『患者教師・子供たち・絶滅隔離』地歴社 |
ハンセン病療養所内学校教師全国会議(1954年)で、全生分教室の
派遣教師O先生は「実はここまで持って来るのにどれたけ苦労したかわかりません。人に一寸言えないことが沢山ございます」と園や自治会と衝突したことを隠さなかった。 対して、他の参加者たちは「私の方は患者教師が私に一目置いていて、立てるところは立ててくれます」「私の方では患者が発起人になりまして、教育振興委員会というものを作り積極的に援助してくれ、教育に関しては自治会以上に強力にやってくれております」と関係の良好さを披露している。
だが、O先生は苦言を呈しながらも、分教室の学力については次のように発言していた。議事録から彼女の発言だけを抜き出してみた。
「・・・(学力は)只今中学校の担任としては、本校と同じ水準になりつゝあると思っています」 「(普通の高等学校の入学試験をすれば)全生園は皆入ります」 「昨年一人、都立高校へ志願したのでございますが、各中学校毎にある成績一覧表の中に名前が載っていない限りは志願出来ない、折角いゝ成績で卒業してもどこも入れてくれず埼玉の方に入りました、一、二番の成績でした」
「全生園分教室生徒の成績は、本校の生徒に比べても中以上になる。 それで特殊事情だからレベルが下がる、と云うようなことは一概にはいえない」 「英語は全く苦労を感じておりません。三年生は三年生の本までこぎつけております」
その後新良田教室に進んだ卒業生から、新良田に失望した旨の便りが全生分教室にも届き、病状と学費の問題が許せば成績の良いものは地元の高校を受験するようになる。それでも全生分教室卒業生は、新良田教室受験で高い合格率を見せた。例えば第五回入試(1959年)の結果が新良田教室第一期生卒業生文集にある、この年も30名定員に対して56名が受験、全生分教室は5名全員が合格している。愛生園は6名が受験し2名が合格している。
この1959年卒業生の中に、本校・分教室を通して常にトップグループに位置する生徒がいて、その実力は日本中で行われるテスト業者の結果が証明していた。小学二年から全生分教室で学び、僻地の先生になるが口癖であった。
全生分教室の生徒が好成績・・・でも、高校受験の内申書の点数は低く押えられていた。・・・本校の生徒の内申書をよくするためにそんな措置がとられていた。ひどい差別であった。そのことをS派遣教師に言うと、「何分、本校にはいつもお世話になっているので」と口のなかでもぞもぞいった。本校にお世話になっているといっても、卒業式の日、校長がそのときだけやってきて卒業証書を各生徒に手渡し、もっともらしい訓辞をして事務本館で園幹部と会食をして帰って行くだけのことであった。本校にとっては余計なお荷物だったのかもしれないが、教育という以上荷物なら荷物らしくもっと重くしっかりと受けとめて欲しかったと思う。 氷上恵介『オリオンの悲しみ』三木寮父や患者教師に「一般の学校では学年末にはなにがしかのお礼が届くものです」と言ったのがこの派遣教師である。
この生徒は差別内申をものともせず県立高校に合格、学友の信頼厚く生徒会活動にも励み、国立大学に合格、約束どおり離島の先生になった。
ハンセン病療養所は、子どもが将来何になるかを聞かれることも言うこともありえない世界であったが、夢を語ることが珍しくない時代になりつつあった。
1960年には本校・分教室を通して、一人トップをゆく生徒が現れ、本校ではカラクリを疑いやがて驚嘆、派遣教師は本校に向かって胸を張った。病気の具合が芳しくなく一旦新良田教室に入るが、物足りず東京に戻って進学校に転入、大学院にも進み、それでも物足りずドイツに留学している。
追記 ハンセン病療養所内分校・分教室には正規の免許を持ち、教育委員会から分校・分教室に派遣された「派遣教師」と、療養所入所者である「患者教師(補助教師とも呼ばれた)」があった。前者には正規の給与に危険手当(ハンセン病は、感染力が極めて弱いが、ペスト並みの怖ろしい病気との偏見を引き継いだ手当)が加算された額が支給された。しかし、患者教師に教育委員会は全く給与を支給しなかった。僅かな患者作業手当が、患者自治会から出ただけである。氷上恵介は、患者教師をしながら作家としても作品を残した。
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