〽またも負けたか○○部 / それでは垂れ幕つくれんたい |
「兵隊に取られて戦争にいった八連隊の男の中には、「大阪の兵隊はな、戦地の敵サンの村へいって徴発なんぞ、せえへん。みな・金払うてきたんやデ」と自慢するのがいた。大阪阪人はケンカが嫌い、よって戦争も嫌い、足腰弱く口ばかり達者、しかし商人(あきんど)であるゆえ、モノをただ持ってくる、ということは何としても天然自然の埋に違う、という気が厳としてある、故に徴発や奪取ということはできない、少しでも代金を払う、というのである。私の小学生時代は日中戦争の頃であったが、人阪人はそんな話を日常の挨拶によく交して笑い合った。
また、こういうのもあった。大阪出身の兵隊で組織されている部隊が、中国大陸のさる場所で中国軍と対戦中、敵軍からふと、
「おおい、もう撃ち合い、やめまひょやあ」という声が揚がったそうである。日本兵、というより、大阪ニンゲンの兵隊が驚いて、
「オマ工、日本語、うまいなあ」 と叫び返すと、
「へえ、大阪の○○の散髪屋で耳掃除してましてん」という返事、よういわんわ、といったかどうか、この時は銃後の大阪人をいたく喜ばせたものであった。
子供の私は、大人たちがこれを倦まず人から人へ語り伝えるのを耳にした。・・・戦前の大阪の下町には中国人も多く、仲よく住んでいたから、庶民は対中国戦争に複雑な気持を抱いていた。南京陥落万歳万歳と提灯行列をしながら.一方で、大阪の兵隊は物をタダ取りせえへんのや、と妙な自慢をし大阪の散髪屋(サンパッチャ)の耳掃除のおっさんが、敵の兵隊になっとってなあ、こんなこといいよったらしい、と喜悦し、聞いたほうも、ほんなら、ハイカラ軒のあのおっさん違うか、器用で巧かったけどなあ、故国へかえって兵隊にとられよってんやろか、などと嬉しがっていたのである。
私が幼女のころは手毯唄に、
〽またも負けたか八達隊 / それでは勲章くれんたい(九連隊)
というのがあり、私も花柄のゴム毬をつきつつ、友達とそう唄って遊んだものであった。聞いている大人たちも、当然のことのように聞き流し、べつに咎め立てもせず、八連隊は大阪の兵隊やよって、弱いのやと恥じもせなんだ。(九連隊は京都)
商いの都市では、〈負ける〉ことはごく日常的営為であって、「よっしや、負けときまっさ、大負けに負けて出血サービスや」とか、「いや、これは負けました、しやァないな」などと口癖になっているから、負けるという言葉に対する拒否反応や刺激は全くない、戦争も商いもいつか、ごっちゃになっているので、郷土の八連隊が負けたとて、豪も痛痒を感じない。情けないとも不名誉とも思うておらぬのであった」。『道頓堀の雨に分かれて以来なり』中央公論社
大正二年六月発表の徴兵忌避者数は、大阪が全国一位だった。
とはいうものの、
「大阪の兵隊はな、戦地の敵サンの村へいって徴発なんぞ、せえへん。みな・金払うてきたんやデ」の挿話は全体としては、天皇の軍隊が略奪と殺害に明け暮れした実態を暴露するものである。とはいうものの、誰もが略奪する中で、自分だけはしないぞとの決意を誇る姿勢は記録に値する。
平和な国家、健全な地域、健全な学校は、いろいろな要素が様々に混じり合う中で形成される。民族や国籍別や所得階層や偏差値別に選別構成してはならない。
それがあっての
「おおい、もう撃ち合い、やめまひょやあ」
である。戦闘を軍隊中枢が決定するのではなく、前線の兵隊が判断する。「九条」の精神はここにある。
今もなお日本企業の対外交渉では、交渉現場の判断は常に軽んじられ「本社の意向」を伺う始末 。学校も又、現場の判断を恐れ回避してきた。そんな傾向を構造的に打ち破らなければ「九条」は、生活に根を張れない。美しいだけの生け花であってはならない。
せめて教師に、自分の教室だけは・・・するとの決意を、この挿話は促している。
学校の正面に、「○○部、××大会出場」とか 「○○部、△君入賞」などと何枚も垂れ幕を下ろす光景は一体いつ頃から始まったのか。負ける側の神経を逆撫でする無神経は、醜悪である。校長室前に優勝盾を陳列するのも下品だし、最近は大学合格者数を書いて垂らす学校まであって見るに堪えない。
全ての高校生を、替えのきかぬ主権者として愛でる姿勢が無い。冷たい教育である。こんな垂れ幕を見て、受験する中学生や父兄があるのだろうか。
近所に自由が看板の古い学校があって、運動部もある。見かけは丸刈りで強そうだが、これが滅法弱い。いつも一回戦で敗退する。だがどうも、根っから運動が好きらしい。練習に疲れ果てて、夏の日差しを避けて日陰の芝で談笑する。
〽またも負けたか○○部 / それでは垂れ幕つくれんたいと、自ら笑い飛ばしているようで清々しい。
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