四谷二中 2 不思議な共存

 小学校卒業が迫ると、「二中はやめたほうがいい」と近隣の大人たちのお節介が始まった。 二中はガラが悪い、不良
これよりはるかに汚い飲み屋街を
抜けると、通りを挟んで二中の正門があった
が多い、ヤクザの子どももいる、喧嘩カツアゲが絶えないと、良い噂はなかった。校区内に歌舞伎町があり、林芙美子が一時身を沈めた都内有数のドヤ街旭町も近く、正門前の道を渡れば赤提灯の並ぶ飲み屋街であり、そこを抜けるとストリップ劇場や四谷大木戸開設以来の岡場所の流れをくむ青線まである。絵に描いたような「非教育」的環境。周辺の電信柱には万遍なくストリップ劇場のポスターが貼られ、男子生徒はズックの肩掛け鞄を前に回さねばならなかった。

 対して、四谷一中は道を渡れば迎賓館と東宮御所、南には学習院初等科、東に外堀を渡れば上智大学。比較にならない。校舎も雲泥の差。お陰で四谷第四小学校同級生のうち女子半数は私立か越境を選んだ。男子も若干は越境した。
 だが僕には越境という選択が、浅ましい不正に感じられ、頑固に二中に進学した。自由とは選ぶことではないとの、漠然たる思いがあった。
 入れば意外なことに、二中は小田急線・京王線随一の越境入学者受け入れ校でもあった。小田原から通っている生徒もいた。そればかりではない。二中の文集『静思』には
 「岐阜、大牟田、北海道などからも来ました。恐ろしい勢いでした」との二代目校長(在任1955~1959)の証言がある。(『静思』1968.3 創立二十周年記念号)
  校区内の子どもは二中を嫌って他校に越境するのに、遠くの連中は越境して押し寄せて来る。全く妙なことがあったものだ。
 当時の学力分布を推し量る資料が残っていれば、興味深いものになるだろう。正規分布曲線状に弧を描くのではなく、偏差値の高い部分にも大きな山のある、二つこぶ。先生たちは成績を付けるのに悩んだに違いない。しかし、先生たちの泣き言を聞いた覚えはない。能力別編成が試みられることもなかった。大きな学力差に見事対応して、授業が破綻することはなかった。
 今、格差を口実に、公立小中学校の選択制が実施されて既に破綻し始めているが、当たり前である。大いに異なる雑多な、それでいて自由な関係が、少年少女の感性や知性を豊かに育むのである。時には痛い悲しい思いをすることがあるとしても、それを補い修復するのも、雑多な関係なのであった。

 西隣りに新宿高校、北にしばらく行けば戸山高校、当時両校とも百人以上を東大に送り込み人気が高かった。御苑と外苑を挟んで青山高校があった。不思議な教育環境であった。二中の都立高校合格率はいつの間にか高くなり、噂は京王・小田急沿線に広がっていた。校区内小学校卒業生のうち女子のかなりが、私立に進学したため、男女比は男子2に対して女子1と歪であった。フォークダンスはやれない。
 一学年の学級数は十を超えていたが、校庭は狭く50mの直線コースさえとれなかった、体育館もプールもなかった。クラブ活動も週に一度だけ、それも他のクラブと文字通りぶつかりながらやらねばならなかった。それを補うように、ヒマラヤ杉の鬱蒼たる森があって隣の新宿御苑に続いていた。古い地図を見れば、元々新宿御苑の敷地であったことが分かる。だから校門に続く塀沿いも、大きなヒマラヤ杉が残っていた。お陰で真夏も、いい香りに包まれて涼しかった。 
 先生たちは申し訳なさそうに、「体育館は何とかしたい、待ってくれ」、「ブールは近くの小学校と交渉している」と言う。生徒は「なくてもいいよ」「ないほうがいい」と答えていた。強がりではない、雨が降れば体育は自習になる。ブールがなければ、水泳後の猛烈なだるさや体に残る塩素臭から解放されるからであった。
 激しい雨が屋根を打ち壁や窓を鳴らせば、自習で騒がしい教室のお喋りを封じ込めて心地よかった。長く降ると教室も廊下も雨漏りしてバケツが並べられ、机はずらさねばならなかった。
 図書館と職員室付近は、通りから見えるのでモルタル化粧してあったが、薄汚く剥がれ落ちていた。修理されたのをみたことはない。何もかもがおんぼろだったが、越境入学は減らなかった。               つづく

上水の隠者 1

 日本に似てマスゲーム好きで将軍を敬愛する某国、 「「公式行事での姿勢が悪い」と副首相を処刑」のニュースに、K君を思い出した。彼は極度の照れ屋で、対面すると目を合わせることが出来ず、斜に構え視線をずらす癖があった。教頭の訓戒を受けているときも斜めを見ていた。
 「人と話すときは真っ直ぐ相手を見なさい」と訓戒が終わった後も説教が止まらない。教頭は担任の僕に苦情を持ち込む。
 「K君は恥ずかしがりです、分かってやったらどうです」そう言うと
  「これは指導拒否の現れです」とムキになる。
 気に入らないときは、些細なことが許せなくなる。些細ということにも気付かない。終いに姿勢の悪さは国家反逆の表れと見なされ、某国副首相は処刑されたのである。国家における反逆罪と学校に於ける指導拒否対応は相似ている。

  K君と話すときは、横向きに並んで腰掛け、一緒に遠くの景色を見ながら話すのがよかった。だから屋上に鍵をかけてはいけない。屋上緑化するなど予算請求折衝に励むために、管理職はある。ペスタロッチがガラス片を拾ってポケットを一杯にしていたエピソードを、彼も教職課程で耳にしたはずだ。屋上を開ければ、たばこが増えるという。タバコの吸い殻があれば自分で拾えばいいのだ。 
  M校長は毎朝、玉川上水駅から学校まで歩きながら吸い殻や空き缶を拾った。帰りも同じことを黙々とただ一人、定年退職まで欠かさなかった。教員や父兄の中でこれを知らない人は多い。校内でも暇を見つけては火ばさみと袋を持って回った。その姿を見て先生を用務員さんだと思いこんでいる生徒もあった。
 雑務の傍ら、数学の授業を週に8時間持つことも譲らない。M先生にとって毎日教壇に立ってこそ教師なのであった。授業から離れる立場の校長になったことを、「騙された」と心から悔やんでいた。
 「校長は行政の末端だ、教委から授業を禁じられている」と妙なことを言って、胸を張る校長が蔓延りだしていた。授業を続ける校長は都にも数人という惨状であった。今はとっくにゼロだろう。教頭でさえ授業をしない。おかしなことだ。教頭とは文字通り head teacher だからだ。そのせいか、いま教頭を副校長と呼んでいる。札幌農学校のクラーク先生を副校長と呼んだら締まらない。
 ペスタロッチの名を講義で口にするたびにM先生を想った。風貌と所作はまさに隠者の語が相応しかったが、社会的行動には積極的で、学年やクラスのPTA懇談会にも積極的に参加して、父母の話に直説耳を傾け、退職後も統制管理に走る教委を批判する声明に名前を連ねた。数学教育協議会の会員でもあった。

追記 曾て都立高校では、教頭(当時は主事と呼んでいた)への信任投票があった。信任を得た者だけが残り、その彼が校長試験を受けていたから、それなりの教育者が校長になることが多く、悪くとも、置物にはなるといわれたものである。
 教員の採用にあたって、最終判断を生徒たちが実際の授業を受けた上でする学校がある。この話を聞いたとき、ある教科では、誰も信任を得られず、三年間教師が決まらなかったらしい。いい制度である。

弱さという美徳

働く子どもは姿勢が美しく表情が優しい
 人らしい美しい姿勢や生き方を維持するには、力を忘れる必要がある。小さな子どもが立つ姿が無理なく美しいのは、彼らが弱いからである。年老いた老人が、夕陽を前に佇む姿も美しい。筋力も富も地位も無いからである。
 木村伊兵衛が、1950年代の八百屋店先を撮った画像がある。看板の電話番号に城東とあるから東京である。下駄履きの主婦たちが夕餉の買い物をしている。中に子どもを負ぶった主婦二人が写っている。一人は三歳ぐらいの男の子を、もう一人はまだおむつの女の子をそれぞれ背中に乗せている。男の子は上半身をまっすぐ立て頭を周囲に興味深げに巡らしている、母親の上体は起こされ、自由に動いている。女の子はすっかり眠り体重を母親に預けて、お母さんは腰を折って辛そうである。
 力が無い者はバランスを大事にせざるを得ない。だが人間というものは成長と共に力が付くと、勿体を付けることを覚えてしまう。肩で風を切りふて腐れ斜に構えて拗ねてみせる。格好悪いだけではなく、本人も疲れる。弱ければそれをバランスで補う必要がある。正しい姿は美しいだけではなく楽でもある。
 学校では、教員が若い力に満ちて姿勢が傲慢に崩れ易い。生徒の訴えにも無頓着、それが「なめられない」強さだと思っているらしい。力で押し切ることが管理上期待されたりもする。小児科の毛利子来医師によれば、上越市には60歳前後のおじいちゃん先生がいて、子どもたちに大もてだという。(『たぬき先生のげんこ』金曜日)それまでの職歴を生かして、ということらしいが、力が衰えたということも重要だと思う。力が衰えるに従って職歴も生きる。子どもの話にも耳がむく。ついでに欲も無くなって生きる姿勢自体に無理がない。年老いた農夫の、鍬を扱う姿は力が抜けて、美しいのである。それは子どもから見れば、格好いいに違いない。

  柴田錬三郎が小説で講釈師に面白いことを言わせている。聞いているのは凄腕の巾着切り。

 「人、師無く法無くして知なれば、即ち必ず盗を為し、勇なればすなわち必ず賊をなし、能なればすなわち乱を為し、察なればすなわち怪を為す。・・・この文句をかみくだいて言えばだ、人間てえやつは、知恵ばかりすぐれて教育がないと、きっとコソ泥になる。勇気だけあって教育がないと、きまって人殺しをやる。才能のみあって、教育がないとかならず乱を起す。物の道理ばかり知っていて教育がないと、いとあやしげなふるまいをして人を惑すな。・・・これすべて、おめえのことを指して居る。 
・・・おめえは、まさに教育がない。無学野育ち、放埼無頼、おれは、五つ六つの頃おめえの人一倍の利発を見て、こいつをこのまま野ばなしにすれば、末は必ず遠島か礫、かるくても久離御帳外(江戸追放)とにらんで居ったが、果して・・みろ! 十九になるやならずで島送りの、このざまだ」「江戸群盗伝」p69

   強さに驕れば生きる姿勢は歪む、バランスを侮るからである。核発電業界、電通、大マスコミ、軍隊、情報機関、絶対多数与党・・・の幹部。彼らには「知恵」も「才能」もあり、「物の道理」も分かって「人一倍の利発」があったればこそ、これらの地位にある。だが、椅子にふんぞり返る姿勢や立つ姿勢は醜悪であり、言葉は乱暴か慇懃無礼、「あやしげなふるまいをして人を惑す」。「必ず遠島か礫」の実績・責任があるのに恥じるところがない。柴田錬三郎は、これら剥き出しの「力」を薫陶するのが教育だとしている。

 小学校しか卒業していない極めつけの不良少年鶴見俊輔を、美しい生き方に誘ったのはまさしく自由な高等教育であった。だが、希な例外である。大方が学歴を積む毎に、姿勢も言葉も怪しくなる。だとしたら、学校という制度自体が病んでいる。地位や富を排他的に獲得する特権的機構が、文化や教養の名に値するわけは無いからである。
  「人が人を食う社会」にも「人間を食ったことのない子どもたちが、まだいるかもしれない。子どもを救え」と魯迅は『狂人日記』を結んでいる。



追記  アルジェリア独立戦争、ベトナム戦争、キューバ革命。圧倒的な力を持つフランスやアメリカに、解放側が勝つことが出来たのは、武力に於いて自らが絶対的に弱いことを熟知していたからである。弱さを見つめて難産の末に生まれた闘う姿勢の美しさが、人々を結束させ連帯を組織したのである。


 水田で、急降下して爆撃しようとする米軍ジェット戦闘機の真正面に駆け込んで、ライフル銃を構える美しい農民女性の映像がある。片膝を立て肩に銃床をを置き、照準を合わせじっと待つ。戦闘機と弾丸の相対速度が最大になる刹那、小さな弾丸も爆発的破壊力を生む。だから戦闘機が機首をあげ、操縦士の顔が見える瞬間に引き金を引く。彼女は古タイヤ製のサンダルにシュロの編み傘姿である。貧しく気品に満ちた美しい姿勢であった。ベトナム映画『キム・ドン』50年前の記憶である。

こころの乱れと共謀罪

 「服装の乱れは心の乱れ」という標語が、学校の思考を凍結したことがある。凍結して痺れた頭で、心と外見を等号で結んで、生徒を取り締まり、殴ったのである。
 命題「服装の乱れは心の乱れ」が真ならば、その待遇である「心が乱れなければ、服装は乱れない」も常に正しくなければならない。心に乱れがなかったから、ナチは絶滅収容所を造り日本軍は731部隊を作ったことになる。何故ならナチ親衛隊や皇軍将校は服装だけは立派だったからである。カストロやゲバラの服装はよれよれ、ホーチミンや八路軍兵士の服装も粗末である。だから彼らの心は乱れていたことになる。しかし、よれよれで粗末な服装が、かえって彼らの志の高さを示していて、僕はかっこいいと心底思う。心と服装は、互いに独立している。服装はそれ自体として、心はそれ自体として考察しなければならない。そして我々教員がなすべきは、授業を通して尊厳ある市民を育成すること。その結果、自らの外見やこころを自立して判断する良識が育つことを期待するのであって、直接介入することではない。
 金田法相は、「衆院法務委員会で、「心の中」にある目的が捜査対象になることや、警察が目を付けた人物の知人が捜査対象になることを認めた」(東京新聞 2017.5.24 朝刊)
 我々は、こころへの介入に無神経である。他人のこころなら尚更であることは、「服装の乱れは心の乱れ」という標語の乱用が既に示している。かつて学校は、生徒の心を外見で推し量り殴った。共謀罪の恐ろしさは、権力がこころを捜査することを通して主権者の心と行動を操作することにある。警察の捜査は、ぶん殴る以上の効果をもたらすのである。今、国会の頭脳は「テロ」「北朝鮮」という言葉で痺れている。その頭脳を選ぶ我々の感覚は、株価と北朝鮮で痺れている。

体罰を止めさせるために

 「仙台市立中2年生が飛び降り自殺した問題で、同じ学校の教員2人が生徒に体罰を加えていた」という。体罰の報道は際限がない。決定的な対策は無いのだろうか。
 生徒が止めさせるのが、効果的だと思う。その例は昨日のblog にも書いた。(和解する教室   1-6でおこったこと)  該当部分を再録する。

  体罰する若い教師を追いつめて、謝罪させた女子生徒二人
girls are strong
を思い出す。大学卒業したての教師は、大学で「最初が肝心、なめられてはならない」と叩き込まれ、些細なことですぐ生徒をたたいた。そのせいか、この授業だけは静まりかえった。このクラスの小柄な女性担任は、すぐに抗議したが相手にされず悩み、僕は相談を受けた。どうしたものかと考えているうちに、また男子生徒が叩かれた。授業が終わるや、二人の女子生徒が廊下にとび出し、

 「なぜたたいたの」
 「たたくのをやめなさい」と教師の前に立ちはだかった。
 教師はスルリと逃げる。逃げる教師を二人は追いかけ、
 「卑怯者! 話をしているときは目を見ろと言ったのはあなたでしょ」と迫る。
 ついに職員室の前で捕まえ、言い訳を試みる教師に向かって、
 「でも、やめなさい」
 「つぎの授業で謝りなさい」と言い切った時には黒山の人だかりが出来ていた。体罰はそれ以降ない。
 ・・・数日後、彼女たちを見かけ呼びとめた、
 「えっ、なんのこと」と、もう忘れている。
 「ああ、あれね。だって先生、くやしいじゃない」
 「私も、△△君がたたかれていたとき、去年の先生の授業を思い出したの。そしたら、悔しくて、悔しくて、いつの間にか飛び出したら二人で追いかけていた」
 「先生、忘れたの? 去年の授業で尊厳って言ったでしょ、人間には誰にも奪えない人権があるって」 

  教員の管理を厳しくする・研修を強化する・報告させる・集会を開く・・・いつも同じパターンで対策が読み上げられる。そして体罰そのものは繰り返される。当たり前だ、対策は、それ自体を問題にして、当事者が反射的にやる必要がある。
  もう一つある。

 下町のリベラルな工高に、強制移動で乱暴な教師が転勤してきた。口癖は「この学校はあまい」だった。ことある毎に生徒を小突き、罵り、体罰を加えた。生徒も黙ってはいない。件の教師の下駄箱に食いかけの肉まんが捨てられ、靴が玄関前の池に捨てられる。(彼は対策を講じない生徒部に憤慨、職員会議で教師全体に対する生徒の挑戦だとして徹底的な管理を主張した。しかし、ある年功を積んだ教師が「他に同じような目に遭った先生はいますか。・・・いないようですね、だとすればこれはあなた個人の問題です」と釘を刺したのである)
 体罰教師の横暴に手をこまねく我々に、僕のクラスのm君が言った。
 「あいつは俺たちが怖いんだ。あいつに必要なのは友達だね。先生なってやりなよ」。彼は足立区全体の中学番長を束ねる猛者であった。
 僕はしばらく考えて、彼を担任にする裏工作をして、僕自身はそのクラスの社会科を担当することにした。
 案の定、生徒たちは担任に反発した。やがて僕に苦情を持ち込んだ。
 「何とかしてよ」
 「僕がやるのか、君たちがやることだな」
 「あいつ、生徒の話なんか聞かないよ」
 「いい手がある、試してみるか」
 提案したのは、この担任の下宿訪問。生徒は悉く激しく拒否した。当然だ。しかし、
 「これはよく効く、僕は何度も試してみたが、失敗はない。要点は、日曜日に予告なしに訪問する。喋ることが双方無いから、写真見せてと言う。自分の若い頃の写真を見せて、多弁にならないものは少ない。お茶をだし、菓子を買い、たぶん昼飯も出す」と説得した。
 経験した例を説明して、失敗して元々ということになった。工業高校では、三年間持ち上がりをする。だから付き合いは長くなる。
 「先生、失敗したら責任とってね」
 「失敗しないよ。二つ条件がある、僕が知恵を貸したことは絶対言ってはいけない。必ず予告なしに突然行く」
 効果はは直ちに現れた。休み時間に生徒が、件の教員に群がりじゃれつくようになったのだ。周りの教師もあまりの変わりように驚いた。以前ならたとえ生徒が来ても、用件を聞く前に
 「何だ、そのしゃべり方は」「制服はきちんと着ろ」
と説教だけで終わっていた。
 「生徒がこんなに頻繁に来たんじゃ鬱陶しいでしょ」とみずを向けてみた。
 「生徒は可愛いものですよ、先生」 m君の言ったとおり。件の教師の恐怖心を取り去ったのは、友達としての生徒自身であった。

 生徒の為を考えて振るわれた暴力は、体罰じゃないと考える者は、生徒にも親にも教師にもいる。
 大いなる誤解である、教育的愛情をもって涙を堪えながら振るわれるのが、体罰である。それ以外は、刑法上の暴力である。傷つければ傷害罪に問われる。だから体罰で腹が立ったら、医者の診断書は不可欠。
 だいぶ古いが、凄まじい体罰を振るう教師がいて、生徒を殴りながら、生徒が後ろに下がる毎に前進して殴り、遂に体育館を横切ってしまった。この生徒の社会科の教師は、先ず診断書を取らせ、げんこつによる体罰示談金の相場が一発十万円であることを確かめて教えた。再びこの生徒がこの教師に殴られそうになったとき、生徒は
 「・・・げんこつの体罰の相場は十万円。この前の時は20発だったから200万。殴りたかったら殴ったらどうだ、一発十万円」後ずさりしたのは、体罰教師の方だった。もう30年前のことだ。示談相場、今はかなり上がっている。確かめたほうがいい。
   学校教育法は第11条で
「 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」
と定めている
  教育行政がやるべきは、現場に報告を求めて統計を採ったり、詰まらない講習会に教師を動員したり、誰も読まないマニュアル作りに金を使うことではない。教師が自由に講義し、伸び伸びと生徒と対話できる環境を整えることである。 過労死レベルの労働時間を放置し、教員の短期的成果の点検に精を出せば、現場はゆとりを失う。自宅玄関先の花が咲いたのにも気づかない有様だ。気が短くなって体罰を振るいかねない条件を、わざわざ行政はつくっているのだ。

追記 信念と態度の複合を思想と定義すれば、暴力教師を追いかけて問いつめ教室で謝らせた二人の女性を支えたのが、思想だと思う。大の大人である教師が、偉そうに価値判断をかざして、しかしいざというとき隠れるように沈黙する。彼に思想を云々する資格はない。僕が、「教えている生徒の中に、我々より優れた者がいる」というのはこのことでもある。

和解する教室 臨時HRの50分

     Ⅰ
 興味深い出来事はいつも突然姿を見せる。だからいい授業やHRの記録はないのだ。過ぎた後、しばらくしてその価値に気付く。予め記録しようとすれば、不自然な演出や演技が生まれて「嘘」になり失敗に終わる。後日、生徒たちに確認しながら書いたのが、以下の記録である。入試では毎年定員割れの心配をする住宅地の都立高校。その晩秋の1時間である。

 一年生の臨時HR、司会はない。女子が六人、黒板を背にみんなと向かいあって始まった。
 「・・・私たち、みんなにいっぱい迷惑かけました。クラスの雰囲気も壊しちゃいました。私たち自己中だった。ごめんなさい、謝ります。・・・お願いがあります。私たちのいけない点をここで言って欲しいんです」 
 双方とも緊張してなかなか言葉が出ない。関係が疎遠になっていたのだ。
 「・・・陰でコソコソ音われるのって、いやなんです。・・・反省します。言ってください」最初の発言者を待ってクラス中が固唾をのんでいる。
 「・・・陰でコソコソ言われるのって、いやなんです。反省します。言ってください」 最初の発言者を待ってクラス中が固唾をのんでいる。


 「通路に勝手に私物を置くのはやめてほしい。ジャマなんだ」口火を切ったのは小柄で紳士的K君だった。
 「陰でコソコソ言うなって言ったけどさ、君達だって僕のこと、コソコソ言ってるじゃないか」司会が居ないから、おずおずと立ち上がって発言する。

 「遠足のときのわがままは許せないよ。みんなの前で一度も謝ってないぞ」

 一学期の遠足はクラス別、1-6は築地と浅草を散策した。六人は昼食を兼ねた市場見学後の集合に、「いまから食事する」と携帯で友達に連絡を入れて、30分も遅れた。集合場所のバスは既にいない。六人は地下鉄で次の集合地へ急ぎ、うな垂れ小さくなっていた。

 発言の間隔は長いが
、男子の批判が続く。
 「化粧がくさい」
 「昼休みのラジカセうるさい」
 「ドアを開けたら自分で閉めろ」 
 「教室はみんなのものだ、君たちはわがまますぎる」
 「P君に謝れ、言っちゃいけない事があるんだぞ」批判が次々とあふれ出て、六人は青ざめた。
 「そんなこと、私たちだけの責任じゃない」と六人組の一人が吐くように言うのを「それを言ったらおしまいよ」と押し止める小さな声も聞こえた。
             
 「僕も六人に嫌われて、いろいろ言われて、教室にいるのが苦しくなったんだ。休み時間には、授業が始まって先生が来るまで外に出ていたりした。・・・でもさ、悪いのは六人だけじゃないよ。僕にも反省しなきゃいけないことがある。彼女たちだけ責めるのは間適ってるよ」
 N君は授業やテスト勉強でも頼られて、一学期は六人からも人気だった。その彼も二学期には六人に露骨に嫌われた。優しかった彼女たちの視線であればこそ耐え難かったに違いない。チャイムが鳴っても廊下でうろうろする彼を何度も見かけた。
 「私、みんなの前でしゃべるのとっても苦手で、とろくて笑われるんじゃないかって心配なんです」 ひとこと一言をかみしめるように胸に手を当ててCさんが立ち上がったとき、僕はびっくりした。
 「でも今日は喋ろうと決心して学校に来ました。文化祭では無視されて辛い思いもしました。でも、聞いてください。あのー、六人がやってたことを私も楽しんでたんです。みんなも同じじゃないかな。六人だけが悪いわけじゃない。私も反省しなきゃ」
 Cさんは、文化祭で長時間かけて工夫した飾り付けを、六人に取りはずされ、精神的に失調し呼吸を乱し、病院に運ばれ以後しばらく登校できなくなったことがある。
 Cさんの発言でわかるが、この日のこの時間が臨時HRになるだろうとの予想はクラスに既にあった。臨時HRは皆の期待でもあった。発言の風向きが変わったが、発言は途切れない。

 「J子(六人の一人)たちの気持ち、よく分かるの。P君にきついこと言ったことも。私もね、いじめられたことあるから分かる。がんばって欲しいからこそ、そういう言葉が出るんだよね。悪気なんかないのよ」
 「でも、私が一番悪い。言っちゃいけないこと言ったんだから、謝ります。許してもらえないかもしれないけど」

 P君は九月転校生である、表情が気になって始業式を待たず面接した。
 「・・・いじめられるかもしれなくて・・・」 非道く脅えていた。
 「小学校でも中学校でも何度もいじめられ、自分を責めました。他人は誰も信じられない」小さな声で呟いた。クラスの連中は察して、P君をクラブや遊びや弁当に誘った。しかし、P君はそれにも戸惑う。特に女子に挨拶されたりすると、体がこわばる。それを見て、回りもどうしていいかわからず狼狽え、接触に二の足を踏む。言っちやいけない言葉「男のくせに、はっきりしないんだったら死んじゃえば」はこうした状況で投げつけられた。

 P君はHRの成り行きを教室の端っこで聞き、青ざめ、汗をびっしょりかいていた。
 「外に出るかい」と聞くと、小さいがしっかりした声で「いいえ、ここにいます」という。

 「私も、六人が音楽かけてたのを楽しんでたよ、いいじゃない、教室が明るくなって。それから、授業中うるさいのは六人だけじゃないでしょ」こう言ったのは、誰に対しても、ハッキリしたものいいのSさん。校内で平和運動の署名活動して、禁じようとする校長と堂々と論戦もした。

 入学間もないころ、クラスの生徒たちは「1-6の男子はいいよね」、「女子がかわいくて、面白い」などと、互いを気に入っていた。しかし、知らない者同士が40人も集まって、すぐにうち解けるのはどこかに無理がある。 夏休みがあけ、文化際の準備がすすむにつれて、「うちの男子って、サイデー」、「可愛くねー」、「△□君サイテー」、「○◇さんたちは許せない」と言いはじめた。中でも評価の落差が大きかったのはY君とN君。サイテーと扱き下ろされて教室に居づらくなっていた。 そのY君が笑みをたたえながら、ゆっくりとこう言った。

 「僕はねえ、たしかにいろいろあって、やっぱりいけないことだったと思う。だから、みんなから批判されてるんだ。でもね、僕は前の六人ともみんな好きだよ。これからもいっしょにやっていこうよ」六人を見ると。たちまち目の周りが赤くなって潤んでいるのがわかる。
 「あのさーなんて言うのかなァー、そうなんだよね、やっぱりさー」とみんなを笑わせながら、秋のHRを締めくくったのも、サイテーの類のH君だった。 絶好のタイミングでチャイムが鳴り、忽ち六人の周りには人垣ができた。
 「ありがとう」
 「とってもすてきだった」 
 「かっこいいよ」
 「テレビドラマみたいなことって、本当にあるんだね」・・・

 これが「1-6の50分」である。授業開始のチャイムに促されて教室に戻る六人の一人が「先生、ありがとう」と振り向きながら言った。それまでの50分間、僕はまるで忘れられていたことに気付いた。
 

  
  Ⅱ 

 コルチャック博士の孤児院では、子ども裁判の判決はすべて「許し」であった。和解では、批判のあとに対話・討論・妥協が続く。和解は「他者の中に自己を見ること」だからである。
 1-6の場合、そのきっかけは「サイテー」と烙印された「敵対者」によってもたらされている。教員の浅知恵が出る幕はない。少年の知恵や判断は、年の離れた大人に勝る。少年の成長を「指導」が妨げていないか。
 ともあれ他者は、再び仲間となった。それは一学期の復活ではない。互いのサイデーの姿が曝され、批判され、新たに評価され、新たな役割を期待される存在としてである。こうして、欠点を含めて、或いは欠点のゆえに、互いを認める関係が生まれる。六人の周りに出来た人垣は、類人猿のグルーミングに似ていた。我々は類猿人でもある。この日の午後、P君が、グループに混じって笑っているのを初めて見た。そして気が付けば、女子の挨拶にぎこちなく照れて、片手を上げて応じるようになっていた。自分を守る仲間がいることを、臨時HRで見たことが彼の世界観を根底から変えたのだと思う。考えてみれば、競争と懲戒に満ちた学校空間には、類人猿の過去から受け継がれてきたグルーミング=和解は非生産的まどろこしさとして排除されてきた。

 ことの始まりは何だっただろうか。六人が文化祭を仕切って(それ自体は遠足での失態を挽回しようとの意図があったのかもしれない)、自信過剰になったことだ。舞い上がって尊大になるのは、大人の文化人や知識人ですら避けられない。彼女たちの振る舞いは、同級生からも教員達からも顰蹙をかう。担任への眼差しが生徒からも教員からも険しくなった。
 授業中の気ままなお喋り、机の上に拡げげられた化粧品、机の周りに散らかされた私物、あからさまな陰口。その上六人のなかも小さな揉め事があって、家庭でももめる。彼女たちは四面楚歌、少しも気が休まらなかったのではないかと思う。P君への暴言があったのは、この頃。
 「早く、何とかして・・・」と訴える声は、生徒にもクラスの授業を担当する教師にも出ていた。しかし、僕は皆が問題を共有していないことが気になった。無関心な者も問題から逃げる者も少なくなかったのである。
 
 放錬後、彼女たちを待って立ち話をした。
 「どうして私たちだけなの。みんなやってる、私たちだって謝って欲しいことされてる」とむくれた。
 「うん・・・遠足のことは?」
 「あれは、・・・私たちが悪い。自己中だった」
 「・・・このままでいいかい・・・」
 「全然よくない、クラスがぎくしゃくしてる」
 「どうしたらいいかな・・・」
 「・・・時間ちょうだい、先生・・・私たちだけで話させて・・・考えてみる」 時間、担任の僕もそれが頼りだった。問題を全体が認識することが、解決の糸口である。現象の全体を認識するためにはどうしても時間がかかる。説教ではなく個人の内面から生まれる認識でなければ意味はない。
 こうして、彼女たちの話しあいが始まった。放課後の教室で、マクドナルドで、公園の木陰で、夜遅くまで話し合ったことを僕はあとから聞いた。
 六人とも気が強い、ときには激しい口喧嘩にもなった。意見を異にする者との間で、わかり合えそうもないことを伝え合うのが表現である。
 意見を同じくする者とだけ付き合うことは、アランによれば、狂信以外の何ものでもない。争いを避けて同調するのは、奴隷根性である。
 夕暮れの街角のテラスやベンチでハンバーガーやアイスクリーム片手にけんか腰で話しあい、議論で熱くなった頭を冷ましながら帰宅する姿を、僕は実に高校生らしいと思う。
 自分たちの属する社会を自分たちの手でよくしたいという熱気が、学園から消えたと論評されることがあるが、問題は依然としてこらえ性のない大人の側にある。熱気が籠もる前に、「無難」に解決する手際の良さが「指導」だと思い込んでいる。
 彼女たちの約一週間にも及ぶ長い討論の結論は、「とにかく、誰かが最初に謝らなくちゃ始まらない」だった。結論が出ると、彼女たちは、臨時HRのために 一時間下さいと要求してきた。
 時間は、人を追い詰めもすれば、事柄を熟させもする。成り行きを心配した何人もの生徒達から「先生、なんとかしましょう。私たちをあてにして」との申し出もあった。そして50分の臨時HRは始まったのだ。

 この臨時HRのあと、生徒たちが休み時間にも廊下や校庭に出ない日が続いた。「先生のクラスどうしたの、何かあったの」と怪しまれもした。僕は生徒が「先生も入ってよ」と言うのを聞いてじっとこらえた。
 教室の中では、休み時間にも話し合いが続き、色々な約束が交わされ、提案があふれていた。最後に席替えが提案された。不思議なことにそして当然のことに、皆が「前に座りたい」、「授業に集中したい」という。さまざまな意見があったが、「思いきって自由にしよう」との提案が採用された。気の合うもの同士がかたまって、机は少しも整然としていない。しかし通路は片づけられ、教室の空気は落ち着いて、授業への集中度は見違えるように増した。続く

           Ⅲ
 学校で共通の要求として自覚すべきは、生徒教師共に授業でなければならない。この要求が核になっていてこそ、平等な関係が教室に出現する。以前に戻ったのではない、そこにあるのは新しい関係。気ままな放縦で、お喋りや化粧をしてはみたが、それが自由では無いと気付いたのだと思う。やってみて懲りるのは、昔からのいい学び方である。「気ままな放縦」を禁じるだけでは「気ままな放縦」の魅力を高めてしまう。

 こうした時、教員側の授業そのものの改善が伴っていないのがいつも難題だ。それはやがて生徒たちの反乱をよぶことになる。揉めごとが生徒たちの中だけで調整克服されるのでなく、授業や教師の姿勢を含めた学校のあり方に目が向かねぱならない。揉めごとを通して、そこにふさわしい自前の「地域に根ざした」秩序が形成される。こうした「公」的民主的秩序は、虎ノ門の会議室や西新宿の椅子から画一的に作れるものではない。
 揉め事の基本は「不整」である。いろいろな人間が混じらなければ揉まれることもない。「公」も形成されない。偏差値体制が四十年も続くと、輪切りにされるのは「学力」ばかりではない。家庭階層・言葉と文化・交友範囲まで、みごと輪切りにされ、整然としている。揉め事の基本が、肝腎のところで断ち切られている。
 これは、社会科の教師にとっては致命的な隘路である。なぜなら、日々接する生徒・父母・市民の多様性とその自由の程度が、僕たちの知的な豊かさ・柔軟性を基礎づけるからでありる。「オレの授業は進学高並みだ」「僕のクラスは三年間、一人の処分も出さなかった」などという声が盛んな職場。多様な自由と揉め事の消えた学校は、ぼくらを退廃させている。
 二年生に進級して、授業ボイコットがあった。教員の多くは処分をほのめかしたが。僕は「抗議行動である、何故なら次の時限には全員が教室に戻り整然と授業を受け、抗議声明も用意していたのだから」と主張した。
 丁度ボイコットの一週間前、教育実習生がクラス全員に求めた感想文を入れた封筒が教卓上にあった。件の教員はそれを生徒に断りもせず開封。
 「・・・ふーん・・・○○先生のような先生になってください、か・・・」次の感想にも同じような部分がある。揶揄するように読み上げ続けた。感想とはいえそれは、実習生との信頼関係に基づいて書かれた私信でもある。
 「いい加減にしてください、勝手に読まないで」Sさんは我慢ならず叫んだという。クラスに蓄積された件の教師へ不満は頂点に達し、ボイコットに及んだのである。不満とは授業の中で生徒が人として扱われていないことであった。抗議声明は、件の教師の授業で読まれた。
 「私たちには誰にも奪えない尊厳があります・・・ コルチャックを知ってますか・・・ 学校で一番えらいのは教師ではありません、生徒です・・・」 生徒たちが一行ずつ書いたという。


 体罰する若い教師を追いつめて、謝罪させた前任校の女子生徒二人を思い出す。大学卒業したての教師は、大学で「最初が肝心、なめられてはならない」と叩き込まれ、些細なことですぐ生徒をたたいた。そのせいか、この授業だけは静まりかえった。このクラスの小柄な女性担任は、すぐに抗議したが相手にされず悩み、僕は相談を受けた。どうしたものかと考えているうちに、また男子生徒が叩かれた。授業が終わるや、二人の女子生徒が廊下にとび出し、・・・ついに職員室の前で捕まえ、言い訳を試みる教師に向かって、
 「でも、やめなさい」
 「つぎの授業で謝りなさい」と言い切った時には黒山の人だかりが出来ていた。体罰はそれ以降ない 当日研修して不在の僕は、ことの顛末を翌日伝え聞いた。数日後、彼女たちを見かけ呼びとめた、
 「ああ、あれね。だって先生、くやしいじゃない」
 「私も、△△君がたたかれていたとき、去年の先生の授業を思い出したの。そしたら、悔しくて、悔しくて、いつの間にか飛び出したら二人で追いかけていた」
 「先生、忘れたの? 去年の授業で尊厳って言ったでしょ、人間には誰にも奪えない人権があるって」・・・ こうして「学力」は思いがけないところに突然あらわれ、現実を変える力となる。学習とは定義によれば、現実行為に影響を与える過程なのである。彼女たちは「人権」を単に言葉として記憶しただけではなく、「概念」化したのである。 教師は高校生のこういう聡明さに気づかない。偏差値に目眩ましされているのは、学校であり教員である。

 卒業後、「授業」が思いおこされ、職場や地域に「厄介ごと」を招きよせることも少なくないる。ある卒業生が、有給休暇を申請して理由を聞かれ「理由は聞かれない、と習いました」と応えて
「どこで習ったか知らんが、おまえの言つてることは筋だ。しかし、筋だけで世の中はとおらん。おまえのようなヤツは初めてだ、お前の出身校からはもう採用しない」と上司を怒らせることはよくある。
 だが、こうした揉め事を通しての対話と、調整こそが肝心なのだ。「公」は、そこにこそ生まれる。民主主義もすべてそこを通る。波風の立たない秩序は、弱者の我慢と諦めと無知よって形成される。強者はそこで、傲慢で無神経な暴力性を蓄積し、秩序の観念を独占する。 揉め事は、弱者が諦めず我慢しないとき、そして知識がそれを支えるときに起きあがってくる。社会科はその道具でありたい。
 ブルデューは社会学を「はた迷惑な」「既成秩序を乱す学問」と言って擁護した。社会科もその本質において、対立.混乱.を引きおこさずにはおかないのであり「はた迷惑」こそが使命であると言って良い。 卒業生の同僚が次々とリストラされても、級友に体罰が加えられても、何も起きないとすれば、僕らの授業には「使用価使」はないのであり、僕らの労働は少しも「有用労働」ではない。 
 「我々の誤りは、すべて無謀な判;断によるものであり、我々の真理</はすべて例外なく誤りが矯正されたものである」     アラン 
  1997.6「ひと」293号掲載論文『ごたごたの中から民主主義が生まれた』を修正加筆

追記 僕はこの一件に関して、家庭が果たした役割を書いていない。重大な手落ちである。
断固たる指導力を素早く発揮しない担任に、不満を感じた人たちも少なくなかった筈だ。多くのお母さんやお父さんが、臨時HRの朝まで、そしてその後も適切な助言や叱咤激励を生徒たちにしていたことが、後日分かった。学校は父母の力、眼差し無しには成り立たない。
 生徒たちが夜更けまで公園や街角で議論できたのは、この高校の通学範囲が広くなかったことによる。日曜日に集まるのも容易い。それはPTA活動にも言える。保護者が平日の夜や土曜の午後に話し合うのも出来る。高等学校が小学区制であることの優位性は疑いない。
 HR後1-6は、共同の要求=授業を受ける権利に辿り着いている。無意識のうちにプラグマティズムにたどり着いている。思想はこうして若者の日常から生まれる。

 そのことに僕はなかなか気付けなかった。こういうことこそ授業で語らねばならない。日本の高校では哲学に割く時間があまりにも少ない。それ故、高校生が持つ知性の働き・輝きを、生活指導の問題として矮小化してしまう。こうした失敗は数え切れない。許されることではない、悔やまれる。 矮小化した生活指導は、高校生たちの中にある自己成長の可能性を汲み出せない許りか潰している。指導する側に、逸脱や「病的傾向」に対する想像力がないからである。定義によれば病的状態とは、健全な状態の極限形態である。環境の変化に適応して、危機を切り抜けるために起る有機体の健全な反応である。逸脱や病的言行は、悉く不健全と考える矮小な生活指導の立場からは、憎悪は指導・排除の対象でしかない。しかし歴史や哲学は、憎悪を客観化することができる。客観化は自分の内側を見詰める余裕を与える。

四谷二中 1 飲み屋街の奥にぴか一の授業

右側に新宿高校、左側が四谷二中
二中正門前の飲み屋街は道路工事のため撤去されている。
理科室は一番奥にあった。
  新宿区立四谷二中について書かれたものを見かけない。あんなに僕を魅了した学校はない。書いておこうと思う。

 1960年代初頭団塊の世代が中学生になる。僕たちこの世代は、小学校高学年で勤評を経験している。嫌な思い出がある。優しく、授業が好きな先生が突然変身してしまったのである。クラスの平均点に神経質になり、クラスごと残されて叱られることもあった。業者テストを頻繁に繰り返し、クラスの座席は成績で分割されてしまう。「あれは嫌だったね」と同級生は皆言う。それが勤評のせいだと気付いたのは、高校のサークルで教育問題を取り上げて以来である。

 二中で記憶に残るのはいろいろあるが、先ず授業を挙げないわけにはいかない。分けても、体育、音楽、美術と理科第一分野(物理)の授業である。特に体育、音楽の授業は興味深かった。だがそれは、受験に無縁だったからではない。なぜなら当時都立高校入試は九科目で行われ、全科目に100点が配点されていたからである。全教科で教科書の他に資料集が使われ、鞄は重かった。偏差値が使われ始め、受験競争は既に加熱、些末な知識を問うていた。
 四谷二中には越境入学生もいて、小田急線や京王線で通っていたが、大抵下校途中には塾に寄っていた。そのせいで、都立高校合格圏すれすれを徘徊する生徒たちの表情は、暗く笑いに力がなかった。遊びにも勉強にも夢中になれないのだ。
 音楽の先生は「ベートーベンの交響曲は、音が優美なメロディとして流れるのではない。重量を伴った音の巨大な固まりとなって押し寄せてくる。それは産業革命の息吹・足音なのです」と美しいテノールで語った。僕はすし詰めの木造校舎で音楽鑑賞し、楽理というものがあることに驚き、学ぶことは覚えるのとは全く違うのだと知った。些かも小学校の延長ではなく、別世界であった。
 体育では、記録を生む選手の走りは何故美しいのか、それは筋肉と骨のどのような動きから生まれるのか、実際の動きを観察しながら授業は進んだ。不器用で体力のない生徒が見事なフォームで逆立ちしてしまう。本人が驚いている。ここでも理論が僕の興味をかき立てた。絵画や栽培や工作にも歴史があり、「学説」というものがあることにも魅了された。
 受験がなければ楽しい授業が出来る、授業が面白くないのは受験のためだというのは、逃げ口上であると思う。二中の卒業アルバムで先生たちの写真を見ると、知的な風貌を見せて生き生きしているのは、美術や音楽、体育の教師である。この先生たちは戦前戦中の最も苦しく困難な時期に学んだ世代である。
 もう少しこの教師たちと学んでいたら、僕は体育学や生理学を専攻していたかも知れない。音楽、美術、実験物理、工作、小説、で喰っていたかも知れない。・・・あらゆることに興味を向けてくれた学校である。

 一つ不安があった、高校には普通科があって、様々に学べる。しかし大学ではいずれかの学部に所属して専門を決める。何かになることは他のことを諦めることなのか、それは奴隷と変わらない。もし欧米の大学のように副専攻の制度があれば、僕はすこしは安堵したことだろう。不安は大きかったが、不満はあまりなかった。
  物理のK先生は、実験に熱中する僕のために、理科室と準備室の合い鍵をつくって実験室を自由に使わせてくれた。理科部は、毎年夏休み前に部員が激減していた。実験は面倒で、危なくて臭いからだった。薬品が飛び火傷が出来、服には穴があいた。白衣や帽子に伊達めがねが必要なわけが分かった頃には、僕ひとりになってしまった。K先生は忙しく、NHK教育テレビで理科の時間を受け持ち、戸山高校定時制の授業もしていた。だから先生は夕方には出かけてしまう。
 当時の定時制課程は、新宿高校がそうであったが、少なくない人数が東大にも合格していた。映画「キューポラのある街」(1962年)で、吉永小百合演じる主人公が貧しい家を支えるために、敢えて定時制課程を選ぶ場面がある。あの場面はこうした事情を知って観るといい、趣が一変する。
 実験に夢中になって遅くなった日は、暗闇に浮かび上がる高校生が学ぶ教室を廊下の窓越しに覗くことが出来た。二中の一画にも、毎日明かりがともっていた。夜間中学が併設されていたのである。
   二中に勤評の影がなかったわけではない。しかし授業がそれを十分補っていた。
                              つづく

王様に貰ったミカン 「サバン」の思い出

 僕は終電車を逸して歩いている時、交番で補導されかけた事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行では宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、一瞬の呆然の後仲居さんは生徒と一緒に大笑いした。

 働き学ぶ青年にとって教育とは何か、悩み始めていたある日曜の晩、転校してきた生徒から電話があった。
 「先生、夜分大変失礼いたします。しばらくよろしいでしょうか。実は先日相談申し上げた受験の件で又御指導をお願いしたいのです。・・・〇〇大学の△△教授を先生は御存知ですか。大変な評判だそうですね。・・・やはり△×学を専攻するには〇〇大学だと思うのですがどうでしょうか。・・・そのためには日本史は山川の・・・数学は大学への数学を毎月とって・・・もちろん朝日の天声人語は・・・永々とおじゃましました。では明日又お目に掛ります。おやすみなさい。失礼します」
 受験と大学そして事件と人物についての彼の知識に僕は舌を巻くばかりだった。余りの敬語の正しさに、寝そべって電話の相手をしていた僕はいつの間にか正座をしていた。

 だが彼は、学校では誰とも話さなかった。三菱のユニをケースごと並べ、その一本を手に握り、ノートをにらんだまま終了のチャイムを待つ。それが彼にとっての授業であった。
 重たそうなズックのカバン、中には古語辞典や英和辞典がいつも入っていた。それを右手にぶら下げ、小股でセカセカと背中を丸めて歩く。
 追いついて「一緒に行こう」と言っても 
 「はぁ・・・失礼します」と先に行ってしまう。
 いつも同じ道の同じ場所を同じ姿勢で歩く。横断する場所、歩道から車道へおりる場所すべてが決っている。歩道に車が乗り上げて駐車していると、車の前でしばらく足踏みを続け汗ビッショリになる。やがて観念したように迂回するのだった。自転車は「危いので絶対いけない」と決っしてうけつけなかった。
 廊下で教員とすれ違う時は必ず立ち止まり、直立不動の姿勢をとってから、深々と頑を下げた。滅多になかったが、遅刻すると、まるで面接試験でも受けるかのように、静かに戸を開け、一礼してから両手で閉め、教卓の前まで来て深々とお辞儀をし、十人に満たない生徒には広すぎる教室の隅の彼が決めた指定席に陣取るのだった。
 ノートは受験に良いと言って分厚い大学ノートを使い、科目ごとにサブノート、問題集を毎日揃えて持って来ていた。だがそれが開かれるのを僕は見た事がない。「受験に良い」と彼が言ったのは電話を通してである。
 給食の食堂でも彼はいつも一人だけ離れた指定席を持ち、表情を変えず黙々と食べた。時々他の生徒と彼の前や横に座った。
 「一緒に食べよう、いいだろう」「慣れたかい」と話しかけるが 
 「ハァ」というだけ。
 食べ終るや立ち上がり一礼、教室の指定席に戻り、いつまでも同じ姿勢ですわり続けた。
 「俺たちあいつに嫌われてるのかね、先生」とその場に残された生徒は呟いた。
 夏の暑苦しい夜には、僕は授業をつぶしてソフトボールをした。生徒達は仕事の疲れを忘れたように走り回った。小太りの彼は走るのも無理なのか、走る姿勢はとるが足が動かない。球をグラブでつかめない、球の飛ぶコースにグラブを持って来る前に、球は彼の胸や顔面にあたった。バレーボールを使ってのドッジボールをすれば、ボールはつかむ前に彼の体を直撃するのだった。生徒達は、茫然、しかし誰も笑わなかった。下校時刻も正確に決めていて、文化祭の準備があろうと、掃除があろうと、「失礼します」のお辞儀とともに風の如く去った。誰も怒らなかった。

 とうに二十をこえた青年や零細工場労働者・白髪の定年退職者の混じる教室で、僕は「指導」という概念を疑い始めていた。だが、彼を見るにつけ、対策・研究・理解、という言葉を思わずにはおれなかった。当時、鍼黙児という文字が現れ始めた。多くは幼児に関するものであったが、様々の実践を読み、役所や研究機関に足を運だが、図書館や資料室の貸し出しカードがたまるばかり。

 平日の午後、家庭訪問した。彼は茶の間のコタツに足を突っ込み大きな座椅子にもたれていた。TVを前に、一言も発せずミカンを頬張る姿は、童話の王のようであった。人の好さそうな母親が、申し訳なさげに小さくなっていた。彼は突然ミカンの山から一つをつかみ僕につき出した。僕は「ありがとう」と王様に言ったが、彼の表情が変わることはなかった。

 映画『レインマン』が公開されたのはい、あれから十年近く経ってからだ。ダスティン・ホフマン扮するサバンはまさにミカンをくれた王様そのものであった。突然、霧が晴れる。僕は三度も映画館に出かけ画面に食い入り、原作も読んだ。全て合点がいったように思えた。
 トボトボと小股で決ったコースしか歩かないのも、障害物があれば足踏みして立ち止まるのも、たった10分の通学を不安がったのも。何もかもが、あまりにも似ている。受験情報と事件と人物について驚くべき記憶力がありながら、学校のあちこちに散らばる実習室や実験室を覚えるにはとてつもない時間を要したのも、いつも恕勅に「○×室はどこですか」と足踏みしながら聞いたのも、一度覚えたコースはどんなに近道があっても変えなかったことも。堰を切ったようにサバンに関する論文が現れ、出版もされた。しかし、遅すぎた。
 彼は一年以上在籍したが、どんな生徒であっても出席さえしていれば、補習に補習を重ねて進級させていた僕の学校でも現級留置となって去った。試験ではユニを握りしめ名前を書いた後、じっと問題を睨んだまま汗をかき、白紙が残された。採点後の答案を受け取るときは、必ず深々とお辞儀をした。
 「ここは受験には向かない学校ですね。○×高校は数学と英語と国語の時間が多いのです。転校して頑張ります・・・大変お世話になりました。ではこれで失礼します」
 いつものように電話では流暢な言葉遣いの優等生だった。僕は彼のメインマンにはなれなかった。ただ漫然と現象を追うだけ、何一つ役に立てなかった。
 踏切際に建つ「王様」の住まいを、吊革に凭れて通り過ぎるたび、時が苦く巻き戻される。

追記 僕はどうして、電話での授業を試みなかったのか。テストを自宅に持ち帰り電話で回答することを認めなかったのか。僕自身の中に狭く鈍い、枯れた「教育」観のこわばりがある。
 障害物を前に立ち止まり足踏みしたのは、僕ではないか。汗もかかず問題が去るのを待ち、埒があかず敬遠していたのではないか。複数の「ミカンをくれた王様」を今になって想う。・・・慚愧にたえない。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...