だちになった」

 「それで、このクラス何となく居心地がいいのよ、先生もぼーっとしてるし、気が付いたら突っ張る必要がない、突っ張るって疲れるのよ、だからやめちゃった。そしたら親も急に優しくなるし、・・・」

 「だからさ、褒めてやってよ、えらいでしょ」 

 「えらいよ、二人とも。突っ張るのは疲れると気付いたのも、その友だちの変化に気付いて「えらい」と言ったのも」

 「私も突っ張るのやめるよ、ほんとだよ」

 北朝鮮は突っ張る必要が無くなったと僕は見ている。日本だけが急速に没落しながら突っぱれもせず、東アジアで「浮いて」いる。

米国制作「ベトナム戦争映画」にアメリカ先住民=インディアンが登場することは無い。何故なのか。

  合州国のベトナム戦争映画では、黒人やヒスパニックへの差別や偏見もあからさまに描かれる。だが、先住民=インディアンが登場することは無い。何故か。 

 合州国では黒人やヒスパニックは差別と偏見の対象であるが、先住民=インディアンは今尚「殲滅」の対象であり続けるからだ。 だから先住民=インディアン殲滅そのものをテーマにした騎兵隊西部劇映画には事欠かない、特に日本で好まれる。これも珍妙な現象である。           

 アメリカ「独立」宣言(1776年)から100年以上も経った

1890年12月29日、Wounded Knee Massacreが起きた。無抵抗のスー族インディアン一団に対する騎兵隊の民族浄化作戦である。虐殺を実行の第7騎兵隊には勲章が授与されている。

 英国から「先住民のいる新大陸」へたどり着いた清教徒は最初の冬(1620年)を越せず大半が死んでいる、辛うじて生き残った彼らを全滅から救ったのは神だろうか。こんな祈りをした者がある。

 わたしたちのうちの十人が、千人もの敵を相手にすることが出来るのを見るとき、また、わたしたちの植民地の成功を見て人々が「主よ、ニューイングランドのようにして下さい」と賛美と栄光を表白するようになるとき、わたしたちはイスラエルの神がわたしたちのなかに臨在されることを見いだすであろう。なぜなら、わたしたちは「丘の上の町」だからだ。全世界の人々の目がわたしたちに注がれていて、もし始められたこの仕事に関してわたしたちの神に不忠実であれば、神はわたしたちから去ってしまわれるのであり、わたしたちの物語は世界中に言葉によって知られるようになるからなのだ。(ジョン・ウインスロップ、マサチューセッツ・ベイ植民地の初代総督)

 そうではない、衣食住に難儀を極めた清教徒は現地の先住インディアンの好意(先住インディアンにとって、難渋する者に手を差し伸べることは「人間」として当たり前のことであった。)に助けられる。これを「神の思し召し」と見做し、インディアン殲滅を勝手様々に「合理化」する為に「神」は利用された。つまり神の許可を盾に先住民を虐殺。 1000万人以上を数えた先住民=「アメリカ・インディアン」は、50万人に激減してしまう。

 清教徒の或いはキリスト教の見解によれば、神を理解するものを奴隷とすることは禁じられる。しかし清教徒は先住民=「アメリカ・インディアン」を奴隷化。同時に数々の作戦で奴隷労働力を殲滅し続けた結果、奴隷の供給源を失い奴隷狩りを旧大陸に拡大してしまう。


 米軍指揮官ジョン・チヴィントン大佐は、メソジスト派牧師長老だった。或年の州議会議員選挙で演説している。  

  インディアンに同情する奴は糞だ!・・・私はインディアンを殺さなければならない。そして神の天国のもとではどのような方法であってもインディアンを殺すことは正しく名誉あることであると信じる。小さいのも大きいのも、すべて殺して頭の皮を剥ぐべきです。卵はシラミになりますから。


 建国の父にして第一代大統領ジョージ・ワシントンは、イロコイ族絶滅作戦で、

 「彼らを徹底的に根絶やしにするように」と指令し、殺したインディアンの皮を剥ぎとらせ、軍装の飾りにさせ、「インディアンも狼も生贄となるべきけだものだ」と述べている。


 清教徒は、先住民を対等な「人間」と認識することは無く、彼らにも守るべき土地・家族・文化があると考えることさえ出来なかった。彼らは旧約聖書に依拠しながら新大陸を約束の地カナンと見做して今尚占拠拡大して止まない。米国がIslael に加担しPalestine侵略と虐殺を積極的に支援するのは、米国の成り立ちに於ける先住民殲滅と略奪略奪を認めたくないからだ。

 同じ理屈は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ各地植民地化の「錦の御旗」として高く掲げられ夥しい虐殺・略奪を欲しいままにしてきた。  


  「すべてを共有する」というインディアンの文化では、土地は誰のものでもなく、みんなのものだった。


 1973年スー族保留地内の「ウンデット・ニー」で、スー族と「アメリカインディアン運動 (AIM)」が同地を占拠し、「オグララ国」の独立宣言を行った。この「ウンデッド・ニー占拠抗議」には、全米からインディアンが応援参加した。この非武装の先住民たちに対して合州国と州政府は戦車や武装ヘリで鎮圧。

 2003年、約100年に及ぶ先住民=インディアンの運動によって「カスター国立記念戦場」は「リトルビッグホーン国立記念戦場」に名称変更され、「インディアン記念碑」が建立され、地図と解説の書かれた石壁が設置された。この石壁には次の文言が彫り込まれている。

 “The Indian Wars Are Not Over.”



   追記 2023/07/27 nhkのbs1で 「世界のドキュメンタリー選 ▽われらの土地われらの手にハワイ立ち上がる先住民」を放送する番組案内にはこうある。
 かつてハワイでは土地は王のものとされていた。しかし19世紀後半以降、多くの土地が島外の人の手に。現在は絶景を望む海沿いの土地の多くが富裕層に買占められ、米軍に騙し取られ、先住民は祖先の墓に行くこともできない。オアフ島では今、ホームレスの4人に1人が先住民だといわれる。失った権利回復の闘いを続ける先住民たちの思いを伝える。 原題:Hawaii The Native Resurgence(フランス 2022年)
 米軍と自衛隊に苦しめられている沖縄先住民へのこの上ない励ましでもある。こういう番組は日本のメディアには望むべくもない。

「たまには他人の立場になって考えなさい」

 

 一つの事件について語るとき、片側にだけ立って考えてみる公平さが必要です。たとえばあなたは、何も分からずに生きている愚鈍者は生きるイミがないといっているが、彼らの立場で彼らの幸福について考えて見たことがあなたにはあるだろうか。もしかしたらたった一輪の野の花が咲いていてよかったと考えることがあるかも知れないと思ってみるくらいのやさしさを持ちなさい。


 こう言ったのは寺山修司だったか。「何も分からずに生きている愚鈍者は生きるイミがない」との部分は、まるで石原慎太郎を名指するかのようだ。重度障害者の病院を視察した石原知事は「ああいう人ってのは、人格があるのかね」「絶対よくならない、自分が誰だかわからない、人間として生まれてきたけれど、ああいう障害で、ああいう状況になって」「ああいう問題って、安楽死につながるんじゃないかという気がする」などと会見で発言している。知事として初当選の99年の事だ。しかし寺山修司は83年に没している。

  石原は68年議参院選全国区に自民から立候補。史上最高の301万票で当選。75年都知事選では美濃部亮吉に挑戦し敗れ大きく挫折。97年衆議院に鞍替え反共を旗印に「青嵐会」を結成。寺山修司は未来の首都に不気味な思潮が吹き荒れることを感じていたのだろうか。


  「自分」があれば、「他分」がある。相手の立場にたって考えることが、我々の社会でどれほどあるだろうか。

  たとえばフィリピンで日本人将兵の慰霊祭、ここで50万人が死んで日本人関係者は涙する、感泣、慟哭する。これが自分。

 だが日本軍は現地のフィリピン人を100万人も殺しているのに、殺されたフィリピン人は慰霊祭から抜き去られる。ここには他分はない。


 官僚的宗教国家「イスラエル」には過剰に「自分」=シオニズムが満ち溢れ、古くからの住民パレスチナ人は暴力的に絶えず抜き去られている。宗教国家イスラエルには「他分」はあり得ないかのようだ。

 だがパレスチナ解放戦線(PLO)側には、右派も左派も「他分」で結束する。PLOはイスラエルの民との民主的共存を目指しているからだ。

                    

  「他人の立場に立つ」ことがこの学校社会でありうるか。今学校で時間や費用が割り当てられるのは、「公(おおやけ)」事である授業ではない。陽があたるのは、いつも部活や行事そして受験。これらは「公(おおやけ)」事だろうか、「私」事=「自分ごと」ではないか。  たとえば「卒業」は、学業が成就し学位を得た「私」個人の単なる通過点であり、それを祝うのも家族や友人たちの私的集まり。「部活」の中身は個人的な楽しみ。受験は個人の進路や興味に基づく選択。それらが集積巨大化し官僚化を経るにつれ、ゲゼルシャフト化し

て疑似「公」の色彩を帯びる。集積し官僚化の過程は、個々の特性は打ち棄てられ効率が優先する。こうしてゲマインシャフトはゲゼルシャフト化する。「他人の立場に立って考える」ことは、たまにであってもなくなる。アメリカ人に、原爆投下について「他人の立場に立って考える」よう促すことが絶望的であるように。我々にとって「北朝鮮の立場に立って考える」事が想像すら出来ないように。でも「たまには他人の立場に立って考えなさい」

エクアドルは憲法第5条で平和のために闘う、日本国憲第第9条は闘いを政府に命じていないか

   エクアドルが現憲法を制定したのは2007年。憲法はエクアドルが平和国家であると規定、他国がエクアドルに軍隊を置くことを禁止している。軍隊の役割は、自衛だけに限られる。 

 エクアドル憲法 第五条

 エクアドルは平和国家であり、軍事目的のために諸外国がエクアドルに軍事施設を置くことは許されない。 

 諸外国の軍隊に、エクアドルの軍事基地を受け渡すことも許されない。 

 国際平和と軍備縮小を目指し、私達は大量破壊兵器の開発と所有に強く反対し、軍事目的の為にある国が、他の国の領地に軍事施設を置くことにも反対する。


 エクアドルマンタ空軍基地は港湾都市にある。コカイン密売監視を口実に米空軍が使用していた。1999年に米国がエクアドル政府と基地駐留を10年間認める協定を締結したことに基づく。エクアドルのラファエル・コレア大統領は、両国が対等である証として米国がフロリダ州マイアミにエクアドル空軍基地建設を認めない限り、アメリカにマンタ基地の利用を認める協定を10年の期限で終了させ、同協定を更新しないと通告。2008年3月19日にエクアドル憲法制定議会はエクアドルにおいていかなる外国の軍事基地も非合法化した。

 中南米を自国の裏庭と言ってはばからない米国が、エクアドル軍の米国内駐留を容認する筈がない。協定は失効。9月駐留米軍が引き揚げ、外国軍の駐留は一切なくなった。

 エクアドルは政情不安定な南米アンデス地方の、人口1800万に満たないの貧しい国である。それ故に毅然と外交によって平和と独立を実現する。

 兵営を破壊して教室を確保するのは中南米の奥深い伝統に根ざしている。

 ホセ・フィゲーレス(元コスタリカ元首)が、「コスタリカの常備軍すなわちかつての国民解放軍はこの要塞の鍵を学校に手渡す。今日から ここは文化の中心だ。第二共和国統治評議会はここに国軍を解散する」と宣言したのは1948年12月1日。

 エミリアーノ・サパタと共にメキシコ革命を代表する農民軍指導者フランシスコ・パンチョ・ビリャに常備軍廃止の思想的淵源を見ることが出来る。彼はこういっている。

 「新しい共和国が樹立された時には、もうメキシコには軍隊はなくなるだろう。軍隊は独裁の最大の支柱だ。軍隊がなけりや、独裁者もありえんね」・・・「われわれは、軍隊を働かせるつもりだ。共和国全土に、革命軍の古参兵を集めた軍人入植地を作るつもりだ。州が耕地を与え、大きな工場をつくって古参兵を働かせる。週のうち三日は、軍人は徹底的に働く。真面目に働くことは戦うことより重要で、真面目な労働だけが、立派な市民をつくるんだ。」  

 青年カストロは、マルティ生誕百年を記念して「百年記念の世代」と名乗りモンカダ兵営を襲撃、革命闘争に立ち上がっが襲撃は失敗。逮捕されたフィデル・カストロは、非公開裁判で自からを弁護「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との有名な弁論のなかで、マルティこそが「7月26日の知的作者」だと宣言したのである。それ故革命後、先ず全土でことごとく兵営を教室に変え、識字運動を展開したのである。そのホセ・マルティが キューバ革命党を立ち上げのは1892年であった。           

g7のg はguerre(仏語で戦争)か

   米軍駐留は明らかな憲法違反。日本政府は闘わないどころか、辻褄合わせに条約を憲法の上に置き自ら費用まで負担、従属。それが80年にもなろうとしている。
天皇を自称した戦犯筆頭老人は、自らの私有ではない琉球を住民ごと占領軍に差し出す恐るべき「忖度」振り。これほどの悪徳、誰も容認出来はしない。

 従属の度合いは底なし沼のように限度がない。自称g7の持ち回り議長の座に浮かれる首相は、g7サミット取材記者の接待所をサミット会場内に設営。豪勢な飲食に記者たちは街に出ようとはしなかった。

 g7にはその存在を裏付ける根拠は一切ない。そもそも何者からも選ばれてはいない、単なる自称世界中を我が儘勝手に植民地化して、guerre=戦争を拡大する国々に「平和」や「核なき世界」を口走る資格があろう筈がない。広島に原爆を投下した国の大統領は原爆資料館に核ボタンを持ち込んだという。

    


サウジアラビアとイランが和解したことの意義

 





 2016年からサウジアラビアとイランは、互に大使を交換、安全保障や貿易投資などの協力を再開する。両国は北京で調印

 サウジアラビア、イラン、中国は昨年末から交渉を重ねていたが、アラビア語とペルシャ語と中国語のみで話し合った。米英覇権下の外交ではあり得なかった。非米・多極型世界体制の立ち上がり=英米覇権終焉を象徴している必死で国際化の掛け声に踊らされ、英会話と米英帰りのみを有難がる日本は時代錯誤の道化となった)。

 中国を介した和解交渉は英語を使わないことにより、米英が交渉の中身を傍受して妨害策をとることを難しくした。 英米は冷戦体制下の「同盟国」1000余箇所の軍事基地を利用して世界中の通信を容易く傍受できた、その恩恵で米英企業や大学は特許情報等をいち早く入手、他国を出し抜いてきた。それが可能だったのは、英語(が)国際語との安易な錯覚が拡がっていたからだ。多様な言語による情報交換が当たり前であれば、通信傍受の膨大な人員と費用を節約出来ない。

 それだけではない、国際関係が英米語をハブとすることなく、直接の交流が可能となっただろう事は確実だ。

 英米による情報独占は冷戦体制下の国際関係を恣意的に分断・撹乱する事を容易にしてきた。英米に従属しない自立を目指す政権が残忍且つ幼稚極まる画一的「クーデター」で潰されてきたのだ。単一言語による帝国主義でしかないものを「国際化=グローバライゼーション」と囃し立ててきたのだ。日本の英語教師はそれに加担して胸を張ってきた。

 僕は、高校の外国語に朝鮮語や中国語を導入すべき事を「底辺校」で力説して多数派教員(彼らは英語を地域言語ではなく国際語だと言い張った)に嫌われた。生徒の多くが中学で受験英語嫌いになっているのに更に三年間、受験英語に苦しむのだ。ペルシヤ語やウルドゥー語もいい。豊かさや覇権から遠い言葉の学習は、少年少女たちの世界観をゆっくりと確実に変えるに違いない。映画・文学だけでなく食べ物・服装持ち物・習慣まで覇権国家文化の影響下にあって視野を曇らされたのが、全く新しい視野を得る筈だ。

 多言語学習環境下では、例えば嫌韓言説が巷間に溢れる現象もありえない。大学受験や就職試験もTOEFL等の影響は忽ち薄れ、言語そのものへの関心と理解が前進する。それが日本の単一民族幻想や、偏務的日米地位協定・年次改革要望書を破棄する力となる。


  もし我々が英米語をハブとすることなく、直接に諸言語を獲得していたら・・・。例えば今になってようやく知ることになったカダフィ大佐に関する情報を、リビアへの米英仏の大規模爆撃以前に直接入手出来た筈だ。

  今我々が知る『Gaddafi』に関する情報を、遅ればせながら列挙してみる。 

/.リビアでは教育も医療も無料。/.電気も無料。

/.リビアの対外債務はゼロ、外貨準備高1500億ドル

/. 新婚夫婦には、6万ディナール支給。

/.車は政府が価格の50%を融資。/.銀行は公営で国民への融資は無利子。これはもととイスラム圏の思想。

/.就職決定まで、仕事の平均給与を国が支給。

/.出産には、5,000ドル支給。

/.パン40個0.15ドル。/.ガソリン1リットル0.14ドル。

/.Gaddafiは、砂漠の国全体に水を供給する世界最大の灌漑プロジェクト「BIG MAN PROJECT」を持っていた。

  Gaddafi大佐は独特の強烈な風貌で、豊かで公平平等な民族共同体を形成しつつあった。これを独裁と呼び攻撃したのが言語帝国主義=英米語ハブ環境。では英米民主主義とは何か。資源の独占私有を自由競争と考える「自由主義」者にはl略奪の春である。

  様々な政治文化環境にある国の「クーデター」騒ぎを一律に「Arab Spring」と言い、一連の色をつけ「Color revolution」と呼ぶことの作為性に気付かない愚かさがある。それが我々の自立した思考を麻痺させるのだ。

  Gaddafi体制爆撃の目的は、リビアの豊富な資産を強奪することだった。欧米「先進国」の「豊かさ」は十字軍以来他国からの絶えざる略奪に依っていた。BRICSも上海協力機構も、英米覇権体制より遙かに自由で平等な国際環境を実現する筈だ。

 自前の資源なしに、無料の教育・医療・福祉・住宅に関する平等な権利を、米州機構の暴力的経済制裁に耐え通し、ついには米国を米州機構で孤立に導いたCastro兄弟・Guevaraの功績は計り知れない。同じ事はGuevaraを鼓舞して止むことのなかったHồ Chí Minhにも言える。貧しさに長く耐える精神が、自由と平和を実現する。

追記 サウジアラビアは5月19日のアラブ連盟首脳会議にシリアアサド大統領を招待する予定。サウジアラビアのファイサル・ビン・ファルハン外務大臣が間もなくダマスカスに赴き、アサドにサミット出席の正式招待状を手渡す。

 英米語覇権体制の崩壊は、「もし嘘が戦争を始めることができるのなら、真実は平和を始めることができる」とのジュリアン・アサンジの警句を裏打ちしつつある。教師も報道陣も真実の伝え手としての自覚と覚悟が必要。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

チャーチルの「Operation Unthinkable」

 ニューディール政策の旗手にして反ファシストのF・ルーズベルト米大統領が急死したのは1945年4月。その翌月ナチスドイツは降伏する。個人的に共産主義を非文明と敵視していた英首相チャーチルは、独ソ戦でソ連が勝利する展開を信じられず放置できない。あろう事かソビエトに対する奇襲攻撃を目論み、5月22日にJPS(合同作戦本部)に作戦立案を命令。

 チャーチルの計画によれば、ソビエトへの攻撃開始は1945年7月1日。米軍64師団、英連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そして独軍10師団の参加で「第3次世界大戦」を始める想定であった。

 作戦報告を読んだ英国陸軍参謀総長は、作戦成功は全く不可能だと判断。5月31日の参謀長会議でも作戦実行は「考えられない (Unthinkable)」と発言。作戦は発動しなかった。

 それでもチャーチルは米軍がヨーロッパから全面的に撤退してフランスやオランダまでソビエト軍が進軍した場合の英本土防衛作戦の立案を6月10日に命じる。統合本部は再び『Operation Unthinkable』という名称で7月11日に報告書を完成させるが、この報告書でもソビエトによって本土の安全が脅かされることはないと結論づけている。


 7月16日には米国が人類初の核実験の成功。7月18日の米大統領トルーマンとの会談で終戦後も連合参謀本部存続に前向きな回答を得て、チャーチルは原爆によるソビエト工業地帯の一掃を含む全面戦争を目論む。同月の総選挙で保守党は惨敗。英国民には戦争の専門家となったチャーチルはもはや必要なかった。戦争で経済的に疲弊していたにも拘わらず、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家を掲げた労働党を選んだのである。(「揺りかごから墓場まで」の基になったビバレッジ報告そのものは、チャーチル率いる保守党によるものであった)。為にチャーチルは歴史から不思議な消え方をする。

   米軍、英軍、ポーランド軍、独軍はnatoを構成して、今尚ロシアと対抗。その造られた危機を「第三次大戦」と煽り、武器要求・武器援助の人道支援にのめり込む奇っ怪な動きがある。

 チャーチルの開始した執拗な敵視と攻撃に、スターリンもソビエトもロシアも笑ってはいられない。 

 冷戦時代・・・ソ連は、(例えば)ガスの(輸出)契約は必ず守っていた。・・・。ロシアは・・・遵法精神があり、ルールに縛られる感覚があります。感情を出さないということではなく、ルールが決まればそれに従うということです。冷戦時代、ソ連は貿易と政治を結びつけて考えることはなかった https://www.contrapunto.com.sv/militar-suizo-experto-de-la-onu-analiza-con-bisturi-la-guerra-en-ucrania/ 

  彼等にとって第二次大戦は終わらないまま、第三次大戦に引きずり込まれてしまったのだ。


 同じ事は2発の原爆と水爆を浴びせられ、国連の敵国条項に縛られ日米合同委員会の議事録非公開を甘受するnippon
にこそ言える。独立国家とは到底言えない。サムライ日本、クールjapanと浮かれている場合か。
 ここでも第二次大戦は決着してはいない。戦争が終わる為には、平和と独立が実現しならないならない。

参照 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/2006/144/2006_144_69/_article/-char/ja/

 

独立した外交見識と手腕が平和には欠かせない

  「麗人科学者」山村八重子(1899〜1996年)の日記を読み解く連載が東京新聞にある。その第6回が彼女の兄山村一郎。


 山村一郎は早慶明三大学リーグ誕生の「生みの親」でもある。 1914年、応援団同士の諍いで長く早慶戦が中断したが、この早慶を仲介したのが山村一郎だった。最初は早明、慶明戦だけではあったが、三大学リーグが結成された。そこに法政、立教、東大が加わり、11年後に六大学に発展、早慶戦も復活した。


 フィリピンで大規模ヤシ園を切り盛りしていた一郎は、戦時中の42年5月奏任官(高等官)待遇の陸軍嘱託で大佐の扱いとして地元民との間を取り持った経歴がある。

 当時の陸軍軍政監部出張所長の証言によれば「あの地域では、あとから戦争犯罪に関する裁判の呼び出しが一つもなかったのですが、それは山村さんのおかげですよ」「憲兵隊長も山村さんのご意向を聞いて、決して無理をされなかったから、ザンボアンガだけ憲兵隊の問題が出てきません」「この人がおらなかったら、行政にしてもなににしても、話がうまく進みません」と、現地の事情に精通する一郎が重要な役目を果たしたことを明かしている。当時のフィリピン自治政府大統領のマヌエル・ケソンと山村一郎の写真(1936年)も残っている。

  独立した外交見識と手腕が平和には欠かせないことが判る逸話である。「統帥権の独立」と言う謀が軍部の横暴を許し、日本を一億層玉砕の淵に追い込んだのだ。戦犯たちは責任逃れに奔走、沖縄を嘗ての鬼畜に売り渡し、外交軍事の全てにわたって従属している。何が「cool japn」だ。

 敗戦後、山村一郎は米軍捕虜となり、レイテ島の捕虜収容所で捕虜代表を務めた。ヤシ園など現地の資産をすべて失い46年暮れに帰国。

ペリー来航は「武力介入」 

 嘗て米上院が米海軍に対して、武力介入の報告を求めたことがある。ニカラグアやアンゴラなどへのArmed interventionに混じって、RyukyuとJapanも報告されている。


  

   琉球では上陸したペリー艦隊水夫が女性に強姦暴行、仏壇の酒や食べ物を盗み、「位牌」を持ちかえり、また恩納村で酒に酔った米兵が住民に向け銃を発砲し、12歳の少年を含む三名の村人を負傷させている。 

 1854年6月12日には、那覇に上陸した水夫たちが酒と女性を求めて人家に押し入っている。強姦した水夫は住民に追われ海に落ちて溺死。

 最高責任者ペリーは、謝罪しないどころか逆に水夫が死んだことを問題にし、犯人の究明を求め、強硬な姿勢で「裁判」を開くよう琉球側に要求。7月7日、ぺリー同席のもとで裁判が行われ、投石した住民が八重山に終身流刑となっている。このリュウキュウへのArmed interventionでペリーは捕鯨船への薪水補給や通商を強要する以外、琉球占拠も画策している。つまり「武力介入=Armed intervention」は「砲艦外交=gunboat diplomacy」すなわち「侵略」と一体であった。


   『嘉永明治年間録』にはペリー艦隊水兵が横須賀市久里浜近郊で起こした暴行事件の顛末が記されている。

 「この度やって来た異国船。六月八日、本牧沖に滞船中は小舟にて諸方を遊覧し、此の時久里浜に住む百姓市之助(年齢約六十歳)と言う者がいて、娘(二十歳)が一人いた。市之助は畑に出て農作業の為家を留守にしていた。娘が水を汲みに出ていると、夷人たちが娘を見つけ、小舟にて漕ぎ寄せてきて、八人が上陸し、市之助宅に侵入し娘を強姦した。物音を聞き市之助が家に戻ると、その様子を見て、天秤棒にて夷人三人を打ち倒し、その他の夷人は船へ逃げ帰った。娘は気絶していて、市之助は娘を介抱し、何とか息が戻った。此の隙に三人の夷人たちも逃げ出した。市之助は久里浜の役所に訴え出たが、役人は穏便に済ますため堪忍してくれと諭し、三百疋を取らせて事を済ました」(原文は漢文)


 琉球で罰を逃れた水兵たちは増長、久里浜でも同じ事件を起こしている事が分かる。注目すべきは「役人は穏便に済ますため堪忍してくれと諭し」た事だ。原爆投下を非難するどころか、占領軍に先んじて原爆被害実態を報道管制・隠蔽した日本軍部を思わざるを得ない。

 ペリーは忽ちのうちに懲らしめるべき「外患」から開港の恩人と持ち上げられてしまう。悪が善に転化する、正常な精神を失っている。強姦された者が、憎むべき強姦犯を「彼は私を愛していた」と妄想するに似ている。 

 おかげで各地にぺりー提督を讃える記念碑が建てられる始末。原爆投下や東京大空襲などの司令官ルメイ(日本本土爆撃が人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し、現場で効果的な戦術爆撃を考案し実行した。終戦の9月20日に彼は記者会見で「戦争はソ連の参戦が無くても、原爆が無くても2週間以内に終わっていたでしょう。原爆投下は戦争終結とは何ら関係ありません。」と答えている)に、日本政府は勲一等旭日大綬章を贈っているのだ。

 ペリー砲艦外交=gunboat diplomacy以後、日本の権力は強きには屈伏すべしとの価値観に囚われてしまう。安手の鹿鳴館で似合わぬ洋装で下手な踊りにうつつをぬかす有様を錦絵にしたり出来るのもそのためだ。その裏には強者は常に正しいとする世界観が見える。そうでなければ唯一の被爆国が、原爆投下国の核の傘の元にある事の理屈が付かない。 

 強者=正義とする世界観は、朝鮮や中国更に「大東亜共栄圏」政策に反映する。開国した日本は正義であり、鎖国を続ける朝鮮は正義の日本敬意を払って従うべきであり、列強に分割されつつある中国に正義はあり得ないとの筋書きになる。かくして帝国日本は「現人神」に守られ「大東亜共栄圏」を形成、正義を世界に示さねばならない羽目に。ここまで妄想が募ると、昨日までの先進正義・米英は一瞬にして反転「鬼畜」と化す。神国官製の妄想にイライラしていた大衆が開戦の報道に快哉を叫ぶのは妄想の再構成=反転強化に過ぎない。反転した虚像は原爆による敗戦で再び反転した。

 もし日本が自立した誇りある国家であれば、力に屈した自己を恥じ、鎖国政策を維持する李氏朝鮮にこそ敬意を払う。孫文や魯迅が期待した日本像こそ、世界史的実像であった事を知るべきだった。

 それにしても米国は「武力介入=Armed intervention」を21世紀に入っても止める気配がない。貧しい小国ベトナムに徹底的に敗北した一時期は温和しかった。「世界の警察」の妄想から覚めたかにみえた。しかし「我々はベトナムに負けたのではない。国内の反戦運動に押されたに過ぎない」と言い始める。妄想の修正し始める。

 英国から追われるようにして新天地を求めたキリスト教徒たちが、メイフラワー号でプリマスに上陸して以来、彼らは先住インディオ虐殺を神の恩寵の証とする妄想なしには、合衆国建国を正当化出来ないからだ。「神に守られた正義の全能米国」と「万世一系の神国日本は、幼児な妄想という点で共通して互いに依存している。両国とも常に絶対悪として第三項を仕立てねばならなくなる。

 日本各地に乱立するペリー提督像、ペリーを『讃える』記念碑を見る度僕は胸くそが悪くなる。   

「共和制は、憲法改正の対象となりえない。」イタリア憲法第 139 条

 イタリアでは憲法が、大戦後20回にわたって改正されている。これを根拠に、我が国でも改憲が必要との論調が勢いをつけている。イタリアの場合の主なものをあげる。

63年2月(上下院議員定数院、上院の任期)

89年1月(大臣弾劾裁判制度を国会から通常裁判所へ移行)

93年10月(議員の不起訴特権の一部廃止)

99年11月(刑事被告人の権利保障)

2000年1月(在外投票権の保障)

01年10月(中央と地方との関係の抜本的改正)

03年5月(男女平等の促進)

22年2月(生態系と生物多様性保護)

 

 イタリアの憲法改正は、各議院で3か月以上の期間をおいて引き続く2回の会期により議決される。第2回目の議決にあっては、各議院で総議員の絶対多数により承認されなければならない。

 憲法改正案は、公布後3か月以内に一議院の5分の1、50万人の有権者または5つの州議会の要求があるときには、国民投票に付される。ただし、前記憲法改正案が第2回目の議決で総議員の3分の2以上の多数により承認されたときは、国民投票に付されない。 

 憲法改正が、かなり頻繁・多項目に及んでいることが分かる。

 しかしイタリア憲法は最終条項の第 139 条で 

共和制は、憲法改正の対象となりえない。 

と釘を刺していることを忘れはならない。

Bella ciaoは1943年から1945年まで続いた
反ファショレジスタンスで唄われた

 1943年7月24日ムッソリーニ政権は崩壊したが、ファシストに協力し伊国王エマヌエー
レⅢ世は戦争継続に固執。抗してムッソリーニ体制を倒したレジスタンス勢力=臨時政府・国民解放委員会は王制の是非を問う国民投票を実施。伊王制は崩壊し、民主共和制国家のイタリア共和国が成立した。民主共和制は、革命の成果であったことを最終条項第 139 条が宣言しているのである。

 24回の憲法改正を経ているフランスも、共和制を憲法改正の対象から外している。

  イタリアやフランスの民主共和制革命にあたるのは、日本で言えば憲法三原則、分けても9条である。

 まともな国家の憲法は、その中心理念を変更しない条項を持つ。

 日本国憲法も、前文で

 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

と明確に宣言している。

 何度も繰り返す必要がある。 

われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 



誰が「候補者」の質を見極め、鍛えるのか

 「市民たちはいま、候補者の質を見きわめようとしているんです。同時に候補者を鍛えようともしているんですね。このような市民集会は、市長選までに何十回となく持たれるでしょう。そのたびに候補者は市長にふさわしくなっていくわけです。なによりも、現市長批判派は右から左までいろいろですから、こういう集会の討論を通して連合していくわけです。そうして集会で一致するところを見つけては、それを公約にしていく・・・」    井上ひさし『ボローニャ紀行』

 これは立候補予定者を市民が作り上げる過程を見学中の井上ひさしに、ボローニャの通訳が語った「解説」。この「候補者の質を見きわめる」過程に数年かかる事もある。その粘り強さが、ファシズムとナチズム二つの敵と闘ったパルチザン闘争を産んだ。

 井上ひさしはこの時、「イタリアは国貧しけれども民豊なり、日本は国豊かなれども民貧しけりですね・・・」と呟いたとこの旅行の同行者は伝えている。今、日本のほうが遙に貧しい。


 ボローニャは靴も有名。靴屋では二か月掛かると告げられる。了承すれば足の木型を作る。それに合わせてまず片方を縫い上げ一週間歩き回らせる。そして微調整を加えながらもう片方も作るという。ワイシャツだってそうだ、出来合いを袋に入ったまま買うなんて考えられない。家だって何世代も住むのだ、建築家や大工や近隣との対話は欠かせない。それが自治的共同体をつくる。

 「討論する」とは何か。靴やシャツを討論する。住宅と討論する。だから街づくりや制度作りだって、じっくり討論する、それが自治における主権者の在り方だ。民主主義は「面倒」に決まっている。選挙に勝利する為には、元来は互いに矛盾するかのような要求を討議する中で、一致点を見出す必要がある。多様性を損なわないのでなければ「団結」とは言えない。

 日本財団の調査によれば、投票しない理由に「面倒」をあげる18歳は51%もいる。

 政党が、圧力団体が、宗教団体が、利権団体が「候補」を身内で決めていることに問題がある。

 ボローニャのように「候補」を育て鍛える集会が、地域ごとに日常化する共同体を先ず作り上げる。そんな共同体からは、無免許運転を繰り返す者や挨拶文や議会質問文を官僚に作文させる者は、候補になる前に淘汰されるだろう。どの党派との連合がその共同体で最も相応しいかを見極めるのも「討論」の積み上げでなければならない。

 何処か自分たちと無縁の組織が決めた組み合わせを押し付けられるのは、主体ある市民には心地よくはない。ある地域が特定の党派にとって「空白」であったとしても、その共同体は決して空洞ではない。必要なのは当該共同体による自己組織化であって、他地域からの移植であってはならない。

 自然の生態系は地域ごとに多様であって、画一的景観も画一的食事も根付かない。各共同体ごとの地域の多様な自治体が、先ず少数者たちの討論を積み上げ、共同体の未来像とともに候補が鍛えられるべきなのだ。立憲・共産・社民・れいわの合意は、こうした地域ごとの討論を基盤にしてこそ更に広がる可能性を秘めている。それは最も過酷な試練と闘い続けている沖縄か典型を見せている。 

20ヵ月に及んだパルチザン闘争には 25万人が参加。死者は3万 5000人以上、
虐殺された市民は1万5千人に達し、その多くが婦人と子どもであった。
ユダヤ人部隊も勇敢に闘った(右画像)


いつも使う易しい言葉を使おうとしない「専門家」は、何を隠そうとしているのか。

  知り合いの高校教師に、最近増加著しいコロナ関係の横文字を高校生がどの程度認知しているか聞いてもらった。  

「 ・・・生徒に聴いたら、ほとんど知りませんでした。そもそもニュースを見ないのですが、それにしても。私が言うと、反応する生徒もいるのですけれど。トリアージは、全滅で、聴いたことがない生徒がほとんどでした。・・・」

 業界の専門家たちは、どうして日常の易しい言葉を使おうとしないのか。自分を高みに置きたいのか。何かを隠そうとしているのか。自分の無能がバレるのが恐いか。恐れねばならぬのは伝えたい事が皆に伝わらないことではないのか。この世は専門家ばかりで構成されてはいない。  

 仮に若者が現在進行中の事態の本質を知りたくても、初めて耳にする専門家好みの「横文字」だらけではどうにもならない。年寄りが意味を掴みかねている間に、ことが進行して手遅れになることを恐れねばならない。 「トリアージ」「オーバーシュート」「ソーシャルディスタンス」とニュースが伝えても、すぐ忘れる。たとえ外国語だと見当がついても何語だかわからない。辞書がないから諦めてしまう。こうして日常の言語世界に、理解不能の穴が次々に空く。名刺だけではない、形容詞や動詞まで横文が横行する。ネット漬けの業界人に「バズる」と突然言われた子どもや老人は困る。意味が分からないままでは対話は成立しない。誤解したまま放置されれば困った事態を生じる。


 学校は官庁経由の横文字に無防備。「アジェンダ」「ペンディング」「ウィン・ウィン」「ワークショップ」・・・などは学校でも頻繁に様々な場面で使われるが、保護者や生徒に正しくに伝わっているとは思えない。狭い世界や同じ世代間で通じても、言葉の最も重要な機能は、世代や立場をこえて「文化を共有」することの筈。

 僅かな「高み」に自分だけを置けば得意面出来るが、言葉を共有できないのでは元も子もない。偏差値を高く揃えたり、メダルで校長室を飾る暇があったら、教科書や教材の横文字や校内の日常を再検討する必要がある。既に危険な崖っぷちに我々はいる。

 言葉を共有し互いに理解し批判し合う関係が社会をつくることを知らねばならない。対話の要らない旅先では「みんな温かい優しい人」だが、利害を調整して「公」を形成するためには、言葉を共有して時には喧嘩もしなければならない。教室は、地域社会は、自治体は、国家は旅先ではない。「和を以て尊しとなす」が上から権力的に押し付けられる社会は、常に弱者が我慢を強いられ言葉も文字も奪われている。対等に喧嘩可能な言葉を通して「公」が形成される社会が民主制である。

言葉の共有だけが平和交渉を可能にする

   




 情報化社会の標語だけは賑賑しいが、言葉が社会的共有財として機能していない。機器と関係機関だけが巨大化、空前の利益を隠せない。その中で行きかう単語は意味も繋がりも行方不明。対話不能な社会はこうしてつくられる。便利さに幻惑され、AI端末を通しての「戦争と格差拡大」を学校も家庭も隠蔽してはならない。


全「隊」止まれ! は戦争の予行練習

  勝手に「授業を抜け出す」、授業中「歩き回る」、消しゴムを刻んて前の子に投げる。協調性がない。「小1プロブレム」のはしりと言われかねない要素を抱えていた僕だが、一度も咎められたことはない。

「爺ちゃん、日本はもう戦争せんとな」

「絶対戦争はせんと決めたんじゃ。戦争に良かこた何も無か」

 朝食前、筑港と町を隔てる権現島に登りながら、祖父はそう繰り返した。日の長い夏には夕食後の散歩もこの山だった。

   庭や露地で遊べば、祖母たちが「こん子たちゃもう戦争に行かんでん良かとじゃな」と繰り返していた。

 海軍のたたき上げ将校で兵学校教官だった祖父は、軍装や勲章の類をきれいさっぱり捨てていた。国防婦人会の先頭に立ち竹槍を構えていた大叔母は、家族の全てを戦争で失い「バカの考え休むに似たり」が口癖になっていた。

 町の商店街で大売出しの拡声器から軍歌や軍艦マーチが流れると、耳を押さえながら「好かーん」と足早に駆け抜けていた。お陰で孫は文字や数字を覚える前から戦争を憎むようになった。

  勉強を禁じられた僕は登校が嬉しく前の晩からそわそわして一時間も前にうちを飛び出した。「急がんでん学校は逃げんがね」と母は笑っていた。学校に着くまでにやることはいっぱいあった。誰もいない学校に着いてからも、花や昆虫を見つけるのに忙しかった。

 入学式と同時に授業が始まると信じていた僕は、式がだらだらと続き記念写真撮影で待たされるのに不機嫌になった。次の日こそ朝から勉強出来ると思って張り切っていたが、クラスごとに学校の中をぐるぐる回る。順番が来るまで教室で待たされる。席につかず立ち歩いたり消しゴムを刻んで投げた。

 ようやく授業が始まる、週一回「集団体育」の時間があった。右向け右、二列縦隊、前へ進め、全隊止まれなどばかりを、怒鳴られながら繰り返すことに嫌気がさして僕はうちに帰った。

 「どげんしたとね」、たまたまうちに来ていた大叔母と母は驚いた。僕は「「集団体育」が嫌だ、あれは勉強じゃない・・・」と訴えた。大叔母は「そんた戦争の練習じゃ」と叫ぶと下駄で学校に走った。その後僕の記憶に「集団体育」の記憶はない。鹿児島の故郷に転校してからも「集団体育」があり、憤然と早退した僕の訴えに「行かんでん良か」と血相を変えて学校に大叔母は走った。

 プロブレムは生徒や家庭にばかりあるのではない。第一わざわざ横文字を使う神経自体が問題。

 思い起こせば、学校で「問題」が起れば大叔母は「こんたいかん」と走った。その声を聞く柔軟さがこの頃の学校にはあった。そして教師は平和に敏感だった。

 前川喜平元文科次官が、「運動会の入場行進の「全たい進め」や「全たい止まれ」という号令の「全たい」は「全体」ではなく「全隊」である」と証言している。文科省はその流れを総括しないまま今日に至っている。「組み体操」や「体罰」を巡る愚かな醜聞は文科省の不作為の成果と言ってよい。そればかりではない。 

 高度成長の直前、日本の農村は崩壊、悲惨な様を曝しはじめた時、田舎の学究でも弁当に焼いた魚を新聞でくるんだり何も持たずに校庭でうな垂れる子が増えた。帰宅して話すと大叔母は「ぐらしかー、何を植えてん売れんごつなったとじゃ」とどこかに走った。数日して担任がアルミのドカ弁を幾つも抱え、弁当のない子たちに配るようになった。六学年全クラス分は大変な作業だった筈だ、一人では手に負えない。ひと月経つか経たぬうちに給食が始まった。町議会議長は父の叔父だったし、役場のあちこちに知り合いもいた。大叔母は根回しが巧だった。祭りが近づけば、庭は大叔母に知恵を借りる若者の溜まり場になった。町中の情報が集まり、動きはす早かった。

 大叔母は「公選制教育委員」経験者だったかもしれない。初め町は、大叔母を国防婦人会の活動家の経歴に目を付け無害な教育委員として立候補させたのだろうが、実際の動きは生徒や父兄の実情を行政に反映させるものだった。公選制教育委員会や公選制公安委員会が瞬く間に潰されたのは、この住民との密着行動を行政が恐れていたからに違いない。

 大叔母の口癖「バカの考え休むに似たり」は、行動する草の根民主主義の標語だった。帝大卒や士官学校・兵学校出の浅慮が、自国民とアジア民衆を苦難のどん底に叩き込んだ経験を祖父母も大叔母も決して忘れなかった。だから彼らは、孫に勉強を禁じ、冗談で「東大に入るよ」と言えば慌てたのだ。

「Boycott is a right and a duty」

 日本の防衛副大臣中山泰秀は12日、イスラエルとパレスチナの「交戦」を受けて「私たちの心はイスラエルと共にある・・・イスラエルにはテロリストから自国を守る権利がある」と自身のtwitterに書いた。

 イスラエル警察隊によるエルサレム旧市街のイスラム教聖地への突入殺戮を「交戦」と言ってのける神経が危い。


  シカゴに拠点を持つ非営利独立のThe Electronic Intifada(https://electronicintifada.net)は、一貫してパレスチナの視点から報道してきた。

「Boycott is a right and a duty」という記事を掲げたのは、5月12 日。

  Israel’s efforts to demonize the Palestinian call for boycott, divestment and sanctions (BDS) threaten a venerable form of nonviolent resistance.

 These efforts push for the censoring of Palestinian voices and those of our allies, undermining free speech rights and academic freedom while falsely conflating criticism of the State of Israel with anti-Jewish bigotry.

 At first, Israeli leadership acted as if the movement wasn’t a threat to its occupation, the policies and practices of which violate international law.

 But a decade after the launch of the BDS call in 2005, as the movement gained strength internationally, the Israeli government declared war against it.  ・・・

 

 Boycott, Divestment, and SanctionsはBDS運動の略称。「ボイコット、投資撤収、制裁」運動。イスラエルに対し、国際法違反行為を中止させるための政治的・経済的圧力の形成と増強を目的としたグローバルキャンペーン。BDS運動は「イスラエルに国際法を遵守させるまで、様々な種類のボイコット」を行う。BDS運動狙いは、イスラエルによるパレスチナ人の領土(東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区)およびゴラン高原の占領と入植の終結・イスラエル人とアラブ人差別解消・パレスチナ難民の帰還権の承認である。画像には「The global boycott is growing despite attempts to criminalize it.」と添え書きがある。

 

  峠三吉の原爆詩集を思わずにはおれない。

    一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

   

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ


わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ


にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ


八月六日

あの閃光が忘れえようか

瞬時に街頭の三万は消え

押しつぶされた暗闇の底で

五万の悲鳴は絶え


渦巻くきいろい煙がうすれると

ビルディングは裂さけ、橋は崩くずれ

満員電車はそのまま焦こげ

涯しない瓦礫がれきと燃えさしの堆積たいせきであった広島

やがてボロ切れのような皮膚を垂れた

両手を胸に

くずれた脳漿のうしょうを踏み

焼け焦こげた布を腰にまとって

泣きながら群れ歩いた裸体の行列

  ・・・ 


 長年の欧米侵略に虐げられる中東・アラブ諸国は、日本をアメリカによる「原爆投下の焦土のから立ち上がった平和国家だ」と敬意を抱いてきた。

 その親日感情が、閣僚の愚かなtwitter投稿で一気に崩れ去る。日本の「平和国家」理念の浅薄さが知れる。原爆投下の将軍ルメイに日本政府は勲一等旭日大綬章をやっているのだから。

 原爆詩集を掲載する教科書「公共」 は現れるだろうか。世界のBDS運動が日本の青少年の行動を促すのはいつのことか。

追記 イスラエルで2日、野党勢力が新政権の樹立で合意.。12年間にわたったネタニヤフ首相の長期政権が終わる。最大野党の中道「イェシュ・アティド」のヤイル・ラピド党首が、8党による連立政権が発足したと発表した。ラピド氏は声明で、ルーヴェン・リヴリン大統領に連立の合意を報告したと説明。「この政府がすべてのイスラエル国民のために働くことを約束する。新政府に賛成票を投じた人、そうしなかった人の両方に対してだ」とした。また、「反対する人のことも尊重し、イスラエル社会のすべての要素を結束しつなげられるよう全力を尽くす」と表明した。BDS運動の広がりは凄まじかった、ただし日本を除いてと言わざるを得ない。

 

ハイケンスの「セレナーデ」と明るい貧乏が、平和を握りしめていた

  ハイケンスの「セレナーデ」が、露地で遊びに熱中する子どもたちの歓声を静めるように流れたのは、午後の四時頃。

 記録によればNHK、『尋ね人』は1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日 迄続いた。   1960年(昭和35年)の放送時間は、ラジオ第1放送で月曜日から土曜日の午後4時25分から29分。「セレナーデ」はそのテーマ音楽だった。
    NHKの『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組は、聴取者から送られた、太平洋戦争で連絡不能になった人の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。当初は対象者別に以上の番組が設けられていたが、やがて『尋ね人』に集約した。放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人を探し出せた。集落が静まり返って聴き入ったわけである。
   手紙の内容はまとめられ、アナウンサーによって淡々と読み上げられた。https://ja.wikipedia.org による。


 昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。
 ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。
 昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。
 これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。←クリック



 番組が終わると共にどの家からも深い溜息が聞こえ、やがて子供たちの歓声が再び露地を駆け巡った。

 このひと時を戦中を耐え生き延びてきた大人たちは深い悲しみとともに、戦争放棄の憲法を持った喜びをかみしめた。


 祖母たちが、庭で遊びで明け暮れる子どもたちを見ながら「もう、こん子たちゃ、戦争に取られんでん済んとやなー」と繰り返す光景を思い出す。衣食住すべて不自由な明るい貧乏が、平和を握りしめていた。

    しかし朝鮮戦争特需は、貧しい平和にとって中毒性の「毒饅頭」となった。握り締めたはずの貧しい平和は脆く崩れ去った。貧しさの中に平和を生きる思想に欠けていた。

戦場の「おおい、もう撃ち合い、やめまひょやあ」と 「九条」の精神

〽またも負けたか○○部  / それでは垂れ幕つくれんたい
 明治六年徴兵令、七年には大阪に八連隊がおかれた。大阪人はその八連隊に特別な感慨があると田辺聖子は書いている。
兵隊に取られて戦争にいった八連隊の男の中には、「大阪の兵隊はな、戦地の敵サンの村へいって徴発なんぞ、せえへん。みな・金払うてきたんやデ」と自慢するのがいた。大阪阪人はケンカが嫌い、よって戦争も嫌い、足腰弱く口ばかり達者、しかし商人(あきんど)であるゆえ、モノをただ持ってくる、ということは何としても天然自然の埋に違う、という気が厳としてある、故に徴発や奪取ということはできない、少しでも代金を払う、というのである。私の小学生時代は日中戦争の頃であったが、人阪人はそんな話を日常の挨拶によく交して笑い合った。
 また、こういうのもあった。大阪出身の兵隊で組織されている部隊が、中国大陸のさる場所で中国軍と対戦中、敵軍からふと、
おおい、もう撃ち合い、やめまひょやあ」という声が揚がったそうである。日本兵、というより、大阪ニンゲンの兵隊が驚いて、
オマ工、日本語、うまいなあ と叫び返すと、
へえ、大阪の○○の散髪屋で耳掃除してましてんという返事、よういわんわ、といったかどうか、この時は銃後の大阪人をいたく喜ばせたものであった。
 子供の私は、大人たちがこれを倦まず人から人へ語り伝えるのを耳にした。・・・戦前の大阪の下町には中国人も多く、仲よく住んでいたから、庶民は対中国戦争に複雑な気持を抱いていた。南京陥落万歳万歳と提灯行列をしながら.一方で、大阪の兵隊は物をタダ取りせえへんのや、と妙な自慢をし大阪の散髪屋(サンパッチャ)の耳掃除のおっさんが、敵の兵隊になっとってなあ、こんなこといいよったらしい、と喜悦し、聞いたほうも、ほんなら、ハイカラ軒のあのおっさん違うか、器用で巧かったけどなあ、故国へかえって兵隊にとられよってんやろか、などと嬉しがっていたのである。
 私が幼女のころは手毯唄に、
   〽またも負けたか八達隊  / それでは勲章くれんたい(九連隊)
  というのがあり、私も花柄のゴム毬をつきつつ、友達とそう唄って遊んだものであった。聞いている大人たちも、当然のことのように聞き流し、べつに咎め立てもせず、八連隊は大阪の兵隊やよって、弱いのやと恥じもせなんだ。(九連隊は京都)
 商いの都市では、〈負ける〉ことはごく日常的営為であって、「よっしや、負けときまっさ、大負けに負けて出血サービスや」とか、「いや、これは負けました、しやァないな」などと口癖になっているから、負けるという言葉に対する拒否反応や刺激は全くない、戦争も商いもいつか、ごっちゃになっているので、郷土の八連隊が負けたとて、豪も痛痒を感じない。情けないとも不名誉とも思うておらぬのであった」。『道頓堀の雨に分かれて以来なり』中央公論社

 大正二年六月発表の徴兵忌避者数は、大阪が全国一位だった。

   とはいうものの、
 「大阪の兵隊はな、戦地の敵サンの村へいって徴発なんぞ、せえへん。みな・金払うてきたんやデ
の挿話は全体としては、天皇の軍隊が略奪と殺害に明け暮れした実態を暴露するものである。とはいうものの、誰もが略奪する中で、自分だけはしないぞとの決意を誇る姿勢は記録に値する。

 平和な国家、健全な地域、健全な学校は、いろいろな要素が様々に混じり合う中で形成される。民族や国籍別や所得階層や偏差値別に選別構成してはならない。
 それがあっての
「おおい、もう撃ち合い、やめまひょやあ」

である。戦闘を軍隊中枢が決定するのではなく、前線の兵隊が判断する。「九条」の精神はここにある。
 今もなお日本企業の対外交渉では、交渉現場の判断は常に軽んじられ「本社の意向」を伺う始末 。学校も又、現場の判断を恐れ回避してきた。そんな傾向を構造的に打ち破らなければ「九条」は、生活に根を張れない。美しいだけの生け花であってはならない。
   せめて教師に、自分の教室だけは・・・するとの決意を、この挿話は促している。

 学校の正面に、「○○部、××大会出場」とか  「○○部、△君入賞」などと何枚も垂れ幕を下ろす光景は一体いつ頃から始まったのか。負ける側の神経を逆撫でする無神経は、醜悪である。校長室前に優勝盾を陳列するのも下品だし、最近は大学合格者数を書いて垂らす学校まであって見るに堪えない。
 全ての高校生を、替えのきかぬ主権者として愛でる姿勢が無い。冷たい教育である。こんな垂れ幕を見て、受験する中学生や父兄があるのだろうか。

 近所に自由が看板の
古い学校があって、運動部もある。見かけは丸刈りで強そうだが、これが滅法弱い。いつも一回戦で敗退する。だがどうも、根っから運動が好きらしい。練習に疲れ果てて、夏の日差しを避けて日陰の芝で談笑する。
 〽またも負けたか○○部  / それでは垂れ幕つくれんたいと、自ら笑い飛ばしているようで清々しい。

病院船・コロナ病床jet機による国際主義という決断

Helgoland号甲板の乗り組み看護婦と治療後のベトナム幼児
 ベトナム戦争中米国は、同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは武器と兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約を遵守、米国の民族皆殺し政策に加担して殺すのではなく、北ベトナム、南ベトナム双方の民間人を治療したのである。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んしだ。

 これは、沖縄の基地をベトナム爆撃に使わせていた日本が率先してやるべきことだった。憲法九条を持つ自称「海洋国家」の何たる失策。世界に反戦運動が盛り上がる1969年、進水した原子力船「むつ」は失敗を重ね、膨大な費用を文字通りドブに捨てた。為にならないことには精を出し、害が明らかになっても中止する判断さえ出来ない。希望がない。
 


独は、伊からのコロナ患者輸送のために、エアバスA310 を改造
 そして今度は、コロナ患者のための世界最高のMedEvacである。高度な施設での治療が必要な患者を、治療を行いながら迅速かつ効率的に医療機関に搬送するICU専用jet 機。ドイツは、イタリアからドイツの病院にコロナ患者を運ぶために、エアバスA310 を改造。この飛行機には44床のベッドがあり、そのうち16床は高集中治療患者向けのもので、最大25人の医療スタッフが搭乗していると。

 病院船も ICU専用jet 機も、現在のコロナ禍日本にこそ必要なものではないか。全国に散らばる離島のコロナ患者や医療破綻自治体の為に、複数のICU専用jet 機と病院船、そして病院列車が、大勢の医療stuffとともに必要だ。
 中国封じ込めのために、阿倍が世界中に専用機でばらまいた資金援助だけで 30 兆円。
 せめて首相専用機をICU専用jet機にしても罰は当たらない。何ら有効活用していない豪華専用機だ。
 莫大なコロナ対策費が、又もドブに投じられ却ってコロナ禍を広げ深刻化させている。
 集団的自衛権行使を容認して積極的平和主と嘯く日本は、いつまでも経っても、失敗を認めない、惨劇を中止出来ない国だ。
 日米欧6カ国首相のコロナ対応策調査「ケクストcnc」が7月中旬各国1000人対象に行った。プラス評価はドイツのメルケル首相(42%)のみ 、最低は日本阿倍首相のマイナス34%。

傷痍軍人とパラリアン / 同情ではなく、承認と連帯を

 日本政府は占領統治が終わるのを待ち兼ねたように「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(1952年)を成立させ、翌年GHQが停止した軍人恩給を復活させている。
 軍人恩給復活以降、旧軍人軍属や遺族らに対する補償、援護は累計で50兆円を超えた。一方、民間人には「戦争という非常事態下全ての人が被害を負うのだから等しく我慢しなければならない」という受任論で押し通している。恩給の支給額も上級将校に厚く下級兵卒に薄い構造の酷いものである。
 傷痍下級兵卒にとって療養自活出来る額ではない。 国電車中や駅構内にも、白装束姿で募金箱を首からぶら下げ物乞する「傷痍軍人」を見かけた。
 戦災孤児たちは傷痍軍人たちを手伝った。視力を失った傷痍軍人があれば物乞い出来る場所まで手を引き、歩けない傷痍軍人には食べ物を差し入れたと聞く。傷痍軍人は戦災孤児をかわいがり、路上の片隅で文字や計算を教えた。そんな美しい物語を抽出することも出来る。
 だが彼らにとって最大の問題は、信じた国家からも命を賭して守った筈の世間からも見放されたことだ。
     
 ノルマンディー上陸作戦(
1944年)で多くの負傷者を予想した連合軍は、いち早く治療とリハビリのための特別部隊を編成。競い合わせて効果を目論むリハビリの祭典=パラリンピック像の原型が形成され、「がんばる障害者」「苦難に挑むパラリアン」を演出する。
 ここには世間は、傷病兵を見捨ててはいないというメッセージが確かにある。日本とは天地の差である。社会の中に正当に位置づけられ、「承認」されることの意味は小さい筈はない。

 だが競争し勝つ見通しが、治療とリハビリに効果をもたらすのは事実だろうか。

 「承認」は他者にして「貰う」ものでは無い。他者から褒められることでしか「承認」を実感できなければ、何時までも褒めらようとの衝動にかられる。それは「依存」に他ならない。元気や勇気を「貰う」為に「勇者」・「聖地」巡りを繰り返すことになる。
 承認とは、「勇者」に近づいたり「人と違う自分」に安心することではない。普通の自分の価値を、自ら決定することではないか。所属組織のバッチを付けたり制服を着たりして、他者の承認を求めることを幼少から習慣化するこの国は、永遠の依存に身を寄せてきた。他国とは異なると思い込んだ、他国が「称賛している筈」の、coolな虚像を何時までも追い求め続ける。

 確かに東京パラリンピックが日程に乗って以降、
パラスポーツ用具と施設の進化は凄まじい。だが寝たきりの障碍者はベッドや車椅子で、日の丸が掲揚される場面の自分を想像して励まされるだろうか。
 僕は、パラスポーツ用の車椅子が急速にハイテクになったのに、老人ホームや障碍者施設で用いられる日常の車椅子の性能や使い勝手が一向に改善されずべらぼうに高いのに合点がいかない。一度外国の車椅子販売店を覗いてみるといい。安いだけではなく、粋なデザインで部品の互換性も高く耐久性もある。


 日本では、公園や繁華街そして学校に障碍者の姿が極めて少ない。僕は広東の飲茶屋で、車椅子の様々な年齢の障碍者を
度々見かけた。介助者なしで段差のある店の入口に来ると、付近の客や従業員が駆け寄って車椅子ごと運び上げてしまう。椅子を詰め合う、言葉が不自由な時は慣れた人がやってきて聞き取る、箸や食べ物を落とすのはしょっちゅうだがみんな慣れている。勘定が済んで外に出るまで全てが自然なのに僕は驚いたものだ。ここには「社会」が確かに形成されている。

 今我等の周りには、過労死ラインを大幅に超えた長時間労働を劣悪な環境で強いられる仲間・友人が犇めいている。「普通の自分の価値を自ら決定すること」など思いもよらない過酷さに喘ぎながら。

 僕は2001年春のHarvad大学に始まり、全米に燃え広がった「生活賃金運動」を思い起こす。
  一日にいくつもの仕事をしながら娘と話す時間もなく、それでも貯金を取り崩して生きざるを得ない大学清掃労働者たち。
 彼らの「生活賃金」を要求して、学生が大学本部を占拠。長い闘いの中で、発言の機会さえなかった清掃職員が自らの労働の誇りに目覚め、集会で発言する場面は感動的であった。
 同じような運動が現在の日本で求められている。必要なのは同情ではない、連帯なのだ。
 

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...