「偽」天皇の「偽」札

 医者で作家のなだいなだが、若い頃勤めていた病院での、愉快な出来事を講演している。ただ愉快なだけではない。

 「古い精神病の病棟に70人の患者さんがいました。その中に「私は天皇である」と自称していた患者さんが3人いました。中でも自分のことを「春日天皇」と称する人がとてもおもしろい人でした。 その人は、年末になると職員にボーナスをくれるんです。ボーナスといっても、紙切れに数字を書いて渡すだけなんですが。
 私には「5万円」と書いた紙切れをくれました。看護師たちももらったらしく、そのボーナスの話で盛り上がりました。
 するとある看護師が「私は18万円もらいました」と言うわけです。私が別の看護師に聞いたら、
 「私は30万円でした」と言われました。
 その彼女は看護学校を出たばかりの准看護師でした。悔しかったですね。別に何万であろうとそれで何かが買えるわけではありません。でも、医者である自分が5万で、あの子は30万と知って何だか心が落ち着きませんでした。そこで本人に聞いてみました。
 「これはボーナスだそうですけど、何で私が5万で、あの子が30万なんですか?」と。すると彼は言いました。
 「それは私的なボーナスであって、病院で出すボーナスとは違うんです」と。
 「それは分かっています。でも何で私が5万なんですか?」と聞くと、彼は
 「先生は私に何をしてくれましたか?」と言うんです。
 「○○さんの治療をしているのは私だし、私が処方箋を出した薬を飲んでいるじゃないですか。それは病院で一番大事なことなんですよ」と私は説明しました。するとこう言われました。
 「そんなことは分かっています。でもあの薬は要りません。飲みたくないんです。そもそもあの薬、効きますか? もし効くならとっくに退院してていいはずです」って。そう言われ、私は答えようがありませんでした。
 その時、はっと思ったんです。薬は確かに効きます。しかしそれは病気を治す薬ではない、と。彼が薬を飲んで、「自分が春日天皇だというのは妄想だったんだ」と気付くわけではありません。薬を飲むとどうなるか。簡単に言えば、うるさいことを言わなくなって、おとなしくなります。暴れなくなり、よく眠るようになるんです。何の事はない、薬を出すことで管理しやすい患者さんになってもらっていただけだったんです。患者さんにとって、それはありがたいことではなかったんですね。 次に私は
 「あの看護師さんは○○さんに何をしたんですか?」と聞きました。そしたらこう言われました。
 「あの看護師さんは心が優しくてね。私が風邪を引いて熱を出した時に氷枕を作って持ってきてくれたんだよ。ありがたかった。そしておかゆまで作ってきてくれた。だからボーナス30万円をあげたんです」と。
 看護師よりも医者のほうにたくさん給料をあげるというのは、病院側の「ものさし」です。でも春日天皇は、医者や看護師を評価する「ものさし」を、自分でしっかり持っていたんですね。
 私はそのことに全然気付きませんでした。こんなに大事なことを、春日天皇は紙切れに数字を書くだけで教えてくれたんです
            なだいなだ     みやざき中央新聞  2004年6月14日

   この春日天皇がくれたのは偽札だろうか。この天皇は偽物だろうか。現在我々が使っている日本銀行券は、本物だろうか、皇居にいるのは本物の天皇だろうか。
  お金はもともとそれ自体商品であった。金や銀のように交換価値を持っていたが、腐らず、分割出来て携帯が可能なことから、交換を担う特殊な商品、すなわち貨幣となった。だから紙幣であっても、その中に「本位貨幣である金と交換を保障する旨が書かれていたが、今はない。従って政府には紙幣が安定して流通するよう管理する義務がある。しかし、インフレを目標として政府と中央銀行が共謀している今、我々の手元の紙幣は「春日天皇」の書付けとどこが違うのか。祖父母の誕生日に、孫たちが発行する手書きの「肩たたき券」などの方が、偽札から遠いのである。
 さて、天皇である。彼は我々に、仕事も土地も金も平和も呉れない、遠い昔からそうである。奪ってゆくばかり。「春日天皇」は呉れるのである。これでは「本物」を奉らない者がいくらでも出てくる。だから「不敬罪」をつくり「君が代」を唄わせ、敬語を強制するのである。

宝塚歌劇団生徒まで慰安婦にしようとした日本軍 

皇軍は自国の家族のために命を捨てろと言わせたのではなかったか。
こともあろうに将校が劇団の『女の子を差し出せ』と・・・
 戦時中、宝塚のレビューは禁止され劇場は海軍に接収されて予科練の宿舎になり、宝塚の生徒らは各地の日本軍へ慰問公演に動員された。
 泉エリザさん(芸名:千里ゆり)が1944年に、北海道や樺太への慰問に動員されたときのこと。ある晩トイレに起きると、付き添いの男性教師らが廊下に座り込んでいた。
「将校が『女の子を差し出せ』って。それで先生たちは寝ずの番をしてくれてたの」・・・
泉さんが慰問公演を終えて宝塚の自宅に戻ると、「なんだかおじさんみたいな兵隊さん」が週に一回訪れ、風呂に入り「畳に寝っころがってぼーとしていた」。後に映画監督・脚本家になる新藤兼人さんである。
 連日の上官からの暴行に「もう、敵がアメリカなのか帝国海軍なのかわかりませんでした」と当時を振り返る新藤さんは、タカラジェンヌの慰問公演だけが楽しみで、ぜんざいを作り生徒たちにふるまった。物資が欠乏する中、後に新藤さんと結婚することになる女優の乙羽信子さんは「水っぽかったけど、あのぜんざいが楽しみだった」と語った。
 新藤さんは終戦の日に玉音放送を聞いて「ああ、これでまた脚本が書ける」という解放感を忘れたことはない、という。                  2009年2月9日朝日新聞「愛 タカラヅカ⑧ 軍歌去りレビュー再び」
 
 1945年8月18日、敗戦から3日後に日本の内務省は地方長官あてに「外国駐屯軍慰安施設等整備要項」を出している。つまり、占領軍を対象にした国家公認の売春施設を設けろということだ。そして設立されたのが「特殊慰安施設協会」。これが日本の権力者の持つ女性観である。/8.26 接客業者ら、特殊慰安施設協会「Recreation and Amusement Association」(RAA)を設立。/8.27 東京・大森に最初の施設「小町園」開設。  瞬く間に開設している。経験が当局にも業者にもあったからである。ほんの昨日まで一億総玉砕を叫んで、鬼畜と罵った相手にここまで卑屈になれるのか。 当時の金額で一億円という巨費を投じて開設した特殊慰安施設、この年の国家予算215億円。占領軍はこれを「Sex House」と呼んでいた。
  8月28日には「特殊慰安施設協会設立宣言式」も行われ、設立趣意書まで読上げられている。
 「畏くも聖断を拝し、茲に連合軍の進駐を見るに至りました。一億の純血を護り以て国体護持の大精神に則り、先に当局の命令をうけ、東京料理飲食業組合、東京待合業組合連合会、東京接客業組合連合会、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京慰安所連合会、東京遊技場組合連盟の所属組合員を以て特殊慰安施設協会を構成致し、関東地区駐屯部隊将士の慰安施設を完備するため計画を進めて参りました。本協会を通じて彼我両国民の意志の疎通を図り、併せて国民外交の円滑なる発展に寄与致しますと共に平和建設の一助となれば協会の本懐とするところであります」
 こうして、日本各地に「特殊慰安施設」はつくられた。 RAAには最盛時、全国で7万人、閉鎖時でも5万5000人が「特別挺身隊員」と呼ばれていた。

  占領したのは男女平等の国である。女性兵士向けに「男慰安夫」がいたことが、昭和研究グループ 著『戦後の日本を知っていますか?―占領軍の日本支配と教化』にある。
 昭和21年、慰安夫に採用された一人は名古屋に進駐した女兵対象で、厳重な体格検査に合格。とにかく、心臓、胃袋、眼、皮膚、筋肉、血液、尿などが検査され、性病、痔の有無まで調べられた。松坂屋の近くに焼け残った木造アパートがあり、体格検査に合格した数人の若者に一人一室与えられた。最初の客は、なんと試験官の伍長だった。「乳房は二個の飯ごうのようで、故郷の牛を思わせる腰だった」。勤めはさすがに一日おきで、日給三ドル。その他、肉、バター、チーズなど、体力回復のためいくらでも支給。 しかしきつかったと言う。結局、この慰安夫は丸半年間、その女伍長に軍務あるとき以外は買い占められた。

 30年後、近衛首相の指示を受けRAAをつくった元警視総監・坂信弥はインタビューに応えて「正直」に答えてしまっている。
 「いまさら、そんなことをなんで聞くんかね。次元が低い問題だよ。・・・近衛は支那事変で日本兵が支那の女たちにやったことに覚えがあるから、ヤマトナデシコを救おうという気持ちで、彼ならやってくれると、総理官邸に私を呼んで頼んだんだ。・・・あれ(RAA)は国の運命を左右する問題でなしに、アワツブみたいな問題に過ぎん。応募した女性をイケニエのように言う人がいるが、そんなのは火事場の野次馬議論であって、観念論だよ。他にどんな方法があったか、というんだ。            大島 幸夫著『原色の戦後史』講談社文庫  
 「日本兵が支那の女たちにやったことに覚えがある」からと、従軍慰安婦が「制度」であったことを匂わせている。

  1945年9月2日開業予定の小町園慰安所には、同年8月28日、マシンガンで武装した米軍兵士達が乗り込みすべての慰安婦たちを強姦。他にも、1945年9月5日に武装した米兵が玉の井近くの鳩の街に押し寄せている。
 横浜のある慰安所では、100名を超える武装した米兵が開業前日の慰安所に乗り込み慰安婦14名を輪姦。さらに翌日、抵抗した慰安婦を米兵が絞殺するという事件が起こり、開業二日目で閉鎖された。開業後の慰安所では、どの部屋からも男たちの笑い声と女性たちのすすり泣く声が聞こえていた。精神を患う慰安婦、自殺する慰安婦も少なくなかった。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦され、9月5日には神奈川県の女子高校が休校処置を執っている。しかし、9月19日にはGHQがプレスコードを発令、以後は連合軍を批判的に扱う記事は報道されなくなった。
 武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2〜300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦されている。その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の占領軍兵士による日本人女性の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角に過ぎない。

 1946年11月15日には池袋で、MPと日本の警察により、通行人であった女性たちが無差別に逮捕され、吉原病院で膣検査を強制された板橋事件が発生。女性のなかには日本映画演劇労働組合員だった女性が含まれており、同組合は抗議運動を展開し、新聞などでも報道され、加藤シヅエら議員もGHQに抗議の手紙を送っている。
 抗議に対してMP側は「狩った女たちをどんなふうにしようとこっちの勝手だ。それに対してお前たちは抗議などできない」と高飛車であった。しかし日本映画演劇労働組合も果敢に闘い、女性を救い出している。

追記 戦後の国内においてさえ、政府の非人間性、ましてやアジア諸国における日本軍が、いかに高飛車であり残忍であったかを想う。元警視総監・坂信弥が「あれはあれで日本女性の貞操の危機を救ったんだよ」と言っている。不貞不貞しいにほどがある。戦争を始めたことに根源的な責任を彼らは感じない。それ故彼らを国民の手で、戦犯法廷に立たせ裁き全ての公職から追放しなければならなかったのである。 

抑圧者は自由な知性を恐れる

ピノチェト軍事政権下チリにおける焚書・1973年
笑いながら記念写真を撮る神経を恐ろしいと思う
  ハンセン病療養所には、全く不可解な「処分」があった。伝染力が強く「ペスト並み」に恐ろしいと国民に吹聴して絶滅するまで患者を隔離した筈だった。だが、患者が「アカ」くなると、人気のない海岸や河原に捨てたのである。追放された患者は少なくない。ハンセン病療養所以外での治療は禁じられていたから、追放されれば病気は恐ろしく伝染して大騒ぎになるはず、少なくとも隔離主義者はそう考えて当然。にもかかわらず、患者を組織してを主張したり、世間へ訴えたりする可能性のある者は「追放」した。ハンセン病隔離を主張する者たち自身が、伝染の危険性を信じていなかった何よりの証拠である。

 昭和23年(1948)当時、私は患者自治会の青年団長になって活動を始めていた矢先だった。
 九州帝大法学部を出たAさんという現職の検察官が患者として入所して来たのは、その頃のことだった。十歳ほど年上だったろうか、Aさんは療養所の生活を
 「憲法に照らして間違いや違反が多い。許されることではない」と言って、宮崎松記園長の所に直談判に出掛けて行った。私にとつては園長室に行くというようなことは途方もないことでびっくりしたが、Aさんは宮崎園長に
 「園のやっていることは憲法違反だ。まったく間違っている」
と何度も主張したらしい。
 その翌日、Aさんは園長から「あなたの病気は心配なくなった。斑紋さえ切り取れば退所してよい」と言われ、右の腕だか左だったか、斑紋の部分を切除する手術を受けて、恵楓園にはわずか二週間ほどいただけで出て行った。当時としては、とても考えられないことだった。
 退所する前にAさんは私に、戦後新しい憲法が出来たこと、憲法は最高法規であり、憲法に抵触した法令は無効であること、さらに新しい憲法には基本的人権が保障されているこせなどを青年団の詰め所で、詳しく教えてくれた。そして、去る前には五、六冊の憲法に関する本を「あなたに差し上げます」と置いていってくれた。その本を私は貪り読んだ。戦前の憲法を私はよくは知らない。新憲法を初めて読み、前に見た「らい予防法」が明らかに憲法違反であることを初めて、そして、はっきりと自覚した。        ハンセン病療養所菊池恵楓園 荒木正

 収容後、誤診が判明し療養所を去る例はあった。誤診なら退所も正式だろう。1961年多磨全生園「収容患者移動表」には、開園以来累計患者数6816名のうち非癩71名とある。百人に一人は誤診だったことになる。しかし1952年も71名である。少なくともこの10年間、誤診は多磨全生園ではなかった訳である。この検察官の場合が誤診であった可能性は零に近い。また再検査の結果が僅か一日で出るだろうか、斑紋切除を治療とは言い難い。これは密かな追放である。

 A氏が患者集団の一人として闘えば、隔離する側には未経験の脅威になる。らい予防法を憲法違反の視点から指弾するのは、1998年「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟までない。50年分の破壊力が秘められていたことになる。
   癩業界にとってその危険性は 「ペスト並み」どころではない。A氏が在園する限り、「園のやっていることは、憲法違反」の声は、権力内部専門家のお墨付きで全国に伝播するだろう。
 既に憲法は入園者の共通財産、闘いの武器となりつつあった。
     拙著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊、より引用加筆


 1942年、泥沼化する中国との戦争に苛立つ日本軍大本営が、計画的に行った、シンガポール(日本軍は昭南島と呼んだ)における虐殺事件があった。日本軍憲兵隊は2月19日、シンガポール青壮年男子の華人に、市内数カ所への集合を命令。「昭南島在住華僑18歳以上50歳までの男子は21日正午までに指定の五つの地区に集合すべし」(日本軍司令官布告)この最初の3日間の大検証は、第1次粛正と言われるもので、3月上旬まで第3次粛正と3回続いた。この3回にわたる「大検証」(粛正)で、在シンガポールの華人約5万人が殺されたと言われる。
 その対象は、「元義勇軍兵士・共産主義者・略奪者・武器を隠している者」とは名ばかりで、「学校教師・新聞記者・専門職・社会的地位のある者」のほか、「小学校以上の学歴所有者」「財産を5万ドル以上持っている者」なども含まれ、実際は、日本軍に犯行を企てる可能性のある知的要素のある者全てという、恣意的なものだったという。



追記  都立大学の文系学部学科を潰して、首都大学東京に再編したのも、現政権が国立大学人文・社会科学系部門を縮小しようと画策するのも、かつての「ハンセン病療養所」における追放と同じ狙いがある。国民を、社会的・歴史的・経済的諸現象の実態や真実から隔離して、都合のいい愚民に仕立て上げたいのである。

辞めることも、続けることも許さない理不尽

 悪質な企業は、労働者が辞めることも許さない、働き続けることも許さない。1973年~2001年まで続いた必修クラブに、この理不尽の起源を見ることが出来るだろう。高一から必修クラブにドップリ浸かった若者が大学を卒業して、企業で発言権を持ち始めるのは90年代だろうか。92年バブルがはじけ、90年代半ばには就職氷河期が流行語になった。ワタミが和民を展開し始めたのが92年。ウェザーニューズが親会社を買収したのは93年、ユニクロ東証上場97年。いずれも体育会系を名乗って憚らない企業である。労組をつくるのではなく肉体的に耐えてしまう文化は、辞めることを恫喝して辞めさせない部活に始まる。校内暴力に悩む中学は格闘技の体育会系学生を採用、85年度 暴力教師による生徒の怪我が激増して都内全体で43件。ヤクザ風の掟が先ず中学につくられた。


 「野球部の生徒は、何をしていても、教師を見かけたら直立不動で「こんにちは!」と言わなければならないことになっているらしいです。僕が「あいさつはいいから練習を続けていいよ」などと言うと、生徒は変な顔をします。そんな反応をするのは僕だけなのでしょう。軍隊のような規律を生徒に課すことを、ほとんどの教師が疑いもなく受け入れている状況で、僕はどうしたらいいのか」  「K高校体育科出身の若い先生が、「うちはもっとすごかった。体育科の下級生は、先生や上級生と廊下ですれ違うと、すれ違った人数分だけ『おはようございます!失礼します!』と言ってから通り過ぎなければならなかった。もし10人の先輩とすれ違ったら、先輩たちが通り過ぎてしまっても、『おはようございます!失礼します!』を10回言い続けなければならなかった」と言っていました。同じ上級生でも、普通科の生徒とすれ違ったときは、あいさつしないんだそうです。これはほとんど漫画です


 駅前の商店街を抜けたところに位置する高校に赴任した、若い教師の悩みである。

 1980年代までは、教員が校庭を通ればクラブで練習中の生徒たちは、てんでんバラバラに手を振ったり名前を叫んだりしていたものだ。風景が一変したのは、校内暴力対策に大学体育会格闘技系クラブ出身者を教育委員会が採用し始めてからである。生徒の逸脱に手を焼いて、学校が暴力で生徒を制圧するようになったのだ。同時に体育会的人間関係が持ち込まれ、年齢を超えた友情関係が、先輩後輩という身分関係に書き換えられていった。挨拶は部活の管轄となり、教師は「毅然とした指導」と言う言葉を乱発、殴るようになる。知性を失ない、生活指導部自ら暴力の虜になった。集会でも生徒処分でも体育会系的手法が巾を効かせるようになった。一度始めたら歯止めがきかない。集団になったとき判断を棚上げする訓練が学校に充満する。それは少年も教師も東電も変わらない。
 もし繁華街の人混みで野球部員が寄って来て穏やかに「先生こんにちは」というのであれば、それは親しみを込めた挨拶だろう。彼は、部以外の生徒たちや地域の仲間といるとき、または学校を離れて一人の時でも直立不動で「こんにちは!」と言うだろうか。野球部という集団に取り込まれているとき、「直立不動で「こんにちは!」」と言うのではないか。個人のマナーの代わりに集団の掟を置く。ある大学の学生たちが、長めの学生服姿で駅の構内や電車の中でも、直立不動で「オッス!」をやって住民の顰蹙を買ったことがある。自分たちの独りよがりな掟のためには、市民の生活日常は目に入らなくなる。かっこいいとさえ錯覚する。日本侵略軍のアジアにおける秩序である。インテリまでが、こうしてアジアの人殺しとなった。捕虜となり何年も収容所で過ごし、初めて敵国人にも母があり家族があったことに愕然とする。
 自らの判断力・意志を捨てて、集団の掟に没入することの「美」を田辺元は若者に植え付けたのだ。冒頭の野球部はそれをやっている。挨拶は、個人の価値観で個人の意志でやってこその親しみであり敬意である。部活が、戦後民主主義精神を根こそぎにして打ち枯らそうとしている。「挨拶」「そろって」「元気よく」教師の好きそうなことだ。人間的感情は、だらしなさの中にある。
 たとえ練習中であっても、「教師を見かけたら直立不動で「こんにちは!」と」叫ぶ。であれば彼等は、野球が好きだったり夢中になってはいない。夢中であれば通りがかりの教師に気付く筈がない、たとえ気づいても目礼がせいぜい。緊張がとぎれてしまう。集団に依存して意志を捨てた状態に中毒している。野球部の代わりに、会社・カルト・ヘイトスピーチ集団・ヤクザ・・・・を入れてもいい。
 国民全体が一つの集団に擬せられた時、どのような光景が日本に広がったかを思い起こさねばならない。その全体主義的傾向に抵抗できたのは「不良」生徒学生であった。
 「結束」「集団」「秩序」「整然」等という言葉に、教師は依存したがる。それが万人の価値だと錯覚するからである。 既存の秩序に抵抗対抗する精神を育むことなしに結束を「指導する」のであれば、民主教育の言葉を捨てねばならない。いつも負ける、それでも正々堂々とplay して楽しめる、その覚悟・精神がなければ「連帯」することは出来ない。

“子供のために投票しよう”キャンペーン“がペルーて行われた2006年

Vota por la Niñez-campañas anteriores
“子供のために投票しよう”運動は、「ペルー働く子ども・若者全国運動」(MNNATSOP)と学童市議会の活動の一つである。
 キャンペーンの目的は、2006年度の
大統領、国会議員、県知事、及び市長選挙の立候補者に対して、子供たちのことを十分に配慮した政策を提案するよう要求することである。特に、大統領選立候補者に対しては、子供たちが抱える問題に対する解決策の早期立案を誓わせようという狙いがあり、それに併せて投票権を持つ大人に訴えることも焦点に据えた。

 ナソップ運動と児童市議会メンバーは、各県でキャンペーンを展開。国会議員立候補者やメディア関係者に向けた集会などを開催し、政府の政策立案者との議論の場を設けるなどした他、様々な行政機関を訪れては、子供たちが抱える問題を訴えたという。

“子供のために投票しよう!”キャンペーンの一環として、ペルー各都市の広場で市民との対話の場を設け、子供たちが抱えている問題を市民がより明確に理解できる機会も設けた。キャンペーンスローガンを掲げて街中をデモ行進するして、投票者が子供たちの問題により具体的な解決策を提案できる候補者へ一票を投じてくれるように呼びかけた。結果として7名の大統領候補者及びその代理人が、ナソップ運動が作成した以下の誓約文に対して署名した。

誓約文
1  子供に関する政策の作成や決定の際には、子供たちが積極的に参加する権利を認めること。
2 国家や社会レベルまたは家族内で頻繁に繰り返される、子供に対する精神的、肉体的虐待に対する解決策を早期に提案すること。
3 子供のニーズを真に満たすことのできる公教育の場を提供すること。特に、教師の再教育、及び教育部門に対する公費の大幅増額を要求する。
4  働く子供たちの権利を保護し、彼らに対する相応の社会保障を確約すること。
5 栄養不良状態にある子供たちに対して、無償の食事提供プログラムを開始すること。国内に現存する栄養不良問題全般を早期に解決すること。
6  児童の性的搾取に対する予防、撲滅に努めること。

 ペルーには、Movimiento Nacional de Ninos, Ninas y Adolescentes Trabajadores Organizados del Peru 「ペルー働く子ども・若者全国運動」←クリック がある。

 1970年代末、ペルーは深刻な経済危機に直面。多くの子どもたちが、苦境にある家族の収入を補うために様々な仕事をせざるを得なくなった。 1976年発足のMANTHOC(マントック : 解放の神学派神父、働く子ども、労働者の子弟たちによる運動)を母胎に1996年自立。ペルー国内の働く子供たち自身の運動体として「ペルー・働く子ども・若者全国運動 MNNATSOP(ナソップ運動)」が結成された。
 ナソップの特色は、子どもを保護指導すべき客体として扱うのではなく、社会における不可欠の主体と見なすプロタゴニスモ(主役主義)にある。6、7歳から17歳までの子供たち自身が全国的な運動体を担っている。
 彼らは、働く子供たち自身が、何故働かなくてはならないか、子供たちが働かなくてはならない社会をどう変えていくべきかを討論している。それぞれのメンバーが住んでいる地域の子供たちとさまざまな機会を作って働く子供たちの抱える問題を認識するための話し合いを行っていく。ゆったりとした、しかし忍耐強い運動体だ。

 14歳のリサンドロ君は、「働く子供たち」問題の若き論客として知られ、ラテンアメリカ、ヨーロッパの子供たちの集会、会議にたびたび招待される。
 リサンドロは、「チェは銃を持っていたけど、僕らは持っていない。社会システムは変わり続けていると思う。一番よい革命の方法は、知恵を使って他の人を傷つけないやり方だ。チェは一人の主役を考えたのでなく、集団として主役である社会、人の上下がなく全員が重要であり、経済的理由で差別されない社会を目指し考えた人だと思う。僕らのプロタゴニスモの考えと共有できる」と考え「人はただ単に働くのでなく社会の中で果たすべき責任がある」と仲間たちに伝えたいと訴えている。
 また 13 歳のリサンドロ・カセレス・ゲバラは、自らが働くことについて「(児童労働がなくなるとよいという意見について)―あまり賛成できません。僕はペルーが経済的に良くなっても働き続けます。働くことは権利です。自分たちがただ何かを求め、お願いする存在ではなくて働くことで自分たちの存在や尊厳を守りたい。誤解されているようですが、自分たちは危険な仕事や強制された仕事を拒否し、尊厳ある仕事をしたいのです」と胸を張る。

  ナソップ運動において、大人はあくまでコラボラドール(協力者)という役割に徹する。
“子供たちと共に”活動をより活気あるものにし、“子供達と共に”運動に参加する存在であり、運動における子供達の主体的立場に成り代わることはない。重要な点は、コラボラドーレスは子どもたちから選ばれていると言うことだ。

   ペルー国内の働く子どもの数は2006年の時点でおよそ217万人。これは6歳から17歳の子ども人口710万人の約30%にあたり、都市部で暮らす子どもの5人に1人、農村部で暮らす子どもの5人に4人がなんらかの形で働いていることになる。

  このほかにMNNATSOPが、多くのことに取り組んでいる。マイクロ・ファイナンス・プログラムもその一つ。
 働く子供たちがコラボラドーレスと共に物の売り買いについてのノウハウを学び、実際の生活の場に生かしていくことを目的とした取り組み。
  国連・子供の権利委員会による政府に対する勧告内容の普及活動も欠かせない。
 また、日本国内ではあまり知られていないが、作家永山則夫は印税をナソップ運動に託した。この資金はナソップ運動事務所建設にも使用された。永山則夫は働く子供たちと共に生き続けることになった。働く子供・青少年の教育機関であるINFANTはINFANT-NAGAYAMA NORIOと名付けられている。 

注 プロタゴニスモとは、ペルーにおいて60年代後半より始まった一連の政治改革の中で生み出された、民衆組織による「主体的」、「自立的」参加を社会変革のための重要な要素として推進する立場を示す言葉。
 この精神は、70年代半ば以降に誕生する働く子供達の組織(マントックやナソップ運動)にも引き継がれている。子ども達は運動の経験を通して、プロタゴニスモの定義が及ぶ範囲を、社会変革への主体的参加を提唱するだけの言葉から、政治的な場面に限らず、日常生活においても、社会の行動主体として相応しい人格や行動を身につける必要性を唱えた言葉へと発展させている。働く子どもたちはプロタゴニスモをみごと、再定義したのである。

追記 日本の高校生が、選挙公報の真偽の確かめようのない情報のみで、投票ごっこをさせられるのに比べれば、ペルーの働く子どもたちの行動は、質の高い本物の政治活動である。

人びとが集って議論する郷校は私の先生だ。それを潰すことはない。

高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない。
鄭人游于郷校、郷之學校。以論執政。論其得失。
然明謂子產曰、毀郷校何如。
子產曰、何爲。夫人朝夕退而游焉、以議執政之善否。其所善者、吾則行之。其所惡者、吾則改之。是吾師也。若之何毀之。我聞、忠善以損怨。不聞作威以防怨。
豈不遽止。然猶防川。大決所犯、傷人必多。吾不克救也。不如小決使道。 『春秋左氏伝』

 鄭の人びとは郷校に集って、よく政治を議論した。
 然明が鄭の大臣・子産に、こう言った。
 「郷校を潰したらどうです」
 子産は応えた。
 「どうしてだ、人びとが朝夕暇なときに集って、政治の善し悪しを議論する。私は、彼らが善いと言う政策を行い、悪いと言う政策は改める。だから、郷校は私の先生のようなものだ。それを潰すことはない。良心と真心によって民衆の怨みを緩和するという方法は有るが、高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない。川の流れに嘗えを取れば、無理やりにせき止めようとすると、一時的に流れを止めることは出来ても、やがては大決壊が起こる。高圧的な態度を採るというのは、そんなものだ」

   『春秋左氏伝』は孔子編纂と伝えられる歴史書『春秋』の注釈書、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。

  1970年代、愛知県に「三校禁」なる掟があって当時の県立高校長会会長は
 「それは事実、三校以上の交流はやらせていませんね。極端に言うと二校もいけない。先生がついていればいいけど」と応えている。その根拠をこの校長はこう言っている。
 「新聞とか文芸とか放送とか、仲間に訴えるような手段を与えると、日共系の組合の先生が牛耳ろうとするんです。ワシが旭丘の校長でおったときに、組合とはサンザンやり合ったが、ちっともいうことききよらん。あいつら、人間じゃねえや」(宇治芳雄著『禁断の教育』汐文社) 
  彼にとって、自分の意に添わない者は人間ではないのである。生徒も集えば、不満を言い合い反抗的になると考えていたのだ。「郷校」のように生徒も教師も自由に集って、学校のあり方の「善し悪しを議論する。私は、彼らが善いと言う政策を行い、悪いと言う政策は改める」よう思いを巡らすことはないのだ。憐れである。対話する楽しみや喜びを求める精神もないのだ。支配する者と支配される者の関係だけである。
 彼も公務員になるときに、憲法を守る旨署名捺印したはずである。
 そして今、職員会議は議論の場でもなく、決定の場でもない。はじめ校長の権限を職員の多数決から守る処置であるような説明をしていた。しかし校長が、職員の決定を尊重すると言う意思さえ認めないために、多数決そのものを禁じてしまった。つまり校長の権限そのものさえ奪われたのである。行政の末端として、上からの決定を伝える伝声管と成り下がって恥じない。学校から議論は消えたのである。
 孔子が注釈した紀元前の鄭の状況に及ばないのである。
 「郷校は私の先生のようなものだ。それを潰すこはない。良心と真心によって民衆の怨みを緩和するという方法は有るが、高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない」
 自分が校長として判断したことが、正しいか間違ってるか、皆からどう受け取られているかなどを、気にかけない。 それは教師でないだけでは無く、生きた人間ですらない、意思を持たない驢馬に過ぎない。そんな存在であることを恥じる精神も持てない、生徒から軽蔑されていることにも気づかない。
 正邪の判断の出来ない驢馬がすることが出来るのは、ただ命じられるままにすることだけである。今の校長に、『春秋左氏伝』を読んだことがあるかと問いかけて、対話が始まる一縷の望みもない。

 ゲバラが1960年、医療関係者に語ったことが想い起こされる。
 「今日われわれが実践すべきことは、連帯なのだ。「ほら、来ましたよ。慈善を施すために来てあげましたよ。学問を教え、あなた方の間違いや教養のなさや基礎知識のなさを直してあげるために来たのですよ」などという態度で、人民に接するべきではない。人民といぅ、巨大な知恵の泉から学ぶために、研究心と謙虚な態度をもって、向かうべきなのだ。・・・われわれがまずやらなければならないことは、知識を与えに行くことではない。・・・ともに学び、・・・偉大で素晴らしい共通体験をしたいという気持ちを示すことである」

 高校生も含めて、若者たちの中にゲバラに惹かれる者は少なくない。「三校禁」以降の「高圧的な態度」が、その流れを準備し「川の流れに嘗えを取れば、無理やりにせき止めようとすると、一時的に流れを止めることは出来ても、やがては大決壊が起こる」に違いない。
 問題は、青年がゲバラのように建設的な未来を指向するのではなく、弱者への弾圧と破壊に向かう可能性が現実となりつつある事だ。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...