たった一人にしか効かないから「特効」薬

  「生徒が寝ない授業」という目標は正しいだろうか。顔色がよいのは健康の証として人の歓迎するところである。しかし酒で、化粧で、薬で無理やり血色よくして、どうだ健康だと言うのは見当違いだろう。健康を保持して、顔色を保つやり方は人それぞれ千差万別である。
 つまり素晴らしい授業だから寝てしまう、ノートも忘れて聞き惚れているうちに、夢路に誘われる。静まるということも大いにある。漢方薬はひとり一人の体質や生活環境に応じて、違う配合をする。「良薬は口に苦し」とは言わない。体にあっていれば「良薬は口に旨し」であるという。たった一人だけに旨く、他のひとに苦いのは当たり前と、祖母は言いながら漢方薬を煎じていた。
 どんな良薬も、飲む個人の状況が先ずモノを言う。しかも如何なる薬にもどんな名医にも限りはある。何十人もの異なる体質体調に同時に効くものがあろうはずはない。無理に甘くすれば副作用もある。待たねばならぬこともある。場合によっては諦めねばならない。王工のM君は全ての授業を二年半寝続けて、ある日の講義を耳にして突然起きた。特定のまだ見ぬ一人にしか効かない薬もあり得る、むしろそれが特効薬である。
  であれは、僕らは生徒の数だけの「特効」薬を準備しなければならない。報告書の山を片付けたり、管理職試験の準備をし、部活の生徒を叱責したり、茶髪に腹を立てる暇はない。
 政府は指導要領を整え、それに教員が従いさえすれば、それがそのまま万能の万人に聞く特効処方になると考えている。実現できないのは現場の教員の努力が足りず、姿勢が狂っているからだというのだ。だから「君が代」を唄わせて、まずは姿勢を叩き直せばよいと、カルト並みの信仰を持っている。

打倒すべき相手、食パン

 「・・・「なんだ、お前のその恰好は」 食パンはいきなりそういうと、私の背中を指さした。母が綿布を筒状に縫ったものを私は斜めに背負い、前に回したその両端を胸の前で結んでいたのである。つまりはリュックサックの代わりで、その中には母が工面してつくってくれた握り飯が入っていた。 戦時中にニュース映画で、中国の兵士がこれと同じ恰好をしているのを観た。それが珍妙だといって嗤ったものである。思うに、食パンの脳裏にも、その残像があったのではなかったか。・・・ しかし、食パンは、そうした事情を表だにせず、切って捨てるようにいった。「みっともない恰好するなよ。田舎者みたいな」 私は明らかに侮辱されたのである。傷つくより怒が先に立った。みっともないとは何事だ。こちらにとって、見た目にいいかわるいかは、問題ではない。おれはもっと切実なところで生きている、という思いがあったからである。・・・食パンにはっきり敵意を抱いた。当時流行の言葉でいうと、「打倒」すべき相手として。
 私は戦後民主主義のまっただ中で育った。民主化を目指すGHQ占領政策の一環として中等教育の現場に持ち込んだのが生徒会活動である。毎週水曜日の授業は午前中で打ち切りとなり、午後は「アセンブリー」の時間に当てられていた。講堂兼用の体育館に全校生徒が集まって生徒会総会を開くのである。 教師たちはオブザーバーというかたちで脇の方に顔を連らねたが、発言することは一切なく、会は生徒たちの自主運営に任されていた。おそらく、GHQからその旨お達しが出ていたのであろう。 初めのころ教師たちの中に、民主主義を理解している者が何人いたかとなると、ゼロに近かったのではなかったかと思う。 ・・・民主義教育の-環として、生徒会活動が導入されたものの、生徒たちは何をどうすればよいのか、皆目、見当がつかなかった。私は千歳の七期生で、転入したとき下級生としては敗戦の翌年に入学した八期生がいるだけであった。生徒の大半は、つい昨日まで軍国少年だったのであるいきなり民主主義といわれても、理解のつくはずがない。 生徒会が初めて盛り上がりを見せたのは、長髪禁止の解除を学校側に求めたときである。稚い要求ではあるが、しゃれっ気の出はじめる年頃の生徒たちには、これ以上ない打ってつけのテーマになった。 生徒委員会の申し入れを学校側はあっさり却下、生徒会は生徒会総会にこの議案を持ち込むが、反対論もけっこうあって、結論が出るには到らなかった。生徒たちもまた、戦時色を払拭できずにいたのである。   総会は三度、四度と開かれ、論議が白熟して夜遅くまで続けられることがあった。その間、千二百人余の全校生徒は、かたい体育館の床に腰を下ろしてやりとりに耳を傾け、その場を去る者は一人もいなかった。 私たちは敗戦の混乱の中で、自分で考え、自分で行動することを始めたのである。それは、そうせざるを得ない状況に置かれたからであった。 敗戦直後の学校には、教師も教科書も不在だったといえよう。教師の多くは腑抜けの状態にあった。それでは、生徒を教育するどころではない。新しい教科書が間に合わないので、古い教科書を用いた。ただし、GHQが不適切と判断した箇所は、墨で塗り潰したうえでのことである。 教科の担当教師は、授業を始めるより先に、問題とされる箇所を指示し、翌週までに生徒自身の手で塗り潰してくるよう申し渡すのが新学年初頭の仕事になった。これでは、教師はいない教科書はないも同然であろう。 生徒総会は最終的に長髪の是非を全員投票にかけた。・・・票決の結果は「是」となって、それまで首をタテに振らなかった学校側が、あっけなくこれを呑んだ。執行部からの申し入れの段階では、戦時中から続く師弟関係がなんとなく物を言って、生徒側が押し切られていたが、生徒総会の決定を突きつけられると、学校側の腰がとたんに引けてしまったのである。 学校側は、GHQににらまれるのを、極度に恐れていた。いま考えると、こっけいなほどである。その超権力がうしろに控えていたせいではあったが、生徒たちは容易に屈した教師たちの姿を見て、勝ち誇った。何分にもかつてなかったことである。 生徒会の次なる要求は、腕時計をするのを認めろ、というものであった。私はその必要性があるとは思 っていなかったので、総会で反対票を投じた。だいたい学校に腕時計をしてくる生徒というのはまれであったから、この要求は現実離れしていた。それでも学校側は生徒会の前に屈したのである。 このあたりまでほ手探り状態だった生徒会活が、ようやくそれらしくなったのは、校歌はこのままでいいのか、という問題提起をしたときからであった。 ・・・その三番が新しい時代にそぐわないとされた。
          赤く清き 誠ひとすじ/友垣を かたく結びて/身と心 きたえ修めむ/大君のしこの御楯と
 「しこ」とは漢字で「醜」と書く。強いこと、頑丈なことを意味する。私たちは小学校のころから、身を鴻毛の軽きにに置いて、醜の御楯となるよう叩き込まれてきた。要するに、自分の身は鳥の羽毛ほど軽いものだと考え、天皇の前に生命を投げ出せ、というのである。 とんでもない思想だが、そのとんでもないことを、日本という国はついこのあいだまで大真面目にやっていた。過去においてそういう国であったことを、戦争を知らない世代は胸に刻みつけておいてもらいたい。これは、その時代を生きた人間の、切なるねがいである。 敗戦後もしばらくのあいだ、「健児の歌」がそっくりそのまま校歌として歌われていたということは教師たちの歴史認識がいかにお粗末であったかを如実に物語っている。 生徒たちのあいだでは、いっそ校歌を変えてしまおう、という意見が強かった。学校側は収拾策として、校歌から三番を削除する、という案を出してくる。
        はろばろと日路の限りを/武蔵野に陽は直射して/千歳なる学びの庭に/丈夫ののぞみあかるし
 これが一番の詞である。出来のよしあしは別として、変えなければならない理由はない。三番の削除 で、この問題に決着はついた。学校側は辛うじて面目を保った恰好だが、長髪、腕時計の場合と違って、純然たる思想の対決において敗れたのだから、これによって権威は完全に失墜した。 一方、生徒は、自分たちの力で物事が動くことを、肌身で感じ取った。それは、民主化運動の実感であった。私たちはこのようにして、絵空事でない民主主義を学んだのである。
 衣食住どれ一つをとってみても窮乏のどん底にいたにもかかわらず、私たちの少年期は輝いていたと思う。 いまは、すべてが満たされているのに、青少年の心はどんより曇っている。たとえば、いわゆる引きこもり状態の若い人たちが、全国で六十万人もいるというではないか。彼らには、若い血潮をたぎらせる理想がない。それどころか、生きている実感さえ持てずにいる。物賛的にいくら豊かでも、心は貧しい。これは、親がどうの学校がどうのといった段階をはるかに超えている。 古今の歴史が示すように、栄えた文明はかならず衰亡に向かう。要は、いかにゆっくり下って行くかだが、経済的成功で光芒を放ったわが日本は、それもまたたく間に終わって、いまや急坂を転げ落ちるばかりである。モノだとかカネだとかに心を奪われている場合ではない。私たちに何が欠けているのか。真剣に考えるときではないのか」
             本田靖春 『我、拗ね者として生涯を閉ず』 講談社    2005.2
                                                         
  「敗戦の混乱の中で、自分で考え、自分で行動することを始めたのである。それは、そうせざるを得ない状況に置かれたからであった。 敗戦直後の学校には、教師も教科書も不在だったといえよう。教師の多くは腑抜けの状態にあった。それでは、生徒を教育するどころではない」
 この部分は、敗戦直後に教育を受けた少年たちのほとんど全てに共通している。少年たちが自分で考え始めるための条件は、状況の混乱と物質的窮乏そして教師の不在または自信喪失にありそうだ。


追記  本田靖春氏はノンフィクション作家。陸軍士官学校や海軍兵学校へ卒業生を送り込むことで名門校化を図った世田谷の旧制都立千歳中学(十二中)の敗戦直後を描いている。 多くの教師が自信を失う中、たった一人皇国史観を守ろうと力んでいた食パンも、生徒たちの「絵空事でない民主主義」によって権威を失った。

  今、「自分たちの力で物事が動くことを、肌身で感じ取」る経験を、少年・青年・若者はどこでするんだろうか。 どこかで「決まったこと」を守り、すすんで活き活きとこなす「活動」を民主主義と叩き込まれ、うさん臭さに気付く頃には手遅れ。その「活動」民主主義を壊す反知性主義的潮流に溜飲を下げて「物事が動く」ことに替えているのではないか。

「be punctual」

 「be punctual」というのは、時間を守ることを指している。それを遅刻しないという意味に限定することがあるが、困った使い方だと思う。「be punctual」は物事の始まりにも、終了にも適用されるのである。始まりにつて「be punctual」つまり遅刻しないに喧しければ、同時に終わりについても「be punctual」でなければならない。遅刻する生徒に目くじらを立てる担任が、終わりのHRを延々とやるのはよくあることだ。
 僕は、終わりのHRはやらないのを原則としていた。だからクラスの生徒は、六時間目が終われば、他のクラスのHRを尻目にさっさと帰っていた。揃えてもらわなければ困る、やることがなくても残すべきだという担任が多い。たとえ生徒であれ、時間外に残して何かをさせるという神経が許せないのである。
 生徒と教師は身分的関係ではない。それは、体罰やセクハラなどと共に、近代的学校制度にあってはならないのである。  生徒たちの話し合いが、互いの合意で行われる場合も、自由に残り話合い、自由に帰宅すべき筋合いである。
 職員会議でも、終わりの時間や延長する場合の手続きが明文化された職場は多くない。これが町内会などの場合は、無原則であり、そのまま酒席に移行するのが商店主の楽しみにさえなっている。
  こうした習慣が、残業に対する意識を締まりのないものにして、ブラックな企業体質を容認する心理的基礎を形成するのだと思う。終わりについての 「be punctual」こそ重視しなければならない。 
 修学旅行などでも、夜遅くまで学習や講演などが無神経に組み込まれ、生徒たちを疲れさせておいて、ありもしない成果を作文提出で演出する。枕でも投げたくなろうというものだ。

追記 「be punctual」でなくて困るモノの筆頭は、式の来賓挨拶と野球の実況中継である。

ハンセン病療養所患者生徒の「学力」

                                 拙著『患者教師・子供たち・絶滅隔離』地歴社刊より引用
『患者教師・子供たち・絶滅隔離』地歴社

 ハンセン病療養所内学校教師全国会議(1954年)で、全生分教室の
派遣教師O先生は「実はここまで持って来るのにどれたけ苦労したかわかりません。人に一寸言えないことが沢山ございます」と園や自治会と衝突したことを隠さなかった。 対して、他の参加者たちは「私の方は患者教師が私に一目置いていて、立てるところは立ててくれます」「私の方では患者が発起人になりまして、教育振興委員会というものを作り積極的に援助してくれ、教育に関しては自治会以上に強力にやってくれております」と関係の良好さを披露している。 
  だが、O先生は苦言を呈しながらも、分教室の学力については次のように発言していた。議事録から彼女の発言だけを抜き出してみた。


 「・・・(学力は)只今中学校の担任としては、本校と同じ水準になりつゝあると思っています」 「(普通の高等学校の入学試験をすれば)全生園は皆入ります」     「昨年一人、都立高校へ志願したのでございますが、各中学校毎にある成績一覧表の中に名前が載っていない限りは志願出来ない、折角いゝ成績で卒業してもどこも入れてくれず埼玉の方に入りました、一、二番の成績でした」
「全生園分教室生徒の成績は、本校の生徒に比べても中以上になる。 それで特殊事情だからレベルが下がる、と云うようなことは一概にはいえない」 「英語は全く苦労を感じておりません。三年生は三年生の本までこぎつけております」

 発言を裏付けるように、らい予防法に基づく高等学校、岡山県立邑久高校新良田教室の第一期生入試では、全生分教室からは受験した6名全員が合格(入学は5名)。定員30名に対して56名が受験しているから、6名全員合格は快挙と言えよう。もう一箇所全員合格を成し遂げているのが愛生園で、受験者の多くが20歳台以上であった。
 その後新良田教室に進んだ卒業生から、新良田に失望した旨の便りが全生分教室にも届き、病状と学費の問題が許せば成績の良いものは地元の高校を受験するようになる。それでも全生分教室卒業生は、新良田教室受験で高い合格率を見せた。例えば第五回入試(1959年)の結果が新良田教室第一期生卒業生文集にある、この年も30名定員に対して56名が受験、全生分教室は5名全員が合格している。愛生園は6名が受験し2名が合格している。
 この1959年卒業生の中に、本校・分教室を通して常にトップグループに位置する生徒がいて、その実力は日本中で行われるテスト業者の結果が証明していた。小学二年から全生分教室で学び、僻地の先生になるが口癖であった。
  全生分教室の生徒が好成績・・・でも、高校受験の内申書の点数は低く押えられていた。・・・本校の生徒の内申書をよくするためにそんな措置がとられていた。ひどい差別であった。そのことをS派遣教師に言うと、「何分、本校にはいつもお世話になっているので」と口のなかでもぞもぞいった。本校にお世話になっているといっても、卒業式の日、校長がそのときだけやってきて卒業証書を各生徒に手渡し、もっともらしい訓辞をして事務本館で園幹部と会食をして帰って行くだけのことであった。本校にとっては余計なお荷物だったのかもしれないが、教育という以上荷物なら荷物らしくもっと重くしっかりと受けとめて欲しかったと思う。        氷上恵介『オリオンの悲しみ』 
 三木寮父や患者教師に「一般の学校では学年末にはなにがしかのお礼が届くものです」と言ったのがこの派遣教師である。
 この生徒は差別内申をものともせず県立高校に合格、学友の信頼厚く生徒会活動にも励み、国立大学に合格、約束どおり離島の先生になった。
  ハンセン病療養所は、子どもが将来何になるかを聞かれることも言うこともありえない世界であったが、夢を語ることが珍しくない時代になりつつあった。

 1960年には本校・分教室を通して、一人トップをゆく生徒が現れ、本校ではカラクリを疑いやがて驚嘆、派遣教師は本校に向かって胸を張った。病気の具合が芳しくなく一旦新良田教室に入るが、物足りず東京に戻って進学校に転入、大学院にも進み、それでも物足りずドイツに留学している。 


追記 ハンセン病療養所内分校・分教室には正規の免許を持ち、教育委員会から分校・分教室に派遣された「派遣教師」と、療養所入所者である「患者教師(補助教師とも呼ばれた)」があった。前者には正規の給与に危険手当(ハンセン病は、感染力が極めて弱いが、ペスト並みの怖ろしい病気との偏見を引き継いだ手当)が加算された額が支給された。しかし、患者教師に教育委員会は全く給与を支給しなかった。僅かな患者作業手当が、患者自治会から出ただけである。氷上恵介は、患者教師をしながら作家としても作品を残した。  

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...