なんで、テキストを使わなかったんですか

    突然、20年も前の卒業生からmailを貰うことがある。学生憧れの企業で、社内講習の講師を任されたらしい。オンライン授業で。

「口承」の豊かさを文字媒体は伝えられるか

  ・・・全員で考えるような授業にしたいです。めざすは、先生がやってたようなテキストを使わない授業です。憧れです! 先生はなんでテキストを使わなかったんです?

 

 便利さには全て落とし穴がある。教科書が「優れ」たものなら、学ぼうとするものはわざわざ教師に教わりに出向くことは無い。自学すればよいのだ。分からないことがあれば自ら調べる。だから出欠を取るのは言語道断。

   オンライン授業の経験は幸いにしてない。新し物好きの教師たちに突然の機会がもたらした興奮と失敗から考えていることはある。
 口承から文字、印刷、電信・・・知識や現象の伝え方が「発展」する度に人類は表現能力を失ってきた。それは決して取り返しがつかない過程。一度枯れた草や伸びきったゴムに、可塑性は無い。枯れる前に伸びきる前に、これは危ないと気付けば稀に引き返せる。が、新しい技術や手法は人を幻惑し、譬え重大事故があっても目新しさへの信仰からは抜けきれない。

 こうして事柄や概念を言葉にし、文字に写し、文章化する度に、対象が持つ豊かな深さは失われる。大勢に受け入れられる事を目指せば、削り落とされる部分は大きくなる。共通とは詰まらないものなのだ。更に教科書には権力や権威の睨みが施される。それを教師が忖度するとき落ちるものがある。生徒が聞くときにも同じ事が起きる。伝わる部分が多く見積もって全体の7割だとしよう。伝わる過程が三度あれば、知識が末端に届くときには、7割の7割の7割つまり3割程度になる。5割としても1割近くまで、痩せ細り浅くなる。
 それゆえ学校でもオンライン授業はことごとく失敗している。それはジェット機を追いかけながら走るに似ている。限りなく虚しい。
 もしオードリー・ヘップバーンがオンラインで講義すれば、人々はヘップバーンの講義に魅せられ録画、繰り返し再生を試みるかも知れない。生身のヘップバーンを知らずとも、人は映画を通して擬似的ではあるが、彼女の生きた言葉と動作や息づかいを幾分かを掴める。しかし我々は、ヘップバーンでは無い、三船敏郎でも無い。
 社内講習とは言え、講師を務める位置にあることを祝福したい。何があってもめげるな。

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