管理主義の亡霊は、なぜ今頃佐賀に取り憑いたのか

・下着は白とする
・靴下は白とする
・マフラー禁止
・制服に名札を縫い付ける
・靴は白とする。中敷も白とする
・セーター、コート、マフラー、手袋の色は白・黒・紺・茶などの色に限定
・コートは学校指定の物を着用。ダッフルコートやフード付きは不可

・男子の髪型で左右非対称カットやツーブロック、頭頂部を立てるなどの髪型は禁止
・眉毛を剃ってはならない
・整髪料はつけてはならない
・髪を伸ばす場合は、耳より下で耳より後ろで結ぶか、三つ編みにする

 これら1980年代の管理主義再来を思わせる校則は、佐賀県弁護士会が県内公立中に情報公開請求したものの一部である。弁護士会はその結果を分析、見直しを求める提言書を県教育委員会に提出した。←クリック

  多くの中学校が、飲食店やゲームセンター、カラオケなどへの立ち入り禁止を定め、保護者同伴でも認めないところさえある。校区外では、制服着用を強制する例もあったという。

   こんな時代錯誤の校則を作れば、体罰やパワハラは日常的になる。学習には百害あって一利もない。余程ここの教師たちは学ぶことに関心がないか、嫌いなのか。




 僕は咄嗟に、石川達三の『人間の壁』を思い出した。
 朝鮮戦争特需に手放しで湧いた日本経済は、冷戦の訪れとともに一気に冷や水を浴びる。(死傷者は中国200万~400万、韓国40万、アメリカ14万、更に1000万人以上の離散家族を生んだ。戦争状態は2020年のいまなお続いていることを忘れてはならない・・・休戦であって「終戦」ではない。)

 加えて水害に見舞われた佐賀県財政は慢性的な赤字に陥り、1956年には財政再建団体の指定される。その再建計画には大幅な人件費削減が盛り込まれ、10年間で教職員約7000名の内2600名を整理するために、45歳以上の職員を全員退職させ、養護教員・事務職員を全廃する内容。1957年迄に5回に及ぶ教職員定数削減、だが翌春には団塊の世代児童が7000人も増える事態が迫っていた。 『このままでは義務教育が崩壊する』との危機感から、組合は実力行使を決定。しかし当時すでに公務員法で争議権を奪われていた教師たちは『出来るだけ授業に支障が出ないよう』に県下の全小中学校で組合員を3分し、2月14日から16日の3日間、一日ずつ有給休暇をとった。教職員5929名のうち、およそ5200名が抗議集会に参加した。これに対し、佐賀県教育委員会は県教組幹部11名を地方公務員法違反で停職1か月から6カ月とする行政処分を行った。警察も組合幹部を逮捕した。
 石川達三は、この佐教組事件関係者に精力的に取材。朝日新聞に小説『人間の壁』を連載、単行本はベストセラーになった。1959年には山本薩夫監督・香川京子主演で映画化した。

 しかし闘争は敗北した。公選制教育委員会は廃止、勤務評定が実施され、教育現場から自由で伸び伸びとした雰囲気は消え始めた。教師が行政に縛られれば、教師は生徒の自由を守らないのか、守れないのか。僕の祖父は海軍退役後、故郷の旧制中学で教えたが、若い教師たちが軍国主義に凝り固まり鉄拳制裁しても「予備役将校のあんたの爺さんが、一度も殴らず
学校で一番穏やかじゃった」と当時の教え子は僕に語った。勤務のない日は鍬を担いで畑に出ていたという祖父を誇らしく思う。

 自分たちが行政の高圧的管理に苦しんでいる時こそ、その苦痛から生徒や父母だけは守る覚悟を持つ。それが闘うということだ。何故なら、少年/少女たちを取り巻く世界に対峙することから学びは始まるからである。同化させ順応させることは、学びの敗北でしかない。

 

 朝鮮戦争の終結をいまだに実現出来ないことに歩調を合わせるように、不気味な「後遺症」が佐賀の中学校で亡霊のように現れたのだ。戦争で浮かれ儲けた事実は甚大な「付け」として必ず現われる。

 コロナ禍も「闘い」である、にもかかわらず「Go to キャンペーン」「with コロナ」と莫大な補助金をつぎ込んで浮かれている。「付け」は激増する死者・後遺症、さらに巨額の増税となって我々の生活を痛めつける。増税しやすいのは、戦争である。

なんで、テキストを使わなかったんですか

    突然、20年も前の卒業生からmailを貰うことがある。学生憧れの企業で、社内講習の講師を任されたらしい。オンライン授業で。

「口承」の豊かさを文字媒体は伝えられるか

  ・・・全員で考えるような授業にしたいです。めざすは、先生がやってたようなテキストを使わない授業です。憧れです! 先生はなんでテキストを使わなかったんです?

 

 便利さには全て落とし穴がある。教科書が「優れ」たものなら、学ぼうとするものはわざわざ教師に教わりに出向くことは無い。自学すればよいのだ。分からないことがあれば自ら調べる。だから出欠を取るのは言語道断。

   オンライン授業の経験は幸いにしてない。新し物好きの教師たちに突然の機会がもたらした興奮と失敗から考えていることはある。
 口承から文字、印刷、電信・・・知識や現象の伝え方が「発展」する度に人類は表現能力を失ってきた。それは決して取り返しがつかない過程。一度枯れた草や伸びきったゴムに、可塑性は無い。枯れる前に伸びきる前に、これは危ないと気付けば稀に引き返せる。が、新しい技術や手法は人を幻惑し、譬え重大事故があっても目新しさへの信仰からは抜けきれない。

 こうして事柄や概念を言葉にし、文字に写し、文章化する度に、対象が持つ豊かな深さは失われる。大勢に受け入れられる事を目指せば、削り落とされる部分は大きくなる。共通とは詰まらないものなのだ。更に教科書には権力や権威の睨みが施される。それを教師が忖度するとき落ちるものがある。生徒が聞くときにも同じ事が起きる。伝わる部分が多く見積もって全体の7割だとしよう。伝わる過程が三度あれば、知識が末端に届くときには、7割の7割の7割つまり3割程度になる。5割としても1割近くまで、痩せ細り浅くなる。
 それゆえ学校でもオンライン授業はことごとく失敗している。それはジェット機を追いかけながら走るに似ている。限りなく虚しい。
 もしオードリー・ヘップバーンがオンラインで講義すれば、人々はヘップバーンの講義に魅せられ録画、繰り返し再生を試みるかも知れない。生身のヘップバーンを知らずとも、人は映画を通して擬似的ではあるが、彼女の生きた言葉と動作や息づかいを幾分かを掴める。しかし我々は、ヘップバーンでは無い、三船敏郎でも無い。
 社内講習とは言え、講師を務める位置にあることを祝福したい。何があってもめげるな。

儲かる学問は権力と一体化する

   研究や教育でその価値を静かに問うべき大学が、新聞の全面広告やビルの広告塔、競技場の壁、競技playerの着衣、その他あらゆる媒体を買う事で、その存在を見苦しく目立たせている。
 「もしも桃太郎がデータサイエンスを心得ていたら、おばあさんがくれたきびだんごでビッグビジネスを生み出し、鬼ヶ島を丸ごと買収して鬼を全員部下に!?なんてことになったかもしれません。「データ分析力+発想力」で新時代の社会に貢献できる注目の学問、はじまります。」


 新聞の朝刊全面をデカデカと使ったある大学の新設学部の広告である。中学生の課題でも、こんな杜撰なものはない。新学部開設準備室が「知恵」を絞ったか、広告代理店に下請け発注したか。いずれにしても、知性の欠片もユーモアの片鱗も無い。

 仮に桃太郎の時代に「ビッグデータ」があったとしても、身分制度下ではビジネスの担い手は存在しない。制度外の無法者として無理矢理ビジネスを強行すれば、桃太郎自身が「鬼」となる。桃太郎が鬼を部下にするのではなく、桃太郎が鬼と同化してしまう。話は進まない。そもそも、きびだんごを鬼ヶ島をあげて大量に生産したとして、何処でどうやって売るのだ。きびだんごはお婆さんが旅に出る身内につくるもので、大量に生産して商品として流通させるわけには行かない。無理矢理売れば、押し売りするしかない。矢張り鬼は桃太郎を親玉とする鬼になるしかないのである。せいぜいが堂々巡り。

 この新設学部の「売り出し文句」にはこう書かれている。

 「情報処理技術の急速な発達とそれに伴うAI時代の到来により、ビッグデータを実務に応用できる知識やノウハウを身につけた人材が広く求められています。」

 新設学部担当理事が桃太郎であり、買収される「鬼」が教員と学生。売れるはずのないきびだんごが「データ」というわけだ。
 儲かる「学問」だけに予算を与える文科行政は、子供騙しの堂々巡りを煽るのみで何ら成果をうむことは無い。アインシュタインの相対性理論には何処の研究機関も注目出来なかったから、物理学とは無縁の特許局で書類に埋没しながら特殊相対性理論に専念せざるを得なかった。湯川秀樹も養子先の湯川家が裕福な医者であったから、生活に煩わされず中間子理論を完成させている。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...